第29話 親知らず
「痛い……」
「まだ痛いんですか? 血はとまったんですよね?」
「うん……でも、まだ痛いの」
一か月前くらいから、時々歯に違和感があった。ずっとではないけど、二日に一回くらい奥歯のあたりが妙に痛い。これはもしかして虫歯? 歯磨きはマメにしていたし、歯磨き手順も歯科医師に褒められた記憶があるのに、ショック。
と思いながら歯医者に行くと、親知らずが生えてきていて、手前の歯に擦れる形で生えてきているらしい。痛みはその時の身体状況によって歯がぶつかっていたくなったりすることはあるらしい。虫歯ではないし、すぐ抜かないといけない訳ではないから様子を見ることもできるけど、気になるなら抜くよ? と言われて、抜くことにした。
置いておいて落ち着くかわからないし、落ち着くとしていつになるかわからない。見てもらった時点で誕生日まで一か月を切っていて、涼子ちゃんとの特別なデートの予定を控えている以上、憂いは断っておきたかったからだ。
ただ、めっちゃ痛い。
時間かかるかもって予約して覚悟して行ったら、生え方がよかったらしく、わりとすっと抜けた。でも麻酔していたから、痛みは感じなかったけど、麻酔きれてから本当に痛かった。変にしびれているのも気持ち悪かったし、ご飯食べて詰まっても嫌だから、片側で食べるのも苦痛だ。
抜いたのは一昨日で、昨日は熱っぽさまであって薬飲んでた。今日はずっとましにはなったけど、でもじんじん痛い。まだもらった薬はあるけど、あんまり薬に頼りたくないから、ぎりぎりまで我慢するつもりだ。でもしんどい。
涼子ちゃんが来てくれたけど、テンション上がらない。私は今まで温厚で平穏な日々を送ってきた。子供の頃は幼馴染の日影とは喧嘩をちょくちょくしたりしたけど、暴力のない口喧嘩だけだ。転んだりタンスの角に小指をぶつけるくらいしか、痛みを経験していない。なので耐性がないのだ。痛い。つらい。だるい。
テンションが上がるはずもない。少しでも痛みを和らげようと、涼子ちゃんに膝枕してもらって頭を撫でてもらいながら、抜いた右頬に手を当ててもらっている。ちょっとましになった気もするけど、まだ痛い。
「結構長引くものなんですねぇ。私、今日はわりと楽しみにしながら来たんですけど」
「え? なに? 何かすることあるなら、言ってよ? ほかのことに集中した方が、痛みから気をそらせるし」
いつものごとくダラーっとすると思っていたけど、用があるならそれに越したことはない。ぼーっとする方が、痛みに意識がいってしまう。
首を回して涼子ちゃんを見上げると、涼子ちゃんは何だか困ったような顔をしていた。
ん? もしかして、真面目な話だったりする?
気を取り直してよっこいしょと起き上がる。涼子ちゃんと向かい合って首を傾げつつ、やっぱり痛いのでとりあえず頬は自分で手をあてる。
「なに? ごめん、何か大事なこと、私忘れてた?」
「あ、いえ、忘れてるみたいですけど、大事なことではないですね。なので痛くなくなってからでいいんですけど」
「うん、何? ごめん、全然思い出せないから、教えてくれる?」
遠回しに指摘されたけど、全くピンと来ない。何も直近で約束なんてしてない、わよね? それで忘れてる? え? 前のデートの時は何もないし、予約とか買い物で、今月中に行かなきゃみたいな話していて、そろそろと思っていたとか? でも全然覚えがない。
涼子ちゃんには申し訳ないけど、でも大事なことではないって言っているので、多少は仕方ないと許してもらうことにして、教えを請う。忘れていたとして、別に大事なことでなくてもいいから、普通に思い出したい。
「えーっと、その、由美子さんの口に指を入れたいんですけど」
「……は?」
え? 口に指を入れたい? え? ちょっと、意味が分からない。痛いって言ってるじゃん? その発想はちょっと気持ち悪いんだけど? ていうか忘れてるって、何?
「涼子ちゃん、悪いんだけど、恋人って知的好奇心を満たすために何をしてもいい相手じゃないからね?」
「えー……由美子さんがそれ言います?」
「え? どういうこと?」
私涼子ちゃんにそんな無体なことした? ううん、するわけないわ。だって涼子ちゃんのこと、大好きだもの。
「私の乳歯が抜けた時に、指を突っ込んできたのは由美子さんからですよ」
「え……んー、そう言われたら、そんなことがあったような気も、しないでもない」
言われてみれば、涼子ちゃんの乳歯が抜けた時に何だか変な感動を覚えたというか、口の中をのぞき込んだりしていた記憶がうすらぼんやりとある。
えーっと、あれは確か涼子ちゃんが五年生だから、三年位前? ……よくはっきり覚えているわね。あまつさえ、それを楽しみにしていた? こわ。その執着こわすぎじゃない?
