第26話 焦がれても
別にあたしは、それでもよかった。
あたし──
ゲームやSNSは楽しいし、学校は面倒だけど嫌いじゃない。友達も家族も優しいし、今の生活に不満はない。……まあ、普通って言われたらそれまでだけど、普通じゃないことに苦しんでる幼馴染をずっと側で見てきたから、あたしはそれで十分だった。
「でも、なんだかなー」
偶に感じる胸の痛み。何を問われているのか分からないのに、ずっと何かを問われ続けているような焦燥感。ふとした時にやってきて、いつの間にか忘れている胸の底から響く痛み。
それはゆっくりと身体の奥に沈殿し、あたしを蝕む。きっといつかあたしは、その痛みと向き合わなければならない。
「……なんてね」
らしくもない感傷を笑って、いつものソシャゲを起動する。……いや、起動しようとしたのだけれど、そういえば先日、サービス終了してしまったんだった。すっかり忘れていた。
「あーあ。また別のソシャゲでも始めるかなー」
なんて息を吐いたところで、メッセージが届く。それは幼馴染の少女、華宮 詩織からだった。
◇
「それで? わざわざこんなところに呼び出して、何の用なの? しおりん」
夕暮れのカフェ。静かなBGMが響く店内で、ホットココアに口をつけた雪音は、呆れたように息を吐く。
「久しぶりに、幼馴染と話がしたいなと思っただけだよ。……ふふっ、そんなに警戒しなくても大丈夫。別に取って食ったりはしないから」
雪音の正面に座った詩織は楽しげに口元を歪め、ホットコーヒーを口に運ぶ。
「まあ、話をするくらいならいいけどね。でも幼馴染って言うなら、千里も呼んだ方がよかったんじゃない?」
「そう思ってメッセージは送ったんだけど、既読すらつかない。多分、ブロックされてるね」
「あらら。でも、やったことを考えたら当然だね。詳しくは知らないけど、浮気したんでしょ? しおりん」
「ふふっ、どうかな」
詩織は笑い、雪音はまた呆れたように息を吐く。
「……って、あれ? しおりん、絆創膏つけてるの珍しいね? 料理とかしたの?」
「いや、これは……何でもないよ」
詩織は指先を隠すように指を組んで、真っ直ぐに雪音を見る。
「ボクのことより、そっちはいろいろと大変だったみたいだね? 遥ちゃんが虐めを受けて、千里の奴がめちゃくちゃしたって」
「……よく知ってるね。千里、噂が広がらないようかなり注意してたのに」
「それでも、漏れるところからは漏れるさ。えーっと、なんて言ったっけ? ……そうだ。神田くんだね。彼、家から出られなくなったと聞いたよ。水恐怖症って言うのかな? なんでも、溜まっている水を見ると吐いてしまうらしい」
「…………」
雪音は何も答えない。
「ふふっ。一体どんなことをしたら、人をそこまで壊してしまえるんだろうね。神田くんも、偉ぶるなら相手を選ばないと。きっともう、学校には戻って来られない。……可哀想に」
「本当に詳しいね、しおりん。……まさかとは思うけど、今回の件もしおりんが裏で糸を引いてる、なんてことはないよね?」
「まさか。ボクは遥ちゃんを巻き込むようなことはしないよ。……ただ、その神田くんが言い寄っていた女の子の中にボクのファンの子が居てね。困っているようだったから、少しアドバイスをしてあげたんだよ」
「…………」
それが、今回の件にどんな影響を与えたのか。詩織がどこまで先を見ていて、どうしてこのタイミングで自分を呼び出したのか。雪音にはやはり、詩織の考えが分からない。
「しおりんってさ、千里をどうしたいわけ? なんかいろいろやってるみたいだけど、度が過ぎると本気で嫌われるよ?」
「それはもう遅いよ。ボクはもうこれ以上ないくらい嫌われてる。今更ボクが千里の足元で許しを請うても、千里は絶対にボクを許さない」
「浮気してるのを見られたから? ……でも、それがもうおかしいよね。あたしが知ってるしおりんが、そんなヘマをするとは思えない」
