第2話 「家出少女ミルのキッチン」~美少女料理研究家・ミルの取材~

 そんなわけで、次の週のある日、まだ早い時間に、私と神乃木さんは、美少女料理研究家として名を馳せる「ミル」さんの取材に行った。

 私たちの集合場所は、ミルさんの自宅兼スタジオの最寄りの駅だった。

 前述のように「家出少女ミルのキッチン」というタイトルでユーチューブの動画の配信を始め、今はアイドル的な活動もしているインフルエンサーだ。

 そんなに華やかな経歴の人なのに、なんというか、自分のことを棚にあげて正直な感想をいうと、ミルさんの自宅の最寄り駅は、都内にあるものの、比較的地味な駅だった。駅の建物は古く、中のトイレはそれなりの掃除はしてあったが、古くて、使うのが少し不安だった。取材させていただくのにこんないい方は失礼かもしれないけれど、ただ、私は意外に思ったのだ。

 時間より早めに着いたのに、神乃木さんはもう待ち合わせの場所にいた。今日もダンディーな装いで、駅前の川を見ながらどこか優雅に缶コーヒーを飲んでいる。

「おーお、沙奈ちゃん、おはよう……俺、今日、早起きしちゃったよ。けっこう遠かったな。この駅、初めて降りたよ。でも、小旅行気分で悪くないね」

「ミルさん、意外と堅実な所に住んでらっしゃるんですね」

「苦労した人だし、今もユーチューブの配信が主な活動だから、別に派手な場所に住む必要はないよな。けれど、なかなか立派な家らしいよ」

私たちがたどり着いたのは、駅近くの、狭めの土地に建つ、三階建てのお洒落な家だった。

 表札には知らない名字が書いてある。彼女の本名だろうか? ちなみに、凝った、美しい名字だった。

 時間通りに玄関のチャイムを鳴らすと、聞き慣れたきれいな声が「はーい」と言った。

 わあ、私がいつもユーチューブで聞いてるミルさんの声だ! 本人の、しかも家に来たのだ。そして、本当はどんな感じの人なのだろうと、不安でもあった。

 神乃木さんは落ち着いていた。少なくとも、そう見えた。

 ドアを開けたのは、年齢の分かりにくい、スーツ姿の身なりのいい男の人だった。背が高く、四十歳以下には見えないな、と最初は思ったけれど、肌がわりときれいだ。案外若いのだろうか? 

その人は松永さんといって、ミルさんのマネージャーだということだった。

 暗めの玄関から入って、階段を上がっていくと、案内されたのは、二階にあるミルさんのキッチン兼スタジオだった。

そこだけが別世界だった。甘めの色を使った「女子」らしい、彼女の原点である、「家出少女のミルのキッチン」のファンの夢を損なわない空間がそこにあった。広すぎないのがかえって慎みがある感じで、少女らしく、どこか居心地がいい。

 そしてミルさんは、実物も、びっくりするほど美しい少女だった。

 神乃木さんによると、美人でも、写真写りの方がいい人や、実物はきれいなのに写りが悪くて少し損な人もいるが、彼女はどちらもいい人だし、写真を撮るのが楽しみということだった。確かに、指先まで手入れが行き届いていて、姿勢がよく、動画で見るのとまた違った、生の、輝くような美しさがあった。また、表情やものごしや話し方が、配信されている姿より大人びて見えた。

 そんなミルさんを、松永さんは誇らしげな目で見ている。この二人はどういう関係なのだろう? 

 ともかく、今日の取材用の「ミルのお悩み相談室」の相談者は、十六歳の少女だった。ミルさんに届いた本物の悩みと報告のメールである。

 あまり深刻な悩みだと、グルメ雑誌の記事の趣旨と違ってくるので、できるだけ明るいものを、とお願いしたところ、こうなった。

彼女は以前からの相談者だった。家出をした少女が危ない目に遭いかけたのだけれど、ユーチューブを通したミルさんの説得がきっかけで家に帰ったのだという。両親も喜んでいる、という報告をしてくれた。

 そのお祝いに用意したメッセージとレシピを紹介したいということだった。

「家に帰ってくれたんですね。本当によかった。もう安心だね。ゆっくりお料理もできるね」

 そしてミルさんは、「塩豚のポトフ ミル風」のレシピを、今回の「相談者へのオーダーレシピ」として紹介した。

「ポトフは、日本でもおなじみの料理ですね。フランス語で『火にかけた鍋』という意味で、料理店で出されるものから、家庭で作られるものまで、数えきれないほどのアレンジされたレシピがあるといってよいでしょう。

