第6話 時を超える想い






 それまでの生活とはまるで無縁な冷たい石牢の中で、瑠璃はじっと姿勢を正し祈りを捧げていた。


 巫女を殺すことは禁忌。


 それは力ある巫女を指していて、別段巫女の力を失くした者は含まれていない。


 力ある巫女を殺すことが禁忌とされているのだ。


 力ある巫女を殺せば、その力の強さの分だけ殺した者に、その部落に災いが起こる。


 だからこそ、どの部落も力ある巫女や神官は生け捕りにして、自分たちの部落の守護をさせようとする。


 殺せないなら、それしか方法がないからだ。


 背かれれば災いが起きると知っているから。


 瑠璃はあの後すぐに村長配下の者に連行され、牢獄に閉じ込められた。


 それまでの豊かな生活からは考えられない場所へ。


 それもみな承知のこと。


 静かに受け入れ抵抗すらしない瑠璃に兵士たちは戸惑ったようだった。


 巫女としての凛とした気高さを失わない瑠璃に感服した者もいる。


 瑠璃は自らの運命を受け入れていて、別に抵抗する気も逃げ出す気もなかった。


  ただ静かにその時を待っている。


 村長が兵士を連れて現れたときも、捕らえる旨を告げられたときも、瑠璃は全く驚いた様子がなく、ただ静かに頷いただけだった。


 これには兵士だけでなく、村長も驚いていたが。


 力が失われているなら、自分の運命などわからないはずで、こうして捕らえられる段階になったら、多少なりとも取り乱すのが普通である。


 だが、瑠璃は当たり前のこととして受け入れていたのだ。


 村長には腑に落ちない態度だった。


 まるでこうなることがわかっていたような潔い態度だったのである。


 それだけではなく瑠璃の身の回りの物が、すべて整理整頓されていた。


 まるでこれから死地へと旅立つ者が身支度を整えるときのように。


 すべての物を粗方処分していて、まるで捕らえにくるのを待っていたような印象も受けた。


 あのときから村長は、どこか腑に落ちない気分で、瑠璃の処刑について悩んでいた。


 本人が否定しないどころか、肯定しているのでは処刑はやむを得ない。


 だが、瑠璃の態度やことが起こった前後のことを考えると、どうしても瑠璃が巫女の力を喪失したようには見えなくて判断を下せずにいた。


 まして捕らえられてからも全く取り乱さず、動揺すら見せずにただひたすらに祈りを捧げているのである。


 瑠璃の態度は村長の理解を超えていた。


 巫女の力を失った者として見るならば。


 だが、巫女として見るなら特に不思議のない態度でもあるのだ。


 巫女なら慌てるはずがない。


 自らを襲う運命など、だれよりも早くわかるだろうから。


 瑠璃はなにも言わない。


 ただ祈りを捧げているだけだ。


 そんな彼女に村長はやりきれない思いで問いかける。


「あなたほど聡明な方が、何故禁忌を犯されたのです、巫女殿?」


 迷いの晴れない目で、いつものように現れた村長にそう訊かれ、瑠璃が多少うんざりしたように振り向いた。


「またその問いなの? 何度も答えたはずよ。わたしも普通の女の子なのよ。不思議なことではないでしょう? それにわたしはもう巫女ではないわ。ここに閉じ込められたときから。そうでしょう、村長?」


 静かな、静かな声。


 まるで悟りの境地にいるような神のごとき声音。


 憎しみも悲しみもすべて洗い流されたような、神々しいほど清々しい表情が村長は怖かった。


 もし彼女の力が失われていなかったら?


