第10話 幸福について



 浮気なんて、ただの気の迷いだった。



 何となく寂しくて。流れに逆らえなくて。キスなんてただ唇を合わせるだけで、胸の内が変わる訳じゃない。だからいいって思った。誕生日の約束は、一緒に祝いたいという周りの期待に応えたかっただけ。貴方を傷つけたかった訳じゃない。



 貴方なら、それくらい許してくれると甘えていた。



 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。後悔してます。許してください。もう間違いません。もう失敗しません。私はもう貴方のことだけを考えて生きますから、だから私を許してください。お願いします。



「ごちゃごちゃ、うるさいな。……これはもう要らないな」


 雨音にかき消されるような、小さな呟き。詩織は冷めた目で、雨に濡れる桜の枝を見つめる。


「桜の下で化け物になった女は、男に首を絞められ殺される。男も最後は花へと変わり、残るのは冷たい虚空だけ。……今のボクたちは、まるで君が好きだと言った小説みたいだね、千里」


 詩織は思考を切り替えるように、大きく息を吐く。それだけで、彼女の纏う雰囲気が変わる。


「君が優しくボクを抱きしめて、ボクを許してくれたら……ボクはどうなっていたんだろう? ちょっと想像できないな」


 千里はそういう風にものを考えない。幸福の対義語が正しさなんて言葉は、まともな人間からは出てこない。幸福な人間は全員間違っていて、正しい人間はみな苦しんでいる。間違ってない幸福なんてなくて、苦しみのない正しさなんてない。千里はそう考える。


「確かに、幸福の裏側にはいつだってべっとりとした何かが張り付いていて、正しさにはいつも小さな棘がある。それは認めるけど、君は相変わらず自罰的だ。それは人間のものの考え方じゃないよ、千里」


 千里が怒った理由はきっと浮気そのものではなく、悪いことをしたのに許して欲しいと願うその甘えた精神性。本気で反省しているのなら、許して欲しいなんて言葉は出ない。


 謝る暇があるなら、傷ついて泣けと彼は言った。皆んなが皆んな幸せになれる世界なんて、気持ちが悪いだけだと彼は考える。幸福な人間は間違っていて、不幸な人間もまた同じように間違っている。


 その2つに違いがあるとするなら、それは苦しんでいるのかそうでないかの違いだけ。


「人を許すなんて価値観が、きっと君にはないんだろう。自分を裏切った人間はどれだけ傷ついて反省しても、一生許さない。罪というのは決して抜けない棘だと、君はそう考える」


 詩織にはそこまで千里の気持ちが分かっていた。分かっていながら、それでもあの場はああ言うしかなかった。あそこまでの無様を晒しても、千里の隣にいたいという気持ちもまた嘘ではないから。


「決して誰も許さない君。誰にも許されたいと思わない君。でも、だからこそボクは、そんな君に愛されたかった。……今でも、愛されたい」


 だったらどうして、浮気なんてしたんだ。だったらどうして、彼を蔑ろにするような態度をとった。振られた今になってそんなことを言うのは、おかしい。お前の考えは、矛盾している。



 内側から、声が聴こえる。



 詩織は笑う。


「行動と心が食い違ってる人間なんて、珍しくもない。それを矛盾とは言わない。人間は元よりそういう風にできている。だからボクが人と違うところがあるとするなら、その心をどう思っているのか。皆が何より大切にする心が、ボクにとっては使い捨ての道具ってだけ」


 産まれる世界を間違えた。人間が生きる世界に化け物が産まれてしまった。どれだけ必死に人間のフリをしても、人間になれない化け物が。


「……なんて、それこそどこぞの小説だ」


 詩織の声は不自然なまでによく響く。冷たい風が彼女の声を遠くへ運ぶ。


「ねぇ、千里。人を好きになるって気持ち悪いよね。相思相愛なんて、地獄でしかない。愛なんて脆い価値観は、皆んなで必死になって大切にしてやらないと、すぐに壊れてしまうガラクタだ。でもボクたち人間は、そんな気持ち悪いことをしないと生きていけない。ただ交尾して増えるだけの虫ケラのようには生きられない」


 徐々に雨脚が弱まる。薄くなっていく雲を、詩織はただ色のない目で見つめ続ける。


「ボクが普通の女の子だったら、君が別の子たちと仲良くしてる姿を見て、嫉妬したのかもしれない。ボクがいないところで幸せになる君を見て、心を痛めたのかもしれない。でも君もボクも、そんな単純にはできてない。……ボクの価値観はきっと誰にも理解されない。君と同じで」


 千里の怒りはズレている。詩織の嘆きがズレているのと同じように。2人の胸の内は本人たちも含めて、誰からも理解されないものだ。


 桜の幹に優しく触れてから、詩織はゆっくりと歩き出す。


「でも、だからボクは辞めないよ。辞めないし、止まらない。……君がどれだけ、を恨んでも」


 雨が止む。眩い太陽が濡れた詩織を照らす。まるで主人公を照らすスポットライトのように、陽の光が歩く詩織を照らし続ける。


「ふふっ。楽しくなってきたね、千里」


 本来、唯一無二である心を自由自在に操り使い捨てできる人間がいたとして、その人間は何を愛するのか。何にも価値を見出せず、全てに価値を見出せる人間は果たして幸福になれるのか。


「なれる訳ない。だからボクには君が必要なんだ。君にボクが必要なのと同じように……」


 誰にも理解されない詩織の本心。本人ですら曖昧な彼女の目的。実はそれは、たった一言に集約される。



 ──詩織はただ、千里を▪️▪️したい。



 その目的の為に、彼女はいつもの凛とした笑みを浮かべ歩き出した。


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