第4話 枯れ草の寝台






 あれから真弥には逢っていない。


 真弥が忙しいと言っていたのもあるが、別れ際に彼が言っていたことが気になって、逢う勇気を持てなかったのである。


『大事な人には隠し事されたくないよね?』


 瑠璃の瞳を覗き込んできて、そう言った真弥。


『でも、大事なこと隠されてると相手も言いたくても言えないよね?』


 あの言葉の意味を何度も考えてみた。


 曖昧なあの言葉。


 でも、瞳はまっすぐに瑠璃を捉えていた。


 彼がなにを言いたかったのか、必死になって考えた。


 瑠璃は普通に人付き合いをしたことがない。


 そのことがこのときは本当に悔やまれた。


 瑠璃には判断する基準がないのだから。


 そうして同じ日にお傍付きの由希から、思いがけない話を聞いて、瑠璃は自分の真弥への気持ちがなんなのか、そのことを気にしはじめた。


 そうなるととても真弥には逢えなかったのである。


『恋』


 男が女を女が男を恋うる気持ち。


 知識に乏しい瑠璃には、そんなふうにしか解釈できない。


 人を愛しく思う心。


 それは部落を護りたいと愛する心とは意味が違うのだろうか?


 だいたい巫女にとって恋や愛は禁忌だ。


 異性との接触が禁じられていることでもわかるように、だれかと結ばれることなど認められていない。


 それはすべてを裏切る行為だ。


 巫女が夫を迎えれば死罪。


 それが揺るぎない掟。


「……」


 名を呟きそうになって唇を噛む。


 今度、真弥に逢うときは答えを出してから。


 ずっとそう思っていた。


 思って思いつづけて1週間が過ぎている。


 こんなに長く逢わずにいるのは出逢ってから初めてだった。


 振り向いたら隣で微笑んでくれているような気がするのに……振り向いても、そこに真弥はいない。


 そのことが泣きたいほど悲しい。


 切なくて……。


「わたしは掟に振り回されない。自分に素直に生きるわ。わたしだって……生きている。心を持っているのよっ」


 きつい口調で呟いて、瑠璃は久しぶりにお忍びに出るため、慌てて準備を始めていた。





「やれやれ」


 いつも瑠璃と逢う湖の畔。


 待っていても彼女はこないのに、じっと待ち続けている。


 あの日から。


 言わない方がよかったのだろうか。


 問えば逢えなくなるかもしれない。


 そんな予感はあった。


 あったのに口に出してしまった。


 そうして……逢えない。


 もう1週間もこうして待っているのに。


 ただ彼女がきてくれるのを。


 家を探すのも上手くいっていない。


 由希が気づいて邪魔して回っているからだ。


 空き家を見つけても、住むところまでこぎつけない。


 必ず由希に邪魔をされる。


 おかげで由希の家から出られない状態が続いていた。


 瑠璃に逢えれば、それだけで気分は晴れたかもしれない。


 でも、そんなときに限って疎遠になっていて、なにをやっても上手くいかない。


 半分くらいは八つ当たりだと気づいていても、解放してくれない由希とは、最近は口もきいていない。


 彼女から話しかけられても避けている。


 おじさんからは「すまない」と謝罪されたが。


 由希を説得しているが上手くいかないと。


 せめて妻を迎えるまで、ここにいてくれないかとまで言われたが、それは由希の思うツボのような気がしたし、それでは権力に屈するようでいやだった。


 結局は真弥よりも由希に力があるのだ。


 だから、なにをやっても上手くいかない。


 本当は……こんなときだから、いつもよりずっと瑠璃に逢いたい。


 逢って微笑んでもらえたら、それだけで心が癒されるから。


 彼女の微笑みだけで心の支えになるから。


 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。


 素性に触れられるのを彼女はあんなに警戒していたのに。


 逢いたいのに逢えない。


 両手で頭を抱え込んで目を閉じる。


 それだけで瞼の裏に瑠璃の笑顔が浮かぶような気がした。


 でも、思い描く瑠璃は何故か泣き顔なのだ。


 それがやるせなくて辛かった。


「真弥」


 ハッとして振り向いた。


 空耳?


 瑠璃の声が聞こえた気がしたのに。


 気配はない。


 どこにいるのかもわからないくらいの静寂。


 でも、瑠璃は初対面のときに気配を感じさせなかった。


 意図的になら気配は殺せるかもしれない。


 彼女が本当に巫女ならそのくらいはお手の物だろう。


「瑠璃? いたら出てきてほしいよ。さっきの声がぼくの空耳でなければ。きみに……逢いたいっ」


  立ち上がって振り向いても気配はない。


 声もしない。


 やっぱり空耳かと肩を落としかけて、もう一度声が聞こえた。


「今……行くから、すこしだけ待っていて」


 声が震えているような気がして、ちょっと戸惑った。


 逢えるだけで嬉しかったから、声が聞こえたら、空耳じゃなかったとホッとしたけど、この状況はなんだろう?


