第3話 「イタリア料理の女王」~ゆりシェフのタケルちゃんへの意見~

 花園ゆりシェフは、日本の「イタリア料理の女王」と呼ばれると同時に、ファン、特に同性に「ゆりシェフ」と呼ばれて親しまれる、人気シェフである。

 自身がオーナーシェフをつとめるイタリア料理店「YURI」は、小規模ながら、きめ細かな気配りと安定したレベルの高い料理で、何度もミシュランの三つ星を獲得した。

 男性の同業者にも支持者が多い一方で、女性料理人の育成にも努める。今、四十代で、神乃木さんの伯父さんの元同級生だそうだ。

 また、あったままをいえば、ゆりシェフは、若い頃から「元祖美人料理人」「元祖美人シェフ」という俗称を、勝手にマスメディアにつけられた人でもあった。

 この通称は、まだ男性社会だといわれる料理の世界では、トータルではマイナス面になることがあまりに多く、深刻な実害をこうむったという。抗議しても無視された。

 ところが結婚もし、三十代後半になると、今度は、勝手にほぼまったくその俗称が使われなくなった。ルッキズム、容姿による差別が取りざたされる前からのことだった。

 それでもお店でも自宅でも、健康的で、上質な食材を使った料理を作って食べるゆりシェフの肌はつややかに輝き、うっすらとした自然なシワも美しい。

 プライベートでは二児の母であり、フラワーコーディネーターである夫とのおしどり夫婦ぶりも、人気の記事として女性誌に載ることも多い。

 そして、だからこそ、「元祖美人シェフ」ゆりシェフの元弟子からの、「美少女料理研究家」ミルさんのレシピ盗作事件の意味は、複雑で重いのだ。

 インターネットの怖さは、もとの投稿が削除されたとしても、拡散されると半永久的にインターネット上に情報が残りうることである。デジタルタトゥーといわれるものだ。

 ミルさんが言ったように、やったことは悪いが、ネット上には、勝手に、ミルさんが「元祖美人シェフ」ゆりシェフにケンカを売った、ととらえる人たちがいた。

「身のほど知らず。自称『美少女料理研究家』ミル」

「劣化した元美人シェフより美少女を応援しよう、ミルちゃんを応援しよう!」

「料理界・美女・女王の新旧交代!」

「ゆりシェフの元弟子パクられたと主張するおブスちゃんはこの人! 顔写真はこちら」

 だとか、聞いているだけで冷や汗が出る投稿がまだ出てくるという。

 ゆりシェフは沈黙を守っているが、快く思っているわけがない。

 この件について詳細を知ると、書くこと、発信することには怖い面もあると思い知らされた。同時に、この仕事についてのさまざまなトラウマが蘇った。

 今日は「YURI」も、神乃木さんも、私自身も仕事は休みの日だった。だから、親睦のためにも、昼から一緒に飲み食いしようという。

「ゆりシェフは本当に気さくな方だから、気軽に来て」

 と言われたが、私にとってはそういうわけにはいかない。どんな服を着るべきか迷ったけれど、無難なスーツ姿にした。

 重い気分のまま、約束の時間に「YURI」に行くと、神乃木さんは、先に店内に入って、手土産に持ってきたというテイクアウトの赤酢の寿司を、ゆりシェフと食べていた。

 時間より少し早めに着いたのに、昼からすでに和洋折衷の料理で宴会が始まっていて、初対面のゆりシェフはすでに出来上がっていた。

「あなたがライターの沙奈ちゃんね。タケルちゃんがおいしいお寿司と、手料理も差し入れてくれたから、一緒にいただきましょう」

 と、ゆりシェフは言ってくださった。私はひたすらに恐縮しながら席に着いた。

 その場にはあと二人、まだ若い女性がいた。ゆりシェフの弟子だという。

 ゆりシェフは、その体形に似合わない量の飲み食いをして、おいしい、おいしい、と言いながら、いい感じにケラケラ笑う。

「ゆりさん、このラビオリ、死ぬほどうまいっすね。レシピを教えてくれませんか?」

「いいわよ。でも、記事にしたいなら、その前に相談してね」

 ゆりシェフはトロ鉄火を、エレガントかつ凄い勢いで食べると、突然、ふと、神乃木さんの顔を見て、しみじみと言った。

「時の流れは残酷ね。天使みたいだったタケルちゃんが、『ゆりちゃーん!』って、かわいい声で懐いてきた子が、あっという間にニョキニョキ背が伸びて、喋り方も如才なくなって、なんだか、オッサンと話してるみたいだな……」

