第33話 犯人



『未白 千里が演劇部のハムスターを殺した』



 雪音のスマホに表示された写真。黒板に書かれた落書き。それは今までの黒板事件とは違い、明確な意思を感じる。ゴシップだとか噂だとかそういうものとは違う、分かりやすい悪意を。


「…………」


 そして犯人は、致命的なミスを犯した。今まで必死に自我を隠して行動していた犯人が、連続して同じ人間を標的にした。誰を標的にしているか分からないというのが強みだったのに、犯人は明確に俺と演劇部に悪意を向けた。


「なあ、雪音。この落書き、他の誰かに見られたか?」


 雪音の息が整うのを待ってから、そう尋ねる。


「うん? ……うーん、確かなことは分かんないけど、少なくともまだ教室には誰もいなかったよ。落書きは、写真撮ってすぐに消しといたしね」


「そうか、助かる。……でもお前、どうしてこんな時間に登校してるんだ? まだ授業が始まるまで、だいぶ時間があるだろ?」


「それは……また中佐と、遊ばせてもらおうと思ったんだよ。朝くると寝てるところが見れるって、部長さんが教えてくれたから……」


 雪音は不安そうな顔で、ハムスターの檻の方を見る。けれどそこにはもう、中佐の姿はない。


「……千里くん。君がハムスター……中佐を殺したというのは、本当なのか?」


 三島さんがこちらを睨む。今の状況から考えて、彼女が俺を疑うのは理解できる。……理解できるが、軽率だ。


「落ち着いて、三島さん。俺はそんなことはしてない。する理由もない」


「…………」


「三島さん。そんなに睨んでも俺は──」


「なぁ、千里くん! ほんとに君じゃないのか? だったら……だったらこの黒板に書かれてることは、何なんだよ……!」


 三島さんが俺の胸ぐらを掴む。俺は特に抵抗もしない。


「だから落ち着いて、三島さん。こんな落書き、本気にするなよ。俺は犯人じゃない」


「でも、だったらどうして君は! こんな時間に学校に来てるんだ! 君は初めから中佐を狙っていたから、こんな時間に校舎を彷徨いてたんじゃないのか……!」


「何の為に? 何の為に俺がハムスターを殺すんだよ? ……よく考えてみろよ。それとも俺がそんなつまらない嫌がらせをして、喜ぶような人間に見えるのか?」


「それは……」


 三島さんが目を逸らす。しかしそれでも、俺の胸ぐらから手を離そうとしない。


「なあ、三島さん。いい加減、手を離してくれないか? 俺も、苛ついてるんだよ。君の気持ちが分からない訳じゃないけど、八つ当たりするのは辞めてくれ。……苛々する」


「……っ」


 三島さんが俺から手を離し、電池が切れたおもちゃのようにその場に座り込む。


「……すまない。君がこんなことをする訳がないと分かっていたのに、つい熱くなってしまった」


「いいよ。俺も、キツいこと言ってごめんね」


 虚な目をした三島さんの肩に手を置く。しかし、これからどうするか。黒板に『殺した』なんて落書きをした以上、ハムスターが無事だとは思えない。簡単に見つかるような場所にいるなら、そんな落書きをする意味がない。最低でも、どこかに連れ去ったと考えるべきだろう。


 ……でも、何の為に?


「ねぇ、千里。これからどうするの? 中佐、無事だよね?」


 雪音が不安そうな顔でこちらを見る。俺はできる限り優しい笑顔で言葉を返す。


「大丈夫。これはきっと俺に向けられた悪意だから、ハムスター……中佐を傷つけるつもりはないと思うよ」


「…………だよね」


 それは嘘だった。どう考えても、これは俺にだけ向けられた悪意じゃない。寧ろ、ハムスターを殺すついでに俺を巻き込んだと考える方が自然だ。……でもこれ以上、三島さんの前で下手な言葉を口にしたくはなかった。


「……くそっ! 何でこんな、訳わかんねぇことばっかりするんだよっ!」


 そこで、黙り込んでいた村上くんが近くの壁を思いっきり叩いて、そのまま部室から飛び出してしまう。彼とはまた後で少し話さなければならないが、今は放置でいいだろう。


「…………」


 でも、彼は本当に何の考えもなく、早朝の学校で犯人探しをしていたのだろうか? 大好きな幼馴染がターゲットにされたとはいえ、彼がそこまでする理由はあるのか。彼は犯人を見つけた後、どうするつもりだったのか。


 彼は本当に、お人好しの馬鹿なのだろうか? こんな早朝に教室の前で怪しい動きをしていた俺を見つけておいて、疑う素振りすら見せなかった理由は何なのか。或いは彼には、既に犯人の目星がついていたのか。


