第3話 戻れない道







 真弥と知り合った翌日、瑠璃は彼の元には行けなかった。


 本当はなんの予定もなかったし、適当に理由を作れば時間は自由になる。


 そう楽観していたのだが、昼過ぎになって突然、村長が訪ねてきたのである。


 気分が悪いの一言で撃退できるわけもなく、瑠璃はその日は真弥に逢うのを諦めた。


 本当は彼と逢って話すのは楽しかったから、絶対に行くつもりだったのだが。


 だが、これもちょうどいい機会かもしれないと、瑠璃は上座に位置し跪いた村長を見つめつつ口火を切った。


「それで御用はなんなのかしら、村長?」


「もうすぐもしかしたら西の部落と戦になるやもしれません。その託宣に備えて巫女殿には潔斎をお願い致したいのです」


 そう言われたとき、瑠璃の漆黒の瞳が鋭く煌めいた。


「いつ頃、突入するのか、どのくらいの規模なのか、そういったことをいつものように……」


 言いかけた村長を瑠璃の鋭い声が遮る。


「今度はどこの国を滅ぼすつもり?」


「巫女殿?」


 怪訝そうな村長に、瑠璃の背後で付き添っている由希も、ふしぎそうに女主人をみた。


 今までの瑠璃とは別人のように、強い意志と考えをもって話しているようにみえる。


 この急激な変化はいったいなんなのだろう?


「あなたは巫女の力を本当にわかっているのかしら、村長?」


 わかっていないだろうと瑠璃は思う。


「あなたがどれほど上手い言い訳を使っても、その内容が言った言葉を裏切っていれば、わたしの託宣も意味を違えてしまうわ」


 瑠璃が良い意味で託宣していても、騙されていれば意味が変わってしまう。


 その意味を、それが招く結果を、この人は本当にわかっているのだろうか。


「あなたは人を殺すことの恐ろしさを、簡単に人を殺せる人の醜さを、本当に理解しているの?」


 蒼白になりながらも、巫女によけいなことを吹き込んだのはおまえかと、村長が由希を睨み付ける。


 由希が慌てて否定する前に瑠璃が彼女を庇った。


「本当に巫女の力を侮っているのね、村長。別に由希から聞かなくても、わたしにはわかるわ」


 真弥に聞かなくても、いずれねじ曲げられた真実に気づいた。


 それが巫女だ。


「あなたがこれまでにわたしを騙して得た託宣。それが歪められ積み重なったあなたの業。罪は報いを呼ぶわ。業は人の魂を疲弊させていくわ。教えてほしい? あなたの最期を」


 とんでもないとかぶりを振る村長に、瑠璃はやるせなく微笑む。


 だれだって自分がいつ死ぬかなんて知りたくないものだ。


 ましてやどんなふうに死ぬかなんて、絶対に知りたくないだろう。


 人はそれほどまでに脆く弱い。


 それなのに何故、人は過ちを繰り返すのだろう。


「戦をして喜ぶのは、天から得た宿命に背く行い。戦を回避するようになさい。そのかわりもし相手が攻め入ってきても、わたしが護るわ」


「巫女殿」


「これ以上罪を重ねてはいけない。わたしにはわかるのよ。血なまぐさい現実を重ねてきた業が、いつか報いを呼ぶ。わたしはこの部落を護りたい。滅ぼしたくないのよ。わかってくれるわね?」


 瑠璃の言葉を裏返せば、これ以上今までと同じことを繰り返せば、部落が滅ぶと言ったも同じだった。


 さすがにふたりとも驚愕している。


 滅びを避けたいという。


 護りたいのだという。


 ではこれから先、どういう理由があれ、戦はできないのか?


