第21話 一歩



「あー、のど痛っ」


 あのあとしばらく御桜先輩と歌い続け、解放されたのは10時過ぎ。寝不足と疲れで頭がくらくらするが、悪い気分じゃない。


「あ、月島さんから返信きてる」


 俺が歌っている間に、月島さんからメッセージが届いていたようだ。彼女が今日、学校を休んだ理由。それは本当に体調不良だったようで安心……というのは違うけれど、何事もなくてよかった。


「明日は学校、来れるみたいだな」


 でも月島さんに御桜先輩のことをどう説明するか。一応、月島さんとはまだ、付き合っているということになっている。そんな状況で明日からしばらく、御桜先輩がうちに通う。黙ったままだと、なんだが浮気をしているようで居心地が悪い。


「でもなんかちょっと、楽しくなってきたな」


 詩織のことがなければ、もっと純粋にそう思えただろう。


「……気にしても仕方ない」


 そんな風に考えて玄関の扉を開ける。すると声が聴こえた。


「どうしてお前は、そんなことも分からないんだ!」


「だって仕方ないじゃない! 遥は──」


「うるさい! お前が甘やかすから、遥もあんなことになったんだろうが!」


 最近は毎日のように続いている両親の喧嘩。……せっかく遥も頑張り出したのに、こいつらは一体、いつまで同じことを続けるつもりなのか。


 ……苛々する。


「千里っ! お前、こんな時間まで遊び歩いて何を考えている! もし成績でも下がったら、どうなるか分かってるんだろうな!」


「分かってるよ。つーか、こんな時間までって言うならそっちの方だろ? 今何時だと思ってんだよ。こんな時間まで騒いでたら、ご近所さんに迷惑だろ?」


「……ちっ。お前は口ばっかり回るようになって……」


「あ、そういや言うの忘れてたけど、昨日……れんくんから電話があったんだよ」


 俺の言葉を聞いて、父さんと母さんの目の色が変わる。


「蓮くん言ってたよ。爺さんの体調、思っていたより悪いらしい。多分、正月の集まりはなくなるんじゃないかって」


「……それは本当なの? 千里」


「こんなことで嘘なんてつかないよ、母さん。爺さんがくたばったらそれはそれで問題だけど、そこまで深刻でもないらしいし。正月の集まりがなくなるってことは、今、遥のことで喧嘩する理由はないんじゃないの?」


 2人は黙り込む。ちなみに蓮くんというのは俺と仲がいい親戚の兄ちゃんで、集まりの仕切りなんかをよく爺さんから任されている。



 そして、電話があったというのは嘘だ。



 すぐにバレるその場凌ぎの嘘。でも、この連中にはそれくらいで十分だ。こんな嘘も見抜けないような連中に、頭を使う価値はない。


「夕飯は済ませてきたから、もう寝る。おやすみ、父さん、母さん」


 適当に手を振ってその場を後にする。……ああ、腹が立つ。どうしてもう少し、ものを考えられないのだろう?


 本当に遺産が欲しいなら爺さんの顔色なんか伺うより、他の連中に根回しをして弱みを探った方が手っ取り早い。皆の前で恥をかくのが嫌なら、あんな集まりなんて休んでしまえばいい。そうなっても問題ないよう、先に爺さんに細かい事情を話しておけば大きな問題にはならない。


 他にも考えれば、手段はいくらでもある。時間だってまだ、腐るほどある。なのに彼らがすることといえば、同じようなことを毎日毎日、怒鳴るだけ。


「……馬鹿馬鹿しい」


 ベッドに倒れ込む。風呂に入らなければならないが、動くのも面倒だ。今日はもうこのまま眠ってしまおう。朝にシャワーを浴びればそれでいい。


 なんてことを考えていると、スマホから着信音。


「……あー。月島さん、また変な写真でも送ってきたのか?」


 スマホを手に取る。そこに表示されているのは『話したいことがある』という、端的なメッセージ。送り主は妹の遥。あいつからのメッセージなんて、数ヶ月ぶりだ。


「……行くか」


 俺はすぐに身体を起こして、部屋を出る。なんだかんだ言って、俺も妹には甘い。


「遥、入ってもいいか?」


 扉をノックすると、「開いてる」と小さな返事が聴こえたので、俺はそのまま部屋に入る。するとどうしてか、テーブルの上に俺が今日買ってきた大量のプリンが並べられていた。


「そんな並べて何してんの? まさか、全部1人で食うつもりか?」


「……そんな訳ないじゃん。じゃなくてこれ全部、兄さんが買ってきたの?」


「そうだよ。お前、プリン好きだったろ?」


「……でもこんなに買って、ウチ1人じゃ食べきれないよ」


「1日で食えなんて言わねーよ。賞味期限、そんな短くねーだろ?」


 言って、今度は俺が遥の正面に座る。遥は沢山のプリンを積み木のように重ねて、その隙間からこちらを見る。


「お父さんとお母さん、また喧嘩してた」


「俺が仲裁に入ったから、気にしなくていいよ。お前はお前のことだけ考えろ」


「……やっぱり兄さんは簡単だね。なんでも簡単に済ませて、全部どうでもいいって顔してる」


 それはさっき、御桜先輩にも言われた言葉。遥はこちらを批判するように、目を細める。俺は小さく息を吐く。


「まあ、否定はしないよ。確かに俺は、大抵のことはどうでもいいと思ってる。遺産とか相続とか、馬鹿馬鹿しいだろ? 幸せが他人の財布の中にある訳ねーのに」


「……でもお金は大切だよ。ウチのせいで、お父さんとお母さんに迷惑かけてる」


「大切なものは、大切にしないと大切じゃなくなる。俺もバイトとかして金稼ぐのが大変なのは知ってるけど、他人の金を当てにして散財してる馬鹿に金の価値なんて分からねーよ」