 瑠璃ほどの力を持った巫女を殺したら、この部落くらいは簡単に滅びるだろう。


「では相手の名を教えていただきたい。お話がすべて事実ならば、あなたの夫となった者がいるはずです」


「教える気はないわ」


 あっさりとした拒絶に村長は「巫女殿っ」と声を荒らげた。


「彼はもうこの部落にはいないわ。旅の途中に立ち寄っただけだと言っていたから」


「ならば名前くらいは言えるはずでしょう」


「知らないわ。行きずりだもの」


 瑠璃は頑として譲らない。


 相手の名も素性も知らないと。


 村長には庇っているようにしか思えなかった。


 仮に瑠璃の主張通り巫女もひとりの少女だとしよう。


 だが、瑠璃はまだ年若い少女とは思えないほど聡明な巫女だ。


 幼い美貌には不似合いなほどに大人びた叡知を秘めた少女。


 その瑠璃がそんないい加減な恋をするとは、どうしても思えなかった。


 部落と引き換えにするほどの激しい恋。


 命懸けの恋をするなら、それに相応しい相手であるはずだ。


 もしくはそんな相手など最初から存在していないか。


 どちらかだ。


 村長は瑠璃を正当に評価していたから、彼女がそんな浮わついた恋で部落を引き換えにするような行動に出るとは、どうしても思えなかったのである。


 だが、これ以上問い詰めても、瑠璃はなにも言わないだろうと思えた。


 彼女はもう覚悟を決めてしまっている。


 死を受け入れて覚悟した者になにを言っても無駄だ。


「ではこれだけは答えてください。真実で。あなたは本当に巫女としての力のほとんどを失われてしまったのですか?」


 この問いにも瑠璃は表情を変えなかった。


 ただ静かな眼差しでこう訊いただけで。


「……由希がそう言ったの?」


「あなたからそう聞いたと。本当なのですか?」


 そのとき、瑠璃がため息をついたように見えたのは、村長の錯覚なのだろうか。


「彼女がそう言ったのなら、そうなのでしょう。これ以上なにも答えることはないわ。そうっとしておいてちょうだい。村長。祈りの邪魔をしないで」


 なんのために祈るのか、瑠璃はなにも言わず、また壁を向いて手を合わせ、目を閉じてしまった。


 これ以上居ても無駄かと、村長は諦めて立ち上がった。


 どうしても気になる。


 瑠璃は本当に力を失っているのだろうか。


 本当に夫を迎えたのだろうか。


 今はその真偽を確かめる術もない。


 そうだと言われれば信じるしかないのだ。


 では、由希が嘘を言ったとしたら?


 由希と瑠璃のあいだで諍いがあって、由希が瑠璃を陥れようとしているとしたら?


 彼女の性格では不思議はない気がした。


  立ち去りかけて、さりげなく村長は訊いてみた。


「あなたは本当に夫を迎えられたのですか、巫女殿? 単なるあなたと由希の諍いではないのですか?」


 すべてが由希の出任せではないのかと問いかける声に、瑠璃がふっと振り向いた。


「いいえ。わたしには夫がいます。それは単なる事実だわ、村長。もし由希とケンカをしていて、彼女がそういった嘘を言ったのなら、幾らわたしだって素直に従うわけがないでしょう。友人とのケンカに生命まで賭けはしないわ」


