グルメライターの事件簿 美少女料理研究家の事件

TOSHI

第1話 グルメライターの苦悩と喜び~「カンヌキ」副編集長との出会い~


 私の名前は御月沙奈みつきさな、二十三歳のグルメライターだ。こういうと誰もがうらやむような生活をしているように思われることもあるが、そうでもない。特に最近は、ずっと迷っている。この仕事を続けるべきかどうかを……魅力があるから迷うのだ。自分としては、こんなに悩んでいるのに諦めきれない。どうすればいいのか、本当に分からなかった。

 そんな時に、私は「カンヌキ」──いや、神乃木武かんのきたける副編集長に会ったのだった。まずは、そのことについてお話ししよう。


 私のライター歴は、これでも約四年半になる。十八歳の時から学業と並行してやっていたからだ。大学を卒業後、数ヵ月前、二〇二二年の春から、業界大手グルメ雑誌『月刊アクエリアス』のライターとして働けるようになった。

 『月刊アクエリアス』は記事の出来には厳しいものの、ライターの待遇や報酬も比較的いいことで同業者の間では有名な雑誌だった。同時に、今いる人がなかなか辞めないので、そこの執筆陣への門は狭き門であることでも知られていた。

 私も、駄目元で売り込んでみたものの、採用通知が来た時には、本当に驚いて、嬉しかったものだ。

 実は、ここに合格しなかったら、この仕事は辞めよう、と思っていたのである。

 神乃木さんは『月刊アクエリアス』の副編集長で、私の上司で、教育係でもある。

 私がここのライターになった時、同じ役目をしていた副編集長は別の人だった。中年の男性だったのだけれど、その人は、下の名前を覚える前にいなくなった。

 同じく部下の若い女性ライターにセクシャルハラスメントをしてクビになったことは、あとから知った。被害者はこの仕事を辞めて、専門家のメンタルケアを受けながら、自宅で療養しているという。

 相手は私も知っている女の子で、一緒に食事をしたこともある。個人的なやりとりはなかったけれど、顔を見れば話をするし、特別に派手でもない、普通の、感じのいい子だった。そんなに悩んでいるようにも見えなかった。

 前述のように、ここは、比較的ライターに優しくて居心地のよいところだと聞いていたから頑張って入ったのに、こんなに身近なところでこんな深刻な話があったなんて、もの凄いショックだった。また、このことは業界内やネットでも、しばらくの間、ちょっとした噂になった。

 だが、再発防止のためもあり、素行のよいフリーのグルメライターだったまだ若い男性が、新たな副編集長として抜擢されたことを知らされた。それが神乃木さんだ。三十二歳だということだった。

 お披露目の日、私は急な取材でお顔を見られなかったのだが、翌日から、ライター達の間では、翌日からその副編集長が主役の噂話で持ちきりだった。仲間うちでのグループトークでも、親しい人からのメッセージでも、どんどん、嘘か本当か分からない情報が入ってくる。

 ここの編集部は、特に今は、女性が多いので、若い人も、神乃木さんより年上の人も興味津々で、多少の悪意がある人もいた。「神乃木」では呼びにくいというので、名字をもじって、あっという間に「カンヌキ」というあだ名もついた。

 そのありさまを見ていると、私が女子高校に通っていたさい、なんの罪もないのに少女の群れの中に放り込まれて、一時的にでもボロボロになった新任の男性教師のことを思い出してしまって、少し怖かった。例えば、こんな感じだ。

「沙奈ちゃん、聞いた?」

「たぶんまだです」

「今度の副編集長ね、元子役なんだって。小学生の時に、連続テレビドラマで、今も人気の俳優が主役だったんだけど、その子供時代を演じて、当時は有名だったのよ」

「へえ! じゃあ、かっこいいんですか?」

「それがね、当時はすっごくきれいな、女の子みたいな、華やかな顔立ちだったんだけれど、急に背が伸びて、顔が変わったせいもあって、高校に入る前に引退したの。それと東京の下町の、名の知れた料亭の息子なんだってさ」

「じゃあ、跡継ぎじゃないんですか?」

「その人、双子なのよ。一卵性双生児の弟がいて、二人でその店を継ぐはずだったのが、コロナ禍で副業が必要になって、家業のかたわら、とりあえず、フリーのグルメライターやってたのが抜擢されたの。顔は、見てのお楽しみ!」