 護るための戦なら、おそらく制止はかからないだろう。


 これまでがそうだったように。


 だが、託宣を求める意味が違っていて、それに気づかれたらまず無理だ。


 巫女の託宣なくして政は決められない。


 瑠璃が許さないかぎり、私腹を肥やすための戦は、禁じられたも同然だった。


 歴代の巫女は人形のように村長の言いなりで、知らず知らず振るうその力で、多大な加護を与えていた。


 だが、この巫女は歴代の巫女とどこかが違う。


 畏怖すべきほどの力。


 絶対に外れない託宣。


 その巫女が自分の意志で歩きだし、織る未来の託宣をだれよりも理解して行った場合。


 この巫女は希代の巫女になるのと同時に、おそらく最も扱いにくい巫女となる。


 傀儡にはできないだろう。


 どれほど上手い嘘を並べても、めざましく力に目覚めた巫女には、それが嘘だとわかってしまう。


 厄介なことになったと頭を悩ませながら、村長は村へと戻っていった。






 いつもの私室に戻った瑠璃は、由希のふしぎそうな眼差しを受けて、もう沈みかけた夕陽をみながら、彼女に声を投げた。


「どうかしたの、由希? そんなにジッとわたしをみて」


「いえ。ただ先ほどの瑠璃さまが、今までとは別人のようにみえて、すこし驚いていました。なにかあったのですか?」


「別になにもないわ。敢えて言うなら、無知はこの世で最も重い罪だとわかってしまった。それくらいかしらね」


 瑠璃の言葉は曖昧で由希にはよくわからない。


 でも、今までは着飾られていただけのきれいな小鳥。


 籠の鳥だった意志を持たない人形そのままだった瑠璃が、自分で考え決断を下しはじめているということはわかった。


 どういう理由にせよ、瑠璃が自分で前に進んでいくのなら、それは良い変化なのだろうと、由希は自分を納得させた。


 巫女と付き合っていく上で、踏み込みすぎるのはよくないと、それまでの経験で知っていたので。


 踏み込みすぎて、これ以上の友情を抱けば、おそらく由希は監視役としては、不適格と見なされ解雇される。


 そうすれば違うだれかが、瑠璃のお傍付きに選ばれるだろう。


 最悪、巫女の実態を知る由希は、人知れず消されるおそれだってある。


 自分が望んだわけでもないのに、取り巻きは大勢いるが、本当の友達といえる相手はいない。


 純粋な友情を向けてくれる人も。


 自分ではどうしてなのかわからない。


 幼なじみにして最愛の真弥に、昔、何度かそれは由希のせいだと、そんな態度はいけないと言われたことがある。


 でも、なにがダメなのか。


 どうしてダメなのか。


 由希にはわからなかったのだ。


 だれひとり不平不満は言わない。


 みんな由希の前では笑ってくれる。


 それがそのときだけの付き合いだとしても。


 それで何故いけないのか、何故、真弥の言うとおり友達ができないのか。


 由希にはどうしても理解できなかった。


 そんな由希にとって瑠璃は、初めて打算のない友情を向けてくれた相手だった。


 できるかぎり力になりたい。


 だから、深入りしすぎてはいけない。


 境界線をこえて、それをもし悟られれば、もう瑠璃の役には立てないから。


 瑠璃の前では素直になれる。


 由希は気づいていなかったが、それは事実だった。


 自分より立場が上だから、自分が気遣うべき相手だから。


 だから、由希はいつものようなワガママは言わない。


 瑠璃がどれほど孤独な境遇で生きるように強いられているか。


 由希はだれよりも知っている。


 だから、瑠璃の力になりたいと願う。


 それが由希を優しい少女に変えていた。


 それだけに瑠璃との繋がりの意味は大きい。


 ふたりの友情がいずれ崩れ、跡形もなくなったとき、由希がすべてを滅ぼすほどの悲劇を招くと、この時点ではふたりとも知る葦もなかった。





「真弥っ。ここだよっ」


 初めて逢ったあの日にふたりで過ごした湖で、真弥を待っていた瑠璃は、駆けてくる彼の姿を見つけて笑顔で手を振った。


 男言葉にもだいぶ慣れてきていて、真弥とも普通に話せるようになってきていた。


 まあ時折、異性と付き合うのに慣れていないせいで、妙な態度をとってしまうこともあるのだが。


 それでも真弥はなにも言わない。


