第5話 破滅への予兆






 真弥の妻になったのは、まだ日暮れ前の早い時間だった。


 場所が郊外ということや季節的な問題もあり、彼なりに気を使ってくれたらしい。


 そういうの常識なんて瑠璃は知らなかったけれど、妻になった後の真弥の科白を信じるなら、こういうときにすぐに傍を離れ放り出すのは、夫として最低な行為なのだという。


 目覚めるまで傍にいて、腕の中で目覚めさせて、そうして朝までを過ごす。


 それが当たり前なのだと言っていた。


 瑠璃の立場上、それができなくても、せめて妻に迎えた後に心細い想いをさせたくないと、真弥の妻になったことを後悔させたくないと、彼はそれは気遣ってくれた。


 巫女が夫を迎えることが禁じられているのは、俗世の汚れを知ることで、その能力が失われるからだと言われている。


 事実、瑠璃もそう言われて育ったし、だからこそ禁忌を犯してはならないと言い聞かされてきた。


 そのときは死罪だと殺されると言われ続けてきたのだ。


 真弥は瑠璃のことを巫女としては見ていないのか。


 力については特になにも言わなかった。


 落ちたのかと気にすることもなかったし、力のあるなしには拘ってはいないようだった。


 むしろ巫女ではない、ひとりの女の子として見てくれているらしく、あまり特別扱いはしない。


 ただ無事に脱出するまでは、勘づかれないようにしてほしいと言っていた。


 力の有無ではなく、真弥との関係に気づかれないようにしてほしいと。


 だから、自分から言うつもりはなかったのかもしれない。


 彼の性格からして世間知らずな瑠璃を騙してたぶらかすつもりなどなく、純粋に脱出するまでに悟られたら、瑠璃の身が危ないと気遣ってくれたのだろう。


 そのせいだろうか。


 瑠璃も彼と別れ神殿に戻るまでに力が消えたとか、そういう話はしなかった。


 故意に。


 言えばたぶん彼をもっと不安にさせたから。


「巫女の力」


 神殿の近くまで戻ってきてから、ふと掌を見る。


 失われるべきものなのかもしれない。


 こういうとき、本来なら持っていてはいけない力なのかもしれない。


 人にあらざる力は人となったとき、失うべきものなのかもしれない。


 もしも人並みの幸せを欲するのなら。


「ねえ。わたしはどうすればいいの? このまま知らないフリをするべきなの? こんなとき、だれも答えをくれないわ。神ですら道を指し示してはくれない」


 泣きたかった。


 切なくて……。





 いつものように留守をごまかしてくれていた由希の元に戻ると、彼女はほっとしたように笑った。


 いつもより戻ってくるのが遅かったので、バレたのではないかと、もしくは瑠璃の身になにか起きたのではないかと、気遣ってくれていたらしい。


 苦い笑みを彼女に返した。


「どうかなさったのですか、瑠璃さま?」


 疑ってなどいない由希の信頼の瞳。


 気遣ってくれる瞳。


 たった今、彼女を裏切って彼女の一番大切な人を夫に迎えたというのに。


 どうするべきか、すぐには答えを出せそうにない。


 真弥は関わるなと、これは自分の責任だと言っていたし、彼の思いやりを無にする決意もできなかったから。


 でも、それを受け入れて知らないフリを続ける決意も、やはり瑠璃にはできなかった。


 どうするべきなのか、ゆっくりでもその答えを出さなければいけないだろう。


 どんな結果になっても後悔しないだけの決意ができたら。


 それは二重に由希を裏切る決意なのか、それとも真弥を裏切る決意なのか、瑠璃にはわからなかったけれど。


 知らないフリをして残酷に、自分の望みに従うためには、瑠璃の力が邪魔だった。


 だから、苦しい。


 だから、切ない。


 真弥にすら言えなかったことだけれど。


「由希」


「はい?」


「今日、あなたの住んでいる村に行ったわ」


「え?」


 なにを言いたいのかわからないと由希の顔には書いていた。


「噂を聞いたの。あなたの噂」


「どんな……」


「あなたが今していることの噂よ。心当たりがないの?」


 悔しそうに唇を噛む由希に、瑠璃はため息をつく。


 これだけは今、言わなければと思っていた。


 彼女を本当の友達だと思えるなら。「嘘だと思ったわ。わたしのよく知っている由希なら、そんな真似はしないとも思ったわ。でも、話を総合していくと、どうしてもあなたになるのよ」


「瑠璃さま」


「村長ですら適わない大富豪のひとり娘。そして由希という名。年齢。すべてあなたを意味していたわ。どれほど自分の耳疑ったかわかる?」


「あたしは……」


 顔をあげてなにか言いかけた由希を、じっと見つめる。


 それだけで彼女はなにも言えないようだった。


「わたしにはあなたの気持ちはわからないわ。結婚することなんてありえない巫女だもの。すっと想いつづけてきた人に断わられたあなたの辛さは、どんなにわかってあげたくても、わかってあげられない」


