落ちた日

キングスマン

落ちた日


 落ちた男がとぼとぼと階段を上っていた。

 数分前の彼は天にも昇る気持ちであったにもかかわらず、今は死人のような顔でよろよろと足を持ち上げていた。

 彼は作家志望者であり、今日は彼の投稿した新人賞の一次選考の結果発表が雑誌に掲載される日だった。

 仕事は有給をとり、朝一番に書店に入る。

 踊るような足どりで目当ての雑誌の前に立ち、無神論者のくせに一体何に祈っているのか、目を閉じて手をあわせた。

 それから雑誌を手に目次で通過者一覧のあるページを探し、そこまで飛ばす。

 百数十名ある一次選考通過者の中に彼の名は、なかった。

 一秒前まで確かに存在したはずの希望や期待は一瞬で消え去り、奇妙な感情に支配された。

 落胆や絶望ではなく、奇妙。

 カレーライスを食べたくなったので具材を鍋で煮込んで、それをライスにかけてテーブルに並べてようやくルーを入れ忘れていたことに気づき、ただの肉と野菜の煮汁をぶちまけたご飯を見つめているときの感覚に近いというか。

 この例えが何をいっているのか誰にも理解できないように、彼も自分の感情がわからなかった。

 ただ、嬉しくはなかった。

 適当な文庫本を一冊買って書店を出る。

 ──DNA鑑定の精度は世間で思われているより高くはない──

 ああ、はじまった。と彼は思った。

 ──DNA鑑定の精度は世間で思われているより高くはない──

 ──有名企業の人事担当者に自分が面接をして採用通知を出した人物に名前を変えさせて後日もう一度面接させてみると50%の確率で今度は不採用通知を出すことがわかっている──

 ──絵画、小説のように個人の嗜好が影響されないスポーツのような明確に才能が視覚的に判断できる世界であっても、特待生より落第生だった選手のほうが後に華々しい成績を収めている──

 ──科学という成果のみに絶対の重点を置く分野においても、全く同じ論文を無名大学と有名大学の名前で提出した場合、無名大学のものは相手にされず有名大学のそれは絶賛されたケースもある──

 ──片っ端から出版をお断りされたハリーポッター。

 ──お前らなんて絶対に売れないといわれたビートルズ。

 ──内向的な若者が主人公で蜘蛛がモチーフのヒーローの話なんて誰が読みたがる? と拒絶されたスパイダーマン。

 ──いつまで経っても完成しないしほとんどの社員から期待されていなかったポケットモンスター。

 早い話、人も機械もあてにならないし作品の評価なんてそのときの相手の気分で変わるものだから落ち込むなと、脳が今まで読んできた本の中から都合のいいものを思い出させてくれているのだ。

 きっとお前も『そっち側の人間』なのだと慰められているのだ。

 これまでの男であれば、そういったある種の美談で己を鼓舞して再び原稿用紙と向きあっていたのだが、今回はそうならなかった。

 三十歳になったばかり。四十代、五十代、六十代でデビューすることも珍しくない業界だ。

 この程度であきらめるな。もっとつらい立場で努力している人はたくさんいる。

 わかっている。だがそれがどうした。

 困難な状況にあるとき、自分よりも下を見てどこか安堵するような態度は卑屈だし下品だし後ろ向きで、何より無礼としか思えなかった。

 そもそも男は自分を不幸だと感じたことは一度もなかった。

 健康面、金銭面で不安はなく家庭環境も問題はない。恋人はないがそもそもほしいと思ったこともない。

 書きたいものを書けている。自分の作品は出版社と自分に利益をもたらす価値があるという自負もある。

 なりたいものになれていないという一点を除けば、むしろ羨望されるような人生なのではとさえ感じる。

 だからといって死ななくていい理由にはならない。

 もう、この人生はいいだろう。だって楽しくないんだ。

 間違いなくこれは一時的な感情で、明日になればいつものように創作意欲が沸き上がり、こんな発想ができるなんて自分は天才に違いないと奮起しているのだろうけれど、少なくとも今はそうではない。

 本を閉じるように、人生を閉じよう。

 残りのページ数はまだまだある。もしかしたら夢にまで見た展開が待っているのかもしれない。

 だけど、それが今ではないことだけは確かだ。

 終盤盛り上がるからあと2000ページほどこのつまらない描写をがまんしてくれとすすめられた本を読むだろうか?