 真弥の優しさに触れて、瑠璃は今とても幸せだった。


「ごめん。遅くなった。ちょっと鍛練が長引いてさ」


「嘘、だろ?」


 やってきたとたんの一言に、小さく笑って指摘すれば、真弥がちょっと怒った顔になった。


 どういうわけか、真弥は瑠璃に心配をかけることをものすごくきらう。


 だから、言いたくないことを当てられると、不機嫌になってしまう一面があった。


「真弥は稽古なんてしないじゃない。なにかあったの?」


 無邪気に見上げてくる瑠璃に、真弥はムスッとしたまま地面に座り込んでしまった。


 どうやらまだ怒っているらしい。


 最初はそういう行動には抵抗があったし、あまりにも知らないことの多かった瑠璃だが、今ではちゅうちょなく行動に出られる。


 ブスッとしたまま振り向かない真弥の隣に座ると、真弥がちょっとだけ視線を向けてきた。


 言いたくないことを抱えているときの真弥の癖。


 目を合わせれば嘘だとバレてしまうから顔はみない。


 そのくせ瑠璃の方を気にしていて、何度となく盗み見る。


 あまり隠し事をせず、おおらかな真弥は、瑠璃にはなんでも話してくれる。


 だが、やはり個人的に言いたくないことはあるのか、彼は個人的なことはあまり話してくれない。


 つまり家族構成とか、友人関係とか、そういう些細なことだ。


 瑠璃も素性は言っていないし、それどころか性別さえ偽っている状態だ。


 だから、ちょっと寂しいなと思っていても、特に文句は言っていない。


 ただ真弥をみていればわかるこどだが、よほど複雑な環境なのか。


 時々ため息をついていることもある。


 悩んでいるのなら、打ち明けてくれたらいいのにと、瑠璃は胸の内で思う。


 彼の役に立ちたいと思うのに、真弥は打ち明けてくれない。


 それとも瑠璃自身が隠し事をしている状態では、打ち解け合うなんて無理なのだろうか。


「ねえ、どうしてそんな顔してるの?」


 ふしぎそうな瑠璃に真弥は目を逸らす。


 昨夜、由希の父親であり、父の親友だったおじさんに言われた言葉が脳裏をよぎる。『もうすぐ18だね、真弥』


『ええ。10歳のときにおじさんが引き取ってくれて、もうすぐ8年ですね。前々から考えていたんですが』


『真弥の意見を聞く前にこちらの意見を聞いてくれないか?』


 言いかけた言葉を遮られて眉を寄せる。


『由希の気持ちは知っているだろう?』


 わかっていても面と向かって言われたことがなかったので返事に詰まった。


『もし真弥さえよければ、由希と一緒になってやってくれないか?』


 ここから先におじさんがなにを言いたいのかは、ほぼ把握していた。


 由希が真弥以外はいやだと拒否していること。


 真弥の気性では剣士はやっていけないこと。


 だから、自分の後を継いでほしいと思っていること。


 それらを言われてため息が出た。


 気持ちは嬉しい。


 孤児の真弥がだれにも後ろ指を指されずに生きてこられたのは、すべてこの人のおかげだ。


 それは感謝している。


 できることなら、なんでもやって、その恩に報いたいとも思っている。


 でも。


『すみません。それだけはできません』


『真弥』


『由希のことは好きです。妹として。幼なじみとして。でも、それだけです。すみません。ぼくの願いは独り立ちすることです。許してください。近いうちに準備が整い次第ここを出ていきます。お世話になりました』


 一気に言って背を向けようとすると呼び止められた。


『これだけは答えてほしい。だれか想う人でもいるのかね? 由希以外に大切なだれかがいるのかね? そうでないなら』


『大切な人』


『わかった。そういうことなら、この話は終わりにしよう。由希の話を断ったからといって、別に出ていく必要はないよ? わたしは真弥も大事な息子だと思っているのだから』


『すみません』


 それだけを言って部屋に戻った。


 想う人がいるのかと問われたとき、大切な人がいるのかと問われたとき、脳裏に浮かんだのは瑠璃だった。


 瑠璃の無邪気な笑顔が脳裏に浮かんで戸惑った。


 そうしたら「もういい」と諦めてくれたのだ。


 由希にはすまないと思う。


 でも、これが本心だから。


 愛してもいないのに、由希を妻には迎えられない。


(でも……)


