第25話 壊れたものでも
すっかり日も暮れてしまった帰り道。俺は余計な思考を切り捨てるようにゆっくりと歩きながら、どうしてか爺さんの言葉を思い出していた。
「千里、上手に生きたいのであれば、決して人を信じるな。家族も友人も恋人も自分も、決して信じてはいけない。どんな人間も自分自身も含めて、信じるに足る人間なんぞ、この世界には1人たりとも存在せん」
それは正しい言葉だった。俺はその言葉に従った訳ではないが、気づけばそんな風に生きていた。……けれど爺さんの言葉には、その先があった。
「ただ、幸せになりたいのであれば、その逆をするしかない。それを忘れるな」
上手に……正しく生きることと、下手でも幸せに生きること。ここでもやっぱり、正しさは幸せの対義語だ。
「おかえり」
家に帰ると、御桜先輩が俺を出迎えてくれた。先輩は何か大きなものでも飲み込んだ後のような顔で、こちらを見る。
「ただいま。先輩、まだ待っててくれたんですね」
俺はそんな先輩に、いつもと同じ表情で言葉を返す。
「言っただろ? プリンを作って待っていると。……いや、実はプリンじゃなくて、遥くんが急に別のお菓子を作りたいと言い出したから、違うお菓子を作ったのだけど」
「それは、遥がご迷惑をおかけして……」
「気にする必要はない。私も楽しかった。……彼女は優しい子だ。君に似て」
「俺は優しくなんてないですよ。それより、遥の奴はどうしてるんですか?」
「今はリビングで休んでいると思うよ。顔を見せに行ってあげるといい」
「いや、今は……辞めておきます」
靴を脱いで、自室に向かう。ふと、泣きながら土下座していた神田くんのことを思い出す。あの時の俺は、どんな顔をしていたのだろう? ……きっと、穴が空いたような真っ暗な目をしていたに違いない。
俺は、頭がおかしい。……狂ってる。
そんな俺が遥かに触れたら、遥まで汚れてしまいそうで怖い。いくら手を洗ったところで、魂にまでこびりついた汚れは消えない。
「大丈夫だよ」
そう言って、どうしてか御桜先輩は俺を抱きしめた。
「……いきなり何するんですか、先輩。胸、当たってますよ?」
「私の胸は詩織ほど大きくはないから、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんですか……。意味が分かりませんよ」
先輩は壊れ物でも扱うみたいに優しく、俺の背中をさする。……思えば詩織の取り巻きたちに悪意を向けた時も、同じように月島さんが抱きしめてくれた。
俺はそんなに、情けない顔をしているのだろうか?
「…………」
でも、こうやって抱きしめられると、自分が普通の人間になったみたいで安心する。温かで柔らかな感触に、身を任せたくなる。
「でも、違うんですよ、先輩」
今回の件で自覚した。……いや、本当はずっと前から分かっていたことだ。
「俺は、少しも傷ついてなんかいないんです。ここで涙を流して弱音でも溢せればよかったんですけど、そうじゃないんです。俺の心は、少しも痛んじゃいない」
正直、物足りないとさえ思った。用意した策のほとんどが無駄になった。考えていた中で、1番簡単な結末に落ち着いた。詩織を相手にした時は、もっとひりついた。というか、ゲロ吐いたバケツに顔を突っ込まれた程度で、わーわー泣くんじゃねぇよ。
他人に悪意を向けるなら、自分が悪意を向けられた時のことくらい考えとけ。どうして特別になりたがる奴ほど、大した努力もしないで簡単な方にばかり逃げるのか。
今の俺の胸の内にある虚無感と苛立ちの半分は、あの出来損ないへの物足りなさで。残り半分は、どこまで行っても冷めた自分への軽蔑だ。
「千里くん。君はきっと、私なんかとは比べ物にならないくらい強い人間なのだろう。君の悪意を諫めた癖に、詩織への悪意を捨てられない私なんかとは……」