 そう聞いて、神乃木さんは、飲み物をテーブルに打ち付けるようにしてこう答える。

「やめてほしいですね。俺はオッサンじゃねえ! 中年の入り口に立っただけです。俺はね、これから少しずつ『美しき中年』の道を極めて、幼少期の自分をこえるつもりですよ。新たな自分の全盛期を作り、新たな美の基準を作りたい。そしてできれば、日本の中高年に希望と自信を与えられる存在になりたいんですよ」

 おー、と皆が拍手をする。神乃木さんは満足げに、

「ありがと!」

 と言った。それを見ていると、落ち込んでいるのが馬鹿々々しくなったというか、ずいぶん救われた気持ちがした。

 神乃木さんはこう言葉を続けた。

「そのためにも、まず、今の仕事で行けるところまで行きたいんですよね。ミルさんの件、どうです? やったことはそりゃ悪いですけど、凄く反省していて、いい子みたいですよ」

 神乃木さんがミルさんの取材時の話をする。最後におかしくなったこと、松永さんの言葉もていねいに伝えていた。

「ふうん、思っていた人とは違うのかな……ただ、その人は、今聞く限り、どこか、もろいというか、弱いところがあるんじゃありませんか? この世界は、人様の口に入るものを作る仕事です。強い心と体がなければ務まらないわ。その方は、むいていないんじゃない? 自分が辛いからといって、たやすく誘惑に負けて、盗みに走るなんて」

「……でも、ミルさんは料理人ではありませんから」

「ボロボロになって私を頼ってきた元弟子に、犠牲になれと? 私はそんなかわいそうなこと、とても言えないわ」

 ゆりシェフは料理を食べながら、こう言葉を続ける。

「その子、本当にボロボロよ。でもミルさんって方は、まだそんなに若くて、美人で、地位も名声もお金もあるんでしょ。それに本当に反省しているのなら、なぜ自分が来ようとしないの?」

「だから、ミルちゃんは病気なんですよ! メンタルをやられて、ちゃんとした住む所もなかった少女が、リハビリを兼ねて始めたユーチューブの動画配信が当たって逆転した子だって、さっき言ったじゃないですか」

 すかさずゆりシェフの弟子たちが言い返す。

「あっ、ミル『ちゃん』って呼んだ!」

「今は治ったんでしょ? アイドルの活動だってしてるんでしょ? 元気に歌って踊ってるの、私、テレビで観たよ」

「うさんくさい子だなって私、思ってる。言いわけが上手で、聞かされるとその時は信じちゃうんだけど、いつも言いわけしてて」

「十八歳っていっても、もうすぐ十九なのに、自分のこと『ミル』って呼んでる」

「だいたい『家出少女ミルのキッチン』ってタイトル自体が、滅茶苦茶、怪しいじゃないのォ。男に媚び媚びで、いくらでも釣りたいって感じ」

「あれさーァ、本当の目的は、ぜったい『パパ活』でしょ? 『パパ募集』って言ってるのも同然のタイトルじゃん。素人料理しかできないし──!」

「あの清楚というか、おとなしそうな顔がクセモノだって」

「どうして料理研究家が突然、歌うたってミニスカート穿くんだよ⁉ 野心がないとそんなことできないでしょ」

 彼女たちの非難はだんだんとヒートアップし、ここで書くのが恐ろしいような意見も出て、女社会に慣れているはずの私も、聞いているだけで怖くなってきた。しかし、彼女たちの言うことにも一理ある。

