「――っし、これで本棚のもんは全部箱詰めできたな」


 引越し当日まで、残り四日。

 新居の契約を済ませてからは、自分でも意外なくらいに引越し作業が捗っていた。


「っておいミレ、その上に乗るな。危ないぞ」


 たまにミレを構いつつも、ひとつ、またひとつとパッキングを完了させていく。

 本やCD、ゲーム機器なんかの趣味品と、オフシーズンの服は詰め終わった。使う可能性があるもの以外は、雑貨も食器類も梱包を終わらせている。あとは、


「ギリギリまで使うものを、最後の一、二日で突貫作業するくらいか」

「ナー?」

「あー、そうだな。ゴミも、分別して出さねえと……こら、そこ引っかくんじゃねえ」


 台所の方に放置していたパンパンのゴミ袋を、ミレが爪でカリカリと弄っていた。図ってか図らずかリマインドをくれたことには感謝だが、袋を破くのは頂けない。

 ミレの脇に両手を突っ込み、持ち上げる。

 餅のように伸びる身体にも、もうだいぶ慣れてきた。ぶらぶら揺らしながら持ち運び、寝室のカーペットの上にミレを置く。そのまま、腹や喉を弄って少しの間じゃれ合う。

 向こうが身をよじらせているのも、嫌がっているのではなく嬉しがっていることの表れ……らしい。前に柚香ゆずかに訊いたら、そう言っていた。

 確かに、本気で嫌なら、猫パンチしてくる指先がもっと尖っているはずか。そうしないってことは、


「よっぽど人間様が好きなのか、人付き合いが上手いのか」


 恐らくは、その両方か。


「どっちにしろ、俺とは大違いだなあ」

「ンーナ」

「……猫様に慰められるほど悲観してねえよ。ほら、暫く大人しくしててくれ」


 嬉しそうに身体をくねらせていたミレが、不意に止まってじっと見つめてきた。

 その視線がそこはかとなく気まずくて、俺は再び彼女を放置して去る。

 残り数日で終わるかもしれない関係だってのに、我ながら、何をやっているんだ。


 ――人付き合いどころか、猫付き合いもまだまだじゃねえか。


 その時だった。玄関先から、カタン、と何かが落ちる音。

 郵便物が届いた音だ。

 立ち上がっているついでに、玄関へ行って郵便受けを確認する。届いていたのは、お求めやすい不動産が云々というポスティングと、市が毎月発行している広報誌だった。

 前者はどう転んでも俺には一切関係ない。

 だが後者、その表紙を飾る真っ赤な花の群生を目にして――俺は、思いついた。

 思いついて、つい今しがた離れたばかりの相手の許へ戻り、


「なあ――」

「ナァー?」

「ま、真似すんな。そうじゃなくて、今日中に、部屋の掃除までしちまうからさ」


 こう、訊ねてみたのだった。


「そしたら明日、時間も出来っから……また、ドライブでもしないか?」


 さっき回収した、広報誌。

 その表紙に咲いた、を見せながら。



          *



『思い出作り?』


 翌日の昼過ぎ。

 宣言通り昨夜中に水回りと床、ベランダの掃除を完遂した俺は、いま、マイカーのステアリングを握りドライブに繰り出していた。

 助手席には先日同様、ミレが行儀よく座っている。

 そして、ブルートゥースで繋いだ携帯からは、柚香の声が聞こえてきていた。


『また、急な話ね』

「いや、前から考えてはいたんだよ。いよいよこの街ともおさらばだし、最後に景色の良いとこにでも行ってみてえな、って」


 どこに、という見積もりは特に無かったが、あの雑誌のお陰で目的地も定まった。

 普段はまったく読まない便りに、最後の最後でいいアイデアを貰えた形だ。


『それで、隣町の行ったことのない公園に、お花を見に?』

「このタイミングで初めての場所に行けば、否が応でも忘れないだろ。そこで季節の花が見れたら、より鮮明に記憶にも残るしな」

『ふぅん。――百笑どうめきくんって、たまにすごーく、乙女チックよね』

「う、運転中に変なこと言うなよ」


 ハンドル操作が狂ったらどうする。

 だが柚香は『うふふ、ごめんなさーい』と形だけの謝罪を返してきた。


『でも、その思い出作りに猫ちゃん……ミレちゃんも一緒なのは、素直に素敵だと思うわ』