 まだふしぎそうな顔をしている瑠璃を盗み見る。


 いつもと同じ少年の装い。


 おそらく髪の色は染め粉で変えているのだろう。


 でなければ睫毛が黒なのに髪が亜麻色なのは変だ。


 日に焼けたことなどないような、透き通るような白い肌。


 どこからみても女の子だ。


 見抜かれていることは、おそらく瑠璃は気づいていないだろう。


 瑠璃はあまりに世間知らずだ。


 偽ることは簡単。


 気づいていないフリをすれば瑠璃はそれを信じる。


 疑うことすら知らないように。


 でも、このままの関係が続いても、結局お互いなにも言っていないのと変わらない。


 瑠璃が素性を言えない理由は一応聞いたが。


 あれは二度目に逢ったときの出来事だった。


 まだぎこちない態度で会話して、そうして別れるとき、前に決意したように瑠璃を送っていくと言ったのだ。


 そうしたら瑠璃は慌てて断ってきた。


 日暮れが近いというのに、ひとりで帰ると言い張った。


 ムッとして言い争いに近い状態になった。


 そうしたら瑠璃は泣いてしまったのだ。


 泣いて泣いて手がつけられなかった。


 あのときは本心から途方に暮れた。


 泣いている瑠璃の方が途方に暮れているようで、なんだか彼女を苛めて責めた気がしたものだ。


 そのときに瑠璃は初めて素性に関することを口に出した。


 いささか信じられない内容だったが。


『ごめんなさい。できないの』


『え?』


『家から出たことがないというのは本当よ……だよ。ぼくは外へは出られない』


『どうして?』


『そこにいることだけを必要とされているから。きれいに着飾った小鳥に意志はいらないから。操りにくくなるから外へは出してもらえない』


 泣きながらそう言われ、正直驚いた。


 それではまるで囚われ人だ。


 自分の意志を無視されて、自我さえ持てないように注意され、些細な自由もない。


 どうして瑠璃がこれほど世間知らずなのか、疑うことさえ知らないほど無垢なのか、その理由を知った気がした。


 知ることができないように細心の注意が払われた籠の鳥。


 まさに瑠璃はそうだったのだ。


 彼女の涙はとてもきれいで、嘘や言い逃れではないと、すぐにわかった。


 泣き出してしまったのも、本当のことを言っているのも、瑠璃には嘘は言えないから。


 ごまかすこともできないから。


 そんなことすら彼女は知らない。


 知ることがないように育てられたから。


 無性に腹が立った。


 その者たちは彼女の涙を知らないのだろうか?


 どれほど傷つけているか、知ろうともしないのだろうか?


 それともそんなことすら気遣ってもらえないのだろうか。


 人形に意志はいらない?