 それをゆりシェフがたしなめる。

「あなたたち、言い過ぎよ。ただでさえ『女は感情的で使いにくい』って言われやすいんですから、ふだんから言葉遣いには気をつけなさい」

 はーい、と彼女たちは答えた。だが、そのうちの一人がこう続けた。

「……ただ、今回のことで、うちは大迷惑なんですよね」

 ゆりシェフが深くうなずく。だんだんその場が盛り下がってきた時に、ゆりシェフが、一通の手紙を神乃木さんに見せた。

「タケルちゃん、いえ、神乃木さん。これ、読んでちょうだい。被害にあったうちにいた子の手紙よ。本当はここに来てほしかったんだけど、うつ病で、被害にあってから症状が重くなっちゃって。日常生活はできるようになっていたのが、ネットで身元特定されて顔写真もさらされたショックで家から出られなくなっちゃてね。昼はほとんど寝たきりなんですって」

 そのあと、私もその手紙を読ませてもらったが、こう書いてあった。

『頑張ったけれど、今日は行けません。ごめんなさい。

 私はミル氏の盗作で、最後の希望を奪われた気持ちです。

 もともとうつ病もあって退職して、世間体もあったし、生きていていいのだろうか、と思うぐらい苦しんでいます。

 諦めちゃいけない、と頑張り、少しよくなってきた時に、家で試作してやっとできた料理のレシピをブログで公開したら、読者も増えて思わぬ交流もでき、楽しくきていたのが、ミル氏の盗作がきっかけで世間の悪い人に目をつけられて、ハイエナのような人たちが、私が地道に働いてきて得た知識や経験のいいところだけを、よってたかって盗んでいってズタズタにしました。

 

 その人たちが私からの盗みで楽に地位や名声やお金を得ている間、私は自宅のキッチンで、料理試作に使った残飯を何日もかけて、一人で片づけました。

 辛くて料理ができないので、前日の夜作ったその残飯を、翌日の昼食に手で食べたこともあります。

 年齢もミル氏よりひとまわり以上、上で、悔しい思いをたくさんしています。

 これでもすべてなかったことにしろというなんて、虫がよすぎるのではないですか』

「確かに、深刻な状況ですね」

 神乃木さんが言った。

「私はこの子のこと、凄く好きだったの。仕事が丁寧で、信頼できるし、皆に優しくて気配り上手だったから、いずれは私の片腕になってほしくて、そりゃあ、一生懸命に育てたわ。ただ、繊細で、体が弱かったの」

「体力がないと、こういう仕事は難しいですね」

「そうなのよ。別にほかに問題があったわけではないの。ただ、うちの人たちの活動量についてこられなかったのよね。何度か辞めたい、って言われたんだけど、私がひきとめてしまったら、最後にはひどく体を壊して、うつ病になって……ありがた迷惑だったんだなあって、反省しているわ」

「…………」

「能力はあるから、せめて、引き続き、私で力になれることがあったらなんでも相談してって言ったけれど……彼女、田舎に帰ったの。やっと体調もよくなってきて、紹介制で出張料理人の仕事を始めたい、レシピを紹介するブログを書いているんだけれど、人気になってきた、って連絡をもらって喜んでいたら、これよ」

 そこで、ゆりシェフの弟子の一人が声高にこう述べた。

「とにかく常識的に考えられないことで、失礼ですよ。別に、いいところもあるから当たったんだろうけれど、ゆりシェフとはキャリアが違い過ぎます。それが、ネットで、『昔の美女と今の美少女が対決だ!』『新旧交代でミルちゃんが新女王か⁉』なんて、安易にあおられてるのを見ると、悔しくって。どうみてもゆりシェフのことを詳しく知らないのに、もの凄い言葉で侮辱する人もいます」

「うーん」

 神乃木さんが頷く。彼女は続けた。

「私はつい、寝る前に、それを読んじゃうんですよ。ほぼ毎日。こんなに頑張って働いて疲れて、やっと寝るのにィ。それ読むと、なかなか眠れないことがあって。でも、体調を整えておかないと、お客様に最高の料理を提供できないし……」

 すると、始終、理性的な優しい言葉で話していたゆりシェフが、「ほほほ」と笑いながら、意外に聞こえることを言う。

「皆さん、気になさらなくていいのよ。こういってはなんですが、私はその方……『ミル』さんとおっしゃったかしら? その方を、まったく対にしていません。しょせんは一般人……舌の鍛え方からして、努力が足りないんじゃないかしら?」

