第19話 過去の過ち



「お久しぶりです、御桜先輩。それに……兄さんも」


 同じ家に住んでいるのに、会話はおろか姿を見るのも久しぶりな妹──未白みはく はるかは、意外と小綺麗に片づけられた部屋で小さく頭を下げる。


「やぁ、久しぶり、遥くん。君の相談を聞いて少しでも力になりたいと思い、この場に来させてもらった。私にできることならなんでもするから、遠慮なく言ってくれ」


 御桜先輩はいつもの笑みを浮かべて、テーブルを挟んで遥の正面の座布団に座る。


「…………」


 俺は少し悩んでから、御桜先輩の後ろに座った。


「遥くん、少し髪が伸びたね」


「……最近は美容院も行けてなくて……見苦しくて、すみません」


「いや、褒めているんだよ。綺麗なストレートで羨ましい。私は毎日トリートメントをしても、すぐにぴょこぴょこ跳ねてしまうからね。毎朝、大変なんだよ」


「いえいえ! 御桜先輩はいつもお綺麗です! ウチなんかとは、比べ物にならない! 先輩はウチの、憧れなんです!」


「褒めてくれるのは嬉しいけど、憧れなんて言われると……少し照れるな」


 2人は笑う。そうやってしばらく、たわいもない話を続ける2人。数ヶ月も引きこもっているのだから、もっと話せなくなっているのだと思っていたけど、遥のやつ……想像していたよりずっと元気そうだ。


 部屋も綺麗に掃除してあるし、肌の色も悪くない。痩せ過ぎてるわけでもないし、太ってもいない。ある程度の自己管理はできているようで、安心した。


「それで、遥くん。君がメッセージで送ってくれた内容について、確認したいことがあるんだけど……構わないかな?」


 御桜先輩が背筋を伸ばし、遥を見る。遥は一瞬だけ視線を逸らしてから、答える。


「……な、なんでも聞いてください。ウチ、変わりたいんです」


「そう畏まらなくてもいい。私が聞きたいのは、そんな大したことじゃない。君の目標についてだ」


「ウチの目標……」


「そう、目標。部屋から出られるようになって、そのあと君はどうしたいのか。またあの学校に、通えるようになりたいのか。それとも、もっと別の目的があるのか。他人の家の事情だからあまり口出しはできないが、高校を変えるという選択もある。だからまずは君が何を目標にしてるのか、それを教えて欲しい」


「…………」


 遥はそこで黙り込んでしまう。せっかく楽しく会話できていたのに、いきなりそんなことを訊くのはどうかとも思う。しかし御桜先輩に任せた以上、やり方に口を出す気はない。


「……ウチ、強くなりたいんです」


 しばらくしてから、震える声で遥は言った。


「お父さんとお母さん、ウチのせいで毎日……喧嘩ばかりしてるんです。学校でもウチ、友達もできなくて……いつも1人で。今もこうやって、1人の世界に逃げてる。でも、分かってるんです。このままじゃダメだって、分かってるんです!」


 遥がチラリと俺を見る。何かを疑うような目だ。


「ウチは御桜先輩や、詩織さんみたいに多くの人の前で、堂々と自分の意見を言えるようになりたい。それがウチの、目標なんです! ……だから、すみません。高校のこととかは、まだはっきりとは……」


「いや、十分だよ。勇気を出してくれてありがとう。君の気持ちは分かった。私も君の目的に沿えるよう、頑張らせてもらうよ。君が自分に胸を張れるようになるまで、協力は惜しまない」


「ありがとうございます!」


 御桜先輩は笑う。遥は安心したように、肩から力を抜く。


「…………」


 遥は変わろうと一歩、踏み出した。いや、御桜先輩に相談した時点で、踏み出していたのだろう。そういう真っ直ぐさは、俺にはない。……少しだけ、羨ましい。


「と言っても、じゃあいきなり外に出てみようか。なんていうのは、よくない。一歩ずつ、できることを積み重ねていくのが大切だ。だから今日は、話をしようか。遥くん、私に何か聞きたいこととかあるかな? あるなら、なんでも答えるよ」


「じゃあウチ、御桜先輩の……」


 そこからまた、2人は会話を始める。手持ち無沙汰な俺は一度部屋を出て、紅茶とお茶菓子を準備する。


「なんか、上手くいきそうでよかった」


 というのは楽観だろう。しかし、久しぶりにあいつの笑っている顔を見れて、よかった。


「そういやあいつ、プリン好きだったな。どうせすることもないし、買ってきてやるか」


 御桜先輩に近くのコンビニまでお菓子を買いに行くとメッセージを送り、家を出る。浮かれていたのか、10個以上もプリンを買ってしまった自分に、呆れてしまう。


「……案外バカだな、俺も」


 紅茶を準備して、部屋に戻る。2人の会話はまだ途切れることなく続いていた。


「おっと、戻ってきたか。お疲れ様、千里くん」


「お待たせしてすみません。これ、紅茶とプリンです」


 適当に選んだプリンと紅茶をテーブルに置く。……一瞬、遥はこっちを見たが、やはり何も言わない。まだ俺には、怒っているのだろう。


「……あの、御桜先輩。先輩は、その……嫌がらせとかされたらどうしますか?」


 その代わりと言うように、遥はそんなことを先輩に訊いた。


「嫌がらせ、か。そうだね、難しい問題だ」


 御桜先輩は一度、俺が用意した紅茶に口をつけ、息を吐く。


「これは舞台裏を話すようで……というより、私に憧れたと言ってくれた君の夢を壊すような話になってしまうのだが……構わないかな?」


「大丈夫です。聞かせてください」


「……分かった。では、話そう」


 少しだけ悩むような素振りを見せてから、御桜先輩は言う。


「私が演劇をしていた時、嫌がらせを受けることは少なくなかった。劇団というのは、実力社会だからね。先輩を差し置いて、後輩が主人公を演じるなんてことも珍しくない。無論、それを喜んでくれる先輩もいたが、そうでない人もいた」