雪音は運ばれてきたチョコレートケーキを口に運んで、真っ直ぐに詩織を見る。
「しおりんが浮気をした。まあまあそこは、100歩譲って許すとしよう」
「随分と寛大だね」
「別にあたしとしおりんが、付き合ってたわけじゃないしね。所詮は他人事だよ。幼馴染って言っても、他人の浮気を咎める権利はあたしにはないよ」
詩織は笑う。雪音は淡々と言葉を続ける。
「でもしおりんが、浮気現場を見られるなんて失態をおかすとは思えない。人の考えや行動を当然のように見透かすしおりんが、浮気現場を見られた。それはどう考えても不自然だ」
「つまり?」
「わざと見せつけたって考えるのが自然だよ。千里だってそれくらいのことは分かってる。分かった上で、切り捨てた。考える価値もないと。でもあたしは、その辺が気になるなー。わざわざ千里を傷つけて追い込んで、しおりんは何をしようとしてるのかなー」
「君は相変わらず鋭いね、雪音」
「面倒な幼馴染に囲まれてるからね」
2人の視線が交わる。静かなBGMが、短い沈黙を埋める。
「……ねぇ、雪音。動物園で大きな欠伸をしてるライオンって、見ていて悲しくならない?」
脈絡のない言葉に、雪音は首を傾げる。
「急に何の話?」
「牙を抜かれた獣ほど、見ていて退屈なものはないってこと。君も分かるだろ? 千里が偶に見せる、何かを諦めたような笑顔。ボクはあの笑顔が嫌いなんだよ」
「……しおりん、さ。その考え方は最悪だよ。しおりんがそんな理由で浮気したんだって言うなら、あたしもしおりんをブロックするしかないね」
「でも、君にも理解はできてしまう。この短い言葉だけで、ボクが何を言いたいのか理解できてしまった。千里が抱える虚無。ボクが抱える孤独。人が浮気をする理由なんて結局は、現状に満足できてないってだけだからね」
「きっと千里なら、いつか満足できるなんて考え自体が間違ってるとか言うんだろうね。……あたしには、分からないよ」
雪音は窓の外に視線を逃す。ゆっくりと茜に染まっていく景色。胸の底で何かが痛む。
「あたしには別に、千里やしおりんみたいな才能はない。けどだからって、別にそういうのが欲しいとも思わない。……それこそ2人がもう少し普通だったらさ、ここに千里もいた訳じゃん」
「…………」
詩織は何も言わない。
「普通にさ、放課後に寄り道して、一緒にゲームとかして、宿題うつさせてもらったり、買い食いとかしてさ。そういうのであたしは満足だけど、2人はそうじゃない。そうじゃないから苦しんでる。才能なんて、ないならないでいいんだよ。そんなものがあるせいで、2人ともまともに人を好きになることもできない」
「そういうことを言える君が、ボクは好きだよ。才能に焦がれるのではなく、嫉妬する訳でもなく、その本質を見て否定できる君が」
「見てれば分かるよ。才能がある人間は、人より努力しないといけない。演技をやってた頃のしおりんは、本当に1日中、演技のことしか考えてなかった。どんな楽しみも苦しみも、演技に活かせるかどうかという視点でしか、考えられなくなってた」
「最近の千里が、神田くんを追い詰める方法だけを考えていたようにかい?」
雪音は窓の外から視線を戻し、チョコレートがついたフォークでホットココアをかき混ぜる。
「千里やしおりんの集中力っていうか……物事への没頭の仕方は、どう考えてもしんどいよ。天才は程々で辞めることすらできない。……いや、許されない。凡人の苦悩は天才には分からないけど、天才の苦悩だって凡人には分からない」
「でもボクは、演技を辞めた。千里だって別に、いつも何かに熱中してるって訳でもない」
「だから2人は、喧嘩してるんでしょ? 何でも片手間でできちゃう2人は、考えなくてもいいことまで考えちゃう。普通の人が満足できる幸せで満足できないから、変な方に流れるしかない。好きな人と手を繋いで、抱きしめあって、チューして、エッチして。普通はそれで満足なのに、2人はそれじゃ満足できない。その先が欲しくなる。だからしおりんは、訳の分からない方法で千里に構うしかない」