 衣擦れの音が聞こえる。


 もしかして。


 疑って視線を流していると大樹の影から、ひとりの少女が姿を見せた。


 純白の絹の綾織りを身に付けて。


 腰に届くほどに長い黒髪。


 純白の衣服がよく映える。


 想像していた通り瑠璃は黒髪だった。


 あんなに綺麗な黒髪は見たことがない。


 それにあの衣装からみて間違いなく彼女が巫女だ。


 由希でさえ、あれほど豪華な衣装は持っていないのだから。


 言葉は出なかった。


 これが1週間悩んで出した彼女の答えだと知って。


「瑠璃?」


 名を呼ぶと合わせた両手が小刻みに震えた。


「怒ってる? あなたを騙していたこと」


「どうして? 怒っていたらあんなことは言わないよ。それにきみは自分から本当の自分を見せてくれた。だから……もういいんだよ、瑠璃」


 本心だった。


 その立場を思えば決して簡単な決意ではなかっただろう。


 それはこの1週間という時間が示している。


 瑠璃は悩んで悩んで、そうして答えを出したのだ。


 裏切りじゃない。


 彼女の真心。 言わなくても言われなくても、もうお互いの気持ちはわかっているような気がしていた。


 錯覚のような一瞬でも、それは紛れもない真実だった。


「憶えているかな? 1番大切なことを隠されていると、相手も言いたいことが言えなくなるって言ったぼくの言葉?」


 コクリと頷く彼女に微笑んだ。


 今なら告げられる。


 そう思ったから。


「きみが女の子だって出逢ったときから知っていたよ」


「え?」


 驚いた顔をする瑠璃に笑ってみせる。


「本気でぼくを騙せると思ってた?」


 苦笑した問いには否定の動作が返ってきた。


 薄々わかっていた。


 彼女の方もそんな態度だった。


「ただどうして偽るのか、事情まではわからなかったし、あのときの瑠璃はとても真剣に見えたから、あまり悪い解釈はしていなかったんだ。だから、付き合ったんだよ?」


「知らなかった……」


 本当に世間知らずな瑠璃。驚いた顔でそう言って。


 でも、そんなところが可愛いと思うし、好きになった理由でもあるけど。


 瑠璃の世間知らずは由希とは意味が違うから。


 彼女はいい意味で染まってない。


「疑問は……あったよ。瑠璃はあまりにも不自然だったから。でも、すこし付き合えばそれが演技かどうか、瑠璃の素顔なんてすぐにわかる。ぼくも伊達に剣士は名乗っていないからね。人の本質を見誤るほど愚かではないつもりだよ」


「そうね。あなたはとても聡明な人だわ。真弥。聡明すぎて真理がわかるから、あなたは罪を犯せないのよ。そのことでもう自分を責めないでほしいわ。あなたは間違っていないから」


 優しい言葉に頷いた。


 これが巫女の託宣というものなのだろうか。


「自惚れかもしれないけど、ぼくにはきみがよくわかったし、きみならぼくをわかってくれると信じてる」


 また頷かれ、ちょっと不安になる。


 こちらの言葉だけを伝えて、彼女の気持ちを聞いていない。


 すべて伝えれば言ってくれるだろうか。


 建前も演技もすべて捨てた彼女の本心を。


「だから、かな。きみから事情を聞いて、もう素性には触れないでいようと決めたのに、きみが理解できてくるほど、演技を重ねてごまかして付き合っていることが苦痛になってきたんだ」


「真弥」


「きみがなにも言ってくれないから、ぼくも言えない。これはぼくの本心だよ。ずっと悩んでいた。あの日それを告げる勇気が出たのは……きみがだれなのか、やっと気づいたからだよ」


 ギクリとしたのか、青ざめる瑠璃に一定の距離を保ったまま微笑みかける。


 今近づけば逃げられるような気がした。


「きみは……巫女だよね、瑠璃?」


 何度か視線を逸らしてためらうような素振りを見せた後で、瑠璃はゆっくりと頷いた。


 人が聞いたら羨むだろう。


 美貌で知られる巫女を一目見たい。


 これは村の男たちの潜在的な願望だからだ。


 噂をすることも許されなくて、おおっぴらにはできないが、だれもがそう願っている。


 バレたら八つ裂きかな? と、軽く肩を竦めた。


 たしかに……綺麗だ、瑠璃は。


 こんなに綺麗な少女をぼくは見たことがない。


 姿だけじゃない。


 内側から滲み出る「なにか」が彼女を内面から輝かせている。


 でも、ここにいるのは巫女じゃなくて、ひとりの女の子、瑠璃だ。


 素直にそう思える。


「素性に気づけばきみが偽るのが何故なのか、あのときぼくの申し出を断ったのは何故なのか、ぼくにもやっとわかったよ」


「……ごめんなさい」


「どうして謝るの?」


 問いかけると瑠璃は驚いた顔をした。


「たしかにびっくりしたし、その現実が秘める意味に気づいたときは、あのときのぼくの方がうかつだったんだなってわかるよ。

 中途半端な好意なんて、きみには迷惑なだけだよね。きみの立場を思えば、中途半端な決意では傍にはいられない」


 泣き出しそうな瑠璃。愛しい瑠璃。


 どうか気持ちを告げるまで逃げないでほしい。


 でなければ瑠璃はきっと逃げ出して二度と逢ってくれない。


 自分の運命に巻き込むことを、1番恐れているのは他ならぬ瑠璃だ。


 だから、聞いてほしい。


 偽りのない、この心を。「だけど、ぼくは言ったよね? 隠し事はされたくないって。これがどういう意味になるか、わかるかい、瑠璃?」


「わたし……わたし……」


 両手で口許を覆って泣き出した瑠璃にもう一度微笑みかけた。


「きみのためならぼくは人を殺せるよ?」


「真弥……」


 驚きが、その涙で潤んだ黒い瞳に浮かんでいく。


「きみを護るためならぼくは人を殺せる。この決意は嘘じゃない。そういう真似はきみはキライだろうけど、ぼくの望みはそうでもしないと果たせない。それでもいやじゃなかったら……この手を取ってくれないかな?」