「俺は強くなんてないですよ。ただ、壊れてるだけなんです。普通の人が背負っているものを捨ててしまったから、人より速く動けるだけで。今さら善人ぶって……人間のフリをしても、空っぽな中身は埋められない」
ああ、思考が霞む。神田くんを追い詰めていた時はあんなに思考が澄んでいたのに、今は頭も身体も重くて仕方がない。
「君が壊れていても、君が人間じゃないのだとしても、私は君の味方だよ」
「……どうして先輩は、そこまで言ってくれるんですか? こんな俺に優しくしても、いいことなんてないですよ」
「それは前にも言ったね。いい悪いの話じゃない。私は君に惹かれているんだ。君には詩織とはまた違う魅力……人を惹きつける力がある」
「…………」
詩織の異常性と、俺の異常性。人は自分にないものを持っている人間に惹かれる。そして同じように、自分にないものを持ってる人間を恐れる。
「でもそれは、ただの錯覚ですよ。不良がいくら猫に優しくしても、そいつがクズだって事実は変わらない。先輩は俺に……都合のいい夢を見てるだけです」
「詩織の取り巻きたちみたいにかい?」
「…………」
俺は何も言えない。
「でもね、千里くん。たとえそれが夢であったとしても、見ている間は本物と同じなんだよ。……人を好きになるっていうのは、きっとそういうことなんだ」
先輩は俺を抱きしめたまま、潤んだ瞳でこちらを見上げる。
「最初は、同じなんだと思った。君も私と同じで詩織という才能に押し潰された、被害者の1人なのだと」
「……俺は被害者なんかじゃないですよ」
「そう、君と私は違った。君には詩織とはまた違う才能がある。……今回の件で、遥くんが言っていたことがよく分かったよ。目的を持った君は、少しの手抜かりも容赦もない。ありとあらゆる可能性を考えて、それをしらみ潰しに消していく。そりゃ、テストで100点くらい取るさ。初めから範囲が決まっているテストなんて、君にとっては赤子の手をひねるようなものだ」
「……否定はしません。だから俺は、状況が違えばその悪意を先輩に向けるかもしれない」
もしこの優しい先輩が詩織の演技指導を受けていて、俺だけではなく遥まで傷つけようとするなら、俺は少しの容赦もしないだろう。
「そうはならないよ。……君は優しいからね」
「いやだから、俺は──」
「君はきっと、人の気持ちが分からない。ここまでしても、君は私の想いに気づかない。でも、それでも君は、人に寄り添おうとする。そのあり方は、詩織にはない優しさだ」
御桜先輩は俺を抱きしめる腕に力を込める。甘い香りで脳が溶ける。先輩のいつもの香水の香りと、多分、作っていたお菓子の香り。
身体から、力が抜ける。
「最初は、同じだと思った。でも君には私にはない才能があった。詩織と同じ、相対的ではなく絶対的な天賦の才が。気づけば私は、その才能に惹かれていた。詩織ですら手に入れられなかった君を自分のものにすることで、詩織への想いを断ち切れるんじゃないかと思った。……前にも言ったけど、私は詩織への敵愾心で、君に近づいた」
「詩織の才能に嫉妬できるってだけで、先輩にも才能はあったんですよ。……普通、あれと自分を比べようなんて考えない」
例えばもし、さっき神田くんにしたのと同じことを詩織にしたとして、どうなるか。きっとあいつは、翌日には普段と何も変わらない笑みを浮かべているだろう。
あいつの心は壊れている。
……俺と、同じで。
「でも、遥くんのことがあって、君は誰かを思いやれる人間なのだと分かった。君は詩織とは違う。詩織は怪物である自分を受け入れて、それを武器にして生きている。詩織は誰にでもなれるが、自分の心で誰かを愛そうとはしない。そこが、君と詩織の違いなんだ」
「……先輩は俺を過大評価しすぎですよ。俺は今、先輩の胸やわらかくて気持ちいいなー、くらいのことしか考えてませんよ」