「なにをおっしゃりたいのですが、瑠璃さま?」


 挑戦的な眼だった。


 譲らない口調だった。


 今になって真弥の言葉の正しさを知る。


 瑠璃はまだ本当の由希を知らない。


 由希はただ瑠璃の方が立場が上だから、自分が仕えるべき立場だから、だから、本当の自分を見せていなかったのだと。


 あるいは由希の友情だと信じていたものは、ただの優越感からくる同情だったのかもしれない。


 そんなことはないと信じたくないと思うけれど。


「答えはあなた自身が気づくべきことよ、由希。けれど、一言だけ言っておくわ。そういう問題ではなくても、強制では人の心は動かないのよ」


「……なにもご存じないくせに初恋すら知らないくせによく言えますね。それも巫女としての託宣ですか」


 侮蔑と揶揄の混じった口調。


 眼を逸らしたかったけれど、これが本当の彼女だと、まっすぐに捉えた。


 ある意味で今、初めて本音で触れあっているのだとわかるから。


「わからないの? あなたは人の心を無視しているわ。人の生きるべき標を誤っているわ」


「……あなたにはわからないことです。放っておいてください」


「そうね。でも、あなたを友人だと思うから忠告しているのよ?」


「……」


「あなたのやり方は逆に相手を傷つけて遠ざけるわ。きらわれるわ。それがわからないの?」


 ここまで言っても由希の表情は変わらなかった。


 なぜそんなことを言われなくてはいけないのかわからないと、その顔に書いて瑠璃を睨んでいた。


 本当に彼女の心には自分が間違っているのかもしれないという考えそのものが、欠如しているのだと思い知らされた。


「今日はもう帰って、由希」


「瑠璃さま……」


「これ以上なにを言っても、あなたの心にわたしの心は届かないでしょう?」


「あたしは……」


 なにか言いかけて、でもなにも言えずに、由希はそのまま瑠璃の部屋から出て行こうとした。


 その背中に視線だけを向けて、瑠璃は一言だけ問うた。


「由希。あなたがわたしに優しくしてくれたのは、わたしが信じていたようにあなたの純粋な友情ではなく、束縛され自由のないわたしに対する、ただの同情だったの? あなたよりわたしのほうが不幸だと優越感を抱けたから、同情して優しくできたの?」