 一定の距離を保ったまま手を差し出した。


 まだだれかを殺したことはない手。


 でも、手が触れ合えば、たぶん、血塗られる手。


 その手を瑠璃が取ってくれるかどうか、それが知りたくて祈るように彼女を見ていた。


 汚れを知らない乙女。


 汚すのはぼくかもしれない。


 でも、護るから。


 命懸けで護って愛するから、だから、どうか……。





 差し出された手が微かに震えている。


 隠そうとしても痛いほどの彼の緊張が伝わってくる。


 あれほどだれかを傷つけることを厭っていた真弥が、動物さえ傷つけられないと笑っていた真弥が、瑠璃のためなら人を殺せるとまで言ってくれた。


 罪かもしれない。


 どんな理由があれ人を殺せば、それは罪だと言ったのは瑠璃だ。


 なのに彼の言葉が泣きたいほど嬉しい。


 破滅しか待っていないかもしれない。


 でも……。





 時がすべてを止めるような静寂の中で、ゆっくり近づいてきた瑠璃の手が、差し出されていた真弥の手と重なった。


 一瞬の硬直。


 そうして真弥の顔に今まで見たこともないような、嬉しそうな極上の笑顔が浮かんだ。


 瞬きを繰り返して確かめている瑠璃を掴んだ手を引っ張って抱き締める。


 それだけでただ……愛しかった。


「好きだよ、瑠璃。きみを……愛してる」


 吐息のような告白。


 腕の中で何度も頷く愛しい少女。


 泣いているのかもしれない。


 抱き締めた肩は震えていたから。 真弥がそうであるように、きっと瑠璃もそうだろう。


 なんとなくそうわかる。


 だが、だからこそ真弥の存在は、真弥との関係は瑠璃の生命線にもなる。


 知られたら、それが最悪の密告だったりしたら、(例えば夫を迎えたと嘘でも言われたりしたら)瑠璃の生命はない。


(どうしよう? 由希のことを瑠璃に言えば、瑠璃が余計な罪悪感を抱きそうだから言えない。

 でも、なにも言わなかったら、不味くないだろうか? 彼女がうっかりぼくの名前を出したりしたら、一体どんなことになるか)


 それにあまり変な勘繰りはされたくないし。


 だいいち隠し事はされたくないと言って、瑠璃にこれほど重い真実を打ち明けさせたのは真弥だ。


 真弥も真実を返すべきだろう。


 ただその方法が問題だ。


 瑠璃が自分を責めないように話を運ばないといけないし、由希には絶対に気を許さないように注意しないといけない。


 でも、そういう人を疑うような行為を、瑠璃が受け入れてくれるだろうか。


「真弥? どうしたの? もう着替えは終わったけれど」


 言われて振り向けば、いつもの格好をした瑠璃がいた。


 そういう場合ではないし、自分で言ったことだというのに、ちょっと勿体ないな、なんてため息が出てしまう。


 そういうことを感じる程度には、真弥も普通の男だったということだろう。


 実際、自分でも絶対に淡白だと思い込んでいたのだが、どうやら違うらしい。


「なに? その顔」


「いや。初めて見た女の子らしい格好が、あまりに似合っていたから、ちょっと勿体ないなと思って」


 頭を掻いてそう言えば、瑠璃は頬を染めて顔を背けてしまった。


 可愛いなと笑みが零れる。


「ほんと。瑠璃ってすごく可愛くて綺麗なのに、今まで見られなかったわけだから、結構、損をしてきてるよね、ぼくも」


「もうやめて、真弥。恥ずかしいじゃない」


 瑠璃はもう真っ赤だ。


 もうすこし苛めてみたいなんて思ったけど、やめておいた。


 どうして好きな相手は困らせたいのかな?


 自分で自分がよくわからない。


 でも、もし違う男に似たような科白を言われて、瑠璃が同じ反応を見せたら……ちょっと想像したらなんか……ムカッときた。


 なんだか自分で自分に振り回されている気がする。


 ちょっと落ち着かないと。


 ぼくがこんな調子だと、ぼく以上に免疫のない瑠璃を戸惑わせてしまうから。


 そのくせ困らせてみたいんだから、変だよね、ぼくも。


「真弥?」


 下から窺うように見上げられ、ちょっと笑ってみせた。


 ごまかし笑いだったのだが、瑠璃はホッとしたようだった。


「今日はちょっと時間あるかな? 大事な話がしたいんだ。きみに」


「夕刻くらいまでなら。巫女のお仕事は大抵夜にあるから昼間は暇なのよ」


「ふうん。巫女の仕事ってなにをするのかな?」


 いつも通り湖の畔で隣り合わせで腰掛けた。


 違っていることがあるとしたら、真弥が瑠璃の肩を抱き寄せていて、瑠璃が肩に凭れかかっていることぐらいだろうか。


 甘えられてなんだか嬉しくなる。


「色々あるけれど基本的には託宣のための潔斎とか、村長とか、部落の顔役との打ち合わせとか。そんな感じね。巫女のお仕事で1番重要視されるのが、託宣のための潔斎と託宣を行うときの儀式よ」


「へえ」


 全然知らなかった。


 瑠璃を見ていると、そういうややこしい手順はいらないような気がするのに。


「でも、だれもわかってないのよ」


「え?」


「歴代の巫女がどうだったかは知らないわ。でも、わたし……本当は託宣をするのに、そういう手順っていらないのよ」


 言われても納得しかしなかった。


 真弥にはそういう特殊な能力はないが、なんとなく瑠璃を見ていると、不思議な感じがするから変だと思ったのだ。


 さっき力を使うのに儀式がいると言われて。


「例えば村長から戦についての託宣を求められたとするでしょう? そうするとわたしには意見を求められたときに、すでに答えは出ているの。託宣はすでに終わっているのよ」


「それなのに儀式をするの?」


「大人ってどういうわけか、きちんと儀式をしないと信じないの。バカよね。儀式をしてもしなくても、意味も結果も変わらないのに」


「じゃあ西の部落との戦を止めたのは、もしかして瑠璃だった?」


 驚いた声で問いかけると瑠璃は笑った。 それで答えがわかった。


 だったら戦が起きなかったことを知っていても不思議はない。


 むしろ当然だ。


 止めたのは他ならぬ瑠璃なのだから。


 あれはもしかしたら自分の託宣が受け入れられたかどうか、確認しただけなのかもしれない。


 だから、受け入れられていると知って、あれほど嬉しそうに笑ったんだ。


「村長は一体どんなふうにきみに託宣を求めたんだい?」


「いつもと同じよ。西の部落が攻めてくるかもしれないから、その規模とか、そういったことを託宣してほしいと」


「言いたくないけど言い訳だね。あれはもし起きていたら、間違いなく悪いのはこちらだったよ」


 だって仕掛ける側なのだから。


 というより用意周到にすでに準備はされていた。


 巫女が許せば即座に戦が始まっただろう。


 そのために向こうを混乱させて、わざと国主を狙ったのだ。


 向こうの戦意を高めるために。


 そうすれば向こうから攻めてくる。


 こちらがやったという証拠さえ残さなかったら、ただその疑いがあるというだけで、攻めてきた西の部落が悪いと建前が揃うから。


 現在の村長はそういう意味では知恵に優れていたし、そういうことにかけて余念がなかった。


 私腹を肥やすため、領土を増やすための戦を自分から起こしていた。


 瑠璃にはそれがどう聞こえ、どう受け取ったのだろう?


