第11話 好きなもの



 お母さんのカレーが好きだった。



 私──月島つきしま 瑠奈るなは、つまらない人間だ。お金持ちの家に産まれ、美人の母親の血を濃く受け継いだ私は外面だけは完璧で、でもその中身は食べ終えたお菓子の空き箱みたいに、空っぽだった。


 幼い頃から、いろんな習い事をさせられた。ピアノ、絵画、習字にプール、他にもいろいろ。どこに才能が隠れているか分からないからと、沢山の習い事をさせられて、でもどれも大した成果を出せない。その度に私は『これは、瑠奈ちゃんには向いてなかったんだね』と、笑顔で言われる。



 私は甘やかされていて、甘えていた。



 別に何もできなくても、変わらず愛してくれる両親。欲しいものも要らないものも、全てが手に入る環境。誰もが羨むような幸せな生活。



 なんて退屈なのだろうと、私は思った。



 いつしか私は習い事を全て辞めて、勉強だけはと言う両親の言いつけを守り、専用の家庭教師に勉強を教わる。丁寧に丁寧に時間をかけて教わって、テストで100点を取ると両親は本当に嬉しそうな顔で笑った。


 なんでも手に入る環境で、中身だけが溢れていくような生活。いつか私は人形になって、この意識すら消えてしまう。そんな錯覚に付きまとわれる日々。……ただ、それでも愛してくれる両親の期待に応えたいという、ささやかな願いはあった。


 ある日。お母さんのカレーの味が変わった。普段はあまり料理を作らない母が、偶に作ってくれるカレー。それは普段、食べているものからすればとても素朴な味で、でもどうしてか私はその味を気に入っていた。


 なのにその日は、いつもと味が違う。私は気になって、理由を訊いた。母はネットのレシピを参考にしたのだと、嬉しそうに語った。父もそんな母のカレーを嘘みたいに褒めた。



 私は言った。



「前の方がよかった」



 とても小さなわがまま。それを聞いた両親の顔。まるで人形が喋ったみたいに大きくを目を見開いて、呆然とこちらを見る2人。……それで私は、『ああ』と理解した。


 私は人形。お父さんとお母さんができなかったこと、してみたかったこと、してあげたいことを詰め込んだ、可愛い可愛いお人形。誰も私の中身になんて興味はない。


 両親も友達も家庭教師もクラスメイトも、誰も私を見つけてくれない。私は意志のないお人形。可愛い服を着て、いつも同じ笑みを浮かべている。決して言葉を発さない。



 だから、だろうか。


 私があの人に惹かれたのは。



 全てを飲み込むような真っ黒な瞳。あの瞳はきっと何も映していない。私も周りも全て等しく無価値。空っぽよりも空虚な闇。私よりもずっと大きな欠落。そんな彼の中には、一体なにがあるのか。私は彼が気になった。



 私はお母さんのカレーが好きだった。


 今はもう、好きじゃない。



 ◇



「大丈夫ですか? 千里さん」


 そんな月島さんの声で、意識が引き戻される。詩織の誕生日が終わって翌々日の昼休み。月島さんと一緒にお昼を食べていたのだが、どうやらまたぼーっとしてしまっていたようだ。


「……ごめん。ちょっと考え事してた」


 胸の底に根を張った感情から目を逸らし、無理に笑う。……つまらないことに、気を抜くとまだあの女のことを思い出す。


「その様子だと、また詩織さんと何かあったんですか?」


「……なんでも見通しだな、月島さんは」


「千里さんにそんな顔をさせられるのは、あの人だけですから」


「それは……それは、どうかな」


 俺だって別に、気の長い方じゃない。悩む時は悩むし、怒る時は怒る。詩織だけが特別って訳じゃない。


「人を好きになるっていうのも大変なんですね」


「それは人によるんじゃない? 或いは、愛し方や愛され方によるのか」


「千里さんは愛されるのと愛するの、どっちが好きなんですか?」


「……難しい質問だな」


 少し頭を悩ませる。


「……どっちも苦手だからはっきりとは言えないけど、どっちかっていうと愛する方がいいかな」


「どうしてですか?」


「愛されてるかどうかなんて、結局のところ分からないものだろ? 他人の嘘を完璧に見抜く方法なんてないんだし。でも、愛してるかどうかははっきりしてる。自分の心なんだから」