 それでも俺もこの妹も、あの両親の稼ぎで生きている。いくら偉そうなことを言っても、その事実は変わらない。


「それより、お前が話したいことってなんなんだ? できることならしてやるから、遠慮なく言ってみろ」


 俺は遥を見る。遥は逃げるように視線を逸らす。カチカチと秒針が時を刻む音が聴こえる。


「……詩織さんとはどうなの?」


 しばらくした後。消えいるような声で、遥か言った。


「こんな時間にわざわざ呼び出してまで聞きたいことか? それ」


「……うん」


 遥は体育座りをして、膝に顔を埋める。


「兄さんは何でも簡単だって言ったけど、詩織さんだけは別。兄さんは詩織さんといる時だけ、ちゃんと……生きてる。だからウチ、詩織さんのことが聞きたい」


「……分かったよ。でも……あいつとはもう別れたし、お前に話してやれることなんて、何もないよ」


「…………そうなんだ。……ごめん」


「いいよ」


 俺は意味もなく、長くなってきた前髪をかき上げる。ここで詩織の話が出てくるとは、思わなかった。別に、遥がどうしても知りたいと言うのなら、詳しく話してやってもいい。でも詩織のファンである遥に、浮気がどうとかそういう話は、あまり聞かせたくはなかった。


「…………」


「…………」


 それからまたしばらく沈黙。俺は立ち去る機会を逃してぼーっと部屋を見渡し、遥は子供みたいにただプリンを積み重ねて遊ぶ。何か、話してやれることはないだろうか。そう頭を悩ませるが、上手い言葉が浮かばない。


「あ」


 そこで、積み重なったプリンが崩れる。


 遥は、言った。


「……ウチは兄さんに憧れてた。兄さんみたいに何でもできる人になりたかった」


 静かな部屋に、小さな呟きがただ響く。


「でもウチには無理だった。どれだけ頑張っても、ウチは兄さんみたいになれない」


「お前には悪いけど、誰かになるなんてことは元から無理な話なんだよ」


 頭のおかしい天才以外は。


「そうやって言い切ることも、ウチにはできない。ウチは兄さんを理想に頑張って、いつもできない自分に打ちのめされて、頑張ることが……怖くなった。ウチは……兄さんが、憎い。それが単なる嫉妬なんだって分かってるのに、この気持ちを……抑えられない」


「抑えなくていいよ。憎んでいい。でも、比べるのは辞めとけ。俺は……俺は、頭のおかしい化け物だ。人間じゃない」


 天使も悪魔も住まない怪物。……詩織のことを笑えない。身体から熱が抜ける。ふと、テーブルに散らばったプリンが見えた。浮かれて買ってきてしまった沢山のプリン。やはり空回りだったのだろう。


 ……馬鹿馬鹿しい。


「ま、お前はお前のペースで頑張ればいいよ。父さんと母さんのことも、学校のことも、ある程度はどうにかしておく。そっから先は、自分で頑張れ」


 俺は立ち上がり、遥かに背を向ける。これ以上話をして、せっかく頑張り始めた遥の気持ちに水を差したくない。


「待って! ……ウチ、まだ言ってないことある」


「……なに?」


 俺は足を止め振り返る。遥は長い前髪を弄りながら、こちらを見る。


「ウチはやっぱり、兄さんのことが怖い。ものの見方も考え方も、その視線も……ウチは兄さんの全てが、怖い」


「知ってる」


「兄さんはウチが欲しいもの全部持ってるのに、少しも幸せそうじゃない。いつも退屈そうにしてる兄さんが、ウチは憎い。……兄さんの才能が、ウチは……憎い」


「知ってるよ」


 俺はそこで歩きだす。御桜先輩は俺が自分のことを話せば、遥も胸の内を明かしてくれると言っていた。けれど、俺が遥に話してやれることなんて何もなくて、遥の胸の内には俺への憎悪しか──。




「……でも、プリン好きなの覚えててくれて、嬉しかった。……ありがと」



 思わず振り返る。遥は顔を真っ赤にして、視線を逸らす。……なんだ、こんな簡単なことでよかったのか。こんな簡単なことで、笑ってくれるのか。


「なぁ、遥」


「……なに?」


「また明日も御桜先輩、来てくれるって言ってたけど、俺も……俺もまた、来ていいか?」


「……プリン、買って来てくれるなら」


「まだ食うのかよ、太るぞ」


「うっさい」


 2人で小さく笑って、プリンを1つだけ貰って部屋を出る。


「俺も、もう少し頑張ってみるか」


 何を頑張るかなんて分からない。でも今はなんだか不思議と、そんな気分だった。


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