「へえ……」

 そんな神乃木さんとのやりとりは、コロナ禍でのリモートワークだけではなく、バタバタしていたらしく、しばらくメールだけだった。少し落ち着いてから、やっと編集部で会えた。

 約束の時間の少し前に編集部に行くと、張さんが、冷静かつ、すごい勢いで掃除をしていた。

 彼女の仕事はなんでも早い。掃除したあとはいつもピカピカ。それでいて、特別なお客様にお出しする、コーヒーや紅茶の高級なカップも絶対に割らない。そんなささいなことを見ても、相変わらず頼もしい人だな、と思った。

 張さんは『月刊アクエリアス』の秘書である。そして、ここの生き字引的な存在であり、ほぼなんでも知っていて、いざとなると、ほぼなんでもできる人である。

 張さんは日中ハーフの女性で、韓国の血も引いていて、ソウルにも親戚がいるらしい。年は、私は知らないのだが、たぶん五十代だと思う。見た目は小柄な、化粧もほとんどしない、服装も地味めな人だが、彼女なしに『月刊アクエリアス』は成り立たないといわれている。

 新人ライターの悩みから、歴代編集長のスキャンダルの真相まで、本当は、彼女はすべてを知っているらしい。中国料理、特に家庭料理の腕は、料理の種類にもよるが、時にはプロの料理人すら恐れをなすほどだ。

 ライターの数が足りなかった時は、張さんが若い女性のふりをして、ペンネームで埋め合わせの記事を書いたら、一時的にせよ、それが一番好評だったこともあった。

その記事を読んだ中国人の大金持ちが、日本の別荘に滞在中の料理人として、編集部を通して張さんの派遣を依頼したのだが、ほかの意図があったのか、中年の本人を見てずいぶん失礼な態度を取ったそうだ。

 それでも、そんな大金持ちが、張さんの料理、特にジャガイモが主な食材の料理を食べたら泣いてしまって、『月刊アクエリアス』に多大な寄付をしたさいは、「胃袋のスナイパー」と呼ばれた。ともかく、彼女に関するエピソードは枚挙にいとまがない。

 張さんは私に気がつくと、こう言った。

「ああ、ライターの御月さんね。新しい副編集長室なら、そこですよ。もう時間だから、どうぞ」

「勝手に中に入っていいんですか?」

「ダイジョウブですよ、たぶん」

「たぶんって……」

 張さんは掃除をやめて、モップを持ったまま、私をぐいぐい誘導していく。行きたくありません、と言うわけにもいかないので、恐る恐るついていくと、張さんはモップを持ったまま、バーンと部屋を開けて室内に入った。

そこは清潔かつ優雅な、どこか、セレブリティの居場所を思わせるような部屋だった。そんなに広くはなかったが、奥の、通りに面した窓が大きく、銀座の美しい街並みと豪奢なビルが見える。

 上質そうな家具が置かれ、飾られたフラワーアレンジメントからは、ユリの、どこか爽やかな、かつこっくりとした甘い匂いがした。

 まだ若い男性が、そんなキザな部屋の中で、窓を背にした机の、椅子の上で、外の華やかな景色を背負いつつ、スーツ姿のまま、ネクタイを緩めて居眠りをしていた。

 ああ、この人なのか。噂の人、神乃木武、副編集長。あらためていうけれど、三十二歳。じかに見るのは初めてだ。

 あのあと調べたが、この人は、首都圏、いや、全国で名前を知られる人気グルメライターだった。

 東京の下町にある有名な料亭の息子で、一卵性双生児の弟がいることは前述した。小さい頃から、二人でその店を継ぐべく育てられたため、日本料理の腕はプロで、店で働いていたこともある。

 コロナになってから、鋭敏な味覚と豊富な知識を活かし、副業でグルメ記事を書くようになったのだが、たちまち人気グルメライターになって、業界ではもちろん、厳しい料理人にも一目置かれる存在である。

 小学校に入る前にキッズモデルでデビュー、子役になったわけだが、私はネットで当時の彼の画像や動画を観たが、本当に、女の子と見紛うような、もの凄くきれいな子供で、とても賢そうだった。

 ただ、成長期に急に背が伸びて顔が変わったのと、声があっという間に低くなり、急に仕事がなくなったのだそうだ。家族も学業の方を優先させたかったので引退させたのだという。

 こうやって見ると、確かに、子供時代の中性的で華やかな美少年ぶりとは別人のようだが、奥二重の左右対称の顔立ちは、鼻筋もきれいに通り、あか抜けていて、十分に端正で、知的な、別の魅力があった。

