第2話 落ちこぼれ剣士






 緑豊かな部落があった。


 その最奥にあるのは他の部落の侵入に備えて構築された神殿である。


 そこに住まうことが許されているのは、代々、部落を護る巫女だった。


 生まれ落ちてすぐ巫女としての素質を認められると神殿へと引き取られ、先代の巫女が力を失う前に育てられる。


 そうして代々、ひとりの巫女によって護られてきたのである。


 現在、巫女の座にあるものはまだ年若い少女であった。


 美少女として噂される巫女の名は瑠璃といった。





 まだ陽が高く夏の終わりを感じさせる気候を肌で感じながら瑠璃はため息をつく。


 ぬばたまの黒髪とまで言われる長い髪を、お傍付きの由希に梳いてもらいながら。


 まだ15、6といった幼い少女である。


 美少女と噂されるだけあって、かなり整った顔立ちをしているが、年齢より幼く見えるのが悩みの種だった。


 瑠璃が巫女となったのは数年前で、それまでは後継として育てられていた。


 先代の巫女が力を失い、後年、亡くなったのだが、それ以後に瑠璃は正式に巫女を名乗ったのである。


 一番遊びたい盛りに重責を背負う身となり、それ以来、瑠璃はため息ばかりついている。


「どうかなさったのですか、瑠璃さま?」


 幼い頃から傍にいてくれる由希の声に、瑠璃はそっと微笑んでみせた。


「なんでもないのよ。見て。外はすっかり秋よ? 紅葉が綺麗ね」


 瞳を細めて窓の外を眺める瑠璃も十分に美しい。


 尤も。


 巫女の外見を知っているのは、ほんの一握りの者だけなのだが。


「紅葉といっても瑠璃さま。まだ夏の終わりですよ?」


 揶揄うような声に瑠璃がクスッと笑う。


 景色は夏のような秋のような、不思議な感じを讃えている。


 確かに秋の紅葉も見事だったが、まだ夏を感じさせる青空も広がっていて、とても不思議な感じを見る者に与えるのだ。


 瑠璃は今の季節が1番好きだった。


 まあお傍付きの由希に言わせると衣装選びに困るこの時期はあまり好きではないらしいが。


 薄着にすればいいのか、それとも秋用にするべきか悩むのだという。


 確かに半袖だと寒いし、長袖だと暑い。


 そういう気候ではあるのだが。


「どうして巫女は外に出てはいけないのかしらね?」


 憂い顔の問いかけに由希は答えを返せない。


 由希は瑠璃が選ばれたときに、村で1番年齢が近いということで、お傍付きに選ばれた村1番の大富豪のひとり娘である。


 村長とも親しい間柄の娘で瑠璃には言えないが、彼女の監視役でもあった。


 おそらく聡明な彼女は、そのことも承知しているのだろうが。


 お互いに隠していることはあるのだが、どちらもが友情を寄せている。


 由希は立場柄、態度には出せないものの、自由のない瑠璃を可哀想だと思っていたし、主従関係ではなく友達として大好きだった。


 それは瑠璃も同じなのか、由希には親しげに接してくれる。


 籠の鳥のように閉じ込められて、大切にはされているが自由が全くない瑠璃。


 こんな小さな自分でも、大好きな彼女の力になれないか。


 最近はそんなことばかり考えていた。


「瑠璃さまは変わっておられますね。代々巫女さまといえば神秘の代名詞と言われる高貴な方々ですのに、普通の女の子のような夢をみていらっしゃる」


「巫女だなんていっても、わたしは普通の女の子よ、由希」


 憂い顔でそう言われ「そうですね」と頷いた。


 瑠璃の夢は外に出て自由に振る舞うこと。


 巫女でなければ出てこない夢だ。


 それほど窮屈な暮らしが辛いのだろう。


 可哀想に……とため息が出る。


 監視役のくせに友情を寄せるのはいけないことなのだろうか。


 なんとかして瑠璃に笑ってもらいたい。


 そう願うこともいけないことなのだろうか。


 ため息が止まらない。


 巫女は贅沢な暮らしができる。


 その証拠に瑠璃の衣装は、由希でさえ着られないような最高級の絹の、それも綾織りだ。


 純白の衣装が濡れたような黒髪によく映える。


 けれど、彼女は着飾られただけの綺麗な小鳥。


 それを知っているから、いつも憂い顔。


 自分になにができるだろう?