 瑠璃の口調には嘘がなかった。


 村長は苦々しい顔で立ち去るしかなく、彼がいなくなってから、瑠璃はため息をつくと心の中で付け足した。


 そう。


 友達とのケンカなんかに生命を賭けたりしない。


 でも、友情を証明するためなら、恋と友情を秤にかけないためなら、わたしは生命を賭けるわ。


 真弥への愛情。


 由希への友情。


 そのどちらもが瑠璃にとって重い。


 だからこそ、由希を見捨てて本当に裏切ることはできなかった。


 それでは彼女の感想通り自分たちは由希の友情を利用したことになるから。


 命懸けにもなる。


 その結果がどうなろうとも。


 けれどどうか真弥だけは護ってほしい。


 この生命が失われることで、どんな災厄が起こっても、真弥だけは助けてほしい。


 彼は瑠璃の魂だから。


 それだけを天に祈りつづけた。





 夕刻が近づいている。


 冬が近づいている今、夜の訪れは早い。


 暮れていく時間もずっと早くなっている。


 木立の影から神殿を見上げつつ、真弥は苦々しい顔をしていた。


 想像していた以上に警備がきつい。


 どこからどう探っても侵入できそうなところがなかった。


 巫女を戴くことが長かったせいで、こういった事態にも慣れているのか、蟻の入る隙もない警備だ。


 いつも通り帰っていく村長の顔色は冴えない。


 それは部落を守護する巫女を失うからなのか、それとも違う理由からなのかは、真弥にはわからない。


 一度は瑠璃との恋は諦めて、彼女の力が失われていないことを村長に告げようかとも思った真弥だったが、瑠璃の決意を思うとそれもできなかった。


 彼女は真弥も由希も選べなかった。


 そのために生命を賭けた。


 ここで彼女の生命を救うために真弥が事実を打ち明け、自分こそが瑠璃の夫だと打ち明けて、もし殺されたり、軽くて部落を追放された場合、瑠璃が後を追いそうで怖かった。


 死ならば諸共。


 その覚悟は瑠璃も同じだと思えたから。 何故だろう。


 共に過ごした時は短い。


 儚い一瞬の錯覚のような日々だったのに、瑠璃の面影は鮮やかに心に刻まれて、彼女がなにを考えているか、どうしてそうするのか、真弥には手に取るようにわかった。


 だから、真弥が殺されなくても、この部落から追放されたら、おそらく逃げ出せない瑠璃は生命を絶つだろう。


 そう……わかる。


 だったら万にひとつの可能性に賭けて、共に生きられる未来を夢見たい。


 それがダメなら死ぬときは、ふたり一緒だと決めた。


 由希にそう告げたときの決意のままに。


 ただ悔やまれるのは彼女の決意を見抜いて止められなかったことだ。


 巫女の力に触れなかったことが、真弥の最大の誤算だった。


 瑠璃のこの行動には巫女の力が絡んでいると、今ならわかるから。


 由希の辛さを無視して自分だけ幸せになるには、なにもかもわかってしまう瑠璃の力が邪魔だったのだ。


 そのことに気付いていれば、彼女が行動を起こす前に奪うこともできたのに。


 それを思うと凄く悔しかった。


 普通の少女として扱うことが、瑠璃を救うと思って、真弥はそのことばかり意識しすぎたのだ。


 瑠璃自身にとってはそれが救いでも、巫女の力は現実。


 それが招く未来も踏まえて動くべきだった。


 今更考えたところで結果は変えられないが。


 完全に陽が落ちて夜が訪れると、神殿の篝火に照らされた森は一気に静寂を増した。


 襲撃するなら夜がいいかと思ったこともあるが、こうして見ると却って不都合が多いことがわかる。


 真弥には光源がないが、神殿を守る兵士たちには篝火という確かな灯火があるのだ。


 向こうは真弥を見付けやすいが、真弥は姿を隠せば身動きが取れず、姿を現せば格好の的になる。


 そう悟らざるを得なかった。


 篝火は襲撃に備えた位置にあって、守護する者には有利でも、襲撃する方には圧倒的に不利になるように配置されている。


 位置を見るだけでわかるのだ。


 どこから攻撃を仕掛けても、おそらく真弥にはろくに周囲が見えなくて、迎え撃つ兵士にははっきりと真弥が見えるだろうということが。


「夜は逆効果、か」


 ひっそりと呟いて踵を返した。


 今夜のところはここまでだ。


 村長が帰った以上処刑は行われない。


 処刑は村長の立ち会いがないとできないからだ。


 つまり明日村長が神殿を訪れるまでの生命は保証されたことになる。


 その繰り返しで1週間だ。


 早く助け出したい。


 方法を探り、瑠璃の居所を探すだけで、無為に過ぎていった日々。


 残された時間が短くなるほど心が焦る。


 だが、どこから探っても隙はない。


 つまりどう攻めても結果は同じということだ。


