第23話 終わり
遥は、泣かなかった。
悲しむことも、怒ることも、叫ぶこともせず、遥はただ静かにビリビリに破かれた絵を見つめ続けた。誰がなんの目的で、どうしてこんなことをしたのか。何も分からないまま時間が流れて、ポツリと遥は言った。
「……帰ろっか」
遥は笑った。破れた絵を無理やり繋ぎ合わせたような、壊れた笑顔。俺はそんな遥に何も言ってやることができず、ただそのか細い身体を抱きしめた。
「痛いよ、兄さん」
遥はそれだけ言って、何かを堪えるように俺の胸に顔を埋める。そのあと一応、ビリビリに破かれた絵を集めたが、いくつも欠けがあって元に戻すのは無理そうだった。
日が暮れて、辺りが闇に飲まれていく。俺たちはそのまま逃げるように校舎を出て、約束通り天ぷらを食べて家に帰った。……味を楽しむ余裕なんてなかった。遥は子供用の小さな天丼を、ゆっくりとゆっくりと時間をかけて食べ切った。
遥は何も言わなかった。時折、まるで自分は大丈夫だと言うように下手な笑みを浮かべるだけで、弱音も恨み言も決して口にしようとはしない。
「……ごめんね」
遥は最後に、自室の前で小さくそう言って、そのまま部屋に鍵をかけた。……すぐに誰かが泣くような声が聴こえてきたが、それはきっと気のせいだろう。
遥は泣かなかった。
最後まで、泣かなかった。
俺は自分への情けなさを胸に刻んで、行動を開始した。
◇
翌日、美術の先生に事情を話した。先生は、こちらが驚くほど怒ってくれて、励ましの言葉をかけてくれた。遥にもまた電話すると言ってくれた。……この先生は思っていたよりもずっと、いい先生だったのかもしれない。
俺は何気なく、そんな優しい先生に詳しい事情を訊いた。先生が遥の絵を飾ってくれたのは、昨日の昼休み。そこからの5限と6限は美術の授業があって、その間は遥の絵は無事だったらしい。そして先生は、そこから今朝まで美術室には立ち入っていない。
美術室に鍵はなく、犯行が可能だったのは6限が終わって先生が美術室を出てから、俺と遥が美術室を訪れるまでの数時間。破かれていたのは、遥の絵だけ。そこに何か理由があるのか。それともただの偶然なのか。
「……笑えるな」
俺はついこの間、詩織の取り巻きたちに言った。『お前たちが集めた悪意が、詩織に向くとは考えないの?』と。俺は俺が集めた悪意が、俺の周りに向くとは考えていなかったのだろうか? 俺のせいで遥が傷つくとは、考えなかったのだろうか?
全てどうでもいいと思っていた癖に、今になって……何を怒っているのか。
「馬鹿馬鹿しい」
ずっと学校を休んでいた遥に、悪感情を向ける人間は少ない。これが遥への悪意によって起こされた事件なら、犯人は簡単に絞り込める。しかし、俺が集めた悪意もとなると絞り込みは簡単じゃない。
「……なんてな」
本当は、犯人の心当たりはついていた。御桜先輩や月島さんに手伝ってもらい、一応、詩織やその取り巻きたちのアリバイを探ってもらった。無論、詩織の取り巻きは腐るほどいるから、全員は無理だ。しかし、主要な人間のアリバイは簡単に証明できた。……いつも群れてくれているからこそ、とても簡単に。
そもそも彼女たちは、わざわざ妹に嫌がらせなんてしないだろう。というか、俺と遥が兄妹だということを知ってる人間は少ない。遥はわざわざ吹聴しないだろうし、俺だってそうだ。
ならこれは、遥自身に向けられた悪意。……遥は、虐められていた。その男は最近、また違う女に言い寄ってこっぴどく振られて苛立っていたと、詩織の妹である香織さんから聞いた。
振られて、むしゃくしゃしていた。そんな時、気に入らない女の絵が美術室に飾られているのが見えた。だから思わず、破ってしまった。放課後の美術室に居たのは、人気のない場所に女の子を呼び出したかったから。
繋がりはする。それでも、簡単に断定はできない。俺は雪音に手伝って貰いながら地道に作業を進め、余計な可能性を排除し、犯人のことを調べ続けた。
「──遥くんは、そんなことを望んでいないよ」
と、御桜先輩は言った。
「でも、先輩。これから遥が学校に通えるようになって、また変な奴に嫌がらせされたら困るじゃないですか」
と、俺は返す。
「でも、それだと切りがない」