 自問自答しても答えは出なかった。





「おい。あいつが本当にあの天才剣士なのか?」


 ひそひそと囁き合う声が聞こえて、藁の山に身を横たえていた青年が、ふっと目を開けた。


 少し離れたところに、ふたりの青年が立っていて、ひそひそと会話を交わしている。


「伝説的な強さを誇っていると聞いたが、さっきから寝てるだけだぞ?」


「確か……決して本気にならない天才剣士……だったっけ?」


 ひそひそと交わされる噂話。


 真弥には慣れた会話だった。


 興味も失せてそのまままた眠ろうとする。


 そこへ声が投げられた。


「よお、真弥。また寝てるのか?」


 億劫そうに目を開ければ、幼なじみの勇人が顔を覗き込んでいた。


 茶色の瞳が面白そうに輝いている。


 真弥の名を聞いて噂話を交わしていたふたりは、またひそひそと話し出した。


「やっぱりあいつみたいだぞ」


「真弥って呼ばれてるもんな」


 ふたりの会話を聞きながら(らしくなくて悪かったね)と、真弥は内心で腹を立てる。


 噂だけを聞いてやってくる連中には、ほとほと困り果てているのだ。


 どんな噂を聞いているのかは知らないが、真弥の噂というのは実物との落差が激しいらしく、やってきた者は皆あんな反応をみせるのである。


 一々落胆される真弥は、相手をするのもバカらしくなってきていた。


「また噂されてるみたいだな、おまえ。で。呆れられてるわけだ?」


「過剰な期待をしてほしいなんて、ぼくが頼んだわけじゃないよ、勇人」


 睨み付ける真弥に勇人は悪びれずに笑ってみせた。


「ぼくはただの落ちこぼれ剣士だっていうのに、なんだって噂になるんだか……」


 自分で自分のことを落ちこぼれ剣士という真弥に、勇人が呆れたような顔をする。


 確かに真弥は仲間内では落ちこぼれ剣士と呼ばれている。


 が、その腕前は決して落ちこぼれてはいない。


 真弥の腕前はほとんど伝説と化しているほどだ。


 落ちこぼれ剣士の謂れは、真弥のその性格にあった。


 優しすぎて人を殺せないのである。


 たとえそこが戦場でも。

 勇人はそれをよく知っていた。


 真弥は伝説化されるほどの実力の持ち主で、落ちこぼれ剣士と揶揄される影で、決して本気にならない天才剣士とも言われていた。


 それが近隣に広まって見物客がやってくるのである。


 たまに真弥をなめてかかって仕掛ける者もいたが、そういう者は真弥に徹底的にやられている。


 真弥は人を殺したり傷つけたりできないだけで、試合で負けたことは一度もないのだから。


 それが剣であれ、槍であれ、弓であれ。


 これで戦場で本領を発揮できるば……とは、彼の性格を知っていて、処遇に困っている上役たちの口癖だった。


「腕は悪くないのになあ、真弥って」


「幾ら腕がよくても実戦で通用しないと意味がないよ。別に殺したいとは思わないけどね」


「真弥ってほんとわからねえ奴だよなあ。それだけの腕があれば、どんな出世だってし放題だっていうのに、自分から足蹴にしてんだからさ。狩りだっていつもおまえひとりが獲物に逃げられてるし」


 事実である。


 真弥は別に人間だけがダメなわけではないのだ。


 生命あるものに刃を向けることが、どうしてもできないのである。


 だから、狩りも苦手だった。


 実力だけでいえば、そうとうなものなのだが。

「ほんと自分でも思うよ。なんでぼくはこんな向いてない職業についてるんだろうって。

 いくら両親の遺言とはいえ、もう少し考えて決めればよかったよ。つくづくぼくには向いてないと思うから」


「そうか? おまえほどの腕があって向いてなかったら、みんなクズじゃないか」


 そこまで言われると困るのだがと、真弥の顔に書いている。


 ふたりの会話を聞いていた傍観者たちは、真弥の事情を知って呆れたような顔をしている。


 天才と呼ぶに相応しい才能の持ち主らしいが、それを発揮できないのでは宝の持ち腐れである。


 これで試合になると負け知らずなのだから、それは妙な噂も広がるだろう。


「別におまえが選んだ生き方にケチをつける気なんてないけどな。こんなご時世なんだ。もうすこし真剣になれよ、真弥。そんな調子じゃあ、いつかおまえが殺されるぞ?」


「それもいいんじゃない?」


 あっさりした真弥に勇人が絶句する。


 気負いもなにもないから真弥は怖いのだ。


 鷹揚で人当たりがよくて真弥は温厚な人柄だと思われがちだが、その実かなり冷酷というか、冷淡な面も持っていた。


 生きることに執着していないのだ。


 別に死にたいわけではないらしいが。


 流されて生きているというか、現実味が伴わない人物なのである。


 そのせいか真弥を見ていると神秘的だという噂もあった。


 真弥という青年は不思議な青年だと。


「とにかく西の部落と戦になるかもしれないんだ。今度こそ初陣だって覚悟してろよ?」


「何度目の初陣かわかってて言ってるわけかい、勇人?」


 呆れたような口調に睨み付けると、真弥は肩を竦めてみせた。


 そのまま眠ってしまうつもりなのか、もう勇人には意識も向けずに目を閉じる。


 扱いにくい奴だとため息をつきながら、勇人もその場を後にした。


 やはり子供の頃に両親を亡くしたからだろうか。


 真弥がすべてに対して投げやりなのは。


 なにも持っていないと、あんな風になるのだろうか。


 可哀想な奴だと、ちょっとため息が出た。





「いいですね? 絶対にカツラをとったらダメですからね? 瑠璃さまの黒髪は目立ちすぎますから。それと必ず少年らしい言動をとるようにしてください。瑠璃さまがお戻りになられるまでの短い間なら、あたしがなんとか誤魔化しますから」


 そう言って由希に送り出してもらったのは、ついさっきの出来事である。


 本当はひとりの時間の長い昼に出してくれるつもりだったらしいのだが、支度が長引いて、こんな時間になったのだった。


 なんの支度かといえば、瑠璃を見れば一目瞭然。


 少年らしい髪形の亜麻色の髪のカツラ。


 どこにでもいる子供が身に付けているような男物の衣装。


 瑠璃は男装して抜け出しているのだ。


 これをすべて用意してくれたのは由希である。


 彼女の家が富豪だからできることで、実際バレれば彼女が責に問われるのだが、それでも由希は瑠璃のために動いてくれた。


 だから、彼女に迷惑がかからないように、瑠璃は細心の注意を払わなければならない。


 ただ……最初は男物の服なんて身に付けたこともなくて、脚を出す装いなんて初めてだったから、かなりの抵抗があった。


 恥ずかしかったし。


 でも、神殿から少し村に近付くと、見知らぬ光景が広がっていて、すぐに忘れてしまった。


 物珍しくてきょろきょろと歩いている。


 忙しく行き交う大人たち。


 楽しそうに遊んで回る子供たち。


 子供らしい遊びなんてしたこともない瑠璃は、ちょっと羨ましかった。


 刈り入れに向かって動き出しているのか、今年も豊作のようだ。


 これなら食糧の心配はせずに済むだろう。


 きょろきょろと見て歩いて、どのくらい経っただろう?


 厩舎の近くで眼が止まった。


 倒れているのか、眠っているのかは不明だが、男の子が倒れている。


 藁の山に埋もれるようにして。


 外で眠るという常識のない瑠璃は慌ててしまった。


 倒れているのなら薬師を呼ばないといけない。


 おずおずと近付いても青年は起きる気配がなかった。


 やはり倒れているのだろうか?


 これって行き倒れ?