 なら。


「正面突破しかないな。どこから攻めても同じなら、力ずくで正面を突破するまで」


 低く呟いた。


 できれば早朝がいい。


 人々が交代する時間帯を狙えば、その分、隙が生じる。


 それに夕刻の交代と違って、早朝は気が緩む傾向にある。


 何故かというと夜を越えたからだ。


 朝になれば人間の心理としてホッとするものだ。


 それが交代の時刻なら尚更。


 最大の油断、だ。


 だが、その頃には村長がやってきて機会を得られない。


 しかし最悪の場合、時間帯なんて気にしている余裕なんてないだろう。


 村長が離れたときが最大の機会だから、それが夜以外ならやるしかない。


「離れている時間が辛いよ、瑠璃」


 ささやきが閉じ込められている彼女の元まで届けばいいとそう思う。


 あれからだれとも連絡を取らず、ほとんど接触も持たない真弥は、由希の父が用意してくれた家も出て、適当に見付けた狩猟小屋で過ごしていた。


 ずいぶん前に捨てられたのか、この部落で生まれ育った真弥も知らなかった。


 それを利用するようになったのも1週間前からだ。


 今はだれとも逢いたくない。


 そう思って歩を進めようとしてギクッとした。


 どうやって知ったのか、狩猟小屋の前に由希が立っていた。


 思い詰めた顔色で。


 握り締めた両手が震えている。


 だが、声をかけるつもりにはなれなかった。


 彼女の傍を通り抜け、中に消えようとしたとき声が届いた。


「瑠璃さまはたぶん神殿で1番警備の厳しいところにいるわ」


 驚いて振り向いたが、やはり声は出なかった。


 これからもし生き延びたとしても、彼女のしたことを許せる日はこないだろうから。


「極秘部屋の牢獄がどこにあるのか、あたしも知らないわ。でも、予測はできる。瑠璃さまが監禁されている場所は、兵士たちが絶対に行かせまいとするところ。神殿で1番警備の厳しいところよ。神殿は……そういうところなの」


 俯いた由希がそう言った。


 それは歴代の巫女が君主とは名ばかりで、実は囚われ人だったことを告げる言の葉なのか、真弥にはわからなかった。


 ただそれだけを告げてなにも言わず、踵を返した由希に声を投げた。


 たった一言、本心からの言葉を。


「ありがとう」


 告げた後はそのまま休もうと中に入った。


 信じられないと振り返った由希は見ないまま。


(あたしは……もう赦されないって、二度と声もかけてもらえないって思っていたのに)


 なのに真弥は言うのだ。


 ありがとう、と。


 だから、瑠璃なのだろうと、今なら素直にそう思えた。


 涙が頬を伝っていく。


 今更どうにもならない過ちを繕う術もないのだと噛み締めながら。





「いい加減に同じ質問を繰り返すのはやめて、村長。同じ言葉を答えるのは、もう飽きてしまったわ」


 うんざりとそう漏らす瑠璃に村長は苦い顔を向けている。


 問いかけているのは力の有無についてである。


 村長にとっては大事なことなのだ。


 だが、瑠璃の返事はいつも同じ。


「由希がそう言ったのなら、そうなのでしょう」……と。


 それは肯定のようでいて否定のようでもあった。


 何故なら真偽のほどを由希の証言に任せているからだ。


 瑠璃自身がそれを認めたわけではない。


 が、そこを指摘しても返ってくる答えは同じ。


「由希は嘘は言わないわ。彼女はわたしが言った通りに、あなたに報告しただけよ」……と、にべもなく言い切る。


 どこまでいっても瑠璃自身の確言は貰えなかった。


「巫女殿。どうして力の有無に拘っているか、聡明なあなたにおわかりにならないか? もしあなたが力を失っていなければ、この部落がどうなるか」


「そんなこと、わたしが知っているわけがないでしょう」


「巫女殿っ」


 責任逃れに聞こえて村長が怒鳴ったが、瑠璃はまたあっさりと言ってのけた。


「わたしはもう巫女ではないわ。ひとりの妻よ。そんなことを知る術はないわ。それはあなたが1番よく知っているでしょう? わたしを捕らえ、ここに連れてきたのはあなただもの。そうではなくて?」


 巫女ではなくひとりの人妻として瑠璃を扱ったのは、自分自身だと指摘され村長は絶句した。


 そうして気付く。


 彼女はどこまでも名言を避けている。


 力の有無については由希の証言についてだけ口にして、自分ではなんとも言っていない。


 失ったとも失っていないとも。


 巫女の地位についても同じだ。


 そこから引き摺りおろし、捕らえたのは村長だと指摘しているだけで、力がないから巫女は名乗れないと宣言したわけではない。


 由希の証言を信じてそうしたのだろうと、遠回しに暗示されているだけだ。


 これはどういうことだろう?