「そんな、虎視眈々と私の口を狙っていたなんて、涼子ちゃん、歯フェチなの?」
「違いますよ。ていうか、もう絶対、記憶曖昧でしょ」
「そ、そんなことないわよ」
その後キスしたり、はしてないわよね? あれは夢だし。覚えていないことはない。ただいろんな夢を見たりするので、ちょっとごっちゃになっているだけだ。
「まぁ、由美子さんが健忘症入っているのはいいとして」
「ちょっと。やめなさい」
「いいとして、痛みが引いてからでいいので、由美子さんの口をもてあそべる約束ですよ」
あ、これ、私が完全に忘れてたと思ってちょっといらってしているな。ピンとこなかったのは悪かったけど、でもそんな普通に覚えるような内容じゃないし、まして私が親知らず抜くわって言った時点からそれ楽しみにしてたかと思うと、普通に引くんだけど。
「言い方。と言うか、まぁ、すぐ思い出せないレベルだったのは認めるわ。と言うか、何ではっきり覚えて楽しみにまでしてたの? ちょっとキモイんだけど」
「由美子さんこそ言い方考えてください。私の繊細な心が傷つきます」
「あらごめんなさい。繊細な涼子ちゃんの実在を信じてなかったわ」
「まぁいいですけど。と言うか、普通に覚えてますよ。キス以外で、初めて由美子さんと持ったちょっぴりえっちな思い出なんですから」
「別にエロくはないでしょ」
「由美子さんの顔は完全にエロかったです」
「いえ、涼子ちゃんの顔の方がエロかったわ」
「それは否定しません。だって由美子さんが初めて、私の中に入ってきた思い出ですから」
「ねぇ、やめて。言い方。言い方よ」
無理やりそう言う風にしないで。確かに雰囲気はそんな感じと言えなくもなかったかもしれないけど、でも、その言い方はおかしいでしょ。
そのおっさんみたいな言い回し、ほんとにやめてほしい。萎えるわ。あと本気で嫌がっているのに、にやにやしているのも減点だわ。
「えへへ、まぁ、とにかくそういう訳で、よーく覚えてますよ」
可愛い笑顔で誤魔化された。加点。
まぁ、指ツッコむとかはぁ? って思ったけど、私が先にして、約束までした以上、しょうがないか。涼子ちゃんの指だからおいしそうだし、無茶なこともしないだろうから、いいか。
「まぁ、いいわ。じゃあ早くいれて」
「え? いえいえ。もうちょっと経ってからでいいですよ」
「痛いからこそ、涼子ちゃんが直接撫でて癒してほしいんだけど」
その方が気がまぎれそうだし。
「え? そうですか? えっと、じゃあ、失礼して」
涼子ちゃんはさっきまでの軽い調子から変わって、何だか緊張したみたいに一瞬目を泳がせてから、ゆっくり私の頬に手を当てた。そして口を開くよう促し、私が口を開くと覗き込んだ。
う、なんかこれ、結構恥ずかしいかも。口の中、歯の間とか何も詰まってないわよね? あと匂いとか。キスするのにも慣れたけど、なんか、口の中を改めてまじまじみられるのって、普通に恥ずかしいなぁ。
「へぇ。こんな感じなんですねぇ。まだ痛そうに赤くて、ぽっこりへこんでますね」
「ほうへ」
あ、口開けたまま話すと、全然発音ままならなくて、馬鹿みたいになるわ。当たり前だけど。閉じたいけど、まだ見られているし。早く終わらないかな。
「じゃあ入れますねー。痛かったり気持ちよかったら言ってくださいねー」
気持ちよくはならないから、と思ったけど、あんまりこの状態でしゃべると唾が溢れそうだったので控えた。
涼子ちゃんは割と遠慮のない勢いで指を入れてきた。わ。な、なんか、口の中に指があるって、噛みそうな気になる。ていうか、息とか止めた方がいいのかしら。
「えい、おー」
そっと触れられた。普通に痛いけど、触られたことで痛いって感じはしない。元々痛いわけだし。
「舌では触れていても、手で歯茎にさわるって、ホントに新鮮で、なんだか、どきどきしますね」
舌で触れてるとか言うんじゃない。意識するじゃない。ほんとに、早くやめてほしい。
と視線を天井へ逃がしながら待っていると、ようやく涼子ちゃんが指を口から出した。
「満喫した?」
「いえ、まだです」
「えー? まだなの?」
今満喫した? って聞いたのはあくまで確認で、普通に終わりの気持ちだったのに。まだするの? ちょっと粘っこくないですか?
隠さずにわかりやすく嫌そうな顔をして見せる私に、涼子ちゃんはにこにこと微笑んでいる。ええ? この顔見てひるまないの?
「はい。せっかくなので、あの頃ではできなかったことに挑戦したいのですが」
「何だか不穏な前置き何だけど、何する気?」
「舌で舐めたいです」
「許可します」
そういう事なら話は別だ。やぁね、もったいぶって言うなんて、涼子ちゃんたら。頷くと涼子ちゃんはにたりと笑う。
「こういう時の話が早いところ、好きです」
「私も馬鹿なことを大真面目に言うあなたが好きよ」
そっと距離をつめたら、もう何度も繰り返している動きなので、無言のまま同じタイミングで目を閉じて唇を合わせた。
間髪入れずに涼子ちゃんの舌が入ってくるので、今日はそれを邪魔しないよう、反対の左側に自分の舌を避難させる。
べろ、と患部が舐められた。痛いけど、なんだかぞくぞくして、悪くない。もっと、と催促するためそっと涼子ちゃんの腰に手を回して抱きしめる。
涼子ちゃんはぺろぺろと同じ個所を舐めながら、私を抱きしめ返して、しばらくしてから口を離す。
「ふぅ、どうですか?」
「いいわね。痛いけど、痛気持ちいい感じになるから、続けてちょうだい」
「ははぁ、仰せのままに」
こうしてこの日は一日キスをした。さすがに舌が疲れたと、涼子ちゃんは笑っていたけど、翌日はしてくれなかった。残念。
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