第16話 演技
それは、ほんの気まぐれだった
その日は両親が、妹のことで揉めていた。高校に入ってから、ずっと引きこもっている妹。もう何ヶ月もろくに会話もしていない。それだけなら、時間が解決してくれるかもしれないが、うちにはいろいろと面倒な事情がある。
今から2ヶ月後の親戚の集まり。沢山の遺産と、寝てるだけで金が入ってくるような利権の中心にいる偏屈なうちの爺さん。相続の関係でいつも揉めているような、つまらない家系。
あの爺さんは仕事では鬼だが家族には甘く、特に可愛い孫にはいろいろと緩くなる。そんな馬鹿な爺さんが、うちの妹が引きこもって学校に行ってないと知れば、責められるのは両親だ。このままだと大勢の親戚の前で赤っ恥をかくことになり、後々の相続にまで響くかもしれない。
両親は何をしてでもそれを避けたいと思い、けれど妹は何を言っても部屋から出ない。それで父さんと母さんが遅くまで喧嘩。止めてもいいがそんな気分でもない俺は、バレないように家を出て深夜の街を徘徊していた。
明日も学校ではあるが、1日くらい徹夜しても問題はない。今から行けるとするなら、ネカフェかカラオケ。未成年だと止められる店もあるが、見逃してくれる店もある。
「でも、どっちも気分じゃないな」
ふと、月島さんのことを思い出す。あの柔らかな身体。赤くなった顔。誰かを抱きしめるなんて、久しぶりだった。ただ触れるだけで、満たされるものがあることを思い出した。……逆にそれだけでは、決して満たされないものがあるということも。
「俺は結局、何がしたいんだろうな」
詩織への復讐。あいつより幸せになって、あいつを後悔させる。過去のことも含めて、あいつに自分の罪を認めさせる。或いは、全て忘れてあいつとは関係のないところで生きる。
「はっきりしないな」
自分が何を考えているのか、自分でもよく分からない。でも、今までの人生で目的と動機がはっきりしたことなんて、数える程しかない。俺はいつも流されている。勉強してるのだって親に言われたからで、詩織との関係もあいつが余計なことをしなければ、もうとっくに終わっていたかもしれない。
このまま月島さんや、或いは他の誰かに流されるだけで、本当にいいのか。
「でも、やりたいことなんてないんだよな」
彼女を作ってイチャイチャしたい。友達を作って楽しい青春を過ごしたい。1人で趣味に没頭したい。そんな願望は俺にはない。足りないものはいくらでもあるのに、欲しいものなんて1つもない。明日死んだとしても、何の後悔もありはしない。
人間になりたい人形がいたとして、
人間になりたいとすら思わない人形もいる。
「──随分と楽しそうだね、千里」
まるで俺がここに来ることが、分かっていたかのような声。逃げることも立ち向かうことも許さない、凛と響く声。……ああ、嫌になる。
華宮 詩織がこちらを見て笑う。
「ふふっ。どうしてお前がこんな所にいるんだ……なんて、そんなつまらないことは言わないよね? 千里」
「……何の用だよ、詩織」
身体から血液が抜ける。体温が一瞬で氷点下を下回ったように不快感に、思考が溶ける。
「いやなに、この前は2人とも頭に血が上って上手く話せなかっただろ? だから少し、散歩にでも付き合ってくれないかな、と思ってね」
「今さらお前と話すことなんてねーよ」
「そう言わないでくれよ。知らずに後悔することと、知って後悔すること。結果は同じでも、どちらが愚かかは明白だ。ボクがこのまま黙って立ち去ったら、君はきっと後悔する」
「お前はまた──」
「ボクの取り巻きが迷惑をかけたみたいだね。今度ちゃんと、ボクから注意しておくよ。彼女たちの悪意が君に向かないように。……君以外に向くように」
「……まさか前みたいに、月島さんのことで怒ってるなんて言わないよな?」
「さあ、どうかな。そこから先が聞きたいなら、ボクに付き合ってもらわないと」
詩織は高らかに笑って歩き出す。……ああ、面倒だ。本当に恐ろしいものは、呼び出しなんてせずとも待ち受けている。悪意なんて向けずとも、人の心を揺さぶる。
ここでこの女を無視して、そのせいで月島さんが傷ついたら俺は後悔するのだろうか?