 あまりにも理不尽な気がした。『そんなにいやなところなら、ぼくとくる?』


 気がついたらそう言っていた。


 瑠璃はびっくりして見上げてきて、涙も止まっていたけど。


 とっさに出た言葉だったけど本心だった。


 彼女がこんなふうに泣く姿はみたくない。


 救い出したい。


 なんの根拠も理由もなく、そう思い込んでいた。


『きみひとりくらいなら、なんとかなるよ。仕事をすこし増やせばいいんだし。そんなに泣くようなら、ぼくとくる?』


 このとき、本当は断られるか、それとも受けてくれるのか、それすらも自信はなかった。


 言ってはみたものの返事を恐れたほどである。


 逢うのは2回目。


 知り合いと言えるほど付き合ってもいない。


 それで信じてもらえるとは思えなかったし。


 でも、瑠璃の返答はまた予想外のものだった。


 もう一度泣き出して謝ってきたのだ。


 できない、と。


『どうして? いやなんだろう? いやじゃなければ、そんなに泣かないよね? ぼくに遠慮してるのなら』


『……違う』


『え?』


『どんなにいやでも逃げられない。逃げてはいけないの』


 本当は逃げたいと、その泣き顔が言っていた。


 それなのに逃げられないというのだ。


 瑠璃の言うことは、ふしぎなことだらけだった。


『自分を殺してもやり遂げなくてはならない義務がある。……心が必要ないのは、わたしの方かもしれない』


 痛々しい眼をしてそう言われ、思わずカッとなった。


 まるで悲しみも苦しみも感じる心がなければ、自分の不遇さには気づかない。


 その方がよかったのだと、そう言われたような気がして。


 だから怒ろうとして、すぐにやめてしまった。


 そう呟く瑠璃の瞳の方が傷ついていて虚ろだったから。


 心があれば傷ついてしまう。


 それはそうだろう。


 自分の境遇を正しく理解できる知識と、それが招く現状の意味を知り考える心があれば、人は傷つく。


 そんな扱いを受けて、傷つかない人間なんていない。


 だから、本当に逃げられないのなら、心がいらないのは周囲の思惑のせいではなく、自分のためだという。


 その気持ちはよくわかった。


 知らなければ焦がれない。悲しまない。


 そういうことだ。


 それでも瑠璃はここにいる。


 その意味を忘れないでほしかった。


 どんなに辛い境遇でも、心を捨てたらもう人とは言えないから。


 ただ一言だけ知りたかった。


 たったひとつの偽りのない彼女の本心を。


『そんな境遇ですべてわかっていて、そこにいるのは辛くないの、きみは?』


『辛い。すごく辛い』


 心をすべて吐き出すようにそう言って、瑠璃はポロポロと泣き出した。


 それまでの涙よりもっと大きな涙で。


 悲しみは止まることを知らなくて、それでも逃げられない枷があるという少女。


 どうすることもできなくて抱き締めていた。


 最初は驚いたらしくて、腕の中で硬直したのを感じたけど、背中に腕を回し片手で髪を撫でると、すぐに声を殺して泣きはじめた。


 たぶん今まで堪えてきた涙なのだろう。


 あのときに簡単には連れ出せないと、軽い気持ちでは救ってやれないと思い知らされた。


 だから、あれ以来、素性に関することは問わないようにしている。


 問えば彼女を追い詰めるから。


 でも、今のままではお互いガラス越しに相手をみているようなものだ。


 どちらも本当の自分をみせていない。


 もし性別を偽っていることを知っていると打ち明けたらどうなるだろう。


 瑠璃はすこしでも本当の自分をみせてくれるだろうか。


 彼女がすべてを伏せたままでは、こちらもなにも言えない。


 まして昨日のような問題を同性だと主張する瑠璃に話すのは変だ。


 同性として友人として話すのならともかく、真弥が由希との縁談を断った原因は瑠璃なのだから。


 その瑠璃に他人事のように話すのは、どう考えてもできない。


 どうして断ったのかとか、断った理由は? とか訊かれても、瑠璃が偽っているかぎり、なにも言えないからだ。 もしかして……ぼくは瑠璃が好きなんだろうか。


 女の子を好きになったことはないから、自分でもよくわからないけど。


 ため息ばかりが出る。


 そうやって瑠璃のことを考えるほどため息をつくぼくを、瑠璃はどうやら変な奴と思っているらしいけど。


 正直言って他のだれに、どう思われても平気だし、変人だと思いたければ思えばいいと思っているけど、瑠璃にそう思われるのだけは我慢できなかった。


 かといって泣かせることもできないし。


 こんなに優柔不断だっただろうか?


 素性についてはもう触れない。


 すべてを覆し、それでも護り抜く覚悟はあるのかと問われても、今のぼくには返事はできないから。


 もしその日がくるとしたら、世界中を敵に回しても、瑠璃を背負う覚悟ができたときだと思う。


 でも、性別を偽るのはやめてほしい。


 それだけでも素直になってくれたらぼくは……。


 変、だな。


 さっきから瑠璃に打ち明けてほしいとばかり思ってる。


 最近イライラしていたのはそのせい?


 やっぱりぼくは……。


 でも、やっぱり瑠璃は鈍くて、こちらの切ない胸の内になど気づかずに、平然ときついことを言ってくれた。


「やっぱり変だよ、真弥。いったいなにがあったの? ひどく落ち込んでるよ? もしかして戦でも起こるの?」


 変で悪かったねと、内心で腹を立てつつ真弥はかぶりを振った。


「正直なところ、ぼくの予想では西の部落と戦が起きても、ふしぎのない頃合いだと思っていたんだけど、どうも戦にはならないみたいだね。村長が和解の方向で動いているから」


「そうなんだ? よかった」


 本当に心からそう思っているかのように、そのときの瑠璃の笑顔は、とても眩しかった。


 眼を細めて見とれてから、ふと疑問が沸く。


 どうしてすんなり受け入れる?


 もしかして……戦が起きないことを知っていた?


「瑠璃は変なところで鋭いね。いつもはすごく鈍くて世間知らずなのに。どこでそういう情報を得るんだい?」


「えっと……その……」


 言えないのか、瑠璃は口ごもってしまった。


 嘘が苦手らしい瑠璃は、言えないことを問われると、大抵口ごもる。


 どうやら瑠璃にとっては、知っていて当然の情報らしい。


 しかし男ならまだわかるが、女の子がそういう情勢に明るいというのは、どう考えても変だ。


 瑠璃は嘘をつけるような娘じゃないから、余所者じゃないと言った初対面のときの言葉は本当なんだろう。


 しかし、だとしたら瑠璃はいったいどこのだれなんだ?


 大体どうしてそんな一部の者しか知らないようなことを知っている?


 それも今回の問いに関しては、戦が起きるか起きないか。


 詳しいことを知っているのは、ごく一握りの者だけだ。


 真弥は由希の家にお世話になっているから知っているのだ。


 それと凄腕の剣士だから。


 間違いなく同じ部落の出身だが深窓の令嬢そのものの少女、瑠璃。


 しかし由希の実家のせいで、部落に通じた真弥ですら、瑠璃らしき少女がいる家に心当たりがないときている。


(待てよ……)


 たったひとり。


 たしかにいるけれど、姿も名も知らない少女がいる。


 そこにいなくてはいけない高貴な姫君。


 だれも姿も名も知らない。


 噂をすることすら禁じられた聖域の乙女。


 瑠璃から聞いたすべての情報が符号する。


 存在するだけでこの部落を護る圧倒的な力を持つ守り神。


(……まさか……)