「触りたいなら触らせてあげるよ。……無論、責任は取ってもらうけどね」
「じゃあ、辞めときます」
先輩から距離を取る。重かった身体が、少しだけ軽くなる。
「また説教くさいことを言ってしまったが、私が君に言いたいのは1つだけ。……私はただ、君の側にいたい。遥くんのことがなくても。詩織のことがなくても。たとえ君が、怪物でも」
先輩は普段とは違う、告白する前の女の子のような可愛らしい笑みを浮かべる。そして俺が言葉を返す前に、こちらに背を向ける。
「では、荷物を置いたらリビングに行くといい。遥くんが君を待っているよ」
先輩はそのまま、玄関の方に向かう。今日はもう帰ってしまうのだろうか? 少し寂しいな。なんてことを考えながら、その背を見送って言われた通りリビングに向かう。
「…………」
先輩は少し勘違いしていた。俺のことも詩織のことも、先輩には見えていないことがある。でも、それを訂正する気にはなれなかった。……いや、それはもしかしたら、俺の方が間違っていただけなのかも──。
「……兄さん、帰ってたんだ」
俺の思考を遮るように、遥の声が響く。遥はまだどこかぎこちない笑顔で、皿に何かをのせている。
「先輩とプリン……じゃなくて、何かお菓子を作ったんだって? 上手にできたか?」
「見た目は一応」
「なんだよ、味はイマイチなのか? 砂糖と塩でも間違えたか?」
「そんな訳ないじゃん。じゃなくて……1番は兄さんに食べて欲しいと思ったから、まだ食べてないの」
遥は少し頬を赤くして、皿をこちらに差し出す。
「……エクレア、作ったのか」
皿の上にのっているのは、少し形が歪なエクレア。
「兄さん、エクレア好きだったでしょ?」
「そうだけど、覚えててくれたのか……。これ、食べてもいいんだよな?」
「うん。兄さんの為に作ったんだから、兄さんに食べて欲しい」
俺はエクレアを口に運ぶ。……甘い。気を抜くと倒れてしまいそうになるくらい、甘い。
「美味しい?」
「ああ、美味しいよ」
「ふふっ、よかった」
遥は笑う。どこかぎこちない表情で、それでも遥は笑う。
「前にさ、兄さんウチにプリン買ってきてくれたでしょ? あれ、嬉しかったんだ。……兄さん、ウチのことなんて興味ないと思ってたのに、ウチの好きなもの覚えててくれた。凄く嬉しかった。だからこれは、そのお礼」
「……そうか。ありがとな」
なんだか困惑する。どんな顔をしていいのか分からなくなる。遥の笑顔は未だにぎこちない。気を抜くと、泣いてしまいそうな顔に見える。なのに遥はしっかりと、顔を上げている。涙を流さず、ちゃんと前を向いている。
いつの間に、こんなに強くなったのだろう?
「……ウチは、兄さんみたいにはなれない。兄さんみたいに強くはなれない。でも、兄さん料理苦手でしょ? 兄さんにはできないことが、ウチにはできる。だからウチも、頑張るよ。……兄さんがちゃんと、笑ってくれるように」
それでふと、気がついた。遥の笑顔がぎこちないなんて言っておきながら、当の俺が全く笑ってなかったことに。最近の俺は、ずっとずっと人を傷つける方法だけを考えていた。
「ふふっ、兄さんやっと笑ってくれた」
遥は笑う。いつもと同じ……昔と同じ、小動物みたいな顔でやっと笑ってくれた。……ああ、こんなことでよかったのか。別に、神田くんにしたことに後悔はない。遅かれ早かれ、あいつには学校を辞めてもらうつもりでいた。
でも俺は、悪意に囚われるあまり大切なことを忘れていた。傷つけ合うだけじゃ何も産まないなんてこと、とっくに理解してた筈なのに。
「兄さん、おかえり」
と、遥は言った。
「ただいま、遥」
と、俺は答えた。
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