「あー、くそっ」
逆らえず、歩き出す。そんな俺を嘲笑うように、月が煌々と街を照らす。
「分かっていることと、分からないこと。楽しいことと苛立つことがあるんだけど、どの話から聞きたい?」
「どうしてお前は俺に構う。浮気相手……好きな奴がいるんだろ? だったらそいつとちちくり合ってろよ」
「過去のことをごちゃごちゃ言う男はモテないよ?」
「別れた男に付きまとう女の方がモテねーよ」
「ははっ、ボクにモテないなんて言うのは君だけだよ、千里」
随分と機嫌が良さそうな声で笑う。まるでこの前のことなんて、なかったみたいに。……浮気なんて、なかったみたいに。
「瑠奈が何を考えているのかは分かる。でも君もまさか本気で、あの子が考えるような浅知恵で、ボクを傷つけられるなんて思ってないだろ?」
「あれはお前の為にやってる訳じゃない」
「なら、瑠奈の為にかい? 誰かの為なんて言葉を使う人間は頭の悪いクズか、詐欺師だけだよ?」
「お前、前に自分で似たようなこと言ってたじゃねーか」
「ははっ、随分とつまらないことを言うね? まさか君、ボクの演技を見抜けないほど、腑抜けちゃった訳じゃないよね?」
「知るかよ」
ああ、苛々する。この女の言葉はどうしてこう癇に障るのか。……でも、ここでこの女を傷つけたとしても、そんなことに意味はない。この女を組み伏して、頭を踏みつけにしたところで、この女は少しも傷ついたりはしないだろう。
「分からないのは、君がどうして瑠奈なんかと一緒にいるのか。あんな女と一緒にいたところで、君は自分の異常さに辟易するだけだ。あんな女と笑ってる君を見ると、ボクも少し……苛々する」
「だからなんだよ。勝手に1人で苛々してろよ。……いや、お前ならそれすら捨てられるんだろ?」
「捨てたところで、また明日も同じものを見せられる。そしたらまた、同じ苛立ちを感じる。それすら感じないようにしても、また別のことが気になる。この世はまるで無間地獄だ」
「だったら、そのまま苦しんで死んじまえよ。いつか楽になって幸せになれるなんて、幻想なんだよ。生きるってことは、何に苦しんでどこで死ぬかだ」
「ふふっ、君らしくなってきたね? 瑠奈と下手くそな笑みを浮かべているより、その奈落の底ような冷たい目をしている方がずっと君らしい。……ボクと恋人ごっこをしていた時よりもずっと、ね」
「…………」
俺は何も言わない。この女が何を考えているのか、想像することもできない。ただ、この女が本気でこちらに悪意を向けた場合、俺はたぶん今度こそ我慢できない。
「ボクがずっと何を演じているのか。君がずっと何を我慢しているのか。君は幸福の対義語が正しさだと言った。でもそれって、単なる嫉妬なんじゃないの? 自分は幸福にはなれないから、幸福な奴は全員間違ってるって」
「好きに解釈しろよ。少なくとも俺は、自分が正しいなんて思ってないし、幸福だとも思ってない」
「そして君は、自分が不幸だとも、間違っているとも思ってない。常に正しくて間違っていて、不幸で幸福なボクとは正反対だ。だから、君が1人で生きていけるなんて嘘なんだよ。君は1人になると、自分自身の空っぽに……殺される」
「そんな……そんなことで、人は死なない。そもそも誰かに側に居て欲しいって思っても、俺はお前以外の誰かを選ぶ。俺だって人を好きになれる。お前なんかと一緒にするな」
「ふふっ、君がそう言うと思ってサプライズを用意したんだよ。この前のプレゼントのお礼だね」
詩織がこちらを振り返る。……その腕に、ブレスレットが見えた。俺が詩織の為に用意して、結局、香織さんにあげた筈のブレスレットが。
「お前、それ……」
「ああ、君の気持ちを考える為に、同じものを買ってみたんだ。どうかな? 似合ってるだろ?」
「……気色の悪い真似をするな」
「ははっ、酷いね。でもいいさ、所詮これは単なる衣装だ。特別なものじゃない」
詩織は笑う。まるで口元が裂けるように、人間じゃないみたいに笑う。
「この数日、ボクは君の気持ちを考えた。君になったつもりで、君を演じるつもりで君の気持ちを考えた。どうすればまた、あの時みたいに君と仲直りできるのか」
「今さら仲直りなんてしねーよ。お前が泣いて謝っても、俺はお前を許さない」
「ふふっ」
「なに笑ったんだよ」
「2年前と同じだなと思って。君は2年前も今と同じことを言って、でも結局ボクと付き合うことを選んだ」
「……また同じことをしたいって言うのか、お前は」
「そうは言わない。もっと面白いことを、ボクは考えた。君が瑠奈とイチャイチャしている間に、ボクはずっと君を見ていた。だから千里、ボクともごっこ遊びをしようよ。昔、雪音と一緒に3人でやっただろ? 犯人を探す、探偵ごっこだ」
いつの間にかたどり着いた深夜の高台。夜の街が一望できる静かな景色。星空と街が混ざり合う煌びやかな世界。……ああ、頭が痛い。
「君の側にいる誰かに、演技指導をした。瑠奈か御桜先輩か雪音。或いは香織や永瀬さんや、君の妹の遥ちゃんかもしれない。1人かもしれないし、100人かもしれない。誰かが善意を装って君に近づき、君に愛されようとする。君はその誰かを探すんだ」
「……そんなことをして、何の意味がある?」
「それを考えるのも探偵の仕事だろ? ふふっ、中学の時みたいにただ傷つけ合うだけじゃ、芸がないからね。今度は君を楽しませてあげるよ。もちろん、逃げたいなら逃げてもいい。きっと君は、逃げた先でもボクの影に怯え続ける。こいつはもしかして、詩織の演技指導を受けてるんじゃないかって」
「ふざけるのもいい加減にしろよ。つまんねぇ真似してんじゃねーよ!」
落ちていく。自分が別人に変わるような錯覚。この女を前にすると、脳髄が腐る。思考が凍る。1つのことしか考えられなくなる。
「ふふっ、やっとボクを見てくれた。やっぱり君じゃないと、ボクは満足できない!」
詩織は笑う。俺は冷めた目で、ただ目の前の女を睨め付ける。
「でも、ゲームには報酬が必要だから1つだけ約束してあげるよ。君が見事犯人を当てられたら、ボクは君に関わるのを辞める」
「もし外したら?」
「君が傷ついて泣くだけだ。その時はまた、ボクが優しく抱きしめてあげるよ。前よりずっと強く、優しくね」
女が笑う。この女が何を考えているのか、俺には全く分からない。昔からずっと、この女の考えが理解できたことなんて一度もない。
「…………」
でも、自分の胸の内ははっきりした。俺はただ、この女を▪️▪️したい。俺はその目的の為に、湧き上がる衝動を必死に抑える。
「それじゃあ、楽しいごっこ遊びを始めようか」
と、詩織は最後にただの少女のような笑みを浮かべた。
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