 乏しい知識が脳裏に浮かぶ。


「あの……大丈夫? 倒れてるの?」


 恐る恐る声を投げれば、ようやく青年が目を開けた。


 やっと気付いたと言いたげに。


 ちょっと驚いた顔をされて、どうして驚くのだろうと身を引いてしまった。


 真弥は気配も感じさせなかったことで驚いたのだが、当然のこととして常識に疎い瑠璃はわからなかった。


「あれ? もしかして変な心配をさせたかな? 眠ってただけだから、別に心配はいらないよ。驚かせてごめん」


「眠ってたってもう秋なのに」


「別に風邪をひくほど寒くもないよ。頭を冷やすには丁度いい。それより見掛けない子供だな。余所者か?」


「ううん。あんまり家から外に出たことがないだけ……だよ」


 語尾が女言葉になりそうになって、慌てて付け足した。


 気付かないほど鈍いのか、真弥はにっこり笑って起き出した。


 おどおどとしている瑠璃の顔を覗き込んで。


「ぼくは真弥。きみは?」


 名前なんて用意していなかったので、訊かれたときについ本名を名乗ってしまった。


「瑠璃よ……じゃない、だよ」


 怪しい言葉遣いなのだが、真弥は気にしないタチなのか、可笑しそうに笑っただけだった。


「なんだ。顔も女の子みたいだと思ってたけど、名前もそうなんだ? 別にどっちもきみのせいじゃないけど」


 巫女の名は知られていないらしいと由希から聞いていたが、どうやら本当らしい。


 本名を名乗ってしまって、一瞬悟られるかと怯えたけれど、真弥はなにも気づかなかった。


 不思議な黒い瞳。


 子供のように純粋で、大人びた叡知があって。


 不思議な人。


「剣を持っているの……剣士?」


 女言葉になりそうになると、慌てて語尾をかえる瑠璃に、真弥も一瞬、怪訝そうな顔をする。


 だが、すぐに破顔した。


 あまり詮索しない人柄なのかもしれない。


「部隊の足を引っ張ってるしがない落ちこぼれ剣士さ」


「落ちこぼれ?」


 剣士がどういう職業で、戦がどういうものか、この頃の瑠璃はなにも知らなかった。


 なにひとつ知らされず、大人たちの都合のいいように託宣させられてきたのである。


 ただ剣がどんな物かは知っていて、それで出た問いに過ぎなかった。


 だから、この問いに対する真弥の返答は、瑠璃にはかなり意外なものだった。


「人を殺せないんだよ。剣士とか武闘家とか、戦うために生きている者は、人を殺すのが仕事だからね。人を殺せない剣士なんて、落ちこぼれと言われても無理はないんだ」


 知らなかったことを知らされ、瑠璃は青ざめた。


 今まで数度とはいえ、戦の託宣を求められ、瑠璃はその許可を出している。


 そのときの村長の言い分では、自分たちの身を護るためだけで、だれも傷つけないとのことだった。


 ただ護るだけだと。


 だから、許可したのに……その剣士の仕事が人を殺すこと?


「なにを青ざめてるんだ?」


 問われても瑠璃にはなにも言えず、かぶりを振るしかなかった。


 人を殺すことが戦いを生業とする者の仕事だという。


 だが、彼は人を殺せないと言った。


 それはどういう意味だろう?


「人を殺せないとどうなるの?」


「そうだね。時と場合によるけど、まあケガをして帰ってくるか、運が悪ければ自分が死ぬか、どちらかだと思う。今のところ、ぼくは無事だけど」


 すこしホッとした。


 現実的には受け止められなくても、人を殺すことが罪だということは、巫女である瑠璃にはわかるので。「人を殺せないと落ちこぼれなの……か?」


 なんだか変な話し方をする奴だと顔に書いて、真弥が苦笑した。


「言っただろう? 剣士の仕事は人を殺すことだって。人を殺せない剣士なんて、ただのお荷物に過ぎないんだよ。実際、何度ももう情けをかけずに殺せって責められてるしね」


「でも、真弥は殺さないんだろう?」


「殺さないというよりも殺せないだけだけど」


「自分を責める必要はないと思う。どんな理由があれ、人を殺せばそれは罪だよ。戦が人の生命を奪うものなら、それは天に背く行い。いずれ天罰がくだるわ……よ」


 巫女として話しそうになってしまい、慌てて男言葉を付け足す瑠璃を、真弥はマジマジと見上げていた。


 藁の上に腰掛けたまま。


 自分の気持ちを先取りされて、指摘されたのは初めてだったので。


「ふしぎな子供だな」


 立ち上がって頭を撫でられて瑠璃はちょっと焦った。


 カツラがとれたらどうしようと。


 アワワと慌てる瑠璃に真弥が吹き出す。


 なんだかちょっと恥ずかしかった。


「小さいな。いったい幾つなんだ?」


 ふしぎそうに真弥が問う。


「子供っぽくて悪かったね。これでも15だよ。真弥は?」


「ごめん。15だったんだ? ぼくは17だよ。ふたつしか変わらないのに、子供だなんて言われたくないよね。ほんとごめん」


 言いすぎたと言いたげに真弥が何度も頭を掻いている。


 まあ瑠璃が童顔なのはたしかだし、本当は女の子なんだから、男の子としてみたら子供にみえるものかもしれないが。


「もう……帰るの?」


「別に急いで帰るわけじゃないけど」


 なにが言いたいのかわからないと真弥は首を傾げている。


 瑠璃はどうしても直接、戦場に出る真弥から、戦について詳しいことを聞きたかった。


 自分が知らされなかった現実を知りたかったのである。


 それが村長たちには歓迎できない知識だとしても。


 人の生命を奪うことに許可なんて出せない。


「あのね、戦についてとか、剣士の役目とか、そういうことについて詳しいことを教えてほしいんだ。どうして戦が起きるのかとか、どうすれば起きずに済むのかとか。ダメ?」


「別にだれでも知っていることだから、ぼくは構わないけど、そういうことを知る必要があるのかい?」


 真弥の問いかけには答えなかった。


 お忍びの瑠璃と逢っていたなんて知られたら、責任なんてなくても、真弥が責められかねない。


 そんな理由は言えないが、なにか感じ取ってくれたのか、真弥はため息ひとつで同意してくれた。


「じゃあ場所をかえようか? こういうところで堂々とする話でもないし、ぼくの考えはある意味で異端だからね。あまり人に聞かれたくないから」


「うん」


 一言だけ答えて背を向ける真弥の後を追いかけた。






 真弥が連れてきてくれたのは、神殿と村のちょうど中間にある、とても大きくてきれいな湖だった。


 瑠璃はそれが湖だと知らなくて、あまりにきれいな湖をみて感嘆の声をあげていた。


「すごくきれい。これはなに?」


「は? なにって湖だけど?」


 なにを言っているのかわからないとばかりに、真弥が怪訝そうな顔をする。


 だが、瑠璃は好奇心が赴くままに湖に近づいていき、そっと水面に手を戯らせた。


「冷たいっ」


 きゃっきゃっとはしゃぐ瑠璃に、さすがに鷹揚で呑気な楽天家の真弥も、どこかがおかしいと気づきはじめた。


 どこからどうみても普通じゃない。


 そういえば言葉遣いも、時々、あきらかに怪しいときがある。


 言いなれた言葉遣いで答えかけて、慌てて言い直したみたいな、奇妙な違和感があった。


 そういうときにとびだすのは、たいてい女言葉である。


 そして女の子そのものの優しい顔立ち。服装が違ったら、きっととても美しい少女にみえただろう。


(もしかしてこの子、女の子なんじゃ……)