 遠目で座っているのを見ても、背が高そうでスタイルがよかった。眼鏡と仕立てのいいスーツがよく似合う。実際、女性ファンも多いらしい。

東京にはこういう人がいるのだ。私は、まじまじと見つめた。

 私が凝視したのにはもう一つ理由があって、神乃木副編集長は、その知的そうな容姿に反して、びっくりするほど格好をつけて寝ていたからである。

 この部屋には仮眠にも使えるはずのソファーがあるのだが、あえてそちらではなく、なぜか仕事用の机の上に、靴を履いたまま、長い脚を伸ばしていた。

 眼鏡もかけたまま、頭の後ろでは手を組んでいる。かすかに寝息が聞こえるから、本当に寝ているはずだ。

 張さんは、持っていたモップで頭をたたかんばかりに言った。

「あーあ、また、カッコつけて寝ちゃって」

「あはは……って、普通、昼寝する時って、眼鏡は外しませんか⁉ この眼鏡、高そうなのに、したまま寝て大丈夫なんですか?」

「『男は二十四時間、三百六十五日、美しくなければいけない』っていうのがモットーなんですってさ。この人、こう見えて、自分が大好きですからね。神乃木さんのアルバムは、幼い頃から今までの、自分の写真でいっぱいですよ」

「えっ、意外……」

 張さんは、ニヤッと笑って言う。

「あそこに鏡があるでしょう」

「はい」

「このデスクの正面にある、あの金ぶちのゴージャスで大きな鏡は、自分がいつも完璧に美しくいられるようチェックするため、あと、『銀座のグルメライター誌編集部の個室でカッコよく仕事するオレ』に見とれるために買ったんです……」

「え──っ!」

「辛い時や、忙しい時も、『苦難してるオレ』『忙しさの中でも身だしなみを忘れないオレ』を見ると、コーヒーを飲みすぎなくても元気が出るから健康的で、お肌の調子もいいし、仕事の効率がいいんですって。でも他の人に知られたくないから、私が、アンティークショップから、これは鏡じゃない、ってふりをして、二人でここまで運び上げるのを手伝わされたんです。しかもこの人、エレベーターの中では、梱包した鏡から手を離して、私一人に持たせたんです……」

 張さんは、うらみを噛み締めるように言う。

「でも、激務なのに、鏡一つで能率が上がるなら、自浄力が高いってことで、いいですよね! さすが抜擢される方は違うなあ」

 私は少し無理をして言った。この仕事をしていると、半分は本当の気遣い、半分は違う何かでできた、自分でも思いもしないお世辞が出てくるようになって、自分でも驚く。

「どうだか……神乃木さん、起きて! 仕事! ライターさんが来てるよ」

 神乃木さんは気だるそうに起きるとこう呟く。

「あれっ、その子は? 君、ここはグルメ雑誌の、『月刊アクエリアス』の副編集長室だよ」

「……メールではいつもありがとうございます。ライターの御月沙奈です」

「あっ、大変失礼しました。でも、履歴書の写真とずいぶん違うものだから」

「今、すっぴんだからだと思います。お会いするのに素顔では失礼かと思ったんですが、午前中に取材で、今日は写真撮影も私一人でやったので。私は写真の先生に、撮影時には化粧がカメラにつかないよう、すっぴんでするよう習いました。ただそのことは、事前にメールでお伝えしたかと思いますが」

「ああ、そうだったね。今、二十三歳か……失礼だけれど、素顔だと随分、若く見えるね」

「そうなんです。今日もフランス料理店の取材の実食で、優しそうなマダムに、『どうぞ、これはリエット(豚肉などの肉を、繊維がほぐれるまで脂で煮込んですりつぶした料理。うさぎ、鵞鳥、鴨、またはほかの食材でも作られる)というものなんですよ』って言われちゃいました。童顔には悩んでいます。でも、お話ししているうちに、なんとかなることが多いですけど! 実食ルポシリーズを中心にこの仕事をしてきて、ライター歴は約四年半です」

