7月21日
「よし、全員集まったみたいだね」
駐車場で十人以上の我が校の大学生が集まり、点呼をとっていた。
大学前期の授業も終わりという事で、今日の夜はサークルの飲み会ということになっていたのだ。
消極的な俺が一体どんな風の吹き回しかと、驚くかも知れない。
漫画研究会。何処にでもあるありふれた大学のサークルである。俺がこの漫画研究会に入会したのは先月の末になる。
一念発起。
流石に大学生活、何もしないというのは気が引けるから、それに消極的で出会いなんか訪れないって思ったから。僕はまるで太古に封印された巨人が蚊を潰すためだけに覚醒した勢いで部室の戸を叩いたのだ。
しかし結局僕が入会してからと言うもの活動らしき活動をせず、こうしてほとんど全員の会員と顔見知りになることすら叶わずいきなり飲み会に飛び込むと言う展開になったと言う訳だ。
しかし、漫画研究会といってもゼロ年代の懐かしき暑苦しさ、もとい汗臭さを連想させるヲタク達はおらず、そこらに清潔感を振りまく内実汚濁に塗れた奸者ばかりが所属している。
失言した。
今日が初対面とは言え女の子と絶対仲良くなると意気込んでこの場に居るのに、危うく自ら独りぼっちになってしまう所だった。
さて、見回してみると人数は計十五人程度。男女比率は男4女6といったところか。
まあ、これなら場がどちらの性別にも支配されることなく、順調に仲良くなれるんじゃないかと思う。僕の観察眼は鋭いぜ。なんせずっと一人で磨き上げてきた訳だからな。
よし。戦いを始めよう。人間の対話は戦いだ。相手をどう気持ちよくさせるか、その意図をどれだけ上手に隠せるか。自分を偽れ。相手を酔わせ。
酒と自分に溺れた時が狙い時。手際よく男女二人でこの飲み会を抜けるんだ!
「ジントニック」
「生ビール」
「レモンサワー」
「日本酒」
「カシスオレンジ」
「ジンジャーエール」
「焼酎」
席に着くなり始まる纏りの無い交流戦。酒の名前が溢れ出す。
幸い、僕は酒が強い方だ。いくら飲んだって構わないだろう。女の子を酔いつぶしてから持ち帰ってもいい。
王手。この戦い、貰った。
***
気付いたら居酒屋ではなく、全く別の何もない空間にいた。酒を飲んだ時の酩酊感も今は無く、地面を着実に踏み締める事が出来る。俺は何をしていた?酒はどれだけ飲んだ?
「起きてください」
目の前に何かがある。
最初それは確かかなり不完全な形をしていた。しかし僕の意識がはっきりしていくにつれ彼は人間となり、服を着て、やがて年齢や性別がはっきりしてきた。
目の前には背広を着た中年の男が立っていた。
しかしよくある中年の男が醸し出す不快感はない。この男のイメージはむしろそんなものとは無縁に、まるで作為的に作為を感じさせない見た目ですんなりと僕の懐疑の目をくぐり抜けてきたのだ。
「ここはどこですか」
「完全に目が覚めたみたいですね。もしくは完全に伸びてしまっている状態ですか」
酔狂なセリフを吐き捨てて、男は僕の顔を見てくる。野郎に見つめられても全く嬉しくない。嬉しい訳がない。
暫くしても男は僕を見つめ続けている。何らかの意図があるのだろうと考えに至ったのはそれから三十秒位の時間を要した。
取り敢えず僕は彼に話しかけることにした。
「貴方は誰なんですか。ここは一体どこなんですか」
意図を汲み取ってくれた、と嬉しそうに目の前の男は笑みを作り、不快感なく受け答えをこなす。
「私の名前ですか。本名は明かせない事になっているんです。だからそうですね、メイルとでも名乗っておきましょうか」
「メイル」
「貴方はさぞ困惑している事でしょう。今までの経緯を丁寧に説明する必要があるでしょう。
一つに、私が一体誰なのか。もう一つ、今に至る経緯。
まず私が誰なのか、そこからお話致しましょうか。」
メイルは急に黙ってこちらの顔を見てきた。やはり僕にはその行為の意味が全く分からなかった。
「続けてください」
「先ず私は実在する人物では有りません。貴方の夢の世界の住人です。貴方が夢を見ている時に会う事が出来る。
存在意義というものは実はまだ持っている時では無いのですよ。ですから貴方の相談を聞いてあげる事くらいしかする事は有りません。
貴方と私が出会った理由はもう説明するまでもありません」
そうか。俺は飲み会で潰れたのか。最悪だ。まだ誰とも仲良くなっていないのに。女は愚か男の知り合いすら出来ていないのに。やっぱり無謀だったのかなあ。
静かになったと思ったら、彼は黙ってこちらの様子を窺っている。
また黙っちゃったよこの人。
どうすんだよ、これから。
「まあそんなに焦る事は有りませんよ。初対面の印象が悪かろうと性分が似ていれば自然と仲良くなれます。あれだけ人数が居れば問題ないでしょう」
「おいあんた。なんで俺が頭で考えている事がわかるんだよ」
「すいません。実は本来この会話に鉤括弧は必要ないのですよ。私は今後も鉤括弧を付けて話しますが、貴方は外しても構いません」
そっか。夢の世界だもんな。もう何でもいいよ。
「まあ、初めて接触はこれくらいで問題ないでしょう」
というと?