 ミル風のポトフは、スーパーで売っている食材でできます。少し時間はかかりますが、シンプルな工程でおいしくなりますので、ぜひお試しください。塩豚を作って、野菜やキノコとコトコト煮込むだけですから」

 あと、ミルのポトフは、塩豚と、にんじんなどの緑黄色野菜、下ゆでしたキャベツなどの淡色野菜、マッシュルームなどのキノコ、あと、ジャガイモを入れます。

 これで、一皿でいろいろな栄養素がとれますね。煮込むと消化がしやすくなるので、吸収がよくなることが期待されます。

 以前、つきっきりで煮込む時間や労力がなかった時は、ポトフ風鍋にして、皆で前菜を食べながら煮込みましたが、しめの炭水化物入れもできて喜ばれました。

 それとミルは、こういった煮込み料理や鍋物を作る時は、簡単な料理でも、前菜を一品か二品は作るようにしています。煮込み料理や鍋だけより、アクセントがつくと思うので。今日は、以前紹介したレシピの、ブルスケッタとサラダを用意しました」

そこで一息つくと、ミルさんは力説した。体力とメンタルの力は、つながりがあるそうだ、体力が落ちていいことはないから、しっかり食べるのが大事。食べものには思った以上の力があるはずだ、と。そしてこう言った。

「食は、幸福、もしくは希望のもと、少なくとも、『なぐさめ』になり得るものです……ミルもそうでした。家出して、将来が全然見えなくて、希望もないように思えた時に、おいしいものを食べると、よく眠れました。本当に大変なことがあったんです。でも、料理や食のおかげで切り抜けられたと思う。『どうやって作ったの?』って話題にもなります。感謝される! それに、おいしいね、って誰かと一緒に食べるって、とっても素敵なことです。

 最後に、相談者さんへ。あなたが家に帰れて、安全な場所にいて、本当によかった。ミルが少しでもお役に立てたなら幸いです」

 ミルさんが料理をし、話すのを私が録音、録画しながら、神乃木さんが写真撮影をする。その顔つきがだんだん真剣になってくるのが私にも見えた。

 それが終わると、神乃木さんが、カメラのモニター越しに、撮影したものをいくつか見せた。ミルさんは顔をぱっと輝かせて、

「わあ、きれいに撮れてる! ありがとうございます」

 と言った。

「美少女料理家さんの写真だから、少女っぽい表情も撮りましたけれど、『食は少なくとも、なぐさめになり得る』っておっしゃった時に、とても優しい、気高い顔をされていたので、そのお顔も撮影しました。どうでしょうか」

「……わあ、私じゃないみたいです! 自分たちだけだと、同じようなものばかり撮ってしまうので、勉強になります。それになんだか、大人っぽいですね」

「はは」

「……私ももう十八歳だから、この仕事を続けるなら、路線変更も考えなくちゃ……」

 その後、短い間だが実食ができた。どれも比較的素朴だがていねいに作られた料理で、ポトフのスープが疲れた体にしみわたり、ミルさんの持論を聞いたあとに食べたせいか、涙ぐむほどおいしく、ありがたいとすら思った。

「うん、とってもおいしいです」

「本当だね」

「よかった!」

取材が終わったあと、ミルさんは言った。

「神乃木さんにお話ししてあった件ですが、どうなりましたか?」

「ああ……」

「少しだけでも時間がいただきたいんですが」

 ちょうどもう昼だった。料理の残りと、あらかじめ用意してあったらしい、凝ったデザートが出された。ミルさんが青い顔をしてこう述べる。

「恥ずかしいことですが、私が花園ゆりシェフのお弟子さんだった方のレシピを盗作したのは事実です。でも本当に反省していますので、神乃木さんから取り成していただけませんか?」

 神乃木さんが困ったように沈黙していると、今までほとんど無言だった、ミルさんのマネージャーの松永さんが唐突に口をはさむ。

「神乃木さんは、花園ゆりシェフと仲がいいんですよね? ご実家も近くて、家族ぐるみの長いお付き合いだと聞きました」

「えっ……」

 どうしてそれを知っているのか、という表情である。当惑した様子の神乃木さんを、松永さんが、挑むようにじっと見つめた。

「……とりあえず、お話を聞くだけなら」

 ミルさんが、松永さんの顔を見たあと、すがるようにこう述べた。

「言いわけになるんでしょうけれど、私自身が、特に無名時代の頃、続けて盗作の被害に遭っていたんです。本当にひどいものでした。たくさんの人たちから。有名な、憧れの料理研究家に盗作された時は、凄くショックで、怖くて、どうしていいか分かりませんでした。勇気をふりしぼって、メール等を送りましたが返事はありませんでした。とあるブロガーさんに抗議したら、『若くて余裕があるんだからいいでしょ』っていわれたこともあります。加害者のほぼ全員が年上の女性でした。男性もいました。その中には、『どうせパパ活やりまくってるんだろ、それより俺にもやらせろよ』と罵倒した人もいました」

