agate
双子である兄の身に何かが起こったというのは辛うじて理解できた。
足元で円陣が浮かび上がり契約締結まであっと言う間の出来事だった。
契約内容に従い、竜から人の形へと変貌を遂げたアガットはそのまま膝から崩れ落ちる。
その表情には一切と余裕は無く、愕然とし、逼迫に追い詰められた絶望感に満ち満ちていた。
仮にも水晶の位を持つ竜には有るまじき姿だった。
「名、を」
生気すら濁らせている目で、アガットは虚空に向かって呟いた。
否、虚空ではない。
其処にはまだ、契約の残滓が残っている。
背に翼生やす天の御使いを模している契約書は、アガットの願いに困惑の表情を浮かべる。
「規律に従うべきです」
契約書が口を開いた。アガットは咄嗟に契約書の足元を見たが、そこには影が在り、契約書としては在りえない事態に目を瞬いた。
注意を促され、反射的に問いかけてしまった己の迂闊さにアガットは無意識に息を吐き出した。
「今、この時点でさえ例外なのですから。余計なモノまでついてまわりますよ」
追い討ちをかけるように続ける、金色の長い髪に青い目、天使の青年を模した契約書にアガットは首を横に振った。
「喋るのはいいとして、光を遮る実体で、増して対象を配慮する契約書なんて聞いたことがない」
相対した存在の突飛さで驚き、そのまま茫然自失から立ち直ってしまったアガットは立ち上がり、膝下についた土埃を片手で払った。
「しかも契約中に目が合うなんて、どんな経験だよ」
煩わしいと髪を掻き上げ、アガットが悪態を吐き、
「あんた、契約者じゃないだろ」
じ、っと金の髪の彼を見据えた。
「同じ顔してるけど、契約文の最後にちらっと顔出した奴だろ」
様々な形式で走馬灯の様に流れ行く契約文の中に、たった一文字だけ混じっていたのをアガットは覚えている。ピンポイントでそこだけ目が合ったのだから、忘れるはずがない。
「契約書のフリをやめろ」
言うと、彼は僅かに頬を緩めた。アガットを褒めるかの様に微かに笑った。背負う翼が一層白く際立つ。目の前に佇む天使は明らかにアガットが見た契約者とは別人である。
彼が、口を開いた。
「規律は厳かであるべきです」
「ああ」
業を負わない存在にとって規律とは秩序とも等しい、無くてはならない侵してはならない聖域だ。
「けれど、これはあまりに理不尽です」
「ああ」
双子だという理由だけで突然に有無を言わせず縛られてしまったアガットは強く頷いた。
「
「は?」
思わず顔を上げたアガットの視界を彼は自分の手で遮った。距離を詰められ視界を塞がれたアガットは声を失う。鼻先が触れるほど近距離で翳された掌には確かに熱があった。それなのに現実味を帯びない不気味さにアガットは知らず生唾を飲み込む。
「契約対象にバレなければ良いなどという詐欺まがいな行為は許されるものではありません。現に、貴方のご兄弟は己の存在に気づいていない。これは由々しきことです」
規律が歪む恐れがあります。と彼は言外に言った。
「貴方と目が合って幸いでした。己はこうして貴方の記憶に残された。長い年月の末、己との会話は忘れるでしょうが、契約書の内容は忘れません。だからと言って決して口外しないようお願いします。それでようやくバランスが取れるでしょう。ですが、どちらにしろ白紙に戻せないのがもどかしい」
彼は饒舌に語る。アガットと言葉を交わせるのが不幸中のこれ以上も無い幸いだったと告げる。自分が人の身であればどんなにかこの契約を破り捨てることができていたかと悔しがっている。
その姿を眺めて、アガットは気づいた。
「あんたさ」
気づいた時には既に声をかけていた。
「なんでそんなに気を揉んでくれるんだ? あんたも巻き込まれただけなんだろ?」
竜である自分が天使のお守りなどという内容には不服はあるが、彼がアガットに向ける気遣いはどうにも度が過ぎているように感じられる。
いくら厳しかろうが規律は所詮は規律なのだ。どこにそんなに後悔され心配される理由があるのだろう。
衝撃が抜けきって平静を取り戻したアガットに、自嘲に近い微笑を浮かべていた彼は、終には哀れみの目を向けていた。
「呪いにも等しいですよ。あの子の感情は貴方がた竜族には持ち得ないものです。だから哀れんでしまう」
気分を害してすみませんと、彼は謝った。
「そのうち嫌でもわかりますよ」
言うと、彼は空気と混ざるようにアガットの前から消えた。
煙よりも鮮やかに解け消えて、アガットはやはり在り得ない現象に驚きを覚え、物騒に目を細めた。
「呪い、だ?」
小さく唸る。
契約ではなく、呪い。その意味をアガットが知るのは五日後の事だった。
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