 そうと意識してみれば、身体付きは頼りないし、華奢で優しい外見をしていて、とても同性にはみえなかった。


 でも、瑠璃は余所者ではないと言った。


 真弥はある特殊な事情から、部落に通じている。


 その真弥が瑠璃と同じ年頃の女の子がいる家に心当たりがないのだ。


 知っている範囲内に瑠璃に似た少女はいない。


 では瑠璃は嘘をついているのだろうか?


 他の部落からこの部落の内情を探りにきた、とか?


 巫女の守護をいただく部落や国は、それほど多くはない。


 ましてこの部落を護る巫女の力は周囲から一目置かれるほどの強さだ。


 外敵は常に狙っているだろう。


 だから、素性を偽って探りにきても、別にふしぎはないと知っている。


 だが……。


 自問自答をくりかえす真弥の目の前で、瑠璃はしきりにはしゃいでいる。


 まるで水に触るのも初めてだと言いたげに。


 その笑顔は無邪気で、そんな陰謀を隠しているようにはみえなかった。


 ましてさっきからあまりに露呈しすぎている。


 間諜だったら、もうすこし上手くやるだろう。


 あの笑顔は偽りじゃない。


 そのていどのことが見抜けない真弥ではなかった。


 が、そうなるとあの「瑠璃」と名乗っている子供の素性は、まったくわからなくなるのだか。


(悪い子じゃなさそうだけど、怪しいのは怪しいよね。いったいだれなんだろう? すこし付き合ってみればわかるかな? 疑いが疑いにすぎないかどうかが)





「水を触るのがそんなに気持ちいいのか、瑠璃?」


「とってもっ。こんなに冷たいなんて知らなかった」


 振り向いた瑠璃に笑顔で言われ、真弥はちょっと赤くなった。


 瑠璃が少女かもしれないと疑惑を抱いたせいだったが。


「湖ってどうしてこんなにきれいなの? どうしてこんなに大きいの?」


 はしゃいで問われて真弥は呆れてしまった。


 興奮しているせいか、言葉遣いが変だ。


 隠すのを忘れているとしか思えない。


 どこから聞いても女言葉である。


(やっぱりこの子、女の子なんだ。にしても、ちょっとひどくないかい? これで性別や素性を隠そうとするのは無謀だ)


 思わず複雑な気分になる真弥である。


 瑠璃はあまりに世間知らずすぎた。


 これでは素顔で接していたら、瑠璃を騙して手に入れようとする男なんて、さぞ大勢いるにちがいない。


 その当人がこれほど無防備でいいのだろうか。


 自分が性別や素性を偽っていることすら忘れている。


 おそらく本来は素直で嘘なんてつけない少女なのだろう。


 真弥が1番親しい少女は、どちらかといえばワガママで、いつも振り回してくれる。


 そういう意味で瑠璃のような少女は意外ですらあった。


 こんな娘もいるんだ?


 と、妙に感心してしまっていた。


(なんとなく可愛いね。口に出したら赤くなりそうだけど)


 クスクスと笑う。


 その笑顔で我に返ったのか。


 瑠璃が困ったような顔になった。


 どうやら自分がはしゃぎすぎて、羽目を外したことに気づいたらしい。


 これではイジメているようだ。


 これは話題を変えるしかないらしい。


 本来なら突っ込むべき場面かもしれない。


 だが、真弥にはどうしても瑠璃が間諜だとは思えなかった。


 だとしたらとんだ無能者である。


 どうして素性を隠すのか、どうして性別を偽るのか。


 それは付き合ってみればわかる日がくるかもしれない。


 そう判断をくだした。


「夏の終わりとはいえすぐに日が暮れるから、あまり遅くなると危ないよ?」


「うん」


 ここへきた目的に対するものだと知って、瑠璃がふしぎそうな顔になる。


 バレていないのだろうか?


 すっかり隠すのを忘れていたのだが。


 まあいい。


 今は知りたいことを訊ねるべきだから。


 真弥が自然に湖の畔に腰かけて、瑠璃がちゅうちょしていると声を投げてきた。


「座らないの?」


「え? でも、土の上に直になんて」


 呆れる深窓の令嬢のごとき発言に、さすがの真弥もあっけに取られた。


 村長の娘でもこんなことは言わないだろう。


 村長と呼ばれているが、他の部落や国と比較して言うなら、一応、国主である。


 つまりその娘は王女と呼ばれるべき立場なのだ。


 真弥は安岐(あき)のことはよく知っている。


 その安岐ですら、こんな言葉は言ったことがない。


 いったいどういう育ちなのだろうか。


「気になるなら、これでどうかな?」


 呆れつつも手持ちの布を隣に敷いてやる。


 すると、瑠璃はあからさまにホッとした顔をした。


 それでも何故か近づいてこない。


(?)


 しばらく見上げていると、真弥とその距離を見比べているようだった。


(ふうん)


 と、ひとり納得する。


(この娘ってどうやら男と付き合ったことがないんだね)


 それがはっきりわかるほど恥じらっている。


(たぶん近づいたこともない。それで迷ってるんだ? いったいどんな立場の姫なんだ?)