「……うーん」

 神乃木さんが目を落とす。

「だって私、本当に何もなかったのに……アルバイトはしていましたが、中卒で家出中ですし、思ったような仕事はできません。そして、きっとこれからも、ずっと……一生こんな生活が続くようにしか思えませんでした。だからこれに賭けていたんです。ネット上では暗い顔や、話はしないで、『観てくださる方がほっとしてくれますように』って、笑顔でいるようにしていたんですけれど、ただでさえそんな生活で、精神が不安定で、実は、定期的に、本気で自殺を考えるぐらい、当時の私は追いつめられていました」

「…………」

「また、当時の私のオリジナルレシピは、ほとんどが幼少期に、早くに亡くなった母から食べさせてもらった家庭料理を再現したものばかりで、憶えていないこともありましたし、引き出しが多いわけではなかったんです」

「そうだったんですか」

 私は思わず言った。ミルさんがうなずく。

「弁護士さんにも相談したり、必死で調べましたが、レシピの『盗み』は、違法になる場合や、加害者にとっても過酷な事態になる場合ももちろんありますけれど、複雑な事情でなりにくい場合もあることを知りました。けれど、こちらはその人たちのせいで、自殺も考えるほど深刻な損害を受けています。別のやり方で訴えることも考えましたが、うつ病で、ほとんど寝たきりの生活になって、それだけのエネルギーやお金もありませんでした」

 ミルさんが声をあげて泣き出した。その泣き方や表情があまりに悲痛で、私まで泣いてしまいそうだった。

「薬をのんでもちゃんと眠れなくなりました。アンチも凄くなってきましたし。そのうちに、判断力がマヒしてしまったんだと思います。『これはこういう世界なんだ。私も盗作ぐらいしないと生きていけない』と思い込み、それで、数回、無名のブロガーさんから盗作をしました。そのうちの一人が、あの花園ゆりシェフの、元お弟子さんであることは全然知らなかったんです。その後、有名といわれるようになってから指摘されたさいには、生きた心地がしませんでした」

 神乃木さんが口を開いた。

「……ねえ、花園ゆりシェフは『イタリア料理の女王』っていわれている人だしね。女性シェフとしても料理人としても、日本を代表する人の一人だ」

「きっとご存じでしょうが、大変なことになりました。私にとっては、予想していた以上に……『ミルが、女王・ゆりシェフにケンカを売った』という曲解が、あっという間にネット上に広がりました。私の熱烈なファンだという人たちが、勝手に『ミルちゃんを新しい女王にするために戦う』といい張って、被害者の方のブログを攻撃して一時閉鎖に追い込んだり、ゆりシェフをもの凄い言葉で中傷したり。私自身が、それまで好意的でいてくれた、まともなシェフや料理人の方々から連絡を断たれたり……身辺が滅茶苦茶になりました」

 神乃木さんは、相変わらず視線を落としているだけで、ほぼ何も言わなかった。

「いっそ、ユーチューブなどで謝罪しようかと思いました。けれど今、所属している芸能事務所に反対され、それをやったら法外な額の罰金を払ってもらうというので、なんというか……できませんでした。勝手な話で本当に申し訳ないんですが、どうか、神乃木さんから取り成していただけませんか?」

 沈黙が続いたあと、神乃木さんが何か言いかけた、まさにその時、神乃木さんのスマートフォンが着信した。

しかも画面には、相手は「ゆりシェフ」だと表示されていて、私たちにもそれが見える。

 重苦しい雰囲気の中、神乃木さんが通話を始めた。

「はい、神乃木です」

『あっ、タケルちゃん? ゆりです。この前のお話だけどォ、私もあの子も、その……ミルって方に連絡とか、お話しするとか、できないから。お伝えください。今、忙しいから、じゃあ、ごめんね──』