 裏返せば由希が前言撤回をすれば、瑠璃は力を失ってなどおらず、今も巫女としての力を保持していることにならないか?


 だが、もしそうなら殺される覚悟をするほど、由希に義理立てするのは何故なのか?


 確かめなければならない。


 由希に。


 本当のことを。 しかし瑠璃が嘘をついているようにも見えない。


 力に関してではなく夫を迎えたことに関してだ。


 それについては瑠璃は明言している。


 夫はいると。


 自分は人妻だと。


 男と通じながら神力を失わない巫女などいるのだろうか?


 謎かけのような瑠璃の言葉は、ただ惑わすためだけのものなのだろうか。


 逃げ出すための隙を作ろうとして?


 どんな答えも出せなくて村長はため息をついて、由希に逢おうと陽の高い内に彼女の家に向かうことにした。


 その背を見送って瑠璃もため息をつく。


 何故だか胸騒ぎがして。


(真弥……)


 心で愛しい夫の名を呼んで、瑠璃はまた祈りはじめた。





 いつも通り正面から帰ろうとした村長は、意外な騒動に出会した。


 兵士たちが慌ただしく動き出していて、ひっきりなしに断末魔の悲鳴が上がっている。


「どうした? 何事だね、これは?」


 現場に駆けつけようとした青年を取り押さえ訊ねると、彼は焦ったように指示した。


「村長さまは裏からお逃げくださいっ。襲撃者ですっ」


「襲撃者? どこかの軍か?」


 神殿に仕掛けてくるなら、そうとしか思えなかったのだが、兵士はかぶりを振った。


「襲撃者は……ひとり、です」


「ひとり? たったひとりの襲撃者を取り押さえることができないのか?」


 その上に自分に逃げろと言うのかと、村長が非難の声を上げると、彼は悲鳴のように口にした。


 予想外の名を。


「襲撃者はあの天才剣士、真弥ですっ!! 我々ではとても歯が立ちませんっ!!」


「天才剣士、真弥……」


 愕然とした声が出た。


 落ちこぼれ剣士と揶揄される影で、畏怖と共に口にされてきた真弥の異名。


 ――――決して本気にならない天才剣士。


 その真弥が神殿を襲撃している?


 断末魔の悲鳴は間がないほど、ひっきりなしに上がっている。


 どう好意的に聞いても、真弥が一瞬とも言える時間で、何人も同時に殺しているとしか思えない状況だった。


 逃げろと強く勧められるのを、すこしのあいだだけだと遮って、村長は修羅場を目にした。


 もう入り口は突破したのか、真弥はすでに血の海となった広場にいた。


 普段ならその更に奥に瑠璃の私室がある。


 この短い時間にここまで突破したのかと感嘆の思いだった。


 今はいつもの倍の警戒をしているし、警備の人数だって数倍に増やしている。


 強者ばかりを集めて。


 それなのに真弥は短時間にここまで辿り着いている。


 そうして彼の周囲には物言わぬ骸が、累々と転がっていた。


 一歩足を進めるだけで革の靴に血飛沫が飛ぶ。


 手にした長剣は血の色に染まり、まるで妖刀のようだ。


 生命を持っているかのように妖しく輝いている。


 いつもの優しげな面影はどこにもなく、きつい瞳で周囲を注意深く窺っているのが見えた。


 その眼は刃物のような鋭さがある。


 右側から襲ってきた兵士を軽々と斬り捨て、反対側から襲ってきた兵士を、片腕に持ち替えた剣でその腹を刺す。


 獣も殺せない、傷付けることもできない、あの真弥だとは思えない機敏で残酷な動きだった。


「これで23人」


 殺した人数を数えているのか、それとも真弥が警告しているのか、冷たい声がそう言った。


 唇を噛み締める。


 まさかの相手だった。


 予想しえない相手だった。


 まさか彼が……。


「決して本気にならない天才剣士、真弥。彼が巫女殿の夫か」


 人柄的に理解はできる。


 瑠璃と彼はどこか似通っている。


 通じ合うものがあるから惹かれ合ってしまったのだろう。


 だが、彼の境遇を思えば、こんな事態になるなんて、だれにも予想できない。


 ましてやあれだけ責められても、人を殺せなかった真弥が、今こうして襲撃者として大量殺人を平然と行っているなんて、一体だれが思うだろう?