 否定してほしかった。


 一言違うと言ってほしかった。


 でも、由希は一度だけ振り返り嘲笑った。


「そうですね。そうかもしれません」


「……」


「所詮あなたはただの籠の鳥でしょう?」


 それが由希の本心なのか、それともさっきまで責められたせいで、疑われたことから、そう言ったのか、瑠璃にもわからなかった。


 いや。


 わかったと言うべきだろうか。


 これは彼女の本心。


 けれど、すべてでもない。


 瑠璃を気遣って優しくしてくれた友情もまた本物だった。


 ただその根本にあるものが同情だったというだけのことだ。


 だから友情なのだ。


 由希はあまりに甘やかされて育って、好意を示すことに不慣れだった。


 人に好かれることを知らず、背かれることも知らず、自分が立っている場所もわからない。


 そんな由希が憐れだった。「……可哀相な人……」


 思わず零れた呟きを由希はどう受け取ったのか、なにも言わず出て行った。


 どうして疑われたのか、そのことにすら気づかない。


 なんて可哀相な少女だったのか。


 あれでは本当に孤独なのは彼女の方だ。


 少なくとも瑠璃はひとりぼっちではないのだから。


 今までなら由希がいたし、彼女の友情が半分くらい同情でも、一緒に過ごした時間は嘘じゃない。


 そして今は愛してくれる夫がいる。


 でも、彼女にはなにもない。


 本心から気遣ってくれる人もいなくて、愛してくれる人もいない。


 本当に孤独なのは由希の方だった。


 今になってそのことに気づいてため息が出る。


 もっと早く彼女が子供の頃に、それを知ることができたら、瑠璃にもどうにかしてやれたかもしれない。


 でも、人格が形成された今、もうどうすることもできない。


 どんなに誠意から言葉を尽くしても、由希には理解できないのだから。


 彼女の想い人が真弥だと知っている今、あんな助言をすることが嬉しいわけがない。


 もし真弥を解放したくて、彼女の友情を利用しようとしたなら、もっと上手く説得している。


 それをしなかったということは、彼を愛する瑠璃には、ひどく辛いことなのだ。


 こうすれば上手くいくと教えるようなものだから。


 それでも言ったのは由希への友情から。


 けれど、それは通じなかった。


 真弥の言葉どおり。


『瑠璃と由希とでは違いすぎる』


 そう言った彼の言葉が胸に痛かった。





 瑠璃に言われ定時より早く家に帰った由希を待っていたのは、この頃は無視していた真弥だった。


 入ってきた由希をじっと見て、一度深いため息をついた。


「明日、この家を出ていくよ」


「え……」


 唖然としてから彼を睨んだ。


 出ていけないように、住める家が見つからないように、裏から手を回していたはずだった。


 だれが由希を裏切ったのかと、そう思ったから。


「住む家が見つかったの?」


「それは由希が一番知っているだろう?」


 真弥からの皮肉は初めてで唇を噛んだ。


 瑠璃に責められ論されて、どういうわけか友情まで疑われて、今度は真弥に責められる。


 どうしてなのかわからない。


 だれも由希のしていることに抗議なんてしないし、それで問題が起きるわけでもないのに。


 大事なふたりには間違っていると言われる。


 何故なのかわからなかった。


「住む家がなかったら、適当に雨露を凌げればそれでいいよ。とにかくこの家を出たいから、ぼくは」


「どうして?」


「どうして? もう君から自由になりたいからだよ、由希」


 はっきり言われて息が詰まった。


 優しい真弥はだれかを責めたり否定したりしなかったから、はっきり迷惑だなんて言われるとは、これまで想像すらしなかった。


 信じられないと彼を凝視しても、真弥は顔色ひとつ変えなかった。


 それが変わらぬ決意だと教えるように。


「君は何度言ってもわかってくれないね。どうしてぼくがこの家をこんなに早く出ようとしたのか、一度だって考えようともしなかった」


「……どういう意味?」


「自分のためじゃないよ。君のために出ていこうとしたんだよ、ぼくは」


「あなたがいなくなることのどこがあたしのためだっていうのよっ!?」


「君がどんなにぼくを想ってくれても、ぼくが由希を選ぶことは絶対にないよ。由希に想いを寄せることはありえない。そんなぼくが近くにいて、由希のためになると思ってるのかい、君は?」


「っ!!」


 屈辱だった。


 こんなふうに言われるとは思わなかったから。


 これではまるで由希のことなど意識する対象にもなれないと宣言しているようだ。


「またきみらしく解釈してるみたいだけど、ぼくはきみを侮辱してるわけじゃないよ?」


「どこが違うの?」


「言ったはずだよ? きみを愛せないぼくが傍にいることは、きみのためにならないって。きみのためじゃなかったら、ぼくはおじさんの好意にもっと甘えてるよ。ぼくがどんなに家を見つけたって、ここよりは劣るんだよ? それでこの季節に出ていくことがなにを意味するか、本当に由希は気づかなかったの?」


「好きになれなくても、傍にいてくれるだけで、あたしはっ」


 叫びかけた由希を遮って、真弥がまたため息をついて言った。


「傍にいるだけで満足? ありえないよ、そんなことは。ぼくがきみの傍にいて、違うだれかを愛して、そうして離れていっても、満足だって言える? 傷つかないって言える?」


「ありえないもの。そんなこと」


 震える声で否定すると真弥はかぶりを振った。


「由希。ぼくはきみの所有物じゃないよ。自分の意思を持ってる。だれかを愛さないって、どうしてきみが断言できるんだ? その答えはぼく以外は持っていないはずだよ。そんなこと強制されたって好きになるときは好きになるし、愛せない相手は愛せないんだから」


 瑠璃の説得が脳裏を過った。


 どうして彼女と同じことを言うのだろうと、心の底から悔しかった。


 もしかしたら巫女としては異端と言われてきた彼女なら、真弥とも共感できるかもしれないと、分かり合えるかもしれないと、ふとそう思った。


 そう思うと腹立たしくて悔しくて涙も出ない。


 瑠璃と由希のなにが違うというのか。


 彼女もなぜ由希が間違っているというのか。


 大事な人にはなにも分かってもらえない。


 それともふたりが言っているように、本当に分かっていないのは、由希の方なのだろうか。


 でも、だとしたら何故他の人はなにも言わない。


 間違っているのなら、もっと大勢の人からきらわれるものではないのか?


 だが、周囲の人から好かれているのかと、もし問われても答えられないことに気づいて、余計に悔しくなった。


 なにも言い返せなくて。


「今までお世話になっているという遠慮と、幼なじみとしてのきみにどうしても強いことが言えなくて、本心は言わないようにしていたけど……はっきり言うよ、由希。間違いは間違いだと指摘することが、本当は1番きみのためになることだと、今ならわかるから」


「真弥」


「由希はだれにもきらわれたことがないと思ってる?」


「そんなこと」


 当たり前だと言おうとして、でも、真弥のまっすぐな瞳を見ていると、どうしても違うと言えなかった。


「きみは気づくこともしなかったね。みんな、その場、その場ではきみの意見に従うけど、いざというときにきみを優先してくれたことがあったかい?」


「……」


「みんなが本音を言わなかったり、きみに対して遠慮していたのは、きみに人として魅力があるからではなく、すべてこの家の権威だよ。みんなが恐れていたのは、きみの機嫌を損ねることで、この部落での立場が悪くなることだった。きみのことを本心から大事だと、友達だと思っていた人は、ぼくの知っているかぎりだと、ひとりもいないね」


「ひどいことを平気な顔で言うのね、真弥……」


 泣きだしそうだった。


 はっきり言われて。


 真弥もちょっと傷ついたような顔をしてそっと背けた。


「言っておくけど、こういう事実をきみに伝えるのが、ぼくには簡単なことだとか、平気なんだって誤解はやめてほしい。どうしても今まできみを傷つけられなくて言えなかった真実だから」