あまりに元気で一方的な電話が切れると、その場が静まり返った。

「……残念ですが、お役に立てないようです……」

 すると、ミルさんの態度がガラリと変わったのである。口調まで荒くなって、ヒステリックで、違う人のようだった。

「ちょっ、ちょっと! どういうわけ? あのババアが電話してきたんでしょ⁉」

「……はい、ゆりシェフが今」

「あんた、どうしてもっと食い下がらなかったのよぉ。今すぐかけ直してよ!」

「……ゆりシェフのお店は今、営業中で、ランチタイムなので、すみませんが、無理……です……」

「なんですって⁉ あんた、私のツイッターのフォロワー何人か知ってるの⁉ すみませんじゃないでしょ。だいたい、取材中にスマホの電源を切っておかないなんて、何よッ」

「……申し訳ありません。でも、電源を入れたのは、取材が終わってからですけど……」

「松永、聞いた⁉ 言いわけしてるわよ、こいつ、キーィィィ──!」

 神乃木さんが震えだした。私も、あまりに意外なことで呆然としていると、その場の混乱を切り裂くように、力強い声で松永さんが叫んだ。

「お嬢様! お静まりください」

 すると、何かのスイッチが押されたかのように、ミルさんが黙った。我に返ったかのように、その顔に、それまでの穏やかな美しさがよみがえる。

「……松永、私、また、やってしまったの?」

「そうです」

「あ、あ、わああ──」

 ミルさんが泣き出すと、松永さんが、盾にならんばかりに私たちの間に入って、こう言う。

「お嬢様、あとは私がなんとかしますから、寝室でお休みください。その前に、お二人に謝ってください」

 ミルさんは放心して立ちつくすと、やっと私たちの目を見て、心もとないお辞儀をした。

「申し訳ありません、本当に……せっかく来てくださったのに、ごめんなさい……」

 そして、だっと駆け出してスタジオを出ていった。階段で三階に上がる音が聞こえる。この上に寝室があるのだろう。

「大変、見苦しいところをお見せしました。私から説明いたしますので、どうか、お座りくださいますか」

「……正直言って、俺、ミルさんに刺されるかもって、一瞬、思っちゃって。キッチンには刃物がいっぱいありますから……」

 松永さんは落ち着いたようすで答える。

「ねえ、怖かったですよねえ。とにかくお座りください」

 私たちは、意外と強引な松永さんに押されるようにしてもう一度スタジオの椅子に座ると、手早く出されたお茶を飲んだ。私が訊ねた。

「失礼かもしれないのですが、ミルさんは、注目されるまでの経歴が公開されていない方ですね。ネット上には、外国にいらっしゃったからだとか、実は深窓のご令嬢だったからだとか、いくつかの説がありますけれど」

 松永さんは重々しく口を開く。

「『家出少女ミルのキッチン』の舞台裏は、本当は皆さまが思う程、明るくありませんでした。また、お嬢様……いや、ミル様は、本当はこんな苦労をされる方ではないのです」

「……じゃあ、深窓のご令嬢だったっていう説が本当なんですか。確かに、先程のことは意外でしたけれど、おっしゃることに知性や慈愛が感じられて、取材中に、びっくりするぐらい、高貴な表情をされました」

「ありがとうございます……お二人とも、なかなかの方ですな。評判通り……そして、私が調べた通りだ」

 松永さんが言ったことは、考えてみれば私たちをずいぶん上から見ている言葉で、私と神乃木さんは、はっとその目を見返していた。

神乃木さんは軽くにらんでいたけれど、松永さんは、冷酷なぐらいに落ち着いた態度でにらみ返した。

「今、私が言える範囲でお答えしましょう。このことは、当事者以外は他言無用でお願いいたします」

 松永さんが言うには、ミルさんは本当は、大変なお嬢様なのだという。

「名を明かすことはできませんけれど、ご一族は立派な方々ばかりでございます。ちなみにこの家の表札に書かれた名字も、その一族のものではありません……とにかくミル様のお母様も、その家のお嬢様として、何不自由なくお育ちになりました。ところが、世間知らずと優しさにつけ込まれて、とんでもない男と結婚してしまいました」

 ミルさんの母親が若くして結婚した相手は、売れない画家で、離婚歴があり、それはまあいいのだが、ほとんど働こうとしない男で、年上の遊び人のアル中だった。周囲は強く反対したが、もめているうちに母親はその男の子供を妊娠し、押し切られるかたちで結婚した。そして、生まれたのがミルさんである。