「わたしにも視えていたわ。村長の手の者が、西の部落の国主を狙ったのでしょう?」


「すごいね。一言言われただけで、そこまでわかるんだ、きみは?」


 驚いてそう言えば瑠璃はやるせない笑顔をみせた。


 あんまり特別だと言われたくないのかもしれないな。


 普通に扱ってほしいのかもしれない。


 気をつけよう。


 今まで知らなかったことだから、つい素直に受け答えしてしまった。


 愛しい女性は傷つけたくない。


「真弥にはこの森はどう見えているの?」


「どうって……すごく綺麗な豊かな森だと思うけど? だから、気に入ってるし。瑠璃は?」


「この湖は青いけれど近くの河は赤い」


 それは血の色ということなのか?


 そんなものがいつも見えている?


 それはどんな気分なのだろう?


 よく正気を保てるものだ。


「村に近づくほど森は血塗られていく。村には濃い血臭が立ち込めているわ」


 口にする瑠璃の方が傷ついているようで、なにもできないから、救ってやれないから、ただ抱き締めた。


 見たくなくても、そんな現実を見るしかない瑠璃を。


「血臭が死臭になったら、この部落は終わりよ」


「だから、戦を止めたのかい? たしか言っていたよね? 人の生命を奪い合う戦は、天命の理に背く行いだから、いつか報いが襲うと」


 今ならあの言葉は巫女としての託宣だとわかる。


 問うと瑠璃は小さく頷いた。


「あなたには感謝しているのよ、真弥」


「え?」


「あのとき、あなたに逢って戦がなんなのか、剣士がなにをする仕事なのか、そういったことを教えられなかったら、きっと気づかなかったから。

 あなたにはわかりにくいかもしれないけれど、巫女の力は正しく理解した上で行われないと意味を違えてしまうの」


「それは村長がきみを騙して戦の託宣を求めた場合、それが悪い方向へ働くものなら、きみがそうと信じて言った託宣も、意味を変えるということかい?」


「そうよ。あなたから色々なことを教えられたから、わたしは現実に気づけたのよ。それは感謝しているわ。それにあのままだったら、あなたにも迷惑をかけたもの。わたしは真弥を護りたかった」


 愛しかった。


 巫女としての役目でもあったのだろう。


 滅びへと向かう部落を救いたいという気持ちも本物だっただろうが、その中に人を殺せないのに戦場に赴かなければならない真弥を気遣う心が、護りたいと思い詰める気持ちがあった。


 そう思うと無性に愛しくてならなかった。


「気づいたときは愕然としたわ。あれほど輝いて見えた部落が今は淀んでいる。滅びへとはっきりと向かっている。その意味を村長の託宣を求める声で知ったわ」


 好戦的で貪欲な村長の思惑を瑠璃は、巫女としての力で見抜いたのだろう。


 狡猾な村長が舌打ちする姿が見えるような気がした。


 瑠璃に先手を打たれてしまえば、村長がどんなに戦を起こしたくてもできないのだから。「きみが自分を責めるようなことじゃないよ。たとえきみが巫女だとしても、だよ。選ぶのは人間なんだから。そういうときに止められなかったことで、きみが自分を責める必要はないよ。裏切りは人間だけの悪徳だからね」


「そうね。それが天命の理なら、確かにどうすることもできないわ」


 そのときにすべてが終わると、瑠璃の悲しそうな顔が言っていた。


 こんなに細い肩に大勢の生命がかかっている。


 そう思うとたまらない。


 どれほどの重責に耐えているのだろう?


 なんとか機会を作ってなるべく早く彼女を救い出したい。


 そのために人を殺すことになっても。


「瑠璃」


「なあに?」


 見上げてくる瑠璃に以前は見られなかった女の子らしい優しい輝きがあった。


 甘えてくれていると思うと、それだけで嬉しい。


 たったひとりの愛しい女性に頼られるって、嬉しいことなんだと今更のように噛み締める。


「きみのことは色々と聞いたから、今度はぼくのことを聞いてほしい」


「話してくれるの?」


「きみにここまで打ち明けさせたのはぼくだよ? 自分の言葉を裏切るような真似はできないよ。それにきみには聞いてほしいし。ただ」


「ただ?」


「なにを聞いても自分を責めないでほしい。それだけは約束してくれるね?」


 瑠璃は意味を理解しかねていたらしいけど、やがてしっかりと頷いてくれた。


「ぼくはね。小さい頃はそれなりに恵まれていたと思うよ。優しい両親に愛されて育ったし。でも、10歳になったときに両親を亡くしてしまって」


「そう。でも、想い出はあるのでしょう?」


「そりゃあね。悲しい思い出もあるし、楽しい思い出もあるよ。思い出すと切なくなるけど」


「過去に囚われてはいけないわ、真弥。あなたがご両親に愛されていたのは事実でしょう? その結末がどれほど悲しいものでも、あなたがそれに負けて楽しい思い出さえ、悲しいものに変えてしまったら、亡くなったご両親が可哀想だわ。きっとあなたのことが心配で、黄泉の国でも安心していられないもの」