 自分の物語だとしても、そんなのはごめんだ。だから終わらせるのだ。

 屋上の扉を開くと、気持ちいいほど青い空。

 今日は死ぬのにもってこいの日だ。


 ほぼ同時刻、落ちた女がエレベーターで屋上に向かっていた。

 壁に背を預け、虚ろな瞳はどこも見てはいなかった。

 女は歌手を目指していた。

 先ほどオーディションを受けてきた。

 そこで辞書にのっている否定的な言葉の七割くらいを網羅した酷評を浴びて、必死で涙をこらえ口先だけの感謝をこぼして、気づけば知らないビルのエレベーターにのっていた。

『きみの売れてるビジョンが見えない』『若い子に受ける音楽じゃない』

 約六分間に及んだ審査員からのアドバイスからハラスメント要素を排除して要約するとこのようになる。

 ああ、そうですかそうですか。若いころちょっと売れたバンドをなさっていたみたいですが、ここ数年は世に出すアーティストがことごとく爆死の連続で業界から死神の異名をもっていらっしゃるあなた様のおめかねにかなわないのでしたら、むしろ私の歌はヒットするのでは? どうですか? ためしに私をデビューさせてみませんか?

 ──と相手に啖呵を切りたくなるのを堪えていたが、むしろ言ってやるべきだったと後悔していた。

 いつもの癖でスマートフォンを取り出し、動画サイトに飛ぶ。

 自分と年齢と性別が同じの人気アーティストが『デビューできる人、できない人』という、自分へのあてつけみたいなインタビューに答えていた。

 厳しいことをいうようですけど──と彼女を口火をきる。

「厳しいことをいうようですけど、この業界は実力でも運でもないんですよ。私より歌の上手い人、私より運のいい人なんていっぱいいますよね? だけどその人たちは私みたいにはなれていないですよね? それはその人たちが選ばれていないからなんです。アーティストとして成功を手にするためには、ステージに選ばれないといけないんです」

 ステージに選ばれるにはどうすればいいかって? それはこちらの情報教材をご購入ください──とあやしげなビジネスの導入なのかと思いきや、そうではなかった。どうやら彼女はアーティストになるためにはステージに選ばれる必要があると本気で信じているようだ。

 別に彼女の言葉は厳しくもなんともなかった。意味がわからなかっただけで。

 スマートフォンをしまって、女はため息を一つ。

 中学生のときにこの世界に憧れて、目標を持って大小様々なオーディションを歳の数の十倍は受けてきた。

 二十歳までにデビューできなければあきらめよう。

 二十一歳までにデビューできなければあきらめよう。

 二十二歳までに、二十三歳までに、二十四歳までに──そして二十五歳になって半年が経った。

 癖でスマートフォンを取り出して、動画サイトに。

 先ほどのアーティストが新作のリリックビデオを投稿していたことに気づく。

 投稿したのは三十分前で再生回数は既に七十万回。

 自分が中学のときに投稿した歌っている動画の再生回数は三百回。

 ため息を一つ。

 スマートフォンをしまうと、エレベーターの扉が開いた。

 屋上の扉を開くと、視線の先で男が飛び降りようとしていた。


 背後に視線を感じて振り返ると、知らない女がいた。

 一瞬、このビルの関係者が警告にきたのかと思ったが、ゾンビのような彼女の足どりを見て、同じ理由でここにきたのだと悟った。

 女は少し離れて男の隣に。

 二人は一度だけ目をあわせて、小さくうなずいて飛び降りようとした。

 二人には示しあわせたように、同じ目論見があった。

 ここでわかりやすく命を捨てれば、ニュースになって素性があかされ、自分の作品に少しは注目が集まるのではないかと。

 ばしん、と、不自然で大きなものおとが二人の背後で鳴ったのはそんなときだった。

 振り返ると、人が潰れていた。

 どうやら落ちてきたらしい。

 ここは屋上だというのに。


 それは二人にとって二重の意味で雲の上の存在だった。

 落ちてきた『彼』は今をときめく人気配信者。

 チャンネル登録者数国内トップ、世界ランクでも上位にいる。

 歌を配信すれば再生回数一位、本を出せばベストセラー。

 主演映画が大ヒット、人気アニメで声優デビュー。

 それでいて実は苦労人で人格者というのだから尊敬以外の感情が出てこない。

 そんな『彼』がなぜ空から落ちてきて即死しているのだろう。

 やはり人間ではなく天使の類いだったのだろうか。

 目の前のできごとにあまりにも現実味がなく、二人は悲鳴を上げるでも警察や救急車を呼ぶでもなく、首をかしげていた。


『おもちゃのパラシュート1000個で雲の上からダイブしてみた』ということらしい。

『彼』のチャンネルで文字通りの企画を進行中に何か誤算が起こり、落下してしまったのだそうだ。

 識者から意見を募り、綿密なシミュレーションとリハーサルを繰り返し、例え失敗したとしても事故は起きないはずだったのに、最も起きてはならないことが起きてしまったのだそうだ。