 さすがに非常識な瑠璃に悩んでしまう。


 もうすこし離そうかと思ったところで、瑠璃がおずおずと近づいてきた。


 そのままおっかなびっくり隣に腰かける。


 ここまで怯えられると、なんだかなあといった気分だった。


 それでもすごく勇気を出したのだろうということは、すぐに見抜ける。


 臆病な娘ではないらしい。


 それに戦について知りたいと言ったときの眼。


 あれはふしぎな瞳だった。


 まるですべての責を背負っているかのような厳しい瞳だった。


 現実から眼を背けずに受け入れようとする者の眼をしていた。


 だから、断りきれなくてここにいるのだ。


 本当にこの瑠璃と名乗っている、自称少年はいったい何者なんだろう?「それでなにを知りたいって? ぼくに答えられることなら答えるけど?」


「うん。戦について知りたい」


「大雑把に戦と言われてもね。それこそ規模も理由も様々だし」


 困ったように言うと瑠璃が隣から見上げてきた。


 振り向いた黒い瞳に違和感を感じる。


 瞳も睫毛も黒、だ。


 伏せられたらさぞ長いのではないかと思わせる睫毛が震えている。


 なのに髪は亜麻色?


 怪訝に思ったが真弥にはわからなかった。


 この当時、カツラは非常に高価な代物だったので、その名前すら知らない者の方が多かったために。


「じゃあ半年前に起きた戦は? あの理由はなんだったの?」


「半年前って弥(ね)の国とやりあったときのことかな? どうしてきみがそんなことを知っているんだい?」


 真弥の問いには複雑な意味があった。


 瑠璃が女の子だと、ほぼ確信している真弥には、瑠璃がそういうことを知っている方がおかしかったのだ。


 戦いを生業とする者や、それに関わった者は知っているだろう。


 だが、部落の大部分の者は詳しいことを知らされない。


 それが戦の常である。


 特にこの部落は大きい。


 戦う者と護られる者。


 その区別ははっきりしている。


 剣士の仕事がなにか。


 そんなことすら知らなかった瑠璃が、知っていても構わない知識ではないのだ。


 が、やはり瑠璃には通じなかった。


 よほど世間を知らないらしい。


「あの戦はどうして起きたの? 向こうが仕掛けてきたから? この部落を護るため?」


 真面目な顔で言われ、どういう意味だろうと悩んでしまった。


「どこから出るわけだい? その理由は?」


「どこって……その……」


 まさか戦の託宣を求められたときに、理由として村長から聞いたとも言えず、瑠璃は口ごもった。


 これは言えないらしいと判断して、真弥が呆れたように言い返した。


「あれはどちらが悪いとも言えないね」


「何故?」


「だって領土を奪いあっただけだから」


 あっさり言われて瑠璃は絶句した。


 そんな理由で戦を起こし、人々が生命をかけたのか?


「弥の国はね。かなり豊かではあるけれど、弱小国でもあったからね」


 それは瑠璃も知っている。


 だから、仕掛けてきたと聞いて驚いたのだから。


「当時は軍事力の強化を図っていて、この部落にも目をつけていたんだよ」


 ここまでは瑠璃が聞いていたとおりだ。


 どこから事実がねじ曲げられたのだろう?


「なにしろこの部落を護る巫女殿は、この近隣でも1、2を争う能力の保持者。欲しがる者は後を絶たないからね」


(わたしが原因?)


 声にならない声で呟いて、瑠璃は震えだす。


 知らなかった自分の価値を知らされて。


「それにこの部落は国ではないけれど、国といっても通用するほど領土が広いだろう? だから、まあそういう小競り合いはよくあるんだよ」


 思いもしなかったことを告げられて瑠璃はため息をつく。


「戦のときに非難されないやり方で戦おうと思ったら、相手に先に攻めさせればいい。そうすれば正当な理由ができて、相手の領土を奪うために戦いを仕掛けられる。あれはそういう戦だったよ」


 戦が勝利したことは知っている。


 では、弥の国はどうなった?


「弥の国はどうなったの?」


「滅んだよ」


 身体を小刻みに震えさせる瑠璃に、いったいなにをそんなに衝撃を受けているのだろう? と、真弥がふしぎそうな顔をしている。


「今では弥の国の領土はこの部落の一部だよ」


「そこに住んでいた人々はどうなったの? 戦に負けるとどうなるの?」


「そうだね。王とか、そういう君主の血筋の者は、たいてい殺されるかな?」


 それは巫女である瑠璃も含まれるのだろうか?


 この部落を事実上、統べているのは瑠璃なのだか。


 だが、力ある巫女を殺すのは絶対的な禁忌。


 ではどうなるのだろう。


「例外は巫女や神官だね。彼らだけは生け捕りにされる。守り神はどこだってほしいから。後の人々はたいていは奴隷かな」


「奴隷」


 たしかにそういう身分の者はこの部落にもいると聞いている。


 だか、瑠璃はそういう人々にも普通の暮らしをさせてほしいと、何度も村長に注意した。


 聞き入れられているかどうかは、瑠璃に確かめる手立てはなかったが。


 結局、瑠璃は託宣するだけの巫女で、実質的な権限はすべて村長のもの。


 ただ瑠璃の託宣なくして村長が動けないというだけのものだった。


 だから、瑠璃が奴隷たちを庇っている以上、そうひどい扱いは受けないはずだ。


 それは瑠璃の託宣に背くことだから。


 巫女が口にしたことはすべて託宣。


 特にそれが「望み」という形であれば、すべて意味を伴う。


 だから、安心していたのだが、本当のところはどうなんだろう?