 あの真弥が本気になった。


 瑠璃が処刑されるから。


 愛する妻を救い出して奪うために。


「急がなければ……っ」


 由希を呪いたい心境で村長は慌てて裏から逃げ出した。


 彼女に真偽を問い質すために。


 真弥が瑠璃の夫なら、どうして瑠璃が死を覚悟してまで、由希にすべてを委ねたのかがわかる。


 どこまで真実かがわからない。


 すべては闇の中。


 だが、最悪の事態を招く前になんとかしなければならなかった。





 もう平常心を保つのも難しいほどの人数を葬ってきた。


 最初は多少の抵抗感があったし、殺した相手に罪悪感を感じたが、それに浸りきる時間を与えない反撃に、真弥もすこしずつ感覚が研ぎ澄まされていくのがわかった。


 人の死に一々反応していたら、こちらが殺される。


 瑠璃を助け出し共に逃げ出すまでは、絶対に死ぬわけにはいかなかった。


 まだだ。


 まだ兵たちには隙がない。


 慌てふためきながらも、真弥の前に進み出てくる。


 それを真弥は鬼神のごとき強さで次々と屠っていった。


 その姿のあまりの壮絶さに兵士たちがぞっとしている。


 やがて兵士の数が減っていき、彼らはひとつの方向に集まり出した。


 まるでそこには行かせないとするように。


 ニヤッと真弥が笑った。


 いつもなら見せない凄みのある笑みだった。


(あそこだね。遂に隙を見せた。彼らがぼくを行かせまいとするところ。そこに瑠璃はいる。後すこし。後すこしだから、瑠璃。それまでどうか無事でいてっ!!)


 祈るような思いで3人を葬った真弥は怯える兵士たちを一瞥した。


 その眼差しのあまりの鋭さに兵士たちが震え上がる。


 疲れは頂点にきている。


 腕は鉛のようだったし、足だって重石をつけているような気分だ。


 それでも真弥の動きには些かの乱れもない。


 そして……。


「そこを通してもらうよ。ぼくを待っている人がいるんだ」


 真弥がそう言って剣を突き付けたとき、信じられないと声が上がった。


「真弥。おまえ……」


 突然の声に真弥がハッとした。


 兵士たちを掻き分け現れたのは勇人だった。


 お互いに信じられないと相手を見ていた。


 幼なじみとして育った相手だった。


 戦場で真弥が反撃できないとき、危なくなったときに自分の手を汚して庇ってくれたのも彼だったのだ。


 彼は真弥ほどではないが、真弥に次ぐと言われているほどの凄腕の剣士だ。


 この非常事態に収集されても不思議はない。


 お互いに相手を見詰めたまま、ふたりは暫しその場に立ち尽くした。






「由希っ。出てきなさい!! 由希っ」


 声高に連呼している村長に驚いて、由希が自分の部屋から現れた。


「どうかしたんですか、村長?」


 神殿に行く必要がなくて暇なのか、由希は普段着で寛いでいたようだった。


 のんびり現れた彼女に苦々しい気分で訊ねた。


「巫女殿の夫があの真弥だと何故教えなかった?」


「それは……」


 俯いて唇を噛む由希に、村長は彼女の肩を掴んで揺さぶった。


「答えなさい。巫女殿は真実その力を失ってしまったのか? わたしにはとてもそうは見えん。巫女殿は未だに力に溢れているように見える。どうなのだ?」


 なにかに逡巡しているように視線を彷徨わせる由希に、村長が厳しい口調で突き付けた。


 一部の者しか知らない事実を。


「これはきみは知らないかもしれないが、力ある巫女や神官を殺すことは禁忌とされている」


「何故ですか?」


「力ある巫女や神官を殺めれば、その力の強さの分だけ、殺した者にその部落に災いが起きるからだ」


「え?」


 真っ青になった由希に村長はいやな予感が強まるのを感じていた。


「巫女殿は稀有な力を保持している。あの方がもし力を失っていないにも関わらず、由希の密告で処刑されたら、最悪この近隣はすべて崩壊するだろう」


「そんな……」


 ガクガクと震え出す由希に村長は舌打ちをひとつ漏らした。


「それも軽い被害を想定しての話だ。もっと酷ければ我々の目に及ばぬ土地までも、その余波を受けるかもしれない」


「瑠璃さまのお力はそれほどまでに偉大だと?」


 震える声の問いかけに村長は「そうだ」と頷いた。


「あの方の力は特別だ。過去数多あった巫女たちを凌駕する力。どれほどの災いが起きるか、予想もつかん。おまけに今巫女殿の身に危険が迫っていることを知った真弥が、神殿を強襲している」


 由希の顔にははっきりと「信じられない」と書いていた。


 だれが由希の立場でもそうだろう。


 あの真弥が自分から襲撃者になって人を殺すなんて、冗談だとも思ってくれないに決まっている。


 真弥の優しさはそれほどまでに有名だった。


「わかるかね? 真弥が行動に出ている今、処刑が早まる可能性もあるのだ」


 強く言い切る村長に由希は、その場に座り込みたい気分だった。


 瑠璃を救おうとしている真弥の行動が裏目に出る。


 いや。


 それは真弥だって承知しているはずだ。


 ならば彼は万にひとつの可能性に賭けて、瑠璃が殺される前に救いだし、ふたりで逃げ出すつもりなのだろう。


 ふたりの心はどこまでも重なっている。


 真弥が犠牲になっても瑠璃は生きていないし、瑠璃が犠牲になっても真弥は生きていない。


 だから、彼にはこれしか方法がなかったのだ。


 由希が……密告なんてしたから。


 大切なふたりを由希が死地へと追い詰め、部落まで危うくしてしまった。


 死ですらも購えない罪だと今更のようにそう思う。


「時間がないんだ。答えなさいっ。巫女殿のお力は本当に失われたのかっ!?」


 詰問口調で問われ、由希は頼りなくかぶりを振った。


 否定の動作を見て村長が青ざめる。


「瑠璃さまのお力は失われてはいません。それどころか真弥を夫としてから力が増しているとおっしゃっていました。歴代の巫女がどうだったのかはわからないけれど、自分は夫を迎えたことで力は増幅されている、と」