 青ざめて振り向けば、そこにはなにも知らないような、無邪気な瑠璃の顔があった。


 絶世の美姫として名高い巫女だったとしても、不思議はないだろうその整った顔立ち。


 美形と言ってなんら遜色はない。


 おそらく少女の服装をして、それらしく振る舞えば、恐ろしいほど美しくなるだろう。


 もしそうだとしたら、本当に軽い気持ちで近づくべき相手じゃない。


 火傷じゃ済まなくなる。


 ましてや辛いと泣く瑠璃を、その境遇から救いたいとすれば、生半可な覚悟ではダメだ。


 問えばすべてが崩れてしまうかもしれない。


 それにもしそうなら瑠璃の方から打ち明けてほしい。


 こちらから指摘して暴露するのではなく、瑠璃から自分の秘密を打ち明けてほしい。


 でなければ動けない。


 もし真弥が望みのままに瑠璃を連れ出せば、間違いなく追われる身になる。


 生涯、追われ続ける。


 それでもいいと覚悟ができても、それは真弥ひとりの覚悟では意味がないのだ。


 瑠璃にもすべてを捨てる覚悟をしてもらえないなら意味がない。


 差し出された手を瑠璃が取れなかったのも無理はないのだと、今はそう思う。


 自分の運命に巻き込みたくなかったのだろう。


 でも、不思議だな。


 巫女かもしれないとわかったのに、そう半分くらい確信しているのに、全然後悔していない。


 近づいたことも、こうして一緒にいることも。


 事実を知られるだけで殺されても不思議のない不敬罪なのに。


 本気で瑠璃が好きだったんだ、ぼくは。


 後がない断崖絶壁に立ってから気づくなんて、ぼくはそうとう鈍いのかな?


 ガラス越しに触れ合うのではなく、きちんと手をとりたい。


 その瞳でぼくをみてほしい。


 言わないと瑠璃は気づかないかな?


 だれかを好きになるって、こんなに切ない気分になるんだ?


「あのさ、瑠璃」


「なに?」


「大事な人には隠し事されたくないよね?」


「……」


「でも、1番大切なこと、隠されていると相手も言いたくても言えないよね?」


「……なんのこと?」


「さあ。なんのことかな。とりあえず今日はぼくは帰るよ。最近ちょっと忙しくて個人的な時間がないから」


 立ち上がった真弥を見上げて瑠璃は問うてみた。


 意味ありげなことばかり口にする真弥に。


「どうして忙しいの?」


「家を探してるんだよ。自分の家を。今のきみに言えるのはそれだけだよ、瑠璃」


 それ以上は教えられないと言われたような気がして、瑠璃が傷ついたように真弥を見上げた。


「言っておくけどぼくはきみのことは、信じていないわけでもないし、きらっているわけでもないからね? その辺は誤解しないでほしいな」


 笑ってそう言って言いたいことだけ言うと、真弥はさっさと帰ってしまった。


 その姿が見えなくなってから、瑠璃は深いため息を吐き出す。「父さんが言ったときに正面から断ってきたって。それだけはできないって」


「その人はだれか想う人でもいたの? 断る理由は言ってくれたの?」


 言ってもいいのかどうか迷いながらもそう言えば、由希はいっそう落ち込んだ顔になってしまった。


 どうやら想い人には他に心を寄せている女性がいたらしい。


 勿体ない真似をするものだ。


 由希の家は村長ですら敵わないほどの大富豪だというのに。


 由希と一緒になれば、その後継にだってなれる。


 それを断るということは、よほどその相手のことが好きなのだろう。


 しかしそんなふうに断られてしまった由希を、いったいどう慰めればいいのだろう?