「……千里さんは信じてないんですね、人も愛も」


「信じるようなものじゃないでしょ、どっちも」


 ……でも、初めから信じていなかったら、あそこまで声を荒げる必要もなかった。詩織だから俺は、信じてしまったのだろうか? それとも人を好きになると、全て忘れてしまうものなのだろうか?


「詩織さんは、千里さんが思っているほど恐ろしい人ではないと思いますよ」


 まるで見透かしたような言葉。月島さんはサンドイッチを口に運び、小さく笑う。


「詩織さんの演技は、確かに人間離れしています。私の父は演劇が好きで、昔からいろんな舞台を見て回ってきましたけど、舞台に上がれば別人になる。というのが比喩ではない人を、始めて見ました」


「詩織は自分すら騙せるし、何より……自分であることに拘らない。人間じゃないよ、あれは」


 詩織は勉強も運動もできるし、教師の覚えもいい。香織さんとは仲違いをしているようだけど、両親との仲も悪くない。誰もあいつの演技を見抜けていない。誰もあいつの異常性に気がつかない。……多分、月島さんも。


「あんま関係ない話だけどさ、月島さん」


「なんです?」


「月島さんってもし彼氏が浮気とかしたら、許せるタイプ?」


「海に沈めます」


「ははっ、怖っ」


「ちなみに冗談ではなく本気です」


「……怖いな」


 しかしそれが、普通の感性だろう。


「俺は別に、浮気そのものに興味はないんだよ。自分を裏切った人間を傷つけてやりたいとか、後悔させてやりたいとか。そんな感情は別にない」


「聖人みたいなことを言いますね?」


「じゃなくて……そうだな。俺は浮気しない詩織を愛していたけど、浮気する詩織は愛してない。0か1か。どれだけ愛していたとしても、裏切った人間はゴミと同じだ」


「……私より千里さんの方が、よっぽど怖いじゃないですか。というか詩織さんって、浮気したんですか?」


「あ、やべっ。……まあ、月島さんにならいいか。前は濁したけど、それが俺たちの別れた理由なんだよ」


「…………そうですか。でも、千里さん。だったら千里さんは、どうしてそんなに苦しそうな顔をしてるんですか? 本当に0か1なら悩む必要なんてないのに、貴方は今なにを悩んでいるんですか?」


 月島さんが俺を見る。答えは簡単だった。けれど答えるのは、簡単ではなかった。自分の本心をさらけ出すことを、俺は何より恐れている。


「……自分が正しいと思ってる人間って、嫌いなんだよ」


 だから溢れたのは、誤魔化すような言葉。


「また難しいことを言いますね……」


「そんなに難しくもないけどね。確か……坂口安吾だったかな。エッセイでさ、面白いことを書いてるんだよ。どうして日本は、落とした財布が戻ってくるようないい国なのに、政治家は汚職ばかりするんだって。月島さんは、どうしてだと思う?」


「……分かりません」


「俺も分かんないけどさ、坂口安吾は役得精神って答えてたんだよ。自分は偉い立場だから、それくらいは許される。周りもみんなやってるから、自分もやっても問題ないだろうって。立場や能力が罪の意識をなくす」


 この前の詩織の顔を思い出す。……苛々する。


「だから大抵の人間は、自分が悪いなんて思ってないんだよ。虐めとか、パワハラとかもそうだな。顔がいいから、顔が悪い奴を虐める。身体が大きいから、小さい奴を軽く見る。立場が上だから、下の奴に無理を言う。歳が上だから、偉そうな態度をとる。自分は頑張ってきたから、それくらいなら許されると思う。でも実際、悪事が許されるなんてことはないんだよ。だから俺は、許して欲しいなんて白々しく言う人間が嫌いだし、正しさを笠に着る人間を憎悪してる」


 悪事を働いた人間は苦しんで死ねばいい。果たして許しなんて概念が、この世界に必要なのだろうか?


