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残念です、と、正面に座る顔の無い上司がそう告げてくる。
言葉とは裏腹に、ひどく冷徹な声色で。
対する俺は、やけに焦っていた。何か言わなければと口を開くも、声が喉につかえて上手く出てこない。
周囲は、知らないオフィスだった。知らないけれど、ドラマか何かで見たことのあるような、よくある執務室の一隅だった。
そこで俺は、クビを宣告されたらしい。
告げられて、なのに何もできず、ただ立ち尽くしていたらしい。
通りがかる同僚たちは、すぐに皆、何かを察したように離れていく。上司の据わった目。憐憫を隠さない人々の視線。俺は、惨めに狼狽えることしかできないまま、
場面が変わる。
しかたないわね、と、カフェで向き合う彼女がそう呟く。
ため息混じりのその声は、同情とも、失望とも取れる感情を含んでいた。
悪い、と、一言だけそう返した。何も、とすぐに同じ響きの声が戻ってきた。
小綺麗な、客席もそこそこ埋まっている全国チェーンのカフェ。店内に薄く流れるボサノヴァの軽薄さには、不快感さえ覚え始めてしまう。
だが、それが失敗だった。僅かに顔を顰めた瞬間、眼前の彼女は弾かれたように表情を変え、今度ははっきりとこちらへの軽蔑を露わにして、
場面が変わる。
言葉はもう無かった。
音も景色もない空間で、ただ、よく知る人々の背中が、一人また一人と離れていく。
慕っていた先輩も、馬鹿やり合った同輩も、懐いてきていた後輩も。
自ら離れることを選んだ人たち。巡り合わせで別れざるを得なかった人たち。そんな彼ら彼女さえ、いまは向こうから、俺の許を去っていく。
けれど俺は、追いかけることも目を背けることも出来なかった。
一生ものの関係なんて、俺には一生作れない。――ただ、そう吐き捨てて。
また、場面が変わることに、逆らえない。
*
そうして見えたのは天井だった。
一年半にわたって目にしてきた、けれどあと数日で目にしなくなる、自室の天井だった。
「気持ちわりぃ夢」
渇いた喉から、そう吐き捨てる。
間違っても、正夢にはならないでほしい……。確か夢ってのは、誰かに話すと正夢にならないんだったっけか。とはいえ、こんなことを話せる奴がいるわけでもない。
そんな下らないことを考えながら起きようとすると、腹の上に重みを感じた。
「……何やってんだ、ミレ」
居候の白猫――ミレが、器用にも俺の上に鎮座していたのである。
「ナァ」
と、俺の問いかけに、挑発的な挨拶までしてくる始末だ。
……拾ってからまだ三日しか経ってないのに、こうも馴染むもんかよ。
何も無い日であれば暫くそのまま放っておいたかもしれないが、今日はそうもいかなかった。上体を起こす前にミレの前腕を両手で掴み、ベッドの脇にどかそうとしてうおおおお伸びる伸びる。
「餅かよ……」
「ンナ」
「そりゃ、違うのは分かってるけどよ」
結局、半ば引きずるようにしてどかしてやった。
拾ってきた以上、構ってやるのも務めだとは思う。けれど今日は、用事があるんだ。
「鏡餅じゃねえけど、今日は丸まって留守番でもしててくれ。な?」
それから俺は簡単なパン食で朝飯を済ませ、小一時間で出かけ支度をした。持ち物は財布と、鍵と、ハンコと、書類。最後に玄関で車の鍵を手に取り、
「ナァ」
「……」
「ナーァ」
「……分かった、分かったから」
いつの間にか扉の前で香箱座りをしていたミレに、根負けして。
「連れてくよ、お前も」
餅みたいに伸びる身体を両手で支えながら、俺は家を出るのだった。
「その代わり、車の中で酔って吐いたり、暴れたりするのはやめろよな」
*
ミレ、という名前を
迷い猫探しの進捗報告で昨日も通話をしていたのだが――そちらは、芳しい情報は得られなかった――その流れで名付けの相談をしたところ、
『良いじゃない。仮の名前でも、あった方が何かと便利じゃないかしら』
と、柚香も同意してきたのが事の発端だった。
『悩むってことは、候補でもあるの?』
「んー。夜に拾ったから、ソワレとか、ナハトとか」
『どちらも英語でないあたり、感性が……その、若いわね』
「自動ドアの前で出逢ったから、ドアを逆にして、アド」
『
「そう言う柚香は無いのかよ、なんか」
『わたし? そうね。――ミレ、とか』
「ミレ?」
『たまに聞こえる鳴き声の音が、ミとレに近いから。それと、あなたが昨日「未練」って言葉を口にしていたから――
「お前、…………年取るにつれて、どんどん意地が悪くなってくな」
『年取るとか言わないの。次の職場にご挨拶に伺うわよ』
「過干渉の親か。意地の悪さに捻りを加えるなよ」