 困ったことにさっぱりわからない。


「今日はもう帰る? そんな気分ならひとりでいた方が楽なんじゃないの?」


「瑠璃さま……」


「わたしの前にいたら悲しい気分も出せないものね。遠慮しなくていいのよ?」


「ありがとうございます」


 一言そう言って深々と頭を下げると由希はしょんぼりと出て行った。


 その背中が奇妙なほど小さく見えて驚いた。


 気丈な由希があんなふうに頼りなくなるなんて、恋とはなんとも不思議なものである。


「恋……」


 不意に浮かんだ言葉に胸が震える。


 ついで真弥の笑顔が浮かんで、頬が燃えるように熱くなった。


「いやだ。わたしどうしたのかしら……」


 うろうろと歩き回る瑠璃を見て、神殿に勤めている者たちが首を傾げていたが、瑠璃は気づくこともしなかった。





 昨夜の話し合いの後から、真弥は言った通り家を探しはじめていた。


 ただしその基準で迷っている。


 昨夜はとりあえず早く出ていかないとと思っていたから、自分ひとりが住めるなら、どこでもいいと思っていた。


 少なくともさっき瑠璃に逢うまでは、そう思っていたのはたしかである。


 だが、今は迷っている。


 瑠璃を手に入れることができれば、おそらくここにはいられない。


 瑠璃の姿や名を知っている者が少数とはいえいる以上、事が露見すればこの部落にはいられないのだから。


 一時的という基準で探すべきか、それとも瑠璃のことは諦めて永住できる家を探すべきか。


 迷いながらも人伝に空き家を探して回ったが、それが逆に噂を呼んだようだった。


 養い子という立場にあっても、実子同然の扱いを受け、ほとんどなに不自由ない生活を送っていた真弥が、突然、家を探しはじめたからだ。


 村で騒ぎになるほど噂になるまで、ほとんど時間はかからなかった。


 半刻ほどが過ぎた頃には、真弥のところに慌てたように勇人がやってきていた。


「ちょっと待てよ、真弥っ」


 息せき切って駆けつけてきた勇人に、驚いたように真弥が振り向いた。


「なにを慌てているんだい、勇人?」


「これが慌てずにいられるかっ。いったいなにがあったんだ? 空き家を探してるらしいじゃないかっ」


「ああ」


 そのことかと真弥が苦い気分で呟いた。


 噂になるのが早すぎると、苦い気分になっていたのだ。


 噂になるだろうとは覚悟していたが、行動を起こしてまだ半刻しか経っていないのに、これはないだろうと思う。


 たしかに真弥はなにかと噂の種になる身ではあるのだが。


 実力では最高峰の剣士でありながら、絶対に人を殺せず動物さえ傷つけられない落ちこぼれ剣士と揶揄されていること。


 また真弥自身はあまり意識しないが、優しげなその美貌も注目の的となる。


 人柄だって魅力的なものだし、実際、真弥は実によくモテた。


 これでだれも仕掛けてこないのは、真弥の傍に常に由希が控えていたからである。


 売約済みだと思っていただけなのだ。


 そのことまでは真弥は知らないのだが。 いつもは優しい真弥の瞳が鋭くなり、その怒気を垣間見せた。


 信じ込んでいた勇人は唖然としている。


「由希ちゃんと付き合っていたんじゃないのか? この辺の奴らはみんなそう思ってるぞ?」


「なんだい? その根拠のない確信は……」


 呆れたような真弥の様子は、明らかに心外だと言っている。


「どうなってんだよ……」


「ぼくが訊きたいよ。なんなんだい、その噂? ぼくは由希と付き合った覚えなんて一度もないからね」


 呆然とした勇人から事と次第を打ち明けられ、さすがの真弥も本気で呆れてしまった。


 なんでもかんでも好きに解釈してくれと、適当に受け流していると、とんでもない誤解が真実としてまかり通るものらしい。


 だから、おじさんがあんなことを言ってきたんだろうか?


「そういう事情がないなら、なんだって今頃になって家を出るんだ? 普通に自活するにしても、冬を目前にした今頃にそういう行動に出るのは変だろう?」


 秋の紅葉も深まり季節はすぐに白くなるだろう。


 この辺の秋は短いのだ。


 だから、普通になんの問題もなく、両親の元から自立するように独立するなら、別段今の季節を選ぶ必要はない。


 むしろみんなこんな時期の引っ越しは避けるだろう。


 大体、真弥の境遇を思うなら、新しい家を見つけて引っ越した場合、間違いなく現在より環境的に劣るはずで、感じる寒さも比較にならないだろう。


 勇人が疑問を感じるのも無理はなかった。


 普通なら適当にあしらい答えないところだが、相手が勇人だったし、周囲にはほとんど人がいないということもあって、真弥は打ち明けることにした。


 噂をきちんと否定したかったのだ。


 瑠璃は真弥を捜してこの辺りをうろつくこともあるから、なにも知らない彼女に、そういう噂が耳に入るのを恐れてのことである。


 自覚していないが最愛の人を優先しているため、由希には残酷な仕打ちなのだが、真弥は気づいていなかった。


 たったひとりと思い詰める人が現れてしまったら、だれだってその他の者には残酷になれるものである。


 最優先の対象が決まっているから。


 このときの真弥はそういう感情がなにを招くか、まだ自覚してはいなかった。


 周囲が恐れるほどの実力を持つ真弥が、心にしっかり灯した気持ち。


 それは状況によっては恐ろしい刃と化す。


 その決断を下せる力を真弥はすでに得ていた。


 まだ気づいていなかったけれど。


「勇人だから打ち明けるけど、実はおじさんから正式に話が出てね」


「誤解じゃないじゃないか」


「誤解だってっ。本当に付き合っていないし、ぼくは由希のことは妹のようにしか思ってないよ。おじさんからは由希と一緒になって、後を継いでほしいって言われたけど、ぼくは断ったからね」