「言い訳じゃないっ」


「……そうだね。今まで知らなかった現実を突きつられたきみにしてみれば、そんなことを言うぼくの神経の方を疑うだろうね。でも、これが現実なんだよ、由希。その証拠にだれかきみの悩みに親身になって付き合ってくれる人がいるかい? 損得抜きできみを気遣ってくれる人がいるかい?」


「ひどい」


 泣きたいほど悔しいのに、真弥は居心地が悪そうに顔を背けてはいても、揺るぎない主張を譲らなかった。


「ひどいことを言っている自覚はあるよ。でも、言わないといけないことだから」


「傷つけることを言うことが? それはあなたの放漫よ、真弥っ」


「違う。君のために言ってるんだ。憎まれても、だれかが言わないと指摘しないと、君は気づけないだろう? そうしたら君はいつまでもひとりだ。だれも気遣ってくれない。だれも本当の友情を向けてはくれない。それじゃあ、どれだけの取り巻きに囲まれていたって、君はいつもひとりぼっちだよ。それがわからないの?」


 本当に孤独なのは由希だと言われたようで別れ際の瑠璃の顔が脳裏に浮かんだ。


 同じように傷ついた顔をしていた。


 もしかしたらあの問いは、否定してほしくて出した問いだったのかもしれない。


 同情じゃないと、本物の友情だと言ってほしくて言ったのかもしれない。


 そのくらい信じがたい現実を聞いたということだ。


 由希の本当の姿を知らなかった瑠璃にとって。


 だから、問うた。


 否定してほしくて。


 なのに由希はなんて言った? 気遣ってくれる彼女になんて答えた?


 何故間違っていると言われるのか、今もまだわからない。


 真弥の説得はすべて心を突き刺すけれど、その意味はわからない。


 わからないけれど現実を言い当てていることが、すべて真実なのだと教えている。


 そのことは辛くても認めた。


 わからないけれど。


 でも、たったひとつわかったことがある。


 由希は間違えた。


 瑠璃がなにを不安に想い、問いかけてきたのか悟ってやろうともしないで、そのとおりだと言ったのだ。


 純粋な彼女をどれほど傷つけただろう?


 なにもかもすべてがこんなふうに単純明快なら、由希も間違っていると言われても納得できたかもしれない。


 だったら、何故と思ってしまうのは、由希の傲慢なのだろうか。


「あなたがなにを言いたいのか、あたしにはわからないわ。でも……真弥」


「由希?」


「あなたの言っていることがすべて本当で、みんなあたしのことなんてどうでもよくて、いやいや付き合っていたなら、どうしてそう言わないの? 間違っていたらどうして責めないの? それで気づけとか言われてもできないわよ」


「そうだね」


 真弥がため息をついたとき、不意に奥の部屋から由希の父が現れた。


「それはね、由希。君がわたしの跡取り娘だからだ」


「父さん」


「おじさん」


 正面から由希を糾弾していたことを悔いるような声を出す真弥に彼は笑ってみせた。


 そして言った。


 一言。


「ありがとう、真弥」


「「え……」」


「由希のために敢えて憎まれ役を買って出てくれたのだろう?」


 気まずそうに顔を背ける真弥を、由希が意外そうにみた。


 その彼の態度が事実だと告げていたけれど。


「どうして礼を言うの、父さん? なにがあたしのためなの?」


「わからないかい?」


 振り向いて問われて頷いた。


「真弥は由希のためになることしか言っていないよ?」


「どこがっ」


 感情的に言い募ろうとする由希を、父の優しい声が遮った。


「全部」


 一言で断言されてしまって、由希はもうなにも言えなかった。


「今のままでは由希に救いはない。だれの好意も得られない。だから、真弥は憎まれるのを承知で、由希に隠していた事実を伝えた。これが彼の誠意でなくてなんなんだい、由希? もしこれがただの陰口だったりしたら、正面から由希を糾弾してわたしの元を去った真弥はどうなると思う?」


「この部落にいられなくなるだろうね、ぼくは」


 淡々と真弥が答えて唖然と彼を見た。


 そういうことは由希は一度も考えなかったので。「まだわからない? みんなそれを恐れて、なにを言われてもきみに従っていただけだよ、由希。由希が大事にされていたのは、おじさんの威光。きみへの好意じゃない」


「真弥」


「ぼくはもっと幼い頃から、そのことには気づいていた。どうしてみんながきみに従ってみせるのに、根のところでは合わせないのか。気遣うことすらしないのか。

 そしてそんなみんなを増長させたのが、きみのどんな態度なのかすべて知っていた。だがら、昔は何度もこんな言い争いをしただろう?」


「あ……」


 遠い幼い日を思い出して由希が絶句する。


 たしかに同じようなやり取りをした時期があった。


 もう忘れかけていたけれど。


 真弥の説得はまだ続いた。


 真弥が幼すぎて由希を説得するには役不足だったこと。


 由希のためを思うなら父に相談して任せるべきだとわかっていたこと。


 でも、当時から真弥は諦めるのが早かったから、両親を亡くしてから諦めることで生きてきたから、そのときもすぐに諦めてしまったこと。


 その理由こそ説得しても由希が理解しないとわかっていたからだと言われ、由希はもう答える言葉がなかった。


「今なら間違っていたことがわかるよ。こんな事態になる前に間違いは間違いだと、どれほど対立しようと指摘するべきだった。そうしたら今頃由希はひとりぼっちにならなかった。そう……気づいたから」


 真弥の口調は真摯で彼が本心からそう思っていることが伝わってくる。


 なにを言っても見せていた真弥の微笑。


 あれは……諦めからきていた?