「もう少しで貴方は目が覚めそうです。つまりはもう少しでお別れという事です。
今後は、もう少しインターネットや友人から事前に立ち回り方を調べておいた方がいいかも知れませんね。私からの忠告です。すぐに出来る事ですから。」
***
目が覚めて、真っ先に携帯の時計を見たらもう夜の十二時を回っていた。
夢の出来事は何だったろう。ぼんやりと男と話したことくらいしか覚えていない。まあ夢の話なんかどうでもいいか。
飲み会の盛り上がりは少しも衰えてはいなかった。宴もたけなわというやつだ。
彼らはひとしきりアニメや漫画の話題を話し尽くした様で、今は高校時代の思い出話を語り合っている様だった。やれ部活がなんだの、高校の友人がとんでもない人間だったとか、そんな話だ。きっと話ならば何でもいいのだろう。
僕は目が覚めたものの未だ怠さは抜けていないから、話をまともに聞くことすら出来ない。
よし、試しに声を出してみよう。まともに喋れるか。
唐揚げ
「ひゃやあえ」
檸檬
「ひぇもん」
麦酒
「ビール」
葡萄酒
「ワイン」
どうやら大丈夫そうだ。
景気付けにもう一杯いくか。
「ひぇんふぁいビールふぉ」
僕を見ている先輩、全員嫌な顔をしている。ああもう。もうどうしたらいいんだ。分からない。飲み会は大失敗だ。戦いには惨敗。撤退しようにもこんな潰れ方じゃあもう無事に帰れるかどうか分からない。戦略的撤退を考えられないのがいかにも日本人らしい。
「あー、私、送りますよ」
救いの手が差し伸べられた。
かわいい。
かわいい。
めちゃくちゃタイプだ。真っ黒な髪を伸ばして、全体的に黒い服装。でも所々にアクセントがあって、綺麗な肌が覗いている。
本当に送ってくれるのならこれ以上の幸運はない。膠着した戦線で大勝利は降ってこないが、こればかりは話が違う。
しかし、彼女の言葉を聞いた先輩方の表情と言ったら露骨なものだった。
「いや、山本さんは残ろうよ。あんまり飲んでないんだからさ」
「うんうん。ねえ、山本さん以外で誰かこいつを送ってくれる人いる?」
たしかに、この場にいる中で一番美人なのはこの山本さんだろう。
誰も動かない。男は山本さんにいって欲しくないし、女性陣は早々に潰れた俺なんかを送って行きたくない。
「それじゃあ、私は行くので」
居酒屋をでて、俺は情けなくも彼女の肩を借りて駅まで向かっていた。
「山本さん」
「なに?」
「なんで僕なんかを送るために飲み会抜けちゃったの」
いや、僕にとっては好都合なんだけどさ。
山本さんはため息を吐いて、嫌々口を開いた。
「あんな所普通居たくないから。無理やり誘われて来たけれど。だから酔い潰れた君が絶好の言い訳になったの」
成程。やっぱり女の子は下心に敏感なのか。いや?だがこうして意図しない形であれこうして男女二人で飲み会を抜けて来て、これはお持ち帰りって言うんじゃないのか?
