第9話 怒り



 雨が降っている。思えばあの時……詩織と俺が付き合うことになったあの日も、今日のように雨が降っていた。泣き叫ぶ詩織と、ただ目の前の少女に恐怖することしかできなかった俺。


 俺は確かに詩織のことが好きだった。幼馴染で、いつも俺のことを助けてくれた少女。いつでも強くて華やかだった少女に、俺は強く惹かれていた。……けど誰より俺は、詩織の持つ異常性を恐れていた。


「詩織、俺はお前が嫌いだ。これ以上、俺の人間関係をかき乱すのを辞めろ」


 静かな雨音の中で響いた言葉。詩織はそれを聞いて、訳が分からないと言うように首を傾げる。


「何を言ってるんだ? 千里。……いや、そうか。君はまだ怒ってるんだね」


「ああ、そうだ。怒ってるよ。許す気はない」


「ふふっ、そうか。許す気はない、か。前と言っていることが、随分と違うじゃないか。君はボクのすることならなんだって許してくれると、そう言った筈なのに……。本当に酷い奴だね、君は」


「……ものには限度があるんだよ。それに俺は、許すなんて言ってない。お前の側で……お前を支えると、そう言っただけだ」


 雨脚が少しずつ強まっていく。傘を持っていない俺と詩織は、ただ雨に打たれることしかできない。


「じゃあ、千里。君はどんなボクになったら、ボクの隣にいてくれるのかな? どうすれば、君はボクを許してくれるんだい?」


「……違う。そういうことじゃない。俺は──」


「ボクならできるよ。どんな人にも、どんな理想にもなれる。千里が望む性格で、なんだってしてあげる。君がどうすれば喜ぶのか、ボクはもう知ってしまっている。ボク以上に君を満足させられる女は、他にいない。そうだろ? 千里」


 詩織がゆっくりとこちらに近づく。いつもとは別人のような冷たい表情。きっと詩織の取り巻きが今の詩織を見ても、同一人物だとは思わないだろう。それくらい、色のない瞳。


 雨に濡れた詩織は、怒っているのか泣いているのか分からない表情で、ただ俺だけを見つめる。


「瑠奈なんて、ただの成金だ。雪音は、ただの馬鹿だ。香織は頭のネジが足りなくて、御桜先輩は性悪だ。そして永瀬さんは、君とは釣り合わない凡人だ。君にはボクしかいないんだよ、千里」


「いい加減にしろ。お前が俺の相手を決めるな。誰の隣で何をするかは、俺自身が決める。お前とはもう……歩けない」


「どうして?」


「……それをお前が、理解できないからだよ」


 詩織は俺のすぐそばまで近づき、空を見上げる。まるで演劇の最中のような現実感のない仕草で、雨で張りついた前髪をかき上げる。


「浮気、か。どうでもいいじゃないか、そんなこと」


「は?」


「舞台の上で、誰かとキスすることなんて珍しくもない。キスするだけで浮気になるなら、女優は全員、浮気者だ」


「お前、なに馬鹿なことを──」


「事実だよ、千里。だいたい、君だって清廉潔白な訳じゃないだろ? 御桜先輩も君の本性を知ったら、あんなふざけた演技はできない。君は前にボクを化け物だと言ったけど、ボクから言わせれば君の方がよっぽど化け物だよ」


「……お前にそんなこと、言われる筋合いはない」


「あはっ。昔のことでも思い出したのかな? そもそも、清廉潔白で1つの嘘も裏切りもない恋愛なんて、フィクションの中だけだよ。愛なんてものは所詮、ただ演じるだけのものだ。本当の愛なんてそんなもの、この世のどこにもありはしないんだよ!」


 詩織は大袈裟に両手を広げ、裂けるように口元を歪める。


「誰だって他人に都合のいい存在を求めてる。優しい両親。ふざけ合える友人。理解のある恋人。でも、現実はそうじゃない。ボクはそうじゃないし、君だってそうじゃない。誰だって汚れてるものなんだよ。誰だって他人の前で、嘘をついて演技をしている。……偽物は、じゃないんだよ! いい加減、分かってくれよ! 千里!!」


 詩織は叫ぶ。まるで先ほどまでとは別人のような声で、彼女はただ叫ぶ。


「他人の過去なんて分からない! 言葉の真偽を完璧に見分けることなんて、ボクにだってできない! 君なら分かるだろ? 信用できる人間なんて、この世界には1人だって存在しないんだ!」