「ふむ……」

神乃木さんは一度、視線を落とすと、次に、まっすぐに私の目を見てこう言った。

「君のお父様は、『味覚の論理学』の著者である、御月雄一郎氏だね。そちらは本名だから、知っている人は少ないようだが……数々の賞を受賞した名著だ」

思ってもみない言葉だった。確かにそうだが、本業にさわらないよう、ペンネームを使って、どの賞の授賞式にも出席しなかった。

「……よく分かりましたね。同業の人には、誰にも言ったことがないはずですけれど……」

「そして、ミシュランガイドの二つ星に選ばれたフランス料理店のシェフである国近芳見氏は、君の伯父さんだ。母方の親戚だから、姓は違うけれど」

「……はい。それは知っている人は知っています」

「安心していい、個人情報は厳守する。ただ、僕、君の伯父さんのファンなんだ! フランス料理は、個人的に、古典的な料理を食べられる店が好きなんだよ。あと、やっぱり味に安定性があるところがいいなあ……家庭的なサービスも素晴らしくて、『今日は、はずしたくない』と思うと、ついまた行ってしまうね。この前、『舌平目のデュグレレ風』をいただいたよ。ああ、おいしかった。絶品だったな」

「……そうだったんですか。神乃木さんは有名人ですから、本当は、伯父も知っているかもしれませんね」

「はは、有名人だなんて……はは、はは、ふふ、うふふ、あははははあ!」

「…………」

「ふふふ、あはは……でも、一度伯父さんにお会いすることはできるかな?」

「そう言っていただけて、嬉しいです。伝えてみます」

「……実は僕、君の実食ルポシリーズをずっと読んでいるんだよ。こんなに若い方だとは知らなかった」

「本当ですか」

「君はいいライターさんだよ。たぶん、料理の専門的な知識や技法については、まだ、かたよりがあるんだろうけれど、文章にシズル感があるよね。読者においしさが伝わって食べたくなる、食べた気分になるっていうか。専門的な知識があるのに越したことはないし、おおいに助かるんだけれど、高度な知識は、嚙みくだいて伝える力がないと、読者が分かりにくい、もしくは、萎縮してしまうことがあると思うんだ。うちはグルメ雑誌で、料理の専門誌ではないからね。もちろん、絶えず勉強は必要だけれど」

「そうですか!」

 私は笑顔になったのだろう。すると、神乃木さんの顔がぱっと輝いた。これはなんだろう、と思った。

「それと、君は褒め上手だね。相手のいいところを見つけるのが上手だ。僕は君の書いた店に、いくつも行ったことがあるんだが、君の情報はほとんど正しかったと思う。あと、取材対象者に寄りすぎたり、嫌ったりせずに、比較的、冷静に味やサービスをジャッジできていると思う。これ、いいことだよ。私情に走らないのはジャーナリズムの基本であるはずなんだが、ほかに長所があっても、これができていない状態の人もいるから」

「……ありがとうございます」

 今度は、私が目を落とす番だった。なぜか泣きそうになる。沈黙が続いたあと、神乃木さんはこう言う。

「褒めたつもりなんだが、君、今、凄く辛そうな顔してるよ」

「…………」

「一時、この仕事を辞めた、というか、書くペースがだいぶゆっくりになったことがあったよね? あれはどうしてだったの? 差し支えなければ……」

 私は何も答えられなかった。

「いろいろあったのか……」

 だめだ、泣きそうだ。必死で涙をこらえていると、神乃木さんが、目をくわっと見開いて言った。

「ここからは『グルメライターあるある』かもしれないが、この仕事を始めた時、『グルメライターじゃーん、凄いね!』と、ちやほやされたり、飲食店で特別扱いをされたりで、ちょっといい気分でいたものの、徐々に、同業者が次々と辞めるというか、案外、離職率が高そうな職業である事情をうかがい知ってからは、そう言われるのが辛くならなかったか?」

「……辛かったです」

「辞めたくなる本当の理由を友人に相談したくても、それが社外秘の情報であったり、いきなりダークな話題になって相手に引かれるのが心配で、言葉を飲み込んだことはないか?」

「……あります」

「『グルメライターになったら、一番会いたかった、大好きな人!』の取材ができたら、予想に反してもの凄いパワハラをされ、数日で数十万かけた、楽しみでたまらなかった旅行までもがメチャクチャになり、しかも相手が嘘をつくので、そのパワハラを証明するために、その人とのメールやメッセージなどのやりとりの記録を、しかもたくさん、写真撮影したりして、きれいにまとめて上司に報告するのが地味に辛くて、結構な時間や労力が必要で、むなしくならなかったか?」