 同意でもなんでもなかった?


 すべてが由希の思い違い?


「由希」


 父の声に振り向けば、ここまでひどいことを言われているというのに、怒っている様子はなかった。


 それが尚更由希を追い詰めた。


「わたしもね。気づいていたんだよ。由希がどういう境遇にいるか。何度かは諭そうと思ったけれど、真弥と同じ理由から諦めていたんだ」


「父さんまで」


「由希は周囲の本音がどうであれ、否定されたことがないから、間違っていると言われても受け入れなかっただろう?

 理解する姿勢すら見せなかっただろう? だから、娘がどんどん孤立していっているのがわかっても、わたしたちにはなにもしてやれなかった」


「……」


「その余波がすべて真弥にいっていることにも気づいていた」


「え?」


 どういう意味かと彼を見たけれど、真弥は自分のことについては、なにも言わなかったのである。


 父の言葉を信じるなら、自分の被った被害については、文句ひとつ言わなかったのである。


 それが父の言葉を肯定する形になっていた。


 真弥の言動は意地悪でもなんでもなくて、本当に純粋に由希への思いやりだと。


「真弥が独り立ちしたいと、この家から離れたいと言ってくる気持ちも、わたしたちには理解できた。いつか言い出すだろうと思っていたよ。そうさせたのはわたしたちだ」


「……父さん」


「もう解放してやりなさい。真弥は十分耐えてきた。きみのためにたくさんのものを犠牲にしてきた。これ以上を望むのはただのワガママだ」


 泣きたくて泣けなくて、それでもなにも言わない真弥を見ていた。


「おじさん。色々とお世話になりました。明日この家から出ていきます」


「……そうだね。止めることはできないけれど、ささやかな祝いだ。家を用意しておいたから」


「でも」


「由希のためにここまで言ってくれたのは真弥だけだ。感謝しているよ」


「おじさん」


「できれば由希の気持ちに応えてあげてほしかったし、わたしとしても真弥を本当の息子にしたかったけれど、これ以上は望めないね」


 実の子供にという申し出も、小さい頃から何度もあった。


 そのすべてを断り続けたから、由希の問題から離れて説得しても無駄だと知り尽くしている口調だった。


 迷ったが真弥は言っていた。


 今まで育ててくれた彼への恩義を無にしないために。


「そうできればよかったと思います。でも、ぼくはもう……」


「恋人でもできたかい?」


 父の優しい問いかけに由希は衝撃を受けた顔で真弥を見た。


 想い人がいるらしいとは聞いているが、付き合っているとは聞いていなかったので。


「命懸けで愛している人がいます。命懸けで愛してくれている人がいます。これからのぼくはその人のために生きたいと思っていますので」


「そうか。幸せにおなり。いいね?」


 それが餞別の言葉だと知っていた。


 頷いたけれど真弥の決意を知ったら、彼はどう思うだろうか。


 部落を護る巫女を連れて逃げるつもりだと知ったら。


 でも、譲れないから。


 この生命を捨てることになっても、この恋は捨てられない。


 世界中を敵に回しても。


 真弥の決意は表情に出ている。


 由希は顔も知らない彼の恋人に嫉妬した。


 理不尽だろうが間違っていようが構わない。


 赦さない。


 そう心に誓っていた。






 破滅の足音が聞こえる。


 途切れることなく、でも、しっかりと聞こえてくる。


 悲劇の幕を開けるのは常に人の愚かな嫉妬や羨望なのかもしれない。


 だれが悪いわけでもない。


 ただわたしにはこうする以外に術がなかった。


 心は決まった。


 真弥も裏切れない。


 でも、友達としての由希も裏切れない。


 わたしは何故ここにいるのだろう。


 失われるべき力。


 忌まわしき楔。


 それでもわたしは最期まで誇りを持って生きるでしょう。


 誇りを持ってそのときを迎えるでしょう。


 祈りよ、どうか天に届いて。


 わたしの最期の望みを聞き届けて。


 どうか……あの人を護ってほしい。


 それだけがわたしの生命を懸けた願いなのだから。





 真弥と愛し合って夫婦となってから、彼とは何度となく逢っていた。


 彼との逢瀬の時間はとても満ち足りていて幸福だった。


 結ばれる度にささやかれる愛の告白が嬉しかった。


 そうして結ばれる回数が増えるほど瑠璃は力が増してくるのを感じていた。


 もしかしたら瑠璃は歴代の巫女と、なにからなにまで違うのかもしれない。


 瑠璃にとって真弥との関係は、彼愛されることで力は増幅される宿命を持っているようだった。


 力が鋭くなればなるほど、瑠璃には由希の気持ちがよく視えた。


 どれほど純粋に真弥を愛していたか。


 どうして孤独になるのかわからずに困惑していたのか。


 今の瑠璃には手に取るようにわかる。


 だから、決めたのだ。


 真弥も由希も裏切れない。


 そのために自らを滅ぼすことになっても、どちらかは選べないのだから、自分に正直に生きようと。


  例えそれで……生命を堕とすことになろうとも。


「ねえ、真弥」