「この部落にも奴隷はいるよね? 彼らはどういった扱いになっているの?」


「そうひどい扱いではないと思うよ。むしろ厚遇されている方じゃないかな?」


 そう言われてホッとした。


「なんでも巫女殿がいやがるらしくて、村長も手が出せないらしいから。巫女の託宣に背くととんでもない事態になるからね」


「……それって村長は不本意ってこと?」


「そりゃあ奴隷は貴重な労働力だから」


「奴隷といっても同じ人間よ。生命の価値に貴賤はないわっ」


 思わず叫んでしまったが、言葉遣いを直していないことにも気づかなかった。


 そのくらい腹を立てていたのだ。


 知らなかったではすまない。


 では瑠璃がもし奴隷のことなど意識も向けなければ、彼らは人間らしい扱いもしてもらえず、いつかは病にかかり死んでいったことだろう。


 無知とはなんて重い罪なのか。


 瑠璃が憤っているのを間近でみて、真弥はまた驚いていた。


 ふしぎな考え方をする娘だと。


 それは真弥自身の考えでもあった。


 今まではだれも同意してくれなかったけれど。「奇遇だね。ぼくも同じ意見だよ」


「え……」


「ただね、今の殺伐とした時代では、ぼくや瑠璃みたいな考え方は、かなり異端なんだよ」


「異端」


「殺し合うのが常識で、人を殺した数が手柄になるような時代だよ?」


 言われて瑠璃はなにも言い返せなかった。


 間違っているのは周囲の方だと思うのに。


「滅ぼされた国の人間が奴隷になり、働かされて死んでいくのも常識。普通はそう考えてる」


 どう言えばうまく伝わるのか自信がない。


 でも、そんな考え方を当然のこととして受け入れたくなかった。


「だから、ぼくはあそこではぼくの意見は言えないって言ったんだよ。傍で聞いていただれかから、村長や隊長の耳に入ると、また責められるからね」


「そんな……自分の意見さえ堂々と言えないなんて」


 瑠璃は憤ったが真弥は小さく笑った。


「別にぼくは気にしないよ? さっきも言ったけど、ぼくは人を殺せない落ちこぼれ剣士だから、ある意味で異端視されているし、そういう注意を受けるのも珍しくないから」


 それだけ瑠璃や真弥みたいな考え方が異端なのだろう。


「でも、きみを巻き添えにはできないからね。あのときのきみは戦がなんであるのかも知らなかった。剣士の役割も知らなかったくらいだしね」


 たしかに今まで知らなかった。


 自分が如何に無知だったか、今日1日で思い知らされた。


「それがわかっていると、あそこでうかつに説明できなかったんだ。よけいな知識を吹き込むなって責められただろうから」


 肩を竦めて笑う真弥に、瑠璃はふしぎそうに彼を見つめていた。


 子供のように無邪気に見えているのに、大人びた叡知を秘めた瞳をしていると。


 それは彼の考え方のせいなのだろう。


 異端、かもしれない。


 瑠璃も扱いにくい巫女と言われているから。


 瑠璃や真弥の考え方は、周囲にはただのお荷物かもしれない。


 でも、自分たちが間違っているとは思えない。


 間違っているのは領土を奪うために簡単に人を殺せる人々だ。


「いつか」


「え?」


 いきなり俯いたかと思ったら、瑠璃が話し出してびっくりした。


 とても神秘的な表情を浮かべていたから。


「いつか報いがこの部落を襲うわ」


「瑠璃」


「天地(あめつち)に背き、同胞(はらから)の生命を奪う。それは忌むべき行い。そうして罪を重ねれば、いつか報いが襲う。どうしてわからないの? 滅ぶのは……諸共にだというのに」


 一滴、とてもきれいな雫が頬を伝って落ちた。


 きれいだと思った。


 姿形ではなくその心が。


 今気づいたように瑠璃の顔を覗き込んで、真弥はすこし衝撃を受けた。


 何故なんてわからない。


 ただ見ていたかった。


 そして……見ているだけの自分が切なかった。





 あの後もうしばらくのあいだ、瑠璃に問われることに、真弥が答えるという形で会話をして、そうしてふたりは別れた。


 瑠璃が知りたいことは山のようにあって、真弥が他のことを話したくてもできないほどだった。


 どうしてそこまで気にするのか。


 気にならなかったと言えば嘘になる。


 だが、探り出すのも気が引けるほど真剣だったので、結局、一度も問えなかった。


 それに会話して性格とか考え方とか。


 そういうものが理解できてくると、真弥と瑠璃には共通点がたくさん見受けられた。


 共感できる部分がかなりあったのである。


 今までならだれにも理解されなかったことが、責められてきたことが、瑠璃が相手だとすんなり認められる。


 受け入れられる。


 そうして真弥は間違っていないと言ってくれるのだ。


 どうして間違っていないと思うのか。


 その具体的な理由まであげて。


 瑠璃には何度も驚かされてきたが、そういうときが1番、驚かされたかもしれない。


 何故なら瑠璃の主張には筋道が通っている。


 きちんと意味も理屈も、そして重要性もすべてがあったからだ。


 漠然とした考え方が、方向性を持たされることがあるとしたら、まさしくあの瞬間がそうだったのだろう。 瑠璃の意見を聞いて、瑠璃の考え方を聞いて、真弥は自分の考え方がおかしくないのだと自信を持てた。


 間違っているのは周囲の方だと。


 本当はあまりに周囲と自分の考え方が違うので、時々は不安になったのだ。


 やはり真弥が甘いのかと。


 人々の方が正しいのかと。


 だけど裏切りや人殺しを常識として受け入れることはできなくて、自分の考え方や理想と周囲の現実が合わなくて苦しんでいた。


 瑠璃はそれに答えをくれたのだ。


 それもだれが聞いても納得するきちんとした答えだ。


 嬉しかった。


 屁理屈とか同情ではなく真弥は正しいと言ってくれることが。


 だから、そのことに気づいてからは、何度となく瑠璃ともっと他愛ない話もしたいと思った。


 だが、瑠璃はあまりに生真面目すぎる。


 真弥は何度か話の腰を折って、話題をずらそうとしたが、ついにできなかったのだから。


 素性について訊ねようかとも思ったが、あまりに急ぎすぎては彼女と二度と逢えない気がして、暗くなるころには苛立っていたものである。


 ここで別れたら二度と逢えない気がして。


 それに送っていくと言ったときにも、あっさりかわされてしまったし。


 ここからなら近いからいいと言われてしまったのだ。


 嘘だと思ったが、瑠璃の笑顔をみていると強気には出られない。


 結局、言い負かされてしまった。


 あそこから1番近いのは神殿だ。


 だから、瑠璃の言葉は嘘、ということになるのだが、わかっていても逆らえなかった。


 ただどうしても別れの言葉が言えなくて、動くつもりがないのか。


 真弥をジッと見上げている瑠璃を見つめていると、ややあって彼女がぽつりと言った。


『どうかした? 真弥を見送ろうと思っているのに、こうしていたらなにもできないけど? 時間ばかり過ぎちゃうよ?』


 鈍すぎないかと思ったが、やっぱり瑠璃には通じなかった。


 どうにも瑠璃は鈍い上に世間知らずで、意思の疎通が難しい。


 まあそこがまた可愛くもあるのだが。


『また逢えるかな? こんなふうに話していて気が合う奴って初めてで。今までは人に自分の考えを言えば、異端だって言われてきたし。瑠璃くらいなんだよ。ぼくの考えを理解してくれるのは』