 連日ニュースでやっているので間違いはないのだろう。

 どこもかしこも『彼』のことばかり。

 確かなことは、無名の作家志望者とアーティスト見習いが自ら命を絶った程度では誰も見向きはしないということだけ。


 結果、二人は死ななかった。

 ただ、生きてもいなかった。

 あの日から男は創作意欲を失い、日々淡々を職務を遂行する社会の機能と化していた。

 男は駅の出入り口で周辺の案内員をしていた。

 その地区は複数のイベント施設や複雑な道なりをいかなければ辿り着けない観光名所がいくつもあり、地方からの来訪者に多くの需要があった。

 スマートフォンのマップアプリの発達により不要になる職業と思われていたが、そうでもなかった。

 画面を何度もタップしたり、とんちんかんな返答をするAIに話しかけるくらいなら、人に聞いたほうが早いと考える人は少なくなかった。

 なにより男の案内は端的でわかりやすく、彼の親切な人柄は来客や同僚からも評判がよかった。

 とはいえ男がこの職に就いた理由は創作のためである。

 道案内が得意なのは地元の人間だからにすぎない。

 頭を使わなくてもできるので、その領域を全て作品のための想像に使えると踏んだからにほかならない。

 そんな彼はもうずっとワードソフトを起動していない。

 理由は本人にもわからない。

 今は仕事をして、休日はあのとき屋上から落ちようとしたビルの一階にある喫茶店で適当なメニューを注文するだけの日々を繰り返していた。


 女は毎月振り込まれる額が増えていく口座を見て、なんとも複雑な表情を晒していた。

 あの事件以降、詞も曲も浮かばなくなってしまった。

 ころあいかな、と思った。

 SNSのアカウントは全て削除して、中学のころから動画サイトにアップしていたものもぜんぶ消した。

 何百という動画を上げていたのに、総再生回数は一万にも満たなかったのだから寂しがる人などいないだろう。

 夢をあきらめて何か職を探すと両親に打ち明けたとき、まるでデビューが決まったかのように大喜びされてしまい、思わず苦笑した。

 高校時代の親友のツテで大手ファストファッションのインターンからはじめたものの、そこで彼女は違和感を覚えた。

 数ヶ月後、彼女は正社員として採用され、それから半年後には都内の一等地にオープンする旗艦店の店長となっていた。

 それもこれもこの会社の社風が過度に実力主義を信仰しているせいだった。

 彼女は直感で理解してしまったのだ。自分にはこの業界で成功していく才能があることに。

 どいうデザインが求められているのか、どのIPとコラボすればいいのか、未経験にもかかわらずそれらが手に取るようにわかった。

 要するに彼女は、この業界のステージに選ばれたのだ。

 雑誌からの取材、有名人との対談──楽しくないわけはないけれど、何かが欠けている気がした。

 そんなとき彼女は決まってあのビルの一階の喫茶店に足を運んでいた。

 ときどき彼を見かけたが、話しかけたりはしない。

 ちょくちょく視線を感じるものの、こっちも向こうにちょくちょく目を向けているので、おあいこだと思っている。

 ある日、制服姿の女の子が店に飛び込んできた。

 ここの服が好きなんです! なんでもします! 働かせてください!