「素敵も何も。こないだもそうだったけど、こいつ、やたら外に出たがるんだよ。今回もこの方がうるさくねえと思っただけだ」

『そういうことを考えられるのが素敵、って言ったつもりだったのだけれど』と柚香は呟きつつ、『ともあれ、人馴染みするだけじゃなくてアウトドア派なのね、その子』


 妙に感心するような物言いで、そう続けてくる。


「だな。本来飼われてた家でも、外に出たすぎて飛び出してきたんじゃねえのか?」

『――あり得るわよねー。顔立ちも、割とアクティブな雰囲気だったし』

「そうそう……いや、本当にそうか? 猫の顔つきなんて見分けつかねえぞ、俺」


 迷い猫の情報捜査に付き合ってもらっている柚香には、度々ミレの写真を送っていた。その度にやばぴだのギャンカワだのとキャーキャーうるさかったのはさておき(お前は何歳だよ……)、何かヒントになる情報は見つかっただろうか。

 だが、話の流れで訊ねてみても、果たして芳しい反応は返ってこなかった。


『ごめんなさいね。そちらにいる知り合いに、訊いたりもしているのだけれど』

「柚香が謝ることじゃねえよ。こっちだって、それっぽい情報は見つけられてないんだ」


 ミレを拾って、今日で十日が経つ。

 この期間、終ぞ指名手配ひとつ上がることは無かったらしい。

 元の飼い主がとんでもなく高齢で、インターネットやビラ配りに頼れない可能性はあるか。図書館で新聞の投書欄を調べたら、案外見つかるだろうか?

 ただ、こっちの知り合いにも声をかけてるらしい柚香が、その辺りの情報を見落とすとも思えない……となるとやはり完全に捨て猫か、野良猫の類だったのだろうか。


「こっちこそ、巻き込んじまって悪いな。柚香には一銭にもならない話なのに」

『んー? 今更、損得でやり取りする間柄でも無いじゃない』

「そう言われりゃ、そうだけどよ……。いまも、平日の真っ昼間に通話してるし」

『それは、――猫ちゃん情報探しとはまた別の話じゃないかしら』

「ナァー」

『あ、ミレちゃん。ふふっ、あなたもそう思うわよねー?』


 言われてみれば、ごもっとも。

 俺にしては最近頭を使い過ぎてるからなのか、単にいま運転中で脳のリソースが足りてないだけか。どうも俺はいま、文脈の無い気後れをしてしまったらしい。

 にも拘わらず、柚香はあくまで親身だった。


『それにわたし、基本は在宅仕事だから。いまも丁度いい作業通話になってるのよ』

「作業通話、か。何かやりながら人と話せるのって、器用だよな」

『百笑くんと話していない時は、他の先輩たちと繋いだりもしているけれど……結構、みんな作業しながらのことも多いわよ? ほら、夏目なつめさんとか、ハナさんとか』

「あの人たちは、昔から通話好きだったし。慣れもあるんだろ」

『あら。わたしたちだって、たまに混ぜてもらっていたじゃない』

「慣れきれなかったんだよ、俺は。なんであの先輩たちは、声出しながら全然違うチャットとか打てたんだよ」


 俺なんかは、こうして運転しながら話すくらいで精一杯だ。


 ――もっと器用に生きられれば、何かと楽だったんだろうが。


 その時不意に、俺でも柚香でも、そしてミレでも無い声が車内に響いた。


『次の信号を、左、です。目的地まで、残り、二キロ、です』


 カーナビの、音声案内だ。


『そろそろ切った方が良さそうね。通話しながらの運転、ここからは大変そうだし』

「あ、ああ。サンキューな、今日も」

『わたしも好きで付き合っているだけだから。それじゃあ、また何かあったら』


 連絡するわね、と、連絡してね、と。

 その両方を含ませた言葉を残し、柚香は通話を切った。

 程なくして、俺はカーナビの指示通りの場所を曲がる。ニャウ、と、横に揺られてミレが鳴き声を発した。

 もうすぐだぞ、なんて俺は声をかけてから、


「――早速、良い感じの景色だな!」


 にわかに勾配のきつくなった坂道を前に、アクセルを強く踏み直していく。

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