 逢いたい動機の半分の理由。


 もう半分はどういう動機か、自分でもわかっていなかった。


 どうして彼女の返事にビクビクしているのかも。


 そうして返ってきた答えは、やっぱりすこし普通とは違っていた。


 瑠璃はあっさり笑って頷いたのだ。


 なんの警戒もみせずに。


『うん。いいよ。時間の指定とか、日にちの指定とかはできないけど、時間が空いたら真弥に逢いに行くから。真弥がよく行く場所はどこ?』


 言われて答えると、瑠璃は時間が空いたら捜すときはそこに行くと、無邪気な笑顔でそう言ってくれた。


 あまりに無防備なので、彼女の将来がちょっと心配になったが。


 簡単に詐欺にでも遭いそうで。


 それから簡単な言葉を交わして彼女とは別れたが、見送るつもりだと言った言葉は本当らしく、ジッと真弥の背中を見送っていた。


 考えてみればあれも変だ。


 周囲はそろそろ暗くなりはじめていたし、真弥を見送っていたりしたら、瑠璃が帰るのがもっと遅くなっただろう。


 だが、瑠璃は遂にみえなくなるまで真弥を見送っていたのである。


 天才剣士と言われるだけあって、真弥は気配を読むことにも長けている。


 だからこそ、瑠璃がなんの気配も感じさせず、近づいてきたときにあれほど驚いたのだ。


 真弥に気配を感じさせなかったのは、瑠璃が初めてだったので。


 そうしてお互いがみえなくなるまで、瑠璃の視線は感じていた。


 ジッと見送ってくれていることが肌で感じられ、ふしぎそうに振り返ったほどである。


 時間的に考えれば、瑠璃の行動は不可解極まりない。


 こんな時間にあんなところで別れて、彼女は無事に家に帰れたのだろうか。


 今度もし逢えたら、彼女が約束を守ってくれたら、今度はきちんと送り届けようと心に決めた。


 さすがにこんな時間に女の子をひとりにするのは非常識だと思えたので。


 断られても送るべきだった。


 そんなことを考えながら、真弥はいつも通り家の扉を潜った。「おかえりなさい。真弥」


 弾むような声が聞こえて顔をあげれば、いつもはもうすこし経たないと戻っていない少女が佇んでいた。


「由希? どうしたんだい? こんな時間に戻ってくるなんて珍しいね。巫女殿のお世話のために陽が暮れるまで神殿にいるきみが」


 真弥が驚いてそう言えば、由希は肩を竦めてみせた。


「巫女さまがお疲れになったとかで、早く休まれてしまったの。それでお役御免になったというわけ」


「ふうん」


 巫女の話は部落の中でも禁句だ。


 情報が漏れないために、その名さえ口にされない。


 だが、真弥は巫女のお傍付きの由希の幼なじみにして、現在は同居している身なので、普通よりは詳しかった。


 さすがに姿や名前は知らないが。


 由希は村1番の富豪の娘で、由希の父と真弥の父が親友だったのだ。


 だから、真弥が両親を亡くしたとき、なんの迷いもなく引き取ってくれた。


 正直そろそろ独立しようかな? とは、考えていることなのだが。


 別にここにいるのが息苦しいわけじゃない。


 まあ独り立ちできる年齢になってまで、おじさんの厚意に甘えているのはどうかな? とは、思っているが。


 だからといって迷惑だから、早く独立したいと思い詰めているわけでもないのだ。


 むしろ血の繋がりもなく、ただの親友の子供と思えば、よくしてくれているほうだ。


 それでもやはり独立できる年齢になったのだから、そろそろ自活しないとと心に決めていた。


 それが実行できないのは、ひとえに由希に理由があった。


 由希はどういうわけか、子供の頃から真弥になついている。


 しかも大富豪のお嬢さまらしくワガママである。


 真弥が他の女の子と仲良くすることすら認めない。


 そんな場面をみたら、その相手をイジメて、イジメて追い詰めてしまうほどだ。


 おかげで真弥は自分から異性には近づかなくなった。


 由希のためにそうしたのではなくて、彼女にイジメられる相手が可哀想だったから、というていどの理由だ。


 だが、由希はどうやら真弥に受け入れられていると誤解している節がある。


 機嫌がいいときは、それなりに可愛いのだが、由希のおかげで真弥はすっかり女性不信になっていた。


 別に由希がきらいなわけじゃない。


 ただ由希が望むようには思えないだけで。


 愛されて育てられたお嬢さまらしく、ワガママで強引な由希。


 自己主張も激しくて、相手の都合など聞き入れない。


 それでも非難されたことはないし、人から面と向かってきらわれたこともない。


 それは別に由希にそれだけの魅力があり、人望があるからではない。


 ただ単に部落でも1、2を争う大富豪のお嬢さまだから、だれも由希を怒らせることができないだけなのだ。


 なのに由希はそのことにすら気づかない。


 どうして理不尽なワガママが通るのか。


 それでいて本当に気遣ってくれる、親しい相手ができないのは何故なのか。


 由希はなにも知らない。


 気づかない。


 その生まれ故に。


 何度かは指摘してやったし、そういう態度はよくないと言ったこともある。


 けれど由希が忠告を理解してくれたことはなかった。


 人にきらわれるとか。


 自分は間違っているとか。


 そういう思考すら由希の中にはない。


 だから、間違っていると言われてもわからない。


 気づいてからは説得は諦めてしまっていた。


 真弥と由希とでは考え方も価値観も、なにもかも違いすぎるのだ。


 正直に言うなら真弥は由希のような少女は苦手ですらあった。


 幼なじみとして育っていなければ、おそらく親しくすることはなかっただろう。


 由希は想像したこともないようだが。


 そもそも人殺しを厭い、動物にさえ刃を向けられない真弥が、由希のような少女に好意をもつはずがない。


 優しさ故に本心から人をきらうことの少ない真弥だが、何事にも例外は存在する。


 幼なじみということで、苦手意識を抱いていても、それを表に出すことはない。


 それで由希を避けることもない。


 だからといって受け入れていると、真弥は由希のものだと思われるのは、はっきり言えば迷惑だった。


