第2話 別れ



「──俺たち別れようか」



 大した決意も心構えもなく、そんな言葉が口から溢れた。つまりそれは本心なのだろうと、他人事のように思う。


「…………驚いた。君でもそういう冗談を言うんだね」


 詩織は驚きを隠せないと言うように、大きな目をパチリと見開く。


「でも、あまり感心できる類の冗談ではないね。君はその辺の分別はついているのだとばかり思っていたから、ちょっとショックだよ」


「冗談でこんなこと言わねーよ。俺は本気で言ってるんだ」


「……なんだよ、それ。じゃあつまり君は本当に、このボクと別れたいって言ってるの? もしかして、寝ぼけてる?」


「こんな時間に寝ぼけるほど、抜けてるつもりはないよ」


 できる限り淡々と言って、真っ直ぐに詩織を見る。詩織はそんな俺を見て、呆れたように大きく息を吐く。


「……そうか。分かった。誕生日のことで拗ねてるんだね。君は本当に器の小さい男だ」


「なら今度は器の大きい男でも見つけろよ」


 話は終わりだと言うように、背を向けて歩き出す。


「待ってくれ! …………分かったよ。分かった、分かった。誕生日はなんとか君との時間も作る。いや、週末は君と2人で過ごす。約束するよ」


 そこでまた、抱きしめられる。……いや、さっきよりもずっと強くそれでいてどこか甘えるように、詩織は自分の身体を押し付ける。


「器が小さいなんて言って、ごめん。それと、寂しい思いをさせて悪かった」


「手慣れてるな。他に何人、同じことを言ってるんだ?」


「君だけだよ」


「ついさっき告白してきた子にも、同じようなこと言ってたじゃないか」


「……確かにボクは、色んな子から想いを寄せられることが多い。けど、ボクが好きなのは君だけだよ」


 詩織の唇がゆっくりとこちらに近づいてくる。少し荒れているなと、どうでもいいことが頭を過ぎる。


「俺はお前が好きだったよ。多分、お前が想像しているよりもずっと」


 唇が触れる前に、強引に距離を取る。


「だったら、どうして逃げるのさ」


「俺は純情だからな。好きでもない女とキスする趣味はないんだよ」


「なんだよ、それ。どうしたのさ、本当に」


「この前、お前が知らない奴とキスしてるのを見た」


「────」


 詩織が驚きに一歩、後ずさる。冷たい風がゆっくり頬を撫でる。


「お前はさ、昔から俺みたいな奴と仲良してくれた。どこに行っても馴染めなかった俺を、お前はいつも助けてくれた」


「それは……当然だよ。ボクは昔から君が……好きだったから」


「本当に?」


「嘘なんて言わないよ、こんな時に」


「なら普段は嘘をついてるってことか?」


「それは……」


 そこで言葉に詰まるってことは、つまりそういうことなのだろう。


「今さら嘘を糾弾するつもりはないし、浮気のことを問い詰めるつもりもない。ただ俺は、いい加減このごっこ遊びを辞めたいだけなんだよ」


「ごっこ遊びって、そんな言い方しなくてもいいだろ……!」


「お前がそれを言える立場かよ、詩織」


「……っ」


 詩織はきっと、俺のことを好いてくれているのだろう。それが2番目なのか3番目なのか知らないが、その想いに嘘はない。だからここまで、ズルズルと関係を続けてきた。


「……いいのかい、千里。君、ボクと別れるとまた1人ぼっちになっちゃうよ?」


「さっきも言っただろ、俺は1人でも生きていける」


「嘘をつくなよ。君は昔から寂しがり屋じゃないか。小学生の時なんてよく虐められて、いつも1人だったじゃないか」


「…………」


 そんな俺に優しくしてくれたのが、詩織だった。多分、その時から俺は、彼女のことが好きだった。


「今の話は全部、聞かなかったことにする。今度の休みはちゃんと君と一緒に過ごす。……それでいいだろ?」


「それでいいのはお前だけだ。俺の気持ちは変わらない」


「どうしても?」


「何をしても」


 そこでしばらく沈黙。気づけば日が落ちていて、辺りは夜の闇に包まれている。俺は冷たい月光から逃げるように、手をポケットに突っ込む。


「後悔することになるよ?」


「別にいいさ、後悔するくらい」


「……そうか、分かった。そこまで言うなら、ボクももう何も言わない。君が1人で泣いてても、絶対にもう助けてなんてあげない」


「いいよ、それで」


「もう君と喋ってなんかあげないし、グループワークで余ってても声をかけてあげない。もう君のことなんて、絶対に絶対に助けてあげない! ……本当にそれでいいんだね?」


「だからいいって」


 俺だってもう子供じゃないんだし、いつまでも手を引いてもらう必要もない。


「じゃあ君とはここでお別れだ。……あとで後悔して泣きついてきても、遅いからねっ!」


 耳が痛いくらいの声で叫んで、詩織はそのまま走り去る。喧嘩なんて今まで何度もしてきたけど、ここまで取り乱した詩織を見るのは初めてだ。


「まあ、だからなんだって話だけどな」


 振った相手を優しく抱きしめるような感性は俺にはないし、振った相手にまで好かれたいと思うほど、俺は寂しがり屋じゃない。


「さて、帰るか」


 ゆっくりと、いつもの帰路を歩く。ふと、今まで楽しかった記憶が頭を過る。街灯に照らされた白い息が、孤独を浮き彫りにする。


「そういや、もう誕生日プレゼント買っちまってるんだよな」


 らしくもなくサプライズなんて用意したのが、間違いだった。


「まあいいか」


 誕生日プレゼントなんて、ネットで売ればそれでいい。今さらもうどうにもならないことに頭を悩ませるなんて、馬鹿のすることだ。


 それより今、考えるべきことは……。


「……友達でも作るか」


 小さく呟いて、余計な思考を振り払う。どうしてか、普段よりもずっと風が冷たい気がした。


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