「なあ、三島さん。少し協力して欲しいことがあるんだけど、構わない? 上手くいけば、犯人を見つけられるかもしれない」


「……! それは本当か⁈」


「うん。だから、手伝って欲しいんだ」


「何でもする! 何でもするから、中佐を見つけてくれ……!」


「……できることはする。約束するよ」


 縋るような顔で、俺の肩を掴む三島さん。力になりたいとは思うけど、中佐を見つけられるとは言えなかった。俺に約束できるのは、犯人を見つけて責任を取らせることだけ。……それもまた、自分本位なやり方で。


 そしてそれから三島さんに、いろんなことを訊いた。最近、この部室に来た人間は誰なのか。演劇部でハムスターを飼っていることを知っているのは誰か。普段、部室に鍵をかけているのか。毎朝、ハムスターの様子を確認しに来ているのか。そのことを知っているのは誰か。


 しばらく話した後。三島さんと雪音にいくつかお願いをして、部室を後にする。あれ以上、部室を探してもハムスターは見つけられない。


「ねぇ、千里。本当に中佐……死んじゃったのかな?」


 見るからに元気がなさそうな雪音が、囁くような声で言う。


「大丈夫……いや、違うな。さっきは三島さんの手前、大丈夫だって言ったけど、多分もう……駄目だと思う」


 いずれ辛い現実に直面するなら、今ここで嘘をつく理由はない。


「……っ。どうしてそんなこと、できるんだろ。あたしには、分かんないよ。そんなことまでして誰かを傷つけて、それで幸せなの? それで部長さんや千里が傷ついてるのを見て、犯人は満足できるの?」


「…………」


 俺は何も答えない。……実際、この世界にはゴミ以下の屑が腐るほどいる。自分が気持ちいいなら、いくら他人を傷つけてもいいと思ってる連中。もっと酷くなれば、他人を傷つけられるなら、自分が傷ついてもいいと考えるような人間もいる。


 ……そして俺も、似たようなものだ。雪音が見せてくれた黒板の落書きを見て、俺の頭をよぎったのは『これで犯人を見つけられるかもしれない』ということだけ。


 今まで尻尾を掴ませずに上手く立ち回っていた犯人が、自我を出し始めた。伊織さんの件から、連続で事件を起こすような理由ができたのだろう。犯人の方でも、何かあったと考えるのが自然だ。


 結局俺は、ハムスターの心配なんてしていない。


「まあ何にせよ、みんな幸せになりたいんだよ。大抵の人間は、自分が気持ちよくなれるなら他人を傷つけることを厭わない」


「……意味わかんないよ。あたしはこんなことされても、幸せになんてなれないよ……」


 そう。雪音には雪音の幸せがあって、犯人には犯人の幸せがある。他人の考えなんて、どこまでいっても理解できないものだ。


「ごめんな、雪音」


 俺は雪音を抱きしめた。学校の廊下。誰が通ってもおかしくはないけれど、構わず雪音を抱きしめた。


「……どうして千里が、謝るのさ」


「他に言えることが何もないから」


「それでも千里が謝る必要はないよ」


「でもお前、泣いてるだろ?」


「……泣いてないよ。こんなことで、泣かないよ」


「そうか。なら、少しだけ甘えさせてくれ」


「……意味わかんない。千里のバカ」


 雪音はそれだけ言って、少しだけ俺の胸で涙を流した。


 それから雪音と別れて、廊下を彷徨っていた村上くんと少し話をした。そして、しばらくすると皆が登校してくるような時間になって、当たり前ように授業が始まった。雪音が誰かに見られる前に落書きを消してくれたお陰で、変な噂が流れるようなことはない。いつもと変わらない、退屈な時間。


 一度言えば分かることを、何度も何度も繰り返す授業。自分だけが仲間外れにされているような、そんな錯覚。俺は体調が悪いと嘘をついて、授業を抜け出した。



 そしてそのまま、目的の場所へ。



 俺が言った通り、三島さんはハムスターがいなくなった件を誰にも話していない。村上くんと雪音は、俺が伝えた通りの噂を流してくれている。だから俺は馬鹿な犯人が餌にかかるのを、暖かい部屋の一室でただ待ち続ける。


 そして、3限の授業が始まるチャイムが鳴った少し後。部屋の扉が開いた。


「…………」


 想像していた通りの犯人の姿。俺はそいつに声をかける


「よお、こんな時間に何してんの?」


「……っ!」


 黒板事件の犯人。まんまと罠にハマった馬鹿が、驚いた顔でこっちを見る。



「こんにちは、伊織 紗枝さん」



 と、俺は笑った。


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