「……そうだね」


 苦い笑みになったけど、すぐに後悔した。


 巫女の境遇がどういうものか、はっきり知らなかったせいで。


「わたしには両親の記憶そのものがないもの。あなたはそれだけでも恵まれているのよ?」


「……ごめん。無神経だったよ」


 巫女の素質が確認された時点で、神殿に引き取られ、後継者として育てられる。


 そのことは知っていた。


 でも、まさか両親の記憶すらないなんて思わなかったのだ。


 それなら真弥の方が恵まれていただろう。


 少なくとも愛されて大切にされた楽しい思い出がたしかにある。


「これからはぼくが瑠璃の家族になるよ。楽しい思い出をあげるから」


 悲しみを瞳に浮かべながらも、瑠璃は嬉しそうに笑ってくれた。


 強がりの笑みですらなかったことが却って痛々しかった。


「突然、両親を亡くしたぼくを父の親友だったおじさんが引き取ってくれたんだ。そこには幼なじみの少女もいて、そこからかな。ぼくが笑えなくなっていったのは」


「え……」


「幼なじみのその娘は、ぼくにすごくなついてくれていてね。小さい頃から後ろをついて回っていたし、小さい頃はそれだけで、ぼくもやんちゃな幼なじみに、ちょっと扱いに困るなという程度の気持ちだった。でも、成長するほどだんだん度を越してきて……」


「どういう意味なの?」


「なに不自由ない暮らしを保証されていて、周りから大事にされて、自分は常に正しい。なにひとつ間違ってない。どんな望みも自分が口にすれば許される。そういう考えを当たり前のように持っていた」


 人は罪を犯して生きる生き物だと瑠璃は思う。


 どんな人間だってなにかしらの罪は犯している。


 自分だけは間違ってないなんて、だれにも断言できない。


 なのにそれを信じて育った少女もいるなんて信じられなかった。


「何度、説得してもわかってくれないんだ。そういう態度を続けて、そういう考え方でいたら、本当の友達なんて得られない。孤立するだけだって。でも、遂にわかってもらえなかったけど」


 なにを言えばいいのかもわからないと、瑠璃の複雑な顔が言っていた。


 真弥が複雑な境遇らしいということは知っていた。


 性格的に考えればそういう少女に、真弥が好意を寄せるというのはありえない気がする。


 むしろ苦手なのではないだろうか?


 それでもお世話になっていたら、あまり強いことも言えないだろう。


 だから、真弥はあまり激しい感情を表に出さない。


 いつも笑っていて鷹揚に見えているのは、おそらくその反動。


 真弥は自分でも知らないあいだに、周囲にも気づかれないように、自分を殺して生きてきた。


 もしそうだとしたら真弥が素顔を見せてくれていたのは、瑠璃の前だけかもしれない。 自惚れかもしれないけれど、真弥は瑠璃の前でだけは本心から笑ってくれていた。


 そう思うから。


「今も辛い?」


 心配そうな声にふと真顔に戻って、真弥が嬉しそうに笑い、かぶりを振った。


「きみがいてくれるから辛くないよ、瑠璃。きみが傍にいてくれて、ぼくを想ってくれて、そうして笑ってくれるなら、それだけでぼくは救われる。きみの微笑みがぼくの心の支えになるから」


 飾らない言葉。


 言葉に嘘などないと瑠璃にもわかる。


 嬉しいのと同時になんだか恥ずかしくなった。


「ただね。きみにも薄々わかっただろうけど、ぼくの意志とは関係のない部分で、まあ色々と噂される立場にいてね」


「それって……幼なじみの少女のこと?」


 複雑そうな問いに真弥は頷いた。


「想われていることは知っていたんだ」


「……」


「きみには変な誤解をされたくないし、隠していて勘繰られるのもいやだから、敢えて正直に話すけど」


 この前置きですこし不安になった。


 真弥とその娘は、ただの幼なじみではない?


「ぼくも最初は意思表示をはっきりしていたんだ。多少は遠慮をしていたけど、だからといって心に添わないことを強制されるのはいやだったから。だけど、彼女は無意味に力を持ちすぎていた」


「力?」


 不思議そうな瑠璃に真弥は苦笑する。


「瑠璃のような不思議な力じゃないよ。言わば権力さ。人が必ず屈するものだよ」


「権力。そう。そうなの」


「小さい頃から独占欲が目立って、おまけに境遇的にワガママに育ってさ。自分が好きならぼくも好き。そう信じて疑わないんだ」


 ある意味で素直で正直な少女なのかもしれない。


 間違っていることでも、それが正しいと信じていたら、素直に思い込めるほど。


 それは悲しい素直さだと瑠璃は思った。


「何度かは違うって言ったし、まあそういう問題で言い争ったりしたけど、全然わかってくれないんだ。ぼくの言うことなんて信じてもくれない。叶わない望みなんてないから、必ずぼくは手に入る。そう思っているみたいだね」


「……人の心ってそんなふうに強制で動くものなの?」


 眉を寄せた瑠璃の声に「まさかっ」と言い返した。


 優しい瑠璃には、そういう傲慢さが信じられないのか、理解できないと顔に書いていた。


「それは幼なじみとしては、ぼくも好きだとは思っているけど、正直に言えば苦手なんだ」


 やっぱりと言いたげな顔だった。


 そんなにわかりやすいのだろうか?


 真弥の好みって。


「もし生まれや育ちが違って、幼なじみとして物心つく前から一緒にいなかったら、ぼくはまず彼女には近づかなかったよ。はっきり言って傷つけるのもなんだと思ったから、今はまだそういうことは口にしていないけどね」


「どういう生まれ育ちであれ、人から欠点を指摘されたら直す努力が必要だわ。その娘はそんなことすらしないの?」


「しないんじゃなくて、どうしてダメだと言われるのか、何故自分がいけないのか。まずその辺からしてわかっていないんだよ」


 これには瑠璃は絶句していた。


 それだけ彼女が純粋だということだろう。


「彼女の常識の中には、間違っているのは自分かもしれないという考えそのものが存在しないんだ」


「それで家を出ることにしたの? 我慢できなくなって?」


 ため息まじりの問いかけにかぶりを振った。


 瑠璃がきょとんとした顔になる。


「彼女は独占欲が強いって言っただろう? しかもどんなワガママでも通る境遇にいるって」


 頷くと真弥は何故かため息をついた。


「一緒に暮らすようになる前から、ぼくが他の女の子と仲良くしていたり、ひどいときは一緒にいるだけで相手を苛めるんだよ」


「そういう真似はよくないわ」


 複雑そうな声だった。


 真弥の恋人としての意見か、それとも巫女としての意見か、一体どちらだろう?