『そもそもこうなったのは、あなたたち素敵な先輩方の、ご指導の賜物でしょう?』
どうやら俺は、とんでもない後輩をご指導してしまっていたらしい。
などとまぁ、そんな負い目から……ではなく、存外響きがしっくり来たから、柚香の案「ミレ」を採用させてもらうことにしたのだった。
音階のミレ、未練のミレ、と。
「ただまあ、もっと明るい名前にしても良かったか……?」
運転席から助手席を一瞥すると、件のミレは意外にも大人しくしてくれていた。時折顔のあたりに吹き付ける冷房にしかめっ面を返しながらも、窓の外の風景をじっと眺め続けている。
秋、と呼ばれる季節には入ったものの、まだ紅葉は見られない。それに大通りをひたすら走っているだけだから、別に面白くも何ともない景色が続いていたわけだが、
「そんなに外の世界が興味深いか、ミレ」
「ナーァ」
「……ま、お前自身が満足してんなら、別にいいけど」
名前も、景色も、と。
そんなことを考えながら、二時間近くは走り続けただろうか。
昼飯時を前にして、俺たちは隣県にある目的地へと辿り着いた。
隣県の、県庁所在地にあたる街。そして、俺が来月から生活する場所だ。
以前一度だけ来た不動産屋に、車を停める。ちょっと待っててくれ、とミレに言い残して、俺は事務所で新居の契約手続きを済ませた。
そう。今日ここへ来た目的は、来月から住む賃貸の契約を結ぶことにあったのだ。
住まいとなるマンション自体は前回来た際に決めていたから、やることと言えば幾つかの書類に判をつき、前金を支払う程度で。全ての手続きが完了するのには、三十分ちょっとしかかからなかった。
では、次はご入居される際に。若い女性の担当者にそんな言葉をかけられ、不動産屋を後にする。あとは本当にもう、帰るだけだったが、
「せっかく、お前も来てくれたしなあ。ちょっと散策でもするか、な?」
「ナー?」
ミレとそうコンセンサスを取って(本当に取れていたかどうかは知らない)、俺達はぐるぐると市内をドライブすることにした。
駅前。次の職場の近く。新居の近く。
新しい部屋の中に入りたい気持ちもあったが、まだ鍵はもらえない決まりらしい。ならばと、マンション前に駐車させてもらう許可を電話で取り、周辺をぶらついたりもした。
暫くすると腹が減ってきたので、コンビニで適当に食べ物を調達する。総菜パンとサンドイッチ、野菜ジュース。そのままミレと、近くの広い公園へ足を運んだ。
リード的なものを付けていないことが若干不安だったが、案外というか案の定というか、彼女が俺のそばを離れることは無かった。どころかべったりとくっついたまま、ベンチに座ってからも俺のパンを無心しては美味しそうに食べていた。
「まあ、猫が紐つけてるってのも変な話か」
犬ならともかく。
現に、この公園には犬を散歩させている人々も、少なからずいるようだった。
俺たちの他には、若い母親と小さな子供、大学生らしきカップル、休憩中らしきサラリーマンなど。平日の昼下がりではあるものの、園内はそれなりに賑わいを見せていた。
かといって、騒がしいというほどでもない。程よい人の声と風に揺れる木々の音、すぐ近くを流れるせせらぎ……それらの調和が心地良いくらいだ。
サンドイッチを頬張りながら、誰に言うともなく呟く。
「休みの日とか、本読みに来るのも悪くなさそうだな」
なぁミレ、なんて。
手に残ったパンの欠片を、隣の相棒に差し出して、
「ンナ」
「……ああ、そっか」
すぐに、気付く。
「お前も一緒に引越してくるわけじゃ、ないんだったな」
元の飼い主が見つかるか、しかるべき施設や機関に引き渡すか。
そうやってこの関係に終止符を打つ可能性の方が、ずっと高いんだった。
柚香からのそれらしき『迷い猫』情報はまだ無い。一方で、動物病院や保健所の情報を探す気にも、まだなれていない。
「……決めることが多過ぎんだよ、最近の俺」
仕事も、住まいも、ミレのことも。
誰かと別れることも、何かを新しく始めることも。
どうしてこう――決断ばかり必要な道を、選んじまってるんだろうな。
「ナァウ」
ふと、いままでよりも少し強く、風が公園を吹き抜けていった。
刹那、ミレが俺の太ももに顎を載せてすり寄ってくる。風が冷たかったのか、もっと食い物を、と催促をしているつもりなのか。
だから俺は、背中をぽんぽんと、軽く叩くように撫でてやった。
手のひらと脚から伝わってくる彼女の体温と周りの長閑さが、妙に肌に馴染んで、
「まだ少しだけ、余裕はあるか……」
帰るタイミングさえも、俺はなかなか、決めきれない。
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