「切りがなくても、やるしかない。見た目は同じ人間でも、中身は畜生にも劣るゴミなんて腐るほどいる。話せば分かり合えるなんていうのは、人間同士の場合だけです。畜生に分別を教えるには、相応の痛みが必要だ」
でも昔、爺さんが言っていた。1発殴れば分かることを、100の言葉で伝えてやるのが教育なんだと。人を傷つけてはいけないのは、警察に捕まるからじゃない。廊下を走ってはいけないのは、先生に怒られるからじゃない。
どれだけ勉強ができても、正しいことと間違っていることの意味を理解しなければ、人間はいつまで経っても馬鹿なままなのだと。
……ごめん、爺さん。
俺は、馬鹿なままだ。
「御桜先輩なら、どうしますか? もし過去に戻ったとして、また嫌な先輩に嫌がらせをされたら、同じように仕返しをしますか? それとも、別の手段を考えますか?」
「……分からないよ。私に言えるのは、時間は決して戻らないということと、自分がやったことは決してなかったことにはならないということだけだ」
重い言葉だ。でも、意味はない。
「先輩は知ってますか? 日本って昔は、復讐が制度として認められていたんですよ。文明開化の時に、野蛮だって言われてなくなったんですけど。……でも、外から見た人間に上から野蛮だとかどうとか、言われたくはないですよね」
「……すまない」
「…………いや、ごめんなさい。先輩にあたりたい訳じゃないんです。言葉が強くなってしまい、すみませんでした」
頭を下げる。……駄目だ。最近はほとんど眠っていないから、思考が霞む。悪意が勝手に、身体から溢れる。
「先輩、今日も遥のことお願いしてもいいですか?」
「それはもちろん構わないけど……君は?」
「俺はちょっと用事があるので、後から合流します」
「……遥くん、最近は君がいないと笑ってくれないんだ」
「逆です。あいつ、俺がいると無理に笑おうとするんです。だから今は先輩が、側にいてやってください」
「……分かったよ」
俺はまた、頭を下げる。先輩はそんな俺の肩に手を置く。
普通に生きていて、他人に真っ向から悪意を向けられるなんてことは少ない。……いや、俺はそうでもないのだが、普通は嫌われることはあっても、そんなに簡単に悪意は向けられないだろう。
数ヶ月間、そんな悪意に怯え続け、俺に悪意を向けてしまうことすら怖がっていた遥。そんな遥がようやく踏み出した一歩を、つまらない感情で汚した。
遥はまた、自分の殻に閉じこもってしまった。……報いは、受けさせなければならない。
「……って、先輩。大丈夫ですよ、そんな顔しなくても。俺だって別に、スプーンで目玉を抉るような真似はしませんから」
「君は……いや、分かった。君のことは信用している。君が誰かの為に怒ってやれる優しい奴だと言うことも、私はちゃんと理解しているつもりだ」
「俺は別に、優しくなんてないですよ」
「でも君は、自分の絵が破られてもそんなに怒ったりはしないだろう?」
「…………」
俺は何も、答えられない。
「実は今日、遥くんと一緒にプリンでも作ろうと思っていてね。既に材料は揃えてあるんだ」
「それは……楽しそうですね」
「ああ。だからできれば早く、帰ってきてくれ。遥くんと一緒に、美味しいプリンを作って待っているから」
御桜先輩は俺の肩から手を離し、そのまま空き教室から出て行く。そこでチャイムが鳴って、放課後になる。……先輩は優しい人だ。授業をサボってまで、俺の話に付き合ってくれた。
でも、ごめんなさい、先輩。俺は別に、遥の為に怒ってる訳じゃないんです。ただ、許せないだけなんです。人を傷つけるという言葉の意味も、知らない馬鹿が。そんな馬鹿が幸せそうに笑っていることが、許せないだけなんです。
俺はただ、気に入らないから、傷つけたい。それだけなんですよ、先輩。
「……行くか」
俺はそのまま人気のない校舎裏に向かう。しばらくして、赤い派手な髪をした男がやってくる。……遥を虐めていた男、
「こんな手紙で呼び出して、どういう要件だよ」
苛立つ神田くんを見て、俺は笑う。
「来るとは思ってなかった」
そうして、楽しい楽しいゲームが始まった。
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