 森が雪景色に染まる頃、瑠璃はいつものように真弥に甘えながら、不意に夢見るように口にした。


「可愛い赤ちゃんが欲しいわね?」


「瑠璃」


 狼狽した真弥が赤くなったり青くなったりして取り乱している。


「貧しくてもいいの。大切なあなたと愛する子供たちに囲まれて平穏に暮らすの。特別なものなんてなにもなくていい。愛するあなたと子供たちに囲まれて暮らせたら……どんなに幸せでしょうね?」


「これから叶えられる夢だよ、瑠璃。叶えられるように命懸けで努力するから」


「……そうね」


 瑠璃の複雑な声の意味にも気づかずに真弥は笑って付け足した。


「失えないものなら生命に換えても護るしかない。ぼくはきみとこれからぼくらが得る子供たちのために生命を懸けるよ、瑠璃」


 真摯にささやかれる真弥の決意に瑠璃は胸の内で答えた。


(わたしにはその一言で十分。あなたを愛して、そしてあなたに愛されて、わたしは幸福だったわ。だから、どうか……わたしの裏切りを許してね、真弥)





 最後にと決めた真弥との逢瀬から戻ってすぐに瑠璃はこのところ、お互いに避けていた由希と正面から向き直った。


 由希は相変わらず瑠璃の外出の片棒を担いでくれているし、避けてはいるものの、あのときの発言を後悔しているのか、時折居たたまれないような目をして顔を背ける。


 そんな彼女に気づいたから、尚更瑠璃は裏切れないと思った。


 彼女を裏切って自分だけ幸せな逃避行に走ることなどできそうになかった。


 それがやがて悲劇を招くとしても、瑠璃は由希に生命を預けようと決めていた。


 ほんのすこしでも瑠璃を友達だと思ってくれていたら、由希は思い止まってくれるかもしれない。


 もしくは友達だと親友だと思っていたからこそ、裏切りが許せずに激情のままに突っ走るかもしれない。


 でも、そのどちらだとしても瑠璃は静かに受け入れる覚悟だった。


 それが真弥への愛の証。


 そしつ由希への偽りのない友情の証なのだから。


「ねえ、由希?」


 不意に声をかけられて由希が戸惑った表情で振り向いた。


 後悔と焦燥と言葉にならない色んな気持ちが由希のの瞳に浮かんでいる。


「あのときにあなたの友情の意味は聞いたわ」


「……瑠璃さま」


 後悔しているのか、由希の声はとても苦かった。


「それでもわたしはこう思うの。あなたの友情の根底にあるものが、わたしに対する同情だとしても、あなたほど自尊心の高い少女が、それだけの動機であれほど親身になってくれるわけがないわ。だから、あれはそういったことが不得手なあなたなりの最上級の友情だったと、わたしはそう思うのよ」


「瑠璃さま」


 由希の声は泣き出しそうだった。


 もう許してもらえないと思っていたのかもしれない。


 でも、これから瑠璃が告げる内容を聞けば、おそらく由希の感想はまた変わるだろう。


 今度こそ手酷く裏切ったと判断して、ひどい罵声を浴びせられるかもしれない。


 それでも彼女を友達だと思うなら、避けて通ってはいけない道だった。


「わたしはあのとき、あなたを説得するときに、こう言ったわね? 結婚することなんてありえない巫女だから、あなたの気持ちはわからない、と。わかってあげたくても、わかってあげられないと」


「……なにをおっしゃりたいのですか?」


 わからないと小首を傾げる由希に、瑠璃は苦い気持ちで言を継いだ。


「あれは……嘘よ」


「え?」


 言葉の意味がわからないと、由希の顔には書いていた。


「わたし……愛している人がいるの」


「瑠璃さまっ。それはっ」


 仰天する由希に瑠璃は静かに答えた。


「ええ。絶対的な禁忌よ。巫女としては赦されない大罪だわ。でも、わたしだって普通の女の子よ。だれかを好きになって何故いけないの? 彼を夫に迎えたことを、わたしは悔やんではいないわ」


「お生命と引き換えなのですよ? それなのに」


「そうね。それでもいいと思っているわ」


 微笑む瑠璃の無謀さが、そしてそこまでだれかを愛せるということが、由希には信じられなかった。


 愛する人を夫に迎えたと言った。


 すなわちバレれば極刑を意味するのだ。


 聡明な瑠璃がそれを知らないはずがない。


 それでもいいのだと言い切った彼女に驚いた。


 だが、本当に驚くべきことは、由希を傷つける現実は、このあとに用意されていた。


「真弥を…………愛しているのよ、由希…………」


 この一言を聞いたとき、由希は幻聴だと自分に言い聞かせようとした。


 それこそ必死になって。


 よりによって真弥の妻が瑠璃だったなんて、由希は絶対に信じたくなかったのだ。


「あなたが……真弥の……巫女が夫を迎えれば力が失われ、部落を危機が襲うというのに、すべてと引き換えにしようというのですか?」


 感情が激しすぎて却って凍ってしまったかのような声だった。「いいえ。真弥を夫に迎えてからも、わたしの力は失われてはいないわ。むしろ急激に増しているほどよ。歴代の巫女がどうだったのかは知らないけれど、わたしにとって真弥が夫として愛してくれることは、巫女の役割に支障を来してはいない。むしろ力を増幅してくれているわ」