「具体的すぎますね、似たことは経験しました」

「『有名人でも、本当は犯罪者かもしれない』といちいち疑うようになってしまった自分に気がつき、本気でウツになってしまったことはないか?」

「すみません、もうだめです!」

 私は号泣というか、慟哭してしまった。もうどうしてもこらえきれなかったのだ。神乃木さんは真剣な顔でこう言ってくれた。

「今日は思い切り泣いていい、分かるよ、よくあることだ」

「よくあることなんですか?」

「僕の知る限り、そうだ」

神乃木さんはそう述べつつも、鏡の中の自分と目が合うと、『部下の悩みと向き合うオレ』の姿が美しいかどうかを確認しているようだった。それは私のことを本当は心配していない、というのではなく、癖なのだろう。私にはそう見えた。

神乃木さんは、私に視線を戻すと、真摯な表情でこう言葉を続けた。

「でも、今、辞めるのはもったいないと思わないか? 僕が言うのもなんだが、ここの執筆陣に入るのは狭き門だよ」

「その通りです」

「これは僕が思ったことだが、今の君に必要なのはきっと、清濁併せ吞む力じゃないのかな。それと、仕事だから、あんまり相手に期待しないほうがいいよ。よいほうに考えれば、偉い人も同じ人間だし、彼らも実は、多大なストレスにさらされて、気が立ってしまうこともあるからね」

「……本当ですね。ありがとうございます」

 ひとしきり泣くと、少し気分が楽になった。それと神乃木さんは、少なくとも、一生懸命私の話を聞いてくれたのだ。神乃木さんはこう言葉を続けた。

「……いいか、人間、時には二枚舌を使うんだ。けれど、ジャーナリズム精神を忘れるな」

「……はあ……」

「……僕も最初はいろいろ悩んでいたけれど、今は、仕事が楽しいよ」

「楽しいですか?」

「だって、街の小さないいお店の人から、三つ星のシェフまで、おいしいものを作れる人や達人と話ができて、仕事にできるって本当に凄いことじゃない? この仕事をやっていなければ、絶対会えなかった人たちといっぱい会えて、食の話ができるよ。もの凄い量の情報が集まるんだよ、ここに! 日本中から、今は、それこそ世界から。思わぬところで繋がりができたりさ!」

「……本当ですね!」

 私は声をたてて笑った。そして、私が笑うと、神乃木さんはやはり、独特の顔をする。そして、唐突にこう訊いた。

「君、まさかと思うけど、前科はないよね?」

「……そんな風に見えますか⁉」

「いや、顔立ちのいい方だから。それと、本当に若いというか、学生に見えるから。でも、最近の若い子は分からないからなあ……」

「えっ⁉」

「いや、すまない! 失言だ! 許してほしい。とにかく、いっそ学生のふりをして、覆面調査の記事でも書くか!」

「わあ、そうしたら、スパイみたいですね」

 気分が落ち着いてきたので、私たちはそこで、張さんが出してくれていたお茶を飲んだ。中国茶だった。私の知らない珍しいお茶ではなく、ジャスミン茶である。それなのに、びっくりするほどおいしい。

「おいしいです」

「張さんのコネでいい茶葉が手に入るんだそうだ。あと、いれ方だね。あの人は本当に、コーヒーでもほかのお茶でも、一味も二味も違ってうまいよ。僕、張さんみたいなコーヒーをいれられるようになりたいんだけど、まだなれないんだよね」

 それから、食とこの仕事について、また少し雑談をして、とても話が弾んだ。共通の話題があるし、神乃木さんは話が上手なのだろう。

 また『月刊アクエリアス』には、年上の先輩女性ライターで、本名が「満木(みつき)」さんといって私と同音の名字になる人がいるので、彼女への配慮もあり、私は皆から下の名前で呼ばれていた。そのことを話すと、神乃木さんは次の瞬間から、こともなげに私を「沙奈ちゃん」と呼んだ。

「沙奈ちゃん、次の取材は、料理研究家の『ミル』さんだからね。インタビューとレシピ紹介、それと、これから配信する動画を撮るようすも拝見できるそうだ」

 そう聞いて、私はまた驚いた。

 ミルといえば、「十八歳の美少女料理研究家」として、今、売れに売れている人だ。複雑な生い立ちを克服し、ユーチューブをとおして、影響力絶大な料理研究家になった。また、その美貌は素人離れしている。

 十六歳で家出し、年上の女友達の家に住ませてもらいながら、中卒の学歴でアルバイトをしている時、「家出少女ミルのキッチン」というタイトルの動画配信をユーチューブで始めた。