彼女はそれを分かっているのか?
「君、何か勘違いしてるみたいだけど、送るのは最寄りの駅までだからね」
「そんな、せっかくだし僕の家で休んでいけばいいのに」
今ばかりはつらつらと言葉を引き出してくれる酒に感謝したい。
「勃たないよ」
「ん?」
「酒に酔っ払うと精力も無くなるらしいから。
君の期待している事態は起こらないよ」
なるほど流石に彼女はそこまで見通して俺を送っていくと決めたらしかった。
畜生。
「ねえ、そのカードは何?」
彼女は僕の右手を指さし聞いてくる。
俺はいつの間にかポケットのカードを握りしめていた。
これは僕の幼少期からの御守り。神の代わりに俺が信じている数字の羅列。
「02738568492」
「これは御守りなんだ。ずっと昔からの」
「ふうん。御守りって普通は神社で買うとか、思い入れのある物を使うんじゃないの?」
「だからだよ。数字の羅列に愛着なんて湧くわけがない。愛着があったらそこに神を見出してしまう。僕は徹底的な無神論者なんだ」
「困った時にその数字に縋るの?」
「そう。そうしたら現実を見て頑張る気になれるだろ」
酒が!僕の隠し事を言ってんじゃねえ!披露しちゃったじゃないか。僕の痛々しい青春哲学みたいなものを。
こんな事を言われて彼女には引かれているかと思ったが、以外にも彼女は僕を単純に面白がって言う。
「君って変な人だね」
本当に今日は災難だった。初めから会ったことのない人間と飲むなんて乗り気じゃなかったけれど、それで潰れた上に女に担がれて家に向かうなんて。
「ひねくれおとこがおりまして
ひねくれみちをあるいてた
ひねくれかきねのきどのそば
ひねくれおかねをひろってね
ひねくれねずみをつかまえた
ひねくれねこをてにいれて
ちいさなひねくれあばらやに
そろってすんだということだ」
彼女は何かの詩を口ずさんだ。一体なんの詩だろう。
「鵞鳥のお母さんのたわごとなんだ」
「そっか」
どうやら答える気はないようだ。
「ひねくれ男は家で幸せに暮らしているのかね」
僕は彼女に問いかけてみる。
「ううん。幸せにはなれないだろうね。ひねくれているから、きっと幸せな暮らしにも何か意味を求めちゃって」
彼女は事もなげに答える。その男は僕と少しだけ似ている。俺だってきっと差支えのない学生生活を送っているだけでも幸せなんだろう。
「でもね、もし幸せになってしまったら彼はひねくれ男ではなくなってしまう。
私の好きなひねくれ男はどこにもいなくなっちゃうんだ。」
それはとても、悲しいことだ。
夜の街は賑やかだ。所々にある居酒屋で、大学生から壮年のサラリーマンまで雑多な人間で賑わっている。
ぼんやりと街を眺めていたら何処からか怒りが湧き上がって来た。それは情けない自分に対する怒りだったり、どうしようもない間の悪さに対する怒りだったり様々な要因が入り混じっていただろうが、それは単純にこのままなんの成果もなく帰る事はできないという決意を僕にさせた。
もうどうにでもなっちまえ。
思えば特攻精神というのはこういう切羽詰まったときの日本人の精神性を的確についた言葉だと思う。
「山本さん。今度遊びに行きませんか。」
「何処に行くの?」
そうだ。こんな時、女の子と一緒に行くのに丁度いいところってどこなんだ?男となら何処でもいける。でも女の子だったら話の話題だって選ばなきゃならない。
「あー、レストラン?遊園地?」
俺は適当に場所を言いながら彼女の顔を伺う事にした。
彼女はなんだか少し微笑んで言った。僕の心を見透かしたように。一体今の一言で彼女は僕をどこまで知ったのだろう。
「映画館行こっか。少し見たい映画があるんだ」
映画?映画は返って話す雰囲気にならないなんて聞いた事があるぞ?でも、彼女から誘ってくれたし。行かない訳にはいかないが。
「君。少し変な人だから。映画を見て感想聞かせて欲しいな」
「はい!」
「いつにしよっか」
「いつでも!」
「よろしくね。ひねくれ男さん」
そんな訳で、僕は山本さんと映画館に行くことになった。
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