 瑠璃は優しいから。


「これが徹底しているというか、ほとんどの女の子が彼女の取り巻きだったし、男だって彼女の生家がもつ権力を恐れて、面と向かって逆らわない。

 だから、ぼくのせいで彼女に睨まれた娘は、ひどいときは対人恐怖症になったり、もっとひどいときは死のうとした娘までいたよ」


「真弥」


 真弥がそのことで自分を責めるのを気遣うような声だった。


 やりきれない。


 自殺騒ぎはただの一度だったけれど、あれ以来、真弥は孤立する道を選んだ。


 自分から進んで人と付き合わなくなった。


 真弥が神秘的と言われる原因を招いた事件だったのである。「それ以来ダメなんだ。人に近づくのが怖くて。自分のせいでだれかが苦しむかもしれない。そう思うとだれかと親しくなることができなかった」


「あなたがめったに本心を見せずに、いつも笑ってばかりいるのは、そのせいだったのね。でも、あなたが自分を責めるようなことではないわ」


 そうやって孤立しても、現状は変わらない。


 黙って耐えて我慢しないで、自分の気持ちははっきり言うべきだ。


 それで傷つけても、争っても。


 一度は立ち直れない状況になっても、いやなことはいやだと言わないあいだは、真弥には自由はない。


 真弥がはっきり言わなければ、よけいに自分の過ちにも思い込みにも気づけない。


 真弥が黙って耐えているかぎり、由希の勘違いを増長させる。


 瑠璃にそう言われて理解できたから首肯した。


 真実を言うならとっくに決別しているのだけれど。


「だから、ね。おじさんから彼女の気持ちを受け入れて、一緒になってくれないかと言われたとき、いい機会だからとはっきり拒絶したんだよ、ぼくは」


「え? それって……」


「瑠璃?」


 声に動揺を感じて振り向くと、瑠璃は何度も瞬きをしていた。


「まさかその幼なじみの少女って……」


 大体わかったらしい瑠璃に苦い気持ちで頷いた。


「わかったみたいだね。そうだよ。きみのお傍付きとしてあがっている由希だよ」


「あなたが由希の……。じゃあ由希が縁談を断られたのは……」


 自分のせいかと責める口調だった。


 だから、振り向いて瞳を覗き込みはっきりと口にした。


「たしかにぼくが由希との縁談が出たときに断ったのは、ぼくの心が瑠璃のところにあったからだよ。だけど、そのことで瑠璃が責任を感じる必要はないからね?」


「でも、わたしさえいなければ……」


「それは違うよ、瑠璃。たとえきみと出逢っていなくても、そのときのぼくに想いを寄せる相手がいなかったとしても、由希との縁談なんて受けないから」


「真弥」


 泣いていいのか、喜んでいいのかわからないと、その複雑そうな顔が言っていた。


「言っただろう? ぼくが由希のことをどう思っているのか。こんなことは言いたくないけど、ぼくは由希を受け入れられない。彼女は恋愛対象にはなれないんだよ」


 彼女の気性故に。


「由希ってそういう少女なの?」


「え?」


 怪訝そうな声に驚いた。


 瑠璃は納得できないと顔に書いて悩んでいる。


 どういう意味だろう?


「わたしは由希が好きよ?」


「瑠璃」


「それはたしかに気は強いかもしれない。多少はワガママな面もあるわ。でも、由希は優しいもの」


「由希が優しい?」


 意外な言葉だった。


 どこをどうすればそうなるのか、もうひとつわからない。


「わたしをお忍びに出してくれているのは由希なのよ」


「え?」


 驚いた顔になる真弥に瑠璃も怪訝そうに彼を見ていた。


「この衣装も目立つ黒髪を隠すためのかつらも、すべて由希が用意してくれたのよ。閉じ込められているのは窮屈だろうからって。わたしがいないあいだ周囲をごまかしてくれているのも由希よ。あの由希がそんな一面を持っていたなんて……」


 信じられない言葉だった。


 あのワガママで傲慢で、人は自分に合わせるものと信じ込んでいる由希が、自分からだれかを気遣うことがあるなんて想像もしなかったから。


 でも、だったら尚更危ない。


 真弥のことがバレたら、由希は裏切られたと思うだろう。


 自分は利用されたのだと。


 そうしたらどんな真似をするかわからない。


 たしかに現状を見れば、そう思えるかもしれない。


 だが、瑠璃は由希を裏切っていないし、真弥と知り合ったときも、まして想いが通じ合ったときも、お互いに由希の存在については知らなかった。


 どちらにも由希が深く関わっていることを。


 瑠璃の様子から見て彼女の由希への友情は本物だろう。


 だが、おそらく事実を知った由希には通じない。


 瑠璃はまだ知らないのだ。


 ワガママに自己主張をするときの由希の身勝手さを。「こんなことを言ってきみに軽蔑されたくないし、たぶん今の話を聞いたかぎりだと、瑠璃には理解できないかもしれないけど」


「なに?」


「由希に心を許してはダメだよ?」


「そんな……」


「絶対にぼくのことを知られたらいけない。そんなことをしたら、きみがどんな目に遭うかわからないから。心配なんだよ、瑠璃」


「由希はそんなこと……」


 信じられないとかぶりを振る彼女の名を呼んだ。


 怯えたような黒い瞳が見上げてくる。


「きみは知らないんだよ。たぶんきみが由希より立場が上だから、由希は普段みたいな態度は慎んでいるんだと思う。きみはまだ由希の一側面しか知らない。

 いいかい? もしきみがうかつにぼくの名前を出したり、ましてやぼくとの関係を打ち明けたり悟られたりしたら、下手をしたら殺されるよ?」


「……」


「由希がきみの傍にいる本当の動機くらい、聡明なきみのことだから知っているんだろう?」


 傷つけるとわかっていても問いかければ、瑠璃は落ち込んだ顔でうつむいてしまった。


 それでもどれほど危険なのかわかってもらうために、これだけは譲れない。


 瑠璃を護りたいから。


「その由希がきみにとって不利な証言をしたら、それが偽りでも真実にすり替えられてしまう。いいね? 絶対に由希を信じたらダメだよ?」


「でも」


「由希のことは自分の責任で片付けるから。きみはなにも気にしなくていいよ。元はといえば自分のせいだし。本当に由希のためを思うなら、傷つけても真実を突きつけるべきだったんだ」