「つまり真弥との関係は巫女殿にとっては歓迎すべきことであったということか。何故それを隠して偽りの報告などしたのだっ?」


 怒鳴り付ける村長に由希は力なく視線を逸らした。


 だが、ここで由希を責めていても仕方がないと村長は慌てて神殿に引き返した。 警護の者たちは瑠璃が奪われそうになれば、いよいよ危ないとして独断で処刑を実行するかもしれない。


 少なくとも過去の事例ではそうだった。


 このような事態が引き起こされ、巫女の夫となった者が、真弥のような行動に出た場合、巫女を奪われそうになると大抵殺しているのだ。


 そのとき独断で殺すことが許される。


 瑠璃の力が失われず、真弥との関係によって、よりいっそう磨かれたのだとすれば、それは真弥の資質によるものかもしれない。


 彼の心は汚れを知らない。


 純粋で無垢な心を持つ唯一の人間だ。


 そんな人間なら巫女の障害とならずに契りも結べるのかもしれない。


 一言報告されていたら、瑠璃の力が失われず、真弥との関係が相乗効果を生むなら、ふたりの関係は認められたはずだ。


 それはもちろんふたりが望んだように、普通の生活は送れなかっただろうが、巫女が直接母親になれるなら、生まれてくる子供にも、その力が受け継がれている可能性が高い。


 その子はそのまま巫女の後継者になれるのだ。


 だから、例外中の例外として、真弥は瑠璃の夫として認められ、神殿への居住も許されたはず。


 しかしながら村長にはわかっていた。


 例え認められたとしても、そんな生活はふたりの望むものではない、と。


 瑠璃も真弥も驚くほど無欲だ。


 どれほどの権力を与え富を与えても無意味。


 ふたりにとっての幸せは、ごく普通の生活なのだろうから。


 だから、隠していた。


 いずれはふたりで逃げ出すつもりだったに違いない。


 それができなかったのも、また巫女の力故、か。


 あまりに強すぎる巫女の聖なる力。


 恐ろしい。


 それまでの力でも十分すぎるほど驚異だったのに、今の力の増している瑠璃が、万が一手違いで処刑されたら、絶対に部落は滅ぶ。


 なんとか間に合ってくれと、祈るような気持ちで走りつづけた。





「真弥。どうしておまえが? おまえが人を殺すなんてあり得ない!!」


 太刀を中段に構えながらも勇人が信じられないと叫ぶ。


 友の叫びに苦い気持ちになりながら、真弥はできるだけ冷たい声で答えた。


「言ったはずだよ、勇人。そのときになれば、ぼくが部落を出ていかなければならないのは何故なのか、きみにもわかるはずだって」


「まさかおまえ……」


 青ざめた顔色で勇人が何度もかぶりを振る。


 今この神殿で1番価値があり、なお命懸けでそれまでの価値観をかなぐり捨てても、助けたいほど危険な位置にいる人がいるとしたら、それはひとりだけだ。


 処刑の決定された元、巫女。


 巫女の罪状は最も重いもので夫を迎えることである。


 それ以外では処刑されないのだ。


 尊ぶべき方なので。


 その巫女が処刑される。


 それは巫女が夫を迎えた証。


 妻の危地を悟ったなら、男ならなんとしてでも助け出したいだろう。


 意に添わぬことを実行してでも。


 ましてや戦うことを生業とする者なら、だれの手も借りず自分ひとりの手で助け出そうとしただろう。


 今の真弥のように。


 厄介な相手に惚れたらしいとは思っていたが、まさか巫女だとは思わなかった。


 これではどんな言い逃れもできない。


 剣戟の音が絶え間なく響き、だれも立ち入れないほど凄まじい斬り合いの最中に、勇人は触れるほど目の前にある真弥の顔にやりきれない目を向けていた。


 交差した剣がギリギリと音を立てる。


「どうして言ってくれなかったんだ、真弥? 言ってくれたらおれだってなにかの役に立てたかもしれないのに。そうしたらおまえと殺し合うこともなかったのにっ」


 例え天に背こうとも真弥の味方をしたのだと、勇人の真摯な瞳は言っていた。


 だからこそ、真弥は言わねばならなかった。


 偽りのない本心を。


「巫女が相手なんだよ? きみの好意はわかってた。だからこそ甘えられなかったんだよ、勇人」


「水くさいことを言うなっ!!」


 憤る声に真弥は苦い顔になる。


 何度かの交差のときに勇人に告げた。


「きみなら自分の個人的な問題で、大切な幼馴染みを殺せるのかい、勇人?」


 真弥の瞳は言っていた。


 部落が捨てる覚悟をしている自分たちはいい。


 だが、そのために勇人を巻き込んで、彼まで部落を追われることになったり、もしくは殺されることになったりしたら、真弥は自分を許せない。


 だから、言えなかったのだ。


 勇人の友情に偽りがないことも、真弥のためなら危険を犯すことも知っていたから。


「巫女が力を失ったら同じことだろう?」


 冷たい声に真弥はすれ違い様に呟いた。


「瑠璃は力を失ってなんていないよ」


「なっ」


 振り向いた勇人が絶句している。


「彼女の力は失われてはいない。それどころか、ぼくはあれほどの力を持った巫女なんて知らない。だれも比較にならない力だ」


「……」


「わかるだろう? だから、ぼくは瑠璃を助けるんだ。それが部落を救うことにもなるから。もし瑠璃が処刑されたら……」


 この部落は滅びると真弥の黒い瞳が告げる。


 お互いに迷いがあったのか、何度も斬り結びながらも、どちらも傷を負っていなかった勇人は、この言葉を聞いて覚悟を決めた。


 真弥の隣に並び剣の切っ先の向きを変える。


「勇人?」


「この場は引き受けた。おまえはおまえを待っている女性の下へ急げ」


「っ!!」


 彼を信じていた兵士たちが息を飲むのが見える。


「でも」


「迷っている場合かっ。巫女殿が、いや、おまえの奥方が殺されたら、一体どうなるか、おまえが1番よくわかってるんだろうっ!?」


 どのみち危険を犯さずに危地を乗り越えることはできない。


 勇人には真弥に手を貸すことが最善の方法だと思えたのである。


 巫女が殺されれば滅ぶのなら、真弥と共に逃がした方がまだ危険は少ない。


 真弥はあんな嘘は言わない。


 だから、協力する気になったのだ。


 これがその場凌ぎの言い訳ではないと、真弥との付き合いの長い勇人にはわかるから。


 ここで下手に真弥の行動の邪魔をして、結果的に巫女が殺されたら、部落そのものが滅ぶのだ。


 真弥ひとりではできないことも、勇人が協力すれば叶うかもしれないから。


 部落が滅びて自分も死ぬくらいなら、真弥に協力して逃亡した方がマシだ。


 勇人にはそう思えたのである。


「どっちみち巫女殿が殺されれば、すべて終わるんだ。それくらいならおまえたちに協力し、部落を追われるくらい大したことじゃない。すべての死よりマシだ」


 裏切り者と斬りかかってくる兵士たちと戦いながら、そう囁いてきた勇人に真弥は小さな声で答えた。


「ありがとう。それから……ごめん、勇人」


 それだけを言って兵士のあいだをすり抜けた。


 その背に勇人は無言で激励を送る。


 どうかすべてがいい方に向かうようにと。


 すべての死か、巫女の逃亡か。


 でも、今になって思う。


 巫女に辛い思いばかりを強いてきた結果が、これではないのかと。


 だから……。


「裏切り者と呼ばれてもいい。すべての人々を救うために、おれは真弥に味方する」


 雄叫びをあげて斬りかかってきた勇人に、もはや兵たちはどうすることもできずに右往左往していた。





 いつものように祈りを捧げていた瑠璃は、ふとその顔をあげた。


「騒がしいのね。どうかしたの?」


 彼女の傍にただひとり残された年若い兵士が、上から聞こえる阿鼻叫喚に耳を傾けながら答えた。


「襲撃者のようです」


「襲撃者?」


 怪訝そうに言えば怯えたような声が聞こえてきた。


「落ちこぼれ剣士なんてとんでもないっ。まるで鬼神のごとき強さだ。恐ろしい」


(落ちこぼれ剣士?)


 眉が寄る。


 そう呼ばれながらも、兵士たちを恐れさせるほどの腕の持ち主なんて、瑠璃はひとりしか知らない。


 愛しい夫、真弥以外には。


 真弥はたしかに落ちこぼれ剣士と揶揄されていたが、その実力は最高峰で天才の呼び名も欲しいままにしていた。


 ただ絶対に本気にならないだけで。


(真弥がきている? わたしを助けに?)


 そう思うだけで胸が熱くなった。


 きてくれただけでいいから、人を傷つけることをあれほどきらっていた真弥が、人を殺すことも自分が傷付くことも厭わずにいる。


 それだけでなにもかも報われたから、どうか逃げてほしいと祈る。


 目を閉じてたたひたすらに。


 祈る。


 願う。


 真弥の無事を。


 彼が諦めてここから逃げて部落からも離れてくれることを。


 愛する人が生きている。


 それ以上に幸せなことなど、この世には存在しないのだから。


 真弥が聞けば勝手だと怒るだろうか。


 死ぬならふたり一緒だと。


 そうしてひとり祈りを捧げる瑠璃を少年剣士が見詰めている。


 自分とそう変わらない年頃ではないか。


 恋をしたからといって何故殺されなければならないのか?