 瑠璃がここまで言ったときだった。



 それまでただ震えているだけだった由希が、たまりかねたといったように激情を爆発させたのわ。


「あたしは……確かに同情が勝っていたかもしれない。でも、瑠璃さまの力になりたいと、笑ってほしいと、その思いに嘘はなかったっ。だから、危険も犯したし、瑠璃さまが明るくなっていくのが嬉しかったっ。なのに利用したのねっ!? あたしの友情を利用したのねっ!! この売女っ!!」


 涙を溢れさせる由希に瑠璃は慌てて言い返した。


「違うのよ、由希っ。わたしも真弥も愛し合ったときに、夫婦となるまでにあなたの存在に気づかなかったのよっ!! わかっていて選んだ結果ではないのっ!! お願いっ。わかってっ!!」


「偽善者っ」


 低く吐き捨てられた言葉に瑠璃は胸を抉られたような気がした。


 傷ついた瞳で由希を凝視する。


「これだけは信じてちょうだいっ。わたしはあなたを親友だと思えばこそ、誤解されるのを承知で打ち明けたのっ。これだけは信じてっ」


 必死の瑠璃の呼び掛けも、とうとう由希には届かなかった。


 まだ陽も高いというのに神殿を飛び出してしまったからである。


 これから彼女がどこへ行こうとしているのか、そしてそこでなにをするつもりなのか、瑠璃には視えていた。


 避けられない運命が死の影を伴って徐々に近寄ってきていた。


 どうしても溶けなかった凍てついた心。


 やりきれない想いが溢れ、涙が一滴零れた。





 泣きながら神殿を飛び出して、どこをどう走ったのか。


 涙も枯れてしまった頃に由希は村長の家の前に佇んでいた。


 麻痺してしまった感情と思考の中で、瑠璃の愚かさを嘲笑うような、酷薄な笑みが口許に浮かぶ。


(バカな人。行動を監視しているあたしに向かって、あんなことを打ち明けるなんて。そうよ。これはあたしの義務なのよ)


 巫女が禁忌を犯したなら、それを報告するのが由希の役目。


 わかっていて打ち明けた瑠璃がバカなのだ。


 それとも純粋培養された愚かな瑠璃は、それすら気づいていなかったのかもしれない。


 死ねばいい。


 心の底からそう思った。


 そうして由希を愛せないと突き放し、その裏で瑠璃を選んだ真弥も、由希と同じ痛みを感じればいい。


 別人のように冷酷無比な冷酷な笑みを浮かべ由希はそう思った。


 心が麻痺してしまえば、人はどこまでも残酷になれる。


 由希は今完全に自分を見失っていた。


 瑠璃が何度も訴えた想いすら歪んで解釈している。


 死ねばいい。


 その一言だけを胸に由希は村長を呼び出した。


「おや? どうしたんだね、由希? いつもならまだ神殿にいる時刻だろう?」


 瑠璃に戦を禁じられ、比較的暇だったらしい村長が、どこかのんびりと現れた。


「今日は大事なご報告があってやって参りました」


「大事な報告?」


「はい。巫女さまが禁忌を犯されました」


「なんだってっ!?」


 蒼白な顔色になる村長に由来は虚ろな瞳で報告を続けた。


 幾分、話を脚色しながら。


「巫女さまは男と通じられたそうです。夫を迎えたとはっきりそうおっしゃいましたから」


「男と通じればどうなるか知らぬ巫女殿でもあるまいにっ!!」



「はい。今ではかつての力の半分も残っていないとか。それも日増しに弱まっているそうです。このあいだの戦を止めたのも、託宣ができるだけの能力が残っていなかったからだとか」


「……愚かな」


 村長の苦々しげな声に由来は口許だけで笑った。


 それはゾッとするような冷やかな笑みだった。


「聡明な巫女殿だと期待していたというのに恋に狂ったかっ」


 吐き捨てると村長は由希を振り向いた。


「報告ご苦労だった。由来はもう今日から神殿へは行かなくてもいい」


「はい」


 慌ただしく動き出した村長を見送って由来は家への帰路を辿った。


 瑠璃はそう遠くない未来に処刑されるだろう。


 当然だ。


 由希の友情を利用し、泥棒ねこのように大切な真弥をまんまと奪っていったのだ。


 彼女はそんな目に遭っても当然の罪を犯したのだから。


 家へ向かう途中でふと気になった。


 真弥はどうしているだろう?