「……だから、なんだよ? お前は何が言いたい、詩織」


「だから……だから、別にいいじゃないか」


 詩織は全てを包み込むような笑みを浮かべて、言葉を続ける。


「ボクは君を幸せにできる。君はボクを幸せにできる。それだけで十分じゃないか。余計なことをごちゃごちゃ考えるのは、君の悪い癖だよ」


 詩織が俺を抱きしめる。雨に濡れた冷たい身体は、そんなことをされても決して温まったりはしない。


「……家に帰ろう? 千里。2人でシャワーを浴びて、ご飯を食べて、そのあとは好きなだけ……君を愛してあげるから。君が好きだって言ったことを、ボクは全て覚えてるよ? 君が望むなら、ボクはなんだってしてあげる。だから、一緒に帰ろ?」


 詩織がただ真っ直ぐに、俺を見る。柔らかな感触。温かな肌。潤んだ瞳に、雨に濡れた髪。男なら誰でも抗えないような、魅力的な少女。そんな少女が、俺に好意を向けてくれている。


「…………」


 だから俺は、言った。



「なあ、詩織。お前さ、自分が幸せになる為に産まれてきたと思ってないか?」



 詩織の腕を振り払う。これ以上、こいつのごっこ遊びに付き合っていられない。いい加減、俺も我慢の限界だ。


「……千里? 君は一体、何を言ってるんだ? 幸せになりたいと願うのは、当然のことだろ? 誰だってボクだって幸せになる為に……誰かを幸せにする為に、頑張ってるんだ。君だってそうだろ?」


「ちげーよ。一緒にすんじゃねぇ。……正しさっていうのは、幸福の対義語なんだよ。お前はそれを、一生経っても理解できない」


 だから俺は、こんなに苛々させられる。


「別に、浮気とかキスとか、その程度のことなら許してやってもいい。俺は最初から、そんなことで怒ってる訳じゃない」


「じゃあ君は、何をそんなに──」


「何をじゃねーよ! いい加減、理解しろ! 苛々するんだよ!!!」


 雨の中、俺は叫ぶ。


「みんなの期待に応える為に頑張る? 俺を幸せにできる? 知るかよ! 全部、お前の都合じゃねーか! この1年半、俺はずっとお前の都合に合わせてきた! お前の裏切りを、他人の悪意を、お前の為だと思ってずっと我慢してきた!」


 知らない女に陰口を叩かれ、嫌がらせされて。当の詩織はそんな奴らに笑顔を振りまいて。デートの約束をすっぽかし、知らない奴とキスをして、何度も何度も裏切ってきた。その度に俺が、どれだけ苦しんできたと思ってる。


「別に、理解されたいなんて思ってない。分かって欲しいなんて言わない。でも、なんだよ、お前! 散々、適当に扱っておいて、自分が振られたら寂しいからよりを戻したい? 知るかよ、死ね! お前、自分が美人だからって、なんでも許されると思ってんじゃねーよ!!」


「……千里。君がそんなに苦しんでいたなら、言ってくれれば──」


「だから、ちげーよ! 分かれよ! 誰が俺の気持ちを理解しろなんて言ったんだよ! 俺はお前に、傷つけつってんだよ! 反省もしてねぇ癖に、許されようとしてんじゃねーよ! 誰だって汚れてる? うるせーよ! てめぇだけ綺麗でいられると思ってる人間が、偉そうなこと言ってんじゃねぇ!!」


 どれだけ叫んでも、詩織には伝わらない。分かってる。分かってはいるんだ。それでも想いは止まらない。


「何が幸せにできるだ、馬鹿馬鹿しい。幸せになる前に、やるべきことがあるだろうがよ。軽く見てんじゃねーよ。お前の世界じゃお前が中心かもしれないけどなぁ、俺はもうお前なんて必要ねーんだよ。幸福になりたきゃ、その辺の男の上で腰でも振ってろ、馬鹿が」


 これ以上、言っても仕方ない。俺は一度、大きく息を吐いて歩き出す。


「ま、待ってくれ! 千里! 君が何を言いたいのか、今のボクには分からない。でもボクには、君が必要なんだ! お願いだから、置いていかないでくれ!」


「……離せ」


「これからは君を見て、ちゃんと理解するから! 他の子たちに優しくするのも、もう辞めるから! 今度はボクが君の為に、頑張るから! だから、置いていかないで!」


「……今のお前は覚えてないだろうけど、それは二度目だ。今度は1人で苦しめ。お前のことなんて、もう知らん」


 詩織の腕を振り払い、歩き出す。


「……待って。待ってよ、千里。ボクを……ボクを1人にしないでくれ」


 最後に背後で、そんな声が聴こえた。けれど俺は、決して振り返ることはしなかった。


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