「……私には否定も肯定もできません。でも、寂しいから浮気したなんて、自分にだけ都合のいい理屈ですからね。気に入らないのは分かります。……でも、だとするなら悪人に罪を認めさせるのって、とても難しいことになりますね」


「自分が悪いと思ってないからね。大抵の馬鹿は反省なんてしないし、後悔だってしない。何で自分だけって、つまらない言い訳を並べるだけで」


 思考を落ち着けるように、大きく息を吐く。


「だから俺が許せないのは、あいつが浮気したことじゃなくて、浮気した癖に反省も後悔もせず、傷つきもしないこと。それがどうしても許せない。だから悩んでるっていうより、苛々してるって方が正しい」


 人格を使い捨てできるあいつは、何があっても傷つかない。全てが他人事で、あいつはいつだって自分にスポットライトが当たる世界で生きている。


「千里さんは本気で、詩織さんが演じたいものになれる怪物だと思ってるんですか?」


「……思ってるけど、月島さんはやっぱりそうじゃないの?」


「詩織さんは確かに天才です。でも天才だって人間ですよ? 刺されれば死ぬ弱い人間なんです、貴方も詩織さんも。化け物なんかじゃないんです」


 月島さんは小さく笑って、言葉を続ける。


「詩織さんの唇、前からずっと荒れたままです。もし仮に彼女が本当に化け物なら、リップクリームを買い忘れるなんてこと、あると思います?」


「それは……それを含めて、演技なんじゃ……」


「何の為に? 誰に見せる為の演技なんですか? それは」


「…………」


 答えに詰まる。この前はそれどころじゃなくて気がつかなかったが、少なくとも美術の授業の時の詩織の唇は荒れたままだった。


「美術の授業でも、詩織さん……1人だけ全く進んでなかったじゃないですか。あれは、何の為の演技なんです?」


「…………」


 それも俺には説明できない。


「『狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり』。これは半分、誤用ですけど、詩織さんほどの天才が狂人を演じれば、本物よりも本物らしい。でも、それは演技なんですよ。いくら痛みを忘れたフリをしても、演技を止めれば詩織さんはただの女の子になる」


「……だとしても、今更もう詩織と関わるつもりはないよ」


 あいつに傷をつけて、つまらない自尊心を満たしたところで虚しいだけだ。サンドバッグを殴るより意味がない。


「ねぇ、千里さん。私と恋人のフリをしませんか?」


「……どういう意味、それ」


 唐突な申し出に、俺は月島さんを見つめる。


「言葉通りの意味です。2人で詩織さんの前でイチャイチャして、恋人のフリをするんです。そしたら詩織さんに関わることなく、詩織さんを傷つけることができる」


「いや、その申し出は嬉しいけど、俺は──」


「何事もやってみないと分からない。少なくとも千里さんには、私を拒絶する理由はないと思いますよ?」


 イタズラ前の子供のような顔で笑う月島さん。その笑みを前にしても、月島さんの真意は分からない。……しかし月島さんが何を考えていようと、もう詩織に関わるつもりはない。何をしても、このつまらない現実は変わらない。


「…………」


 ただ、月島さんが言うように詩織を傷つけることができれば、本当の意味で……あいつを傷つけることができたなら。俺は華宮 詩織という呪縛から逃れられるかもしれない。


 この鳴り止まない頭痛から、煩いだけの苛立ちから、逃れられるかもしれない。


「これからよろしくお願いしますね? 千里さん」


 と、月島さんは笑う。


「……よろしく」


 俺はいろんな感情を飲み込んで、そう答えた。


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