「私は、父親の代からミル様の家に住み込みで働いていた人間ですから、すべてを見聞きしております」

「そうなんですか」

「私はいわゆる執事でした。とにかく、ミル様の父親は、本家に一族の方々と、婿入りのようなかたちで同居したのですが、結婚後も定職につかず、昼過ぎまで寝ていて、夜遊びに行って、本当に何もしない。ミル様の育児も手伝おうとしない。絵も真剣に描かない。浮気の影も絶えずありました。ミル様のおじい様は、耐えかねてその男を追い出したのですけれど、なんとミル様のお母様は、幼いミル様を連れて、そんな夫のあとを追って、家から出て行ってしまったのです。それが悲劇の始まりでした」

 松永さんは、こんな冷静そうな人が、そこまで話すと、突然目を見開いて、凍り付いたように黙ってしまった。そして「失礼」と言うと、タバコを懐から出して、少しうつむきながら、ゆっくりと吸った。

「……大丈夫ですか? なんとなく……」

 私が訊くと、松永さんは顔を上げた。そしてその火を消した。

「失礼しました。私は長い間、禁煙していたんですが、最近また、時々吸うようになってしまって」

「それはいいんですけれど……」

「……申し訳ありません、今日はこれ以上、詳しくお話しできないと思います」

「…………」

「とにかく、大変悲しいことがありまして……。ミル様の実のお母様は、それから間もなくして亡くなりました。ミル様は、継母とその男、実の父親に育てられたのですが、恐ろしい環境で長い間、虐待されていました。そして『家出少女ミルのキッチン』が生まれたのです。私とも再会できました。ただ、私の知る方とはだいぶ違いました。一見、平静ですが、今でも『本当は、あんなことが突然、簡単に起こる世の中に生きていたくない』とおっしゃいます。ささいなことで、あのようにパニックになります。今はインフルエンサーとして幅広く知られているようですけれど、世間とのかかわりは、アイドル的な活動も含めて、ほぼすべてが事前に録画した動画です。取材もめったに受けていません」

「そういえば、そうですね」

「神乃木さん、なんとかゆりシェフ、そして被害者とお話しができませんか。ただ、その場合は、代理人として私が行くほうがいいでしょう。直接お会いできたのに今日と同じことが起こったら、取り返しのつかないことになるでしょうから」

「……なんとも言えませんが、やってみましょう。うまくいくかどうかは分かりませんけれど」

 

 その帰り道、最寄り駅まで戻る途中で、神乃木さんと私はこんな話をしていた。

「あれ、きっと本当ですよね」

 神乃木さんは何も答えなかった。

「それとも、皆、嘘で、私たちが利用されようとしているんでしょうか?」

「正直いって分からないね。二回会っただけで、紹介者がいるわけでもないし……」

 神乃木さんは、行きに見た川が見えると、そちらに顔を向けてから言った。

「今日の取材、楽しかったな。いい写真も撮れたし」

「はい」

「……でも俺、つくづく思うんだよ。本当はなんにも分からないんだなって。取材対象者のこと……実際に会えるって凄いことじゃない? なんというか、現実にあったことなんだから。でも、今日の写真だって、その人のほんの一部を切り取ったものでしかない」

「…………」

「無邪気に笑える人は、その人のどこかに、本当に無邪気な面があるからなんだ。それ以上でもそれ以下でもない。ミルさんがああいう風に笑えるのは、少なくとも、気高くて優しい一面があるからだ」

「そうでしょうね」

「でも、それは彼女のほんの一部でしかないかもしれない。全部だとは限らない。そう考えると、なんだかさみしくてさ」

「そんな! 神乃木さんは、その一部を現実に切り取ることができたんじゃないですか。今の時代だったら、その写真は半永久的に残るかもしれないんですよ」

「そうなんだけど……俺が言うのもなんだけど、それは一部でも本物で、同時に、相手の、うわべだけっていうか……」

 私がどう答えていいか分からずに、思わず立ち止ると、神乃木さんは、慌ててこう言った。

「あっ、悪ィな。今、俺、落ちちゃってたからさ。気分が」

「いえ……」

 私は大きく息を吸うと、再び歩き出した。

「花園ゆりシェフは、うちの料亭の常連さんで、実は、実家も近くなんだ。伯父と一緒の中学校に行っていたし、僕のことも、小さい頃からずっとかわいがってくれて、親戚みたいな感じかな」

「へえ──」

「とにかく、僕からゆりシェフに連絡をするから、会って話をしてみよう。君も来ないか? 日本の『イタリア料理の女王』なんて呼ばれているが、気は強いけど、本当は気さくで面倒見のいい人だよ。ライターとして一度、挨拶をしておいて損はないだろう」

 私は、ぜひお願いします、と答えた。(続く)

※今週中に全話公開予定です。よろしくお願いいたします

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