 レシピ自体は、実用的ではあるものの、よくいえば奇をてらわない家庭料理で、プロの料理人から「斬新さもない素人の料理」と揶揄されることもある。だが、彼女がインフルエンサーになったのは、比較的シンプルでもおいしい、家庭的で実用的なレシピの紹介と、視聴者の悩みにアドバイスする「ミルのお悩み相談室」を組み合わせたのがきっかけだ。

 視聴者から届いた悩みにミルさんなりの答えを出し、そのあとに、「相談者へのオーダーレシピ」と称して、相談者が今、これを食べれば力になるのでは、と考えたレシピを紹介、作ってみせる。

 「お疲れ様です! ミルからの差し入れです!」というのが決まり文句で、なんとその後、その言葉は有名な作曲家によって歌にもなった。歌は本人が歌ってヒットしている。

男性はもちろん、同じくらいの若い女性にもファンが多い。嫌味のない苦労話や、心のこもった言葉が優しいという評判だ。

実は、私もほぼ毎回観ている。十八歳とは思えない、深みと見識のある答えがたまらない。

「私もあの人、好きです。かわいいのに自然体で」

「更新頻度が高いから、今のレシピのほとんどはスタッフの人が買ってるんだって。でも最初は全部自分でやって有名になった人で、今でも定期的にオリジナルレシピを考えたり、勉強熱心で真面目な子らしいよ。芸能事務所に属して時々、アイドル的な活動もしてるせいか、アンチも少なくないけど」

そして、インタビュアー兼カメラマンとして神乃木さんが、ライターとして私が取材に行くのだという。

「こういうの久しぶりです! いつも観ている『アイドル』に会えるなんて、やっぱり『月刊アクエリアス』は凄いですね」

 そう言うと、神乃木さんは分かりやすすぎるぐらい舞い上がった。

「自慢じゃないけど僕が交渉したんだ、ははは。イベントで偶然お会いできて、レシピや動画の感想と、僕のキッズモデルと子役時代の話をしたら、すっかり話が弾んでしまって。ははは、ははは。当時の経験と人脈は、僕の実家と今の仕事におおいに役に立っているから、ミルさんも多方面でますますご活躍されるだろうって言ったら喜んでくれて……あはっ、あははははは」

 それは自慢です、と言いたかったが、ぐっとこらえた。でも、憎めない人なのだという気がした。

 そこで私は以前から思っていたことを述べた。

「私、取材の朝が好きなんです。語弊があるかもしれませんけれど、取材は旅みたいだ、って思うんです。神乃木さんがおっしゃったように、この仕事をしていなければ絶対に会えなかった人に会える。お話をして、その人の人生、違う人の人生を、少しの間でも、本当に生きた気になれる。いえ、違う人生を生きられるんです。なんて贅沢なことだろう! って、最初のうちは思っていたんですけれど、ずっと忘れていました」

「僕は、取材は、冒険みたいだって思うな。意外なことがどんどん起こって、思いがけない場所に行けて! 危険があっても……多少の危険があるからよけいおもしろいんだ。これって、僕が子役だった時に味わった感動に似ているな。だから楽しいんだ。今、気がついたよ」

「……ただ、『ミル』さんって、レシピのパクリ疑惑もありませんでしたっけ?」

「ああ……」

「それと、評判はいいけれど、有名になるまでの情報が何もない人なんですよね。今だとネットでほぼなんでも分かるのに……『外国に行っていた』説や、『実は深窓のご令嬢』説があるようですが、はっきりしなくて、不思議です。謎です」

「とにかく、謎も冒険・取材の味のうち、楽しみにしましょう!」

 神乃木さんがウインクをした。

 そこで、張さんがドアをノックする音が聞こえた。客が来る時間がせまっていると言う。

 神乃木さんが真顔になった。

「……本当は知っているだろうが、僕の前任はセクハラでクビになったんだ。編集長から厳しく言われたけど、うちは、職場恋愛は禁止だからね。あと、取材対象者に触るのも禁止で、触られるのもできるだけ避けて。僕はその再発防止のためにも任命されたので、もし何かあったら、恥ずかしがらずに早めに言ってください」

「分かりました」

「あと、経験者なら分かるだろうけれど……それと、うちはやっぱりネームバリューがあるから、これから、いろいろな勧誘があると思う。でも、僕たちに内緒で金品受け取らないでね」

「……はあ、はい」

「君は、とても話しやすい人だね。助かるよ。よろしくお願いします」

(続く)

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