「ふふっ、君はやっぱり鋭いよ。もしかして君なら、ボクが幸福の先に何を見ているのか、分かるんじゃないかな?」
「知らないよ。あたしには別に、才能なんてないしね」
雪音はそこでまたケーキを口に運ぶ。自分はこのケーキだけで満足できると言うように、雪音は笑う。
「雪音。君の視点は相変わらず面白い。君は自分に才能がないなんて言うけれど、物事を俯瞰して見れるその考え方は立派な才能だよ。俯瞰した上で楽しめるんだから、君は自分で思っている以上に特別だ」
「褒めてくれて、ありがと。……嬉しくないけど」
雪音の適当な返事に、やはり詩織は笑う。
「しかし、雪音。君はもっと怒ると思っていたよ」
「怒るって何に?」
「ボクと千里が付き合うことになった時、君言ったよね? 千里のことよろしくって。ボクはその約束を破ったんだよ?」
「それは……」
「それに、今も千里はモテているのだろう? 瑠奈に御桜先輩に……あとはうちの香織も。沢山の女の子が、千里に好意を寄せている。君はいつまでも他人事のままで、本当に満足できるの? このまま千里が君とは別の女の子を選んだら、君はまたその子に『よろしく』って言うのかな?」
「…………」
雪音は何も言えなくなる。ずっと感じている胸の痛み。恋や愛なんて可愛いものじゃなく、もっと冷たくて暗い何か。胸の奥の痛みが、更に強くなる。
「雪音にはボクの気持ちが分かる筈だ。ボクと同じで、未白 千里という人間をずっと側で見てきた君にだけは。……どんなに凶暴で強大な怪物でも、首輪が付いていたら興醒めなんだよ。たとえそのリードを持っているのが、自分だとしても、ね」
「……しおりんは、千里に悪意を向けて欲しいの?」
千里が持っている確かな感情は、多分……悪意だけ。偽物じゃない本物は、きっとそれだけなのだろう。雪音はふと、昔のことを思い出す。
雪音の胸が、また痛む。
「そんな単純じゃないよ。好きな人に嫌われたい。愛よりも純粋な悪意が欲しいなんて、それこそ狂人の思考だ。……でも雪音なら、もう一歩深く考えれば分かるかもね。まあ、分かったところで、君はどうせ何もしないのだろうけど」
「……うっさいな。あたしもう、帰る」
雪音はもう話は終わりだと言うように、立ち上がる。詩織はそんな雪音に、バッグから取り出した2枚のチケットを差し出す。
「これ、君にあげるよ」
「……これって、遊園地のチケットじゃん」
「そ。父さんが仕事の関係で貰ってきたんだけど、ボクは忙しくて行けそうにないからね。お世話になってる君にプレゼントするよ。……ちょうど週末、千里と出かける予定なんだろ?」
「何で知ってんのさ……とは言わないよ。しおりんだしね」
「別にボクが特別って訳でもないよ。人間の思考も行動も、パターン化してしまえば推測は容易だ。ちゃんと勉強すれば、これくらい誰でもできるようになるよ。人っていうのは思っている以上に、何も考えてない生き物だからね」
「それこそ天才の基準だよ。……というか、ほんとに貰っていいの? これ」
「もちろんだよ。雪音、昔から遊園地とか好きだろ? ……って、そんなに警戒しなくても、横槍を入れるような真似はしないよ」
「なら……まあ、ありがと」
雪音は戸惑いながらも、チケットを鞄にしまう。
「ここ最近は、千里も忙しそうにしていたからね。偶には2人で、羽を伸ばしてくるといいよ。……いや、違うか。この場合は他にもっと相応しい言葉がある」
詩織はゆっくりと立ち上がり、雪音の肩に触れる。それだけで雪音は、まるで自分が物語の中の住人になってしまったような錯覚を覚える。
「──千里のことよろしくね、雪音」
と、詩織はいつもと変わらない凛とした笑みで言った。
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