「信じられねえ。勿体ない真似するなあ。おれならそんな絶好の機会、絶対に見逃さないぞ」


 眼を剥いて驚く勇人に真弥は呆れている。


「それって金持ちなら、相手はだれでもいいわけ、勇人は?」


「う~ん。時と場合によるだろうけど、普通は断りにくい誘惑じゃないか? それともそんな好条件の縁談を断わったってことは、他に好きな女でもいるのか?」


 半信半疑といった感じの問いだったが、言われた瞬間、真弥が微かに動揺した。


 気持ちを自覚したばかりのせいでごまかせなかったのだ。


 珍しく狼狽える真弥を見て、勇人はもっと驚愕する。


「おいおい。いったいいつの間に? 相手はだれだよ、真弥? 由希ちゃん以外の女の子と付き合ってる素振りはなかったけど、いつの間に引っかけたんだ、おまえ?」


「怒るよ、勇人。そういう言い方をしたら」


 まるで遊び人みたいに言われ、真弥がムッとしている。


「悪い。悪い。で、ほんとにだれなんだ?」


「……悪いけどそれは言いたくない」


 片手を口許に当てて顔を背けて、そう答える真弥に勇人は追及を諦めた。


 これは言わないだろうと判断して。


 なにか言えない事情があるのかもしれない。


 それに真弥の方は違ったとしても、由希の方は間違いなく真弥を想っている。


 相手の名が耳に入ったら、なにをするかわからない。


 そういう意味でも言えないだろうと思ったから。


  ただその場合、真弥がその相手と添い遂げようと思ったら、もしかしたらこの部落を出ていくかもしれないと、ふとそんな予感がした。


「もしかして由希ちゃんとの縁談を断わったから家を探してるわけか?」


「まあね。ぼくもそこまで厚顔無恥じゃないつもりだから。縁談を断っておきながら、まだお世話になれると思う? おじさんはそんな必要はないと言ってくれたけど、由希のためにも離れるべきだと思うんだ。ぼくが応えてやれない以上」


「そっか」


 真弥らしいなと思う。


 由希は決して万人に好かれる少女じゃない。


 由希のことを本心から気遣うのは真弥くらいだ。


 その真弥も幼なじみとしての気持ちしか感じられなかったみたいだが。


 案外、本来なら由希は真弥にとって、1番苦手な少女ではないだろうか?


 幼なじみとして育っていなかったら、近づくこともなかったかもしれない。


「由希ちゃんはけっこうワガママだし、独占欲だって強いしな。おまえが断っても、すぐには諦められないかもしれないな。気持ちの切り替えだってできるとは思えない。おまえさ。その相手と結ばれたらどうするんだ?」


 この問いは真弥にはとても意味が重かった。


 まだ仮定だが真弥が想いを寄せる相手はよりによって巫女だ。


 普通なら許されない想いである。


 だから、軽い気持ちでは答えられなかった。


「……そのときはここを出ていくよ、ぼくは」


「由希ちゃんのせいか?」


「いや。別に由希のせいじゃない。由希の問題がなくても、そのときは出ていくよ、ぼくは」


「真弥?」


 思い詰めたような目の色が気になって、勇人が気遣うように名を呼んだ。


「とりあえず由希には伏せておいてもらえると助かるよ。知ったらなにをやりだすかわからないし」


「おまえのためにならないことはしないって。でも、なにも出ていかなくても……」


「勇人。もしそのときがきたら、勇人にもぼくの気持ちがわかるよ。どうして出ていくのか。出ていかなければならないのかが」


「……」


 なにひとつ返事を返せずに、勇人は遠ざかる真弥の背中を見ていた。


 真弥がなにか超えてはならない境界線を超えたような、そんないやな予感がしていた。


「もしかしてあいつ……ものすごく厄介な相手に惚れたんじゃないだろうな?」


 結ばれたそのときは出ていくしかないのだと、真弥の口調はそう聞こえた。


 まるで追われるように。


 いやな予感だった。


 とても。

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