 由希はきらわれているなんて思っていない。


 だから、待っていれば真弥は手に入る。


 そう思い込んでいるようだった。


 またどうして周囲にいる者が自分に忠実なのか。


 その意味を理解しようともしない傲慢な一面が由希にはある。


 だが、それ故に個人的に執着している真弥を、由希から奪っていける勇気のある者が、この部落にいるとは思っていない。


 いたとしてもきっと居たたまれなくして追い詰めて、そうして追い出してしまうだろう。


 もし気の弱い娘だったら、耐えきれずに対人恐怖症になったり、ろくに人と接することもできなくなるかもしれない。


 由希の怖いところは、そうなっても罪悪感を感じないところである。


 思いやりという言葉を、どうやら由希は知らないようだった。


 それでは人の好意は勝ち取れない。


 ましてや人の心の汚い一面や、そういった傲慢さをきらう真弥が、そんな由希に好意を寄せることなど、絶対にありえないのだ。


 由希のような傲慢で自分勝手で、反省すらしない少女は、真弥にとって苦手なのだから。


 そういった事実にも気づかない。


 それは由希の世間知らずな甘えかもしれなかった。


 ふっと瑠璃の笑顔が脳裏に浮かぶ。


 それまで見知っていたどんな女の子とも違う反応をみせ、違う表情をみせる少女。


 彼女と一緒にいるのは苦痛ではなかった。


 ああいう少女もいるのだと、もっと早く知ることができたなら、女嫌いにはならなかったかもしれないなと、真弥の顔に笑顔が浮かぶ。「なに笑ってるの、真弥?」


 自室を目指して階段を登っていた真弥に、そんな由希の声が届いた。


 振り向けば怪訝そうな顔をしている。


 瑠璃のことは悟られない方がいいかもしれない。


 いくら彼女が素性を偽り、性別を偽っていても、女の子はえてして、そういう勘だけは鋭いものだ。


 由希ならあっさり見抜くかもしれない。


 そうするとあの真っ白で純粋な瑠璃が、由希にイジメられることになりかねない。


 さすがにそれはいやだった。


「別になんでもないよ。今日もまた妙な噂のせいで見物人がきて、勝手に呆れて帰ったからご苦労なことだと思い出して笑っただけだから」


「いい加減、覚悟を決めたら?」


 またいつもの口癖を出されてため息が出る。


「本当は真弥が揶揄されたり、呆れられるはずないじゃない。真弥ほどの実力者は他にはいないわ」


 このことでは何度も由希とぶつかっていた。


 決してわかり合えない価値観をぶつけ合って。


 理解されないのに言い争うのは辛いものだ。


 いい加減、由希にもそれをわかってほしい。


 そう望むのは由希が相手では無理なのだろうか。


「真弥が本気になりさえすれば、だれも敵わないのよっ!? どうして軽蔑されるのを甘んじて受け入れるの? あなたはだれよりも強いのにっ」


 由希の価値観と真弥の価値観は、これだけ違うのかと改めて感じる。


 それから瑠璃と交わしたいろんな会話が脳裏をよぎった。


 真弥は間違っていないと正論で指摘してくれた瑠璃。


 今なら自信をもって主張できる。


 自分の考え方は間違っていないのだと。


「知ってるの? 真弥の呼び名の落ちこぼれ剣士って、絶対にあなたに勝てない人たちの皮肉なのよ? 実力で敵わないからって!!」


「好きに言わせておけばいいよ。落ちこぼれ剣士おおいにけっこう。わかってくれる人は言わなくてもわかってくれるんだから」


 心の底からわかってくれる人がひとりでもいる。


 瑠璃がわかってくれるなら、間違っていないと言ってくれるなら、他のだれにどう思われようと構わなかった。


 たった一度逢っただけ。


 少ない言葉を交わしただけ。


 でも、真弥の心にはしっかりと瑠璃が住み着いていた。


 彼女が認めてくれるなら、すべてを敵に回しても構わない。


 激しく心を支配するこの感情がなんなのか、真弥にはわからなかった。


 真弥はずっとなにひとつ持っていなくて、束縛されたり強制されたりしていた。


 そんな真弥にとって、そこにいると認めてくれて、間違っていないと諭してくれる瑠璃は、それだけで救いになっていた。


「あたしはっ。万が一にも真弥に戦場で死なれたくないのよっ!! どうしてわかってくれないのっ!? そのままだとあなたはいつか殺されるわっ。それがわからないのっ!?」


 一気に捲し立てる。


 その声は泣き出しそうだった。


 振り切って部屋に戻ろうとしていた真弥だが、その声の真摯さに振り向かずにはいられなかった。


 気遣ってくれる気持ちは嬉しかった。


 でも、そのために人を殺せと言われるのは辛い。


「ぼくはね、由希。たぶんよほどのことがなかったら、自分から剣は握らないと思う。そのために死んだとしても、ぼくには人は殺せない」


 泣き出しそうに顔を歪め、震える由希には申し訳なかったが、これが真弥の本心だった。


 もしそのときがくるとしたら、命懸けで護りたい相手ができたときだろう。


「人を殺せばそれは罪だよ。殺し合いは愚かなことだ。ぼくは意味のない殺し合いはしたくない」


 どこまで伝わるか自信はない。


 それでも言いたかった。


「ぼくが自分から剣をとって戦うことを選ぶときは、きっとだれかを護りたいと、この生命と引き換えでも護りたいと、そう決断したときだと思う」


 由希には言いにくいけれど、それは由希ではない。


 由希のために人を殺そうとは思わない。


 信念を曲げるとき、それはそれまでの価値観をかなぐり捨てても、護りたい女性ができたときだ。


「心配してくれているのは嬉しいけど、今のぼくにそれを求められても無理なんだよ。ごめんね?」


 それだけを言いおいて、もう振り向きもせずに行ってしまう真弥に、由希は悔しそうに唇を引き結んだ。


 真弥の口調はまるでそれは由希ではないのだと、由希のために信念を曲げるつもりはないのだと、そう聞こえた。


 それが……悔しかった。

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