 真弥はどんなときでも人を貶めるような発言はしない。


 付き合いは短いが、色々な話題で会話してきた瑠璃ですら、真弥が面と向かってこういう言い方をするのを初めて聞いた。


 今まで一度だってだれかの悪口を口にしたことがない。


 その真弥が真摯に言ってくる。


 どうか自重してくれ、と。


 警戒してくれ、と。


 真弥は瑠璃がそういうことを嫌っていることを知っている。


 それでも敢えてくちにするほどだから、よほど心配しているのだろう。


 ありえないことだと笑い飛ばせないほど。


 あの由希がそんな真似をする少女だとは思いたくない。


 でも、真弥がこれほどまでに心配してくれていて、それを無視することも瑠璃にもできなかった。


「……わかったわ」


 ホッとしたように笑う真弥に、それでも瑠璃は問わずにはいられなかった。


「でも、本当にわたしはなにもしなくていいのかしら?由希がずっと想ってきた人を知らなかったとはいえ、わたしが奪ってしまったのよ。それなのに知らないフリをしていてもいいのかしら?」


 不安そうな声に真弥がかぶりを振る。


 彼女の純粋さわ責任から逃げ出さない一面なでは、真弥も好きだし長所だと思っているが、これだけは認められなかった。


「もし由希がすこしでも物の道理がわかっていて、ぼくらの話をきちんと聞いてくれる少女だったら、ぼくもこういうことは言わないよ。

 でもね、瑠璃。きみが事実を打ち明けたら、由希の怒りを煽るだけだよ。きみの誠意も友情も由希には通じないから。きみと由希では違いすぎる。これ以上は近づかないでほしいよ、ぼくは」


「真弥」


「それにこれは本当にぼくの問題なんだ。ぼくたちふたりに由希が深く関わっているから、そしてきみが由希のことが好きだから、そういうふうに責任を感じてしまうのかもしれないけど、わかっていて選んだ結末ではないだろう?」


 たしかにそうだ。


 真弥が由希の想い人だなんて瑠璃は知らなかった。


 そして真弥の告白を信じるなら、瑠璃と由希の繋がりを知る真弥自身も、瑠璃を選んだ時点では素性に気づいていなかった。


 つまりどちらもが由希という存在に気づかないまま、お互いを選んでいたのである。


 惹かれ合ったことに由希の存在意義は絡んでいなかった。


 だが、この現状は由希から見れば、そうは見えないだろう。


 きっと裏切ったと思われる。


 責められる。


 友情を利用したと。


 好意が裏目に出た由希には、そうとしか思えないだろうから。


 本当に自分を抑えない由希が、真弥の言ったような少女なら、おそらくこちらの言い訳には耳も貸してくれないだろう。


 ワガママに育てられた気性そのままに裏切ったと信じ込み、すべて瑠璃が悪いのだと、自分は裏切られ利用された被害者で悪いのは瑠璃だと思い込むだろう。 どれほど言葉を尽くしても、おそらく信じてはもらえない。


 知らなかったという言葉も、由希には言い訳に聞こえるだろう。


 知っていて裏切ったと信じて疑わないはずだ。


 だから、真弥はこれほど心配してくれている。


 あの由希がそんな理不尽な少女だとは思いたくないけれど。


 それとも恋愛を間に挟んだ場合、奪い合う関係になった親友は、もう元には戻れないのだろうか。


「真弥は」


「なんだい?」


「真弥はわたしと出逢ったとき、だれとも付き合っていなかったの? だれも好きではなかったの?」


 真弥の心がどこにあったのか。


 そのひとつですべての意味が変わってくるような気がした。


 もし特別なだれかがいたり、本心ではなくても由希と付き合っていたなら、悪いのは瑠璃だということになるから。


 知らなくても。


 だが、この問いに対する真弥の返事はすこし意外なものだった。


「なにも隠さないって決めたから打ち明けるけど、ぼくの立場から言わせてもらうと、だれとも付き合ったことなんてないし、瑠璃と出逢ったときのぼくは、まあ言ってみれば自由な身だね。だれとも約束なんてしていないし、想いを寄せてもいなかったから」


「それって違う見方もあるってこと?」


「っていうか。なんて言うんだろう? ぼくはあまり感情を表に出さなかったし、色々と複雑な境遇で育っていたから、はっきりした意思表示はしなかったんだ。

 特にそういう問題では。うかつにだれかに近づいて傷つけるのは怖かったし。そのせいでなんでも適当に受け流す癖がついていて、信念に関すること以外だと、わりと淡白だったんじゃないかな?」


 首を傾げながらの科白は、理解できるような気もしたし、理解できないような気もした。


 真弥の境遇なら無理もないのだろうが、瑠璃と逢っているときの真弥は自由な感じがしたから。


 それをそのまま口に出すと真弥が笑った。


 おかしそうに。


「それは相手が瑠璃だからだよ。瑠璃といると自然体でいられたから」


 微笑んで言われてちょっと照れた。


「ただ。あまりにも意思表示しなさすぎたのかな? ぼくとしては波風を立てないための言動で、特に深い意味はなかったんだけど、回りはぼくと由希は付き合っていると思い込んでいたみたいだね」


「それって……由希も知っていたの? 由希もそう思っていたの? あなたと付き合っていると」


「由希の常識で言えばそうなるんじゃないかな? 言わなかった? 自分が好きならぼくも好きだって、由希はそう信じてるって」


 あっさり言われ言葉に詰まった。


 なにを言い返せばいいのかわからない。


「言っておくけど由希が勝手に、ぼくは自分のものだと思い込んでいただけで、ぼくは一度もそれを肯定したことはないし、由希がそういう意味で独占しようとしたら、きちんとクギを刺して断ったからね? あくまでも由希の一方的な感想だから」


 その辺は誤解しないでほしいんだと真弥が言う。


 しかしそれでは由希は付き合っていたつもりだったのか、それとも片思いだと知っていたのか、一体どちらだろう?