 お偉方の考えることはよくわからない。


 ひとり残されるときに、もし侵入者の目的が巫女で、奪われそうになったら殺せと命じられた剣士は、やりきれないため息をついた。





 乱れそうになる呼吸を無理に整える。


 階段を数段飛ばしで駆け降りていくあいだも生きた心地がしなかった。


 諦めるときが死ぬときだ。


 彼女を諦めるくらいなら共に死ぬ。


 その決意を瑠璃に伝えたい。


 そうして明かりが漏れてくるのが見えて、最後の階段を飛び降りたとき、鉄格子の向こうに呆然としている瑠璃の顔が見えた。


「瑠璃」


「真弥!? 何故きたのっ!? あなたまで殺されてしまうわっ!!」


「違うよ、瑠璃。ぼくの望みはきみと共にあることだよ。例えそれが……死であったとしても」


 言いながら震えている少年に剣を突きつけたまま真弥が命じた。


「開けてもらおうか? ぼくの妻は返してもらうよ。変な真似はしないことだ。そのときはきみを殺してから瑠璃を救い出すからね」


 間近に見るのは初めてだったが、真弥の優しい人柄は聞いていた。


 噂が嘘のような冷酷な瞳。


 すこしでも変な動きをすれば殺されるだろう。


 だれかを愛すということは、これほどまでに人を変えるのだろうか。


 震える手で瑠璃を解放するあいだも不思議な気分だった。


 人と人との結び付き。


 それがすべてを変える。


 それが人間の営み。


 なのにそれが許されない人もいる。


 可哀想だ。


 そう思った。


 巫女の逃亡を黙って見ていたとなれば、どのみち殺されるのだから、真弥を隙をつくしかないのだとわかっていたから。


 でも、それで巫女を殺せても、この天才剣士の相手が自分にできるだろうか。


 どちらにしても殺されるのではないだろうか。


 震える手がもどかしい。


 それでも真弥は剣を取り上げようとはしない。


 危険性を忘れているのだろうか。


 そうして音を立てて鍵が外れ、瑠璃が飛び出した。


 愛しい夫の胸の中に。


「真弥っ」


「瑠璃!!」


 おそらく本能的な動きなのだろう。


 愛する女性にだけ真弥の視線が注がれ、一瞬の隙ができた。


 真弥はつい瑠璃を受け止めるために、両腕を広げてしまったのである。


 ハッと我に返る。


 そのときには……。


「お許しください、巫女さまっ!!」


 悲鳴のような声がして太刀が振り下ろされた。


「瑠璃!!」


「真……弥……」


 伸びた手が真弥に届く前に落ちる。


 斬られた背から血飛沫が飛んだ。


 瑠璃を斬るのとほぼ同時に真弥によって斬られた少年は、薄れゆく意識の中で真弥が瑠璃を抱き止め、狂ったように名を呼ぶ姿を見ていた。


 自分が招いた悲劇と己の末路。


 すべてが終わるのだと噛み締めながら、何故それでも殺したんだろう。


 終末の予感を感じていたくせに。


 殺せば終わるのだとわかっていたのに……。


 人の愚かさを神が笑うのか。


 愛しい巫女を殺されて。


 地が鳴動する。


 崩れていく神殿を最後に目を閉じた。


「瑠璃? ぼくの声が聞こえているかい?」


 何度名を呼んでも、もう瑠璃は目を開かない。


 最後に一度瞳を開いたときは、真弥を見て嬉しそうに幸せそうに微笑んでいた。


 真弥の腕の中で死ねるのが、最高の幸せだと訴えるように。


「きみはひどいよ。ぼくをおいて逝くなんて……ぼくをひとりにするなんて……」


 こんなにむごいことが他にあるのかと、真弥はただ泣いていた。


 愛しい女性の亡骸を腕に抱いて。


 パラパラと音を立てて神殿が崩れていく。


 異変が起きているのは神殿だけではないだろう。


 どのくらいの範囲が道連れとなるのかは知らないが、この変動は広範囲の土地を襲っているはずだった。


 ありとあらゆる天災が起きる。


 地に恵みを与え、天へと祈る愛し子を殺された大自然の、そして神の怒りに触れて。


 ふたりが出逢って、そうして引き裂かれた故郷。


 その最後を瑠璃に見せてやりたかった。


 ふたりでそのときを迎える。


 真弥はもう崩れさる神殿から逃げる意思もなかった。


 ただ歩く。


 部落のすべてが見下ろせる頂上を目指して。


 その遥か高見から滅びゆく部落を眺め、そうしてそのときを迎える。


 それが真弥の望んだ最期だった。


 不思議なことに瑠璃を抱いて歩く真弥の周囲では異変は起きない。


 まるで護られているように。


 ひび割れた廊下を歩いて外に出た。


 遠く見渡せる故郷は今唐突な終わりの時を迎えていた。


「瑠璃。見えるかい? きみが護ってきたすべてのものが滅びていくよ」


 地割れに飲み込まれていく人々。


 逃げ惑い神に救いを求めている。


 愚かだと思った。


「約束するよ、瑠璃。何度生まれ変わっても、ぼくはきみを捜す。そうして今生では果たせなかった夢を果たすから。何度死んでもぼくらは生まれ変わって出逢うから」


 呟いて誓って、そうして真弥は声を殺して泣いた。


 腕の中に愛しい女性を抱いて。





 すべてを望み望みすぎた人々は、小さな犠牲で大きな利益を得ようとする。


 けれど、それは望んではいけない幸せの形。


 だれかの犠牲の上に成り立った幸せは、いつかその犠牲の重さの分だけ報いを受ける。


 そうして幾つもの文明が滅び去っていった。


 これはその中のひとつの挿話。


 ひとつの小さな恋は歴史の中に生まれ、そうして儚い泡のように消えていった。


 幸せになることを許されないままに……。

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