 刀を振り下ろすかのように、頭を下げてきた。

 少し、話しをして直感する。

 この子には、向いてない。

 理由はいくつかあげられるけど、そのどれもが確実に的確に少女を傷つけてしまうだろう。

 だが、そういう現実を知るのは早いほうがいいのかもしれない。

 厳しさを教えるのも優しさではないだろうか。

 だけど、そこで過去が頭をよぎる。

 これではいつぞやの審査員と同じではないか。

 ちょっと成功したからといって天狗になって、たやすく他人の人生を切り捨てようとする。

 最悪だ。

 けわしい顔つきになっていたせいか、少女はじんわりとおびえていた。

 咄嗟に笑顔をつくり、それじゃあアルバイトからはじめてみない? と提案する。

 少女にも笑顔がうつった。


 その夜、彼女は二年ぶりにギターを抱え、ノートにペンを走らせていた。

 またはじめたのではない。

 完全に終わらせようとしているのだ。

 おかげさまで軍資金はたんまりあるので、なじみのライブハウスを貸し切りにして、最初で最後の単独ライブをするのだ。

 入場は無料。しかし誰もこないだろう。

 なぜならその日、人気バンドの再結成記念ライブが近くであるからだ。なんと、そちらも無料なのだ。

 自分が音楽活動をしていたことは数人の友人と会社の関係者は知っているけど、その人たちを呼ぶのはなんだか気が引けた。

 そこで女の中に、ある一人の人物が浮かぶ。


「よかったら、きてくれませんか? 私、音楽やってて、最初で……最後のライブするんです」

 例の喫茶店で、女は男にチケットを渡そうとする。

「……はあ、どうも」

 一体、何の勧誘だ? とでもいいたげな警戒心をあらわにしたものの、男はそれを受けとった。

 屋上の出会いから七〇〇日以上が経過した、二人の最初の会話がこれである。

「それじゃあ、お願いします」

 女はぺこん、と頭を下げて店から出ていった。


 多くの作家志願者は勘違いをしている。基本的に読者は新しい話や珍しい話など求めていないのである。

 つまり男のするべきことは誰もいないライブハウスで今にも泣きそうな表情をさらして歌っている女の前にあらわれて、なんだかよくわからないけれど抱きしめたりして、そして二人は結ばれて、ついでに夢もかなえるような展開である。

 しかしこの男は一次選考落選の常連であり、誰もが普通にできる常識を持ちあわせてはいなかった。

 つまり彼はライブの夜も、せっせと人々を行くべき場所に案内して、ライブが終了した時間には休憩室で弁当をつまみながら、スマートフォンで最近ハマっている海外ドラマのつづきを見ていた。

 日付が変わり仕事を終えて職場を出ると、そこに女がいた。

 鋭い瞳で、こちらを見ている。

「……ねえ、聞きたいこと、あるんですけど……いいですか?」

「…………」

 男は無言でうなずく。

「私、今日、ライブやるって、いいましたよね?」

 男はうなずく。

「私、あなたに、チケット渡しましたよね?」

 男はうなずく。

「私、あなたにしかチケット渡さなくて……正直、なんであなたに渡そうと思ったのかわからないけど、それでもあなたにだけ渡して……だから、あなたがこないと誰もこないのに……どうして」女の目にあふれる涙。「……ねえ……どうして……」


 ──三時間前。

 どうせ誰もいない、期待されていない、それが現実。

 わかっていても、ライブの前は心臓が破裂しそうなほど緊張する。そしてこの緊張は、嫌いじゃない。

 どうせ誰もいない。いてもあの男一人か、無料のドリンクに誘われた暇な人が何人かいるくらい。

 十人? 五人? いや、さすがに六人くらいはいてほしい。

 もういい、一人もいなくていい!

 傷つかないための言い訳をふりきり、ステージに飛び出す。

 寿司詰めより強力な言葉はなんだろう、と女は思った。

 小さなハコに、人、人、人──人が詰まっている。あふれている。

 大人もいる。子供もいる。

 はやく歌えと迫ってくる。

 そこからの記憶はひどく曖昧で、とにかく歌って歌って歌った。

 最後はもうボロボロで、声も涙も出せるだけ出した。

 印象的だったことを一つだけ覚えている。

 ライブハウスから出ると、小学生くらいの女の子がものすごい笑顔で飛びついてきたのだ。

「すごくよかったです、ファンになりました!」

 そういって、写真と握手とサインを求められた。

 その全部が最初で、最後の思い出となった。

 ふと、女は思った。

 なんだ──ちゃんと若い人にも受けたじゃない、と。


「今日……もう昨日のことだけど、あのバンドの再結成ライブの日だったでしょ?」

 男はうなずく。

「私のライブにきた人たちってそのバンド見にきたのに、駅で案内してた人にここが会場だって言われたって……あの、もしかして──」

「ライブは楽しめましたか?」男は女の言葉を遮って訊ねた。

 最初、女は小さく何度かうなずいて、それから大きく何度もうなずいた。

「……最高だった」

「それはよかった。おつかれさまです。それじゃ」

 男は背を向けて歩き出す。

「待って!」

 女は呼び止めて、男は振り返る。

「あなたって、ここで案内してる人なんでしょ? いろいろ詳しいんでしょ? だったら、教えてほしいことあるんですけど」

「なんです?」業務時間はすぎてるんですけどね、とつづけようとしたが、やめた。

「あなたの名前とか……どこに住んでるの、とか……」

 一体、何の勧誘だ? といいかけたけれど、男はその質問に素直に答えることにした。


 おそるべきことに、二人の仲はこれ以降、これ以上、進展することはなかった。

 当初、女は男の家に入り浸っていたが、男の両親から結婚する気がないなら出ていけといわれ、今度は男が女の家に入り浸ることとなるのだが、女の家の両親からも同様の警告を受けたため、しかたなく女は一軒家を建て、そこで男と暮らすことにした。

