退けられた紙束

保坂紫子

■ オール ■

第二大陸アルティミータ

jade




 旧約聖書において、神の御使い、と呼ばれ。

 新約聖書において、神の守り手、と呼ばれた存在を目の前にして、ジェイドはただただ戸惑うばかりだった。

 彼女――性別という区分があるのかすら疑わしいが、外見が幼さが残る少女を模している限り、そう表現するのが妥当だろう。もしそれが誤解であるのなら、記憶の最後にでも訂正の一文で締めれば問題あるまい――を眺め、もう何度目かの途切れない溜息を吐く。

 圧倒せんばかりの力で主従の契約を一方的に結ばれてしまった以上、主人である彼女を見捨てるわけにはいかず、しかし、だからと言って、この現状に納得できない自分が居た。

 背に白い翼を生やす存在を、どう受け止めよと言うのか。

 もし、自分が人なれば、畏れ逃げるか敬うことができよう。

 だが、自分は悲しいか秘宝の番人と謳われし種族の末裔で、伝承を信じるのならば、彼女と同格同位の存在だ。

 どちらかが上でも下でも無く、対等である。

 だからこそ、主従という関係は異様とも言える。

 得心しようとしても自尊心が邪魔をしていた。

 そして、それ以上に、感情が乱れている。

 ジェイドの目には、彼女は主というより庇護すべき者として映っていた。

 それが、彼を悩ませている。

 先にも述べたが、ジェイドは秘宝の番人の直系で、産まれる前から何を優先すべきかを本能に然りと刻まれている。それに対し、血に刻まれた決まりさえ根底から狂わす存在が突然現れて冷静で居られるはずがなかった。

 命ではなく、己を賭して護れと、結ばれた契約に全身が縛られている。その感触がはっきりとわかるからこそ、混乱が混乱を呼んでいる。

 ジェイドは彼女を持て余していた。

 簡単に言えば、途方に暮れていた。

 不幸中の幸いなのは、ジェイドも彼女も人在らざる者だった事くらいだろう。

 先ず、衣食住の心配をしなくて済む。主従の関係になってしまった以上彼女の世話をしなければいけないが、その手間の大半が既に無いものとされているので、気休め程度には余裕があった。しかし、その余裕の全てが自分を納得させるという作業に全て費やされているので、まったく意味を成していなかったりもしていた。

 そもそもそんなことを考えてしまう時点で現実逃避以外の何物でもない。

「あの」

 背を向けていた彼女がおもむろに振り返った。

 実に五日ぶりの彼女の声だった。

 やっと事態が動いた。

 逆に言えば、彼女が彼女自身を取り巻く現状を把握するのにそれだけの時間が必要だったということなのだろう

 まっすぐと青い目を向けてきた彼女に、ジェイドは反射的に身を硬くした。翼を生やす後姿を見慣れかけた頃だったこともあり、久しぶりに見た彼女の顔は、新鮮な驚きをジェイドに与えた。

「あの」

 耳障りの良い声音で、彼女が声を発している。表情は硬いながら微笑を浮かべていた。

「名前を、教えてもらえますか?」

 聞かれ、ジェイドは即座に奥歯を噛み締めた。

「あの、名前を」

「知っているでしょう?」

 切り返すと、彼女は困惑したのか眉毛を八の字に下げて、胸の前で両手を組み握った。

「それは貴方の真実の名前です。それではとても呼べません。私は貴方の事をどう呼べばいいんでしょう?」

 ジェイドは下唇を噛む。真実の名前で呼んではいけない。そんな人外の常識とも言える規律を持ち出されて、気分は悪くなる一方だった。

「では、ジェイド、と」

 だからと言って、逆らうことは許されず、観念の体でジェイドは続けた。

「ジェイド、と呼んでください。フィーリアリエル」

 言いながらその場に傅いた。

 頭を下げることに不思議と抵抗感は無い。これが服従なのか、とジェイドは独りごちる。顔を上げると彼女は困った顔のままだった。

「フィーリアリエル?」

「……フィリアで。フィリアでいいです。ジェイド」

 そこで漸くジェイドは気づいた。この五日間、勘違いをしていたことに気づいた。そもそも最初にこそ気づいてしかるべきであった。

「これからよろしくお願いします」

 泣きそうな表情と、消え入りそうな声で、彼女は笑った。

 彼女もまた巻き込まれた被害者の一人だった。

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