「……先輩も、嫌がらせをされたんですか?」


「ああ。台本や衣装を隠されたり、あることないこと噂を流されたり、いろいろね。劇団はとても華やかで綺麗に見えるけど、その裏では……どす黒いものが渦巻いていた」


 御桜先輩の声はいつもと変わらない。けれど少しだけ、身体に力が入っている。


「私は、どうするべきか悩んでね。信頼できる先輩に相談したりもしたが、解決には至らない。周りもどこかで、それは仕方がないことだと、そんな風に思っていた。……そして時間が経つ度に、嫌がらせはエスカレートしていった」


「それで先輩は……どうされたんですか?」


「簡単だ。やり返したんだよ。私は免罪符を得たような気になって、彼女たちに仕返しをした。……最悪なことに、私は自分の感情を舞台の上にまで持ち込んだ。衣装に細工をし、長いスカートを踏んで転ぶ先輩を私は嘲笑った。……最低だ」


 それは俺が知らない先輩の姿。……遥は自分のことのように、手をぎゅっと握る。


「私は勝った。私に嫌がらせをした人間は、劇団を辞めた。それどころか皆の前で恥をかいたことがトラウマになり、家に引きこもっていると聞かされた。私は自分の強さと才能に、酔っていた」


 先輩は自嘲するように、乾いた笑みを溢す。


「でも、私はすぐに後悔することになる。それからしばらくして、1通の手紙が届いた。ファンレターというやつだ。それまでも何度か貰ったことはあったが、その内容が他のと少し違っていた」


「もしかして、さっきの先輩ことを……」


「いやいや、それは純粋なファンレターだった。舞台で堂々と役を演じる貴女の姿に、勇気づけられた。自分はずっと引きこもりだったけど、貴女のお陰で外に出られた。ありがとうって、そんなことが書かれていた。……酷い話だろう? 私は先輩を外に出られなくなるまで追い詰めたのに、その手紙の主は私の演技のお陰で外に出られたと言う」


 先輩は紅茶に手を伸ばそうとし、途中でそれを辞めてしまう。


「私は自分が、取り返しのつかないことをしてしまったのだと気がついた。自分が才能と……そして、悪意に酔っている酷い顔をしていることに気がついた。私は今まで、苦労というものをしたことがない。努力すれば結果が出るのが、当然だった。でも、間違えた努力で間違えた結果を出すということの意味を、私は何も知らなかった。私がこれからどれだけ善行を積み重ねても、私の罪は……消えない。舞台の上に立つ度に、泣いた先輩の顔を思い出す」


「……それで先輩は、演劇を辞めたんですか?」


「いいや。それでも、そんな私のファンだと言ってくれる子の為に、できることはしようと思った。落ち込んではいたが、演技を辞めてしまうと自分には何も残らないんじゃないかという、恐怖もあった」


「じゃあ、どうして先輩は……」


「詩織だよ。悪意にも自責にも折れなかった私は、本物の才能を前に逃げ出した。……無様だろう?」


「そんなことは……」


 遥は何かを思い出すように、少しだけ目を伏せる。先輩は今度こそ紅茶を飲んで、大きく息を吐いた。


「詩織は凄かった。誰も彼女に嫉妬なんかしない。入団して半年もしない彼女が主役を演じることに、誰も文句を言わなかった。圧倒的な才能の前では、悪意すら消える。寧ろ私たちは、そんな詩織と一緒の舞台に立てることに、誇りすら覚えた。私の才能なんて、詩織と比べればないのと同じだ」


「……ウチは、御桜先輩の演技も詩織さんと同じくらい……」


「そう言ってくれるのは、嬉しいけどね。私と詩織には絶対的な、決して覆らない差があった。だから私は、演技を辞めた。いや、逃げ出したんだ。……っと、すまない。少し話が逸れてしまったね」


 御桜先輩はそこで珍しく、バレバレな作り笑いを浮かべる。


「私も、悪意に対する正しい対処法なんて知らない。自分の身を守る為。或いは大切な人を守る為。誰かを傷つけなければならない時があるというのも、理解しているつもりだ。でも……どんな理由があったとしても、誰かを傷つけたという事実は消えない。それだけは、覚えておいて欲しい」


「……ありがとうございます。変なことを聞いて、すみませんでした」


「君の力になれるなら、これくらいなんてことはないよ」


 2人は同時に息を吐いて、その後はまたなんてことない会話を始めた。そして、何度目かの紅茶のお代わりをした後。そろそろいい時間ということで、今日はもうお開きということになった。


「今日はウチの為に、ありがとうございました。その……また、お願いします、先輩」


「うん。これから一緒に、頑張ろうね」


 御桜先輩は最後まで笑顔で、部屋を出た。そんな笑みが遥かにも伝染したのか、遥も最後に笑ってくれた。


「ありがとうございました、先輩」


 玄関に向かって歩いている途中、俺は御桜先輩に頭を下げる。


「いや、これくらいは構わないよ。それより……千里くん。君に話したいことがある。今から少し、私に付き合ってくれないか?」


 そう言ってこちらを見る御桜先輩の顔は、どうしてかもう笑ってはいなかった。


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