「う~ん。由希本人は気づいていたんじゃないかな。ぼくがそういう意味での束縛を認めないことを、どんなに認めたくなくても知っていたからね。

 現実にぼくは由希のワガママには付き合わなかったし。ただそれでもそういう誤解が罷り通っていたのは、おそらく由希がそう仕組んだんじゃないかな」


「どうして? そんな身に覚えのないことで、そういう解釈をされたら真弥が可哀相じゃない。遠隔的に自由を奪うようなものだわ」


「たぶん、由希が否定しなかったのは、そういう意味だと思うよ」


 この一言には答えられなかった。


 由希の話題だと思わなかったらあまりの理不尽さに怒っていただろう。


 いくらなんでもワガママが過ぎる。


「だから、ぼくらのあいだでの真実と、周囲との解釈がすれ違っていたんだ。おまけにどうも当事者のぼくが、噂を知って否定できないように、ぼくには伝わらないように噂を流していた感があるんだよね……」


「嘘」


 やれやれと言いたげな科白に、思わず彼を凝視してしまっていた。


 あまりといえばあまりな境遇である。


 これでは気軽に打ち明けにくいだろう。


 真弥が自分のことを打ち明けなかったのも無理はないと納得してしまった。「由希との縁談を断って家を探しはじめたことが原因で、初めて知ったんだよ。周囲がそう誤解してるってことを」


「それまでなにも知らなかったの?」


「みんなぼくと由希は付き合っていて、将来的にはぼくが由希の家を継ぐものと思っていたから、そのぼくがいきなり家を探しはじめたことで、疑問を持ったらしいんだよね。

 そのせいでやっと知ることができて、さすがに呆れたよ。ここまでするか? って本気で怒ったし。でも、怒りが強すぎると却って呆れてしまって感情は凍るものだね」


 あまりに淡々としているから、却って彼のそのときの怒りの強さが伝わってくる。


 好意も善意も通じない現実を前にして、彼はどれほど理不尽な怒りに震えたのだろう。


 気の重そうな告白にそっと彼に凭れかかった。


 なんだか疲れきっているような気がして。


 真弥は驚いたらしいけど、すぐに笑った気配がして、強く肩を抱いてくれた。


 抱きしめることで甘えてくれている。


 はっきりとそれがわかった。


 口にも態度にも出さなくても、束縛する由希の問題で真弥は疲れていたのだと。


 だから、気を抜くとため息が出る。


 瑠璃の前では笑っていてくれたのは、さっき言ってくれたことが真実だからこそだろう。


 真弥の心の安らぎになりたいと、今は強くそう思う。


「家は見つかったの、真弥?」


 一言問うと答えが返ってこなかった。


 不安に思って腕の中から見上げれば、なんだかいやに深刻な顔をしている。


 まさか……と不安になった。


 真弥の感想がすべて本当で、由希がそういう少女なら、真弥が離れていこうとすることを黙って受け入れないような気がしたから。


「なにか……あったの?」


「……ダメなんだ。妨害されて見つかったとたんに邪魔が入って、ね」


「そんな……」


 真弥から聞く由希の話は瑠璃には予想外のことばかりだった。


 同じ名の別人ではないかとすら思う。


「まあ今では覚悟を決めているけど」


「え?」


 驚いた声を出すと真弥が振り向いて笑った。


「今は大人しくみせておいて、隙ができたら君を連れて逃げようかなって」


 夢のような話だった。


 信じられずに彼を見上げていても、その笑顔は消えない。


 決意に偽りはないと、その瞳が言っている。


 流れる涙を真弥の指先が拭ってくれる。


 そんな仕種さえ愛しかった。


「君が手に入ったら、そうする気だったんだ。最初から。だから、家を探しながらも、気持ちが通じ合えば無意味だとも思っていたしね」


 クスクス笑う真弥に、その胸に顔を埋めた。


 聞こえてくる鼓動。伝わるぬくもりが心地いい。


「大好き」


「うん。もう知ってるよ。ぼくとしては早く妻に迎えたいけど」


 笑って言われて肩が震えた。


 その一瞬、抱き締める腕に力が入って、ただの言葉遊びだとは思えなかったから。


 真弥の妻になる?


 考えてみればどちらもが孤独な存在だった。


 瑠璃は隔離されてひとりで生きてきた。


 真弥は隔離こそされていないけれど、由希のために自由がなかった。


 お互いに腕が伸びたのは、そのせいかもしれない。


 だれよりもわかり合える。


 そして信じ合える。


 求め合える。


「真弥が」


「え?」


「真弥がそれを望むなら」


「瑠璃」


 はっきりと理解していたわけではない。


 でも、真弥がそれを望むなら、別に構わなかった。


 抱き締める腕が震えている。


 悩んでいるような短い間が空いて、真弥が耳許でささやいた。


「巫女として育てられたきみは、たぶん、現実的な意味で理解していないと思う。後悔してもやめないよ? 泣いても解放しないよ? そのときは必ずきみをぼくの妻にする。それでもいいのかい、瑠璃?」


 言われたとおり言葉の意味はわからない。


 でも、それが真弥の望みならいい。


 真弥の望みは瑠璃の望みだから。


 微かに頷くともう一度抱き締める腕が強くなった。


 唇が重なって驚いた。


 硬直した身体を真弥が抱いてくれる。


 真弥が目を閉じているから、彼を真似して目を閉じた。


 ぬくもりだけを追うような変な感じがする。


 いきなり地面に押し倒されたときは、条件反射で逆らってしまったけれど、宣言どおり真弥は解放してくれなかった。


 時々ささやかれる。


 愛しているよ、と。


 その言葉にすべてを委ねて目を閉じた。


 秋も深まる枯れ草の寝台で。

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