 今日も瑠璃と逢えるときを待っているのか。


 そのことに思い至ったとき、由来は再び残酷な思いに心が支配されていくのを止められなかった。


 しばらく真弥の姿を探せば、神殿と村のちょうど中間に位置する湖にその姿があった。


 ぼんやり散歩をしているようにも見えたが、チラチラと周囲に視線を走らせる姿を見ていると、だれかを待っているようにも見えた。


 おそらく瑠璃を待っているのだろう。


 彼女の身に起きた変事にも気付かずに。


 だったら教えてやろう。


 真弥はもう二度と彼女には逢えないのだと。


 それがふたりして由希を利用し裏切った代償だと。


「瑠璃さまを待っているの、真弥? だったら無駄なことよ。あなたは二度と瑠璃さまには逢えないわ」


 その一言に真弥が弾かれるように振り向いた。


「由希? それは一体どういう意味なんだい?」


「瑠璃さまは近い将来処刑されるわ」


「なっ」


 声が詰まって言葉にならない真弥を由希が冷やかに見詰めている。


「バカよね。あたしが傍にいる意味くらい知っているでしょうに、そのあたしに向かって、あなたのことを打ち明けるんだもの。こうなって当然よ。ふたりしてあたしの友情を利用して裏切っていたんだから」


 狂ったように声を上げて笑い出した由希を真弥は信じられないと見詰めていた。


 だが、徐々に事情が飲み込めてくると、どうして瑠璃が由希に打ち明けたのか、真弥にはわかるような気がしていた。


 命懸けの彼女の友情。


 なのに由来は冷酷な笑みを浮かべている。


 我慢できなくて由希の肩を掴んで揺さぶった。


「きみが密告したのかっ!? きみが瑠璃の命懸けの友情を踏みにじったのかっ!?」


「命懸けの友情? なにが? あたしの友情を利用して、聖人面をしてあなたを奪っていくことが?」


 死ねばいいと、それが当然の罰だと嘲笑う由希を見て、真弥は生まれて初めてだれかに手を上げた。


 傷付けることは愚か、ケンカすらしたことのない真弥が、生まれて初めて人を叩いたのである。


 あまりの衝撃に座り込んだ由希が、憑き物が落ちたような顔で真弥を見上げている。


「きみを見損なったよ、由希」


「……」


「本当に裏切られたと思っていて、ぼくや瑠璃を責めているなら、その問題で正々堂々と言い争えばいいだろう? ぼくも瑠璃も逃げやしないよ。きみは自分の手を汚していないから、自覚していないのかもしれないけど、きみの密告で瑠璃が処刑されたら、きみが瑠璃を殺したことになるよ。遠回しに仕組むことでね」


 冷たい心を貫く氷柱のような声に、由希は今更のように、自分がしでかしたことの重さがわかってきて震えていた。


「そんなきみをぼくが選ぶと思った? ぼくがなにをきらっているか、由希が1番よく知っているはずだろうっ!!」


「あたし……あたしは……」


「今のきみは人間として最低だ。瑠璃は殺される可能性があるのを知りながら、きみへの友情を証明するために、生命すら懸けてきみに真実を打ち明けたのに」


「あっ……」


 真弥の言葉の意味が呑み込めて、由希は茫然自失の状態で、じっと両手を見詰めていた。


 今になって瑠璃の告白の意味が分かる。


 彼女は聡明な巫女だ。


 ましてや力は失われるどころか、真弥を夫としたことで増しているとも言っていた。


 その瑠璃が由希の行動を読めないわけがない。


 それでも一縷の望みに賭けて、そして自分の友情を証明するために、彼女は生命すら由希に預けたのだ。


(なのに……あたしはなにをしたんだろう?)


 人を殺すことの恐ろしさが、今頃になって身に沁みてくる。


 怖くて震えが止まらない。


 そのとき、もう由希には目もくれずに、真弥が踵を返した。


「真弥っ。どこへ行くの?」


「瑠璃を助けに行くんだ」


「無理よっ。瑠璃さまは処刑が決定された時点で、極秘部屋である牢獄に移されるわっ。人を殺すことはおろか、傷つけることもできないあなたに一体なにができるのっ!? あなたまで殺されるだけよっ!! お願いよ、やめて、真弥っ!!」


 必死に追いすがる由希を、真弥は一度だけ振り向いた。


 凛とした瞳の中に強い意思を煌めかせて。


「瑠璃のためなら、ぼくは人を殺せる。そうして必ずふたりで生き延びて幸せになるんだ」


 信じられない宣言に由希は呆然としていたが、ややあって遠ざかっていく背中に叫んだ。


 気も狂わんばかりに。


「それでも無理よ、真弥っ。巫女の処刑が決定された後の神殿の警備は、あなたが考えているほど甘くないわっ!!」


「瑠璃ひとりを死なせはしない。そのときはふたり一緒だ」


 風に乗って返ってきた答えに由希はボロボロと泣いた。


 どんなことをしても、真弥はもう由希を振り向かないのだと思い知って。


 もし村長に逢う前に真弥に逢っていたら、由希の行動は変わっていたかもしれない。


 それでも自分で動かしてしまった運命の歯車は止められない。


 そのことを噛みしめて由希は泣いた。


 大切なふたりを自分が窮地に追い込んだのだと噛みしめて。

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