「ねー、やんごとなきご令嬢だったなんて、絶対ウソですよー」

「貧乏だったんじゃないの」

「ちょっと、待ってください、待ってくださいよーォ」

 べろべろになりながら、神乃木さんが言った。

「ゆりシェフ……ゆりちゃーん、いつからそんな人になったんだよ! ゆりちゃんちだって、市場と関係はあるし、いい食材が手に入るし、お母さんはお料理上手だったけど……とにかく、そんなにお高くとまってる人間じゃなかったじゃないかあ。『お母さんの料理が一番おいしい』って言ってたじゃないか」

「…………」

「調理師学校で、首席で卒業できなかったのにも疑問があって、けっこう長い間、泣いただろ? 職場では、女だってことで怖い思いをした。子供だった俺には理解できないこともあったけれど、ゆりちゃんが作ってくれたお弁当が楽しみで、きつい撮影に行けたこともあった。俺がそう言ったら、ゆりちゃん、そりゃあ喜んで……」

「タケルちゃん……」

「技法、テクニックや知識は、料理をするうえで本当に大事なものだよ。ただ人は、他人の味覚に敬意をはらうべきだ。その人を大事にしてくれた人がくれたものなんだから」

「…………」

「印象派の画家を見ろ。低俗だと言われながらも、活動を続けて活路を見いだしたんだぞ。感動の価値に違いなんかない。例えば、ラファエロの絵とゴッホの絵が、種類はまったく違っても、見る人の好みは違っても、人に理屈をこえた感動を与えるように……素人料理を批判してもいいが、差別するな! だいたい、人がうまいと言って食ってるものを容易に見下すのは、最大級の侮辱の一つですよ!」

「そうね。ごめんなさい。タケルちゃんの言う通りだわ」

「わかりゃいいんですよ。うーい」

「……酔ったタケルちゃんにこんな説教をされるなんて……私も、おばさんになるわけだわ」

「説教じゃなくて意見ですよ! それに、ゆりさんはおばさんじゃありませんよ。一緒に美しい中年を目指しましょう! いえ、ゆりシェフはおきれいですよ」

「そう言ってくださる人もいるんだけれど、最近は、その日によってムラが激しくって」

「……いえいえ」

「ただ、いわゆる、レシピのパクり問題は、本当に深刻よね。レシピ盗作の横行は、業界の不活性化に繋がりかねないわ。それに、残るものだから、やらないほうがいいと思う」

「とにかく、松永さんに会ってくださいませんか? ミルさんの代理人です」

「そうしてあげたいのはやまやまなんだけれど、その方、どういう人なの? こっそり写真を撮られたり、会話を録音されて利用されたりはしない? 評判はどうなの? 身元は?」

 神乃木さんが苦々しげに答える。

「……ミルさんは、料理研究家と呼ばれるようになってからの評判は、いいばっかりなんですよねえ。ただ、その前が分からないんです。僕なりのつてを当たってみましたが。出てきてからせいぜい二年ぐらいの子だし、『あの子だけ情報が入ってこない』っていう人もいます」

「じゃあ、なんともいえないじゃない? あなたにこの前話した、過去のことは皆、ウソだって可能性もあるわよ。私、お客で凄い詐欺師に会ったことあるわよ。だまされにくいほうなのに、その時はコロッとやられたわ」

「ただ、顔出ししているしなあ……でも、整形で顔を変えていたら、分からないかもしれませんね」

「きゃーっ、怪しい!」

「ぎゃーっ!」

「犯罪者かも」

「年齢だって嘘なんじゃない? あたし、前からあの人には、妙な貫禄があるって思ってたの。十歳ぐらいサバを読んでいたらどうする⁉ 今の整形って、それくらいやろうと思えばできるらしいから!」

 ゆりシェフの弟子たちがもの凄い勢いで騒ぐ。でも、その可能性もあるのだ。

「神乃木副編集長! あなたね、今は責任者なのよ。しっかりして」

「本当ですね。とにかく、松永さんに連絡を取ります。こちらにもまた、お知らせしますから」

(続く)

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