 それでも二人はお互いが付き合っているという認識を持ってはいなかった。

 だらだらと時間だけが過ぎていき、気づけば二人は老人になっていた。

 ここにきて二人同時に人生で最も輝いていた時期をなつかしむようになり、おじいさんは小説を、おばあさんは歌をたしなむようになっていた。

 とはいえ新人賞に投稿したり、オーディションを受けたりはしない。

 近所の子供たちが遊びにきて、物語のつくり方や歌を教える日々は、二人にとって新しいかけがえのない日常となっていた。

 そんな子供たちも成長して、二人の家に訪れることはなくなり、二人はまた二人に。


 ある日、おばあさんが家に帰ってくると、おじさんは少し違和感を覚えました。

 おばあさんが、なんだかおしゃれをしていたからです。

 おばあさんはいいました。

「ここにとても評判のいい案内人の方がいると聞いたのだけど、それはあなたですか?」

 おじいさんは答えました。

「ええ、そうですよ」

 おばあさんは訊ねます。

「いきたいところがあるのだけれど、教えてくれませんか?」

 おじいさんは訊ねます。

「それはどこですか?」

 おばあさんは答えます。

「天国です」

 おじいさんは答えます。

「実はその場所だけは詳しくないんですよ」

 おばあさんはいいます。

「困ったわ。もうすぐおむかえがきそうなのに」

 おじいさんはいいます。

「だったら僕と一緒にいきませんか?」

 おばあさんはおどろきました。

「あら、あなたもなの?」

 おじいさんはうなずきます。

「はい」

 おじさんは手をさしのべ、その手をおばあさんはしっかりと握りしめました。


 おじいさんとおばあさんの家に少年と少女が駆け足でやってきました。

 どちらも高校生です。

「聞いてください、おじいさん!」少年が叫びます。「おじいさんのおかげで僕は作家になれたんですよ! それで編集の人におじいさんの書いた話を見てもらったらすごい面白いって驚いて、これも書籍化したいって! 聞いてますか、おじいさん! あなたは作家になれるんですよ!」

「ねえ聞いておばあちゃん!」少女も叫びます。「私、おばあちゃんのおかげで歌手になれたの! それでおばあちゃんの一番好きな歌をオーディションで歌ったら、事務所の社長さんがすごく驚いて──うちの社長さん、小さいころライブでおばあちゃんの歌を聞いて感動して、それからずっとおばあちゃんのこと探してたんだって! ねえ聞いてる? おばあちゃんの歌を世界中に届けられるんだよ!」

 しかし、少年と少女の声に二人は反応しませんでした。

 ソファーの上で、手を取り、寄りそいあい、目覚めのない眠りについていたからです。


 こうしていくつかの物語と歌は世に出て、大きな評判を呼び、もう作者がこの世にいないことも付加価値となり、末永く語り継がれることとなったのです。


 男と女はお互いを愛してはいませんでした。

 二人はずっと、お互いに恋していたのです。

 この恋心がおちついたら、自分の気持ちを伝えようとしていました。

 結局、その日がくることはありませんでした。

 二人の恋心は、さいごまで収まることがなかったのですから。


 そのおおきなおおきな恋心は、天に昇り、一つの天使になりました。

 その天使はきっと立派に成長して大天使になると、天界の誰もが確信しました。

 ある日、その天使が地上に目を向けると、一人の少年と一人の少女の存在に気づきます。

 はじめて見るのに、なつかしい。

 ああ、あの二人はかつての男と女が転生した姿なのだと気づきます。

 少年と少女、二人とも夢にやぶれてうなだれていました。

 天使には人間の可能性と未来を予見することができます。

 ここで二人が出会えば、願いをかなえ、満たされた人生をおくることができる。

 だけど、そうならなければ、終わりのない苦難の道がはじまる。

「…………」

 ある考えが天使の頭をよぎりますが、それを振り払います。

 人の一生には意味がある。

 天使がそれに介入するなどあってはならないこと。

 それにもしそんなことをすれば、大天使への道が閉ざされてしまう。

 何も見なかったことにして、天使は天空の宮殿へと向かいます。


 地上では、首をへし折られたようにうなだれた少年と少女がすれちがい、永遠の別れのように二人の距離は広がっていきます。

 そのとき、上空から奇妙で、それでいてかわいらしい声が響いてきます。

 なにごとかと、少年と少女は顔をあわせるように振り返ると、地面に絵画の中から飛び出したような風貌の天使の子がいました。

「あいたたたたた……どうしよう、天界から足をすべらしちゃいました」 


 天使は、こいにおちた。




 おしまい

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