第195話 都内の低山登山
「おはよ。良い天気ね」と、綾子さんが言った。
「おはよ。晴れて良かった」と返す。
「今日、ガスってなければ富士山見えるかも」と、綾子さん。彼女、実は登山経験者だそうだ。俺達が登山を計画していることを嗅ぎつけ、参加したいと申し出てきた。
普段なら大歓迎なのだが、今回は少し迷った。いや、綾子さんが嫁と知り合いというのも迷う理由なのだが、それよりも、今回の登山にはとある目的があるからだ。
「いやあ、この歳になって登山を始めてしまって」と、ケイティが言った。こいつもついて来た。というか、地味について来たがった。休日は暇なのだろう。ケイティは、真新しい登山ウェアに身を包み、ストックまで持っている。さすが独身貴族だ。経済力が違う。
なお、綾子さんは元々山登りウェアを持っていたらしい。学生の頃陸上部で、肺活量と健脚には自信があり、社会人になってから友人らとトレイルランを始めたらしい。今回、俺達が山登りを計画しているという情報が漏れ、というか、ケイティが間違えて綾子さんが参加しているライングループに山登りウェアの話題を載せてしまったため、綾子さんが食いついて来たというわけだ。
なので、急遽、俺とケイティと神敵、そして綾子さんという不思議なメンバーで山登りに出かけることになった。
もともと山登りは神敵の行きたいところリストに入っていた。だが、それとは別に、ちょっとスルーできない状況が生じている。
先日、俺が仕事から帰ると、神敵が家におらず、書き置きがテーブルの上に置いてあった。内容は、『お隣さんにいる』とのこと。恐る恐るお隣さんをピンポンすると、本当に神敵が出迎えてくれた。
お隣さんで晩ご飯を作っていたらしい。何故かというと、そうするように請われたから。理由は怖かったかららしく、最初意味が解らなかったが、お隣さんは怪異に食べられそうになったのだとか。それを偶然通りかかった神敵が助け、その後怖いから一緒に居て欲しいと言われ、最初は俺の晩ご飯を理由に断ったが、それなら自分の家を使っていいと言われて遠慮なく晩ご飯を作っていたというわけだ。
怪異に食べられそうになったという話は、最初はそんな馬鹿なと思ったが、異世界転移を経験している俺からすれば、そんなものかなと思えてしまう。
俺は、遠慮無くお隣さん家で作成された神敵の料理、大根サラダ、椎茸里芋にんじんカボチャの煮染め、骨付きラム肉の香草焼き、タコの刺身を食べ、そろそろ帰ろうかというところで、今度はお隣さんの旦那さんが帰ってきた。奥さんが事情を話してくれ、めちゃくちゃ感謝された。いや、旦那さんはかなり憔悴していたが、今回の話を聞いて泣くほど喜んでいた。心霊現象って、どうやって解決したらいいか分からなかったらしい。そりゃそうだけど。
その後詳しい話を聞くと、今回の怪異は、この三人家族が山登りに出かけた事に端を発しているらしい。職場の上司との家族付き合いで、都内の山に一緒に登ったところ、おかしな声が聞こえてくるようになったんだと。
奥さんには『お供えしていただいてありがとうございます』、旦那には、『お嫁にくださりありがとうございます』、娘の方はよく分からなかったが、とにかくお前は自分と結婚したからここに来いという声が聞こえて来るようになったらしい。
だけど、その家族はどうしていいか分からず、その声は次第に強くなり、ついには『遅いので迎えに行きます』と聞こえ、その声の通りに黒い何かが娘を食べに来たらしいのだ。
なにそれ怖いと思ったが、熱核融合弾を使う異世界の山ヒルの巫女や、天然ウランをこつこつ養殖している千里眼持ちの化け貝の方が怖いので、深く突っ込まずに一通り話を聞いた。
お隣の旦那さんが、一緒に山登りした上司も同じ悩みを抱えていると言ったので、神敵が自分の腕輪を貸してあげた。あの味気のない、くすんだ金色の腕輪は、どうも邪気を払える能力があるらしい。旦那さんは、とても喜んでその上司の下に飛んで行った。その後どうなったかは知らないけど、多分、大丈夫だったんだろう。
その時、神敵が『この怪異は始まりかもしれない』と言った。要は、今後も続くと言うわけだ。その後、二人になった時に、秋葉原の街中で悪鬼に出会った話も聞いた。悪鬼の話は、異世界帰り三匹にも共有している。これは由々しき事態になりつつある。
と、いうわけで登山である。この山は都内奥多摩方面の山で、途中までロープウェイで行けるお手軽な山であり、怪異に魅入られていた家族が登った山なのである。ここで何か手がかりがあればと思ってここに来ている。
なお、今その家族は、神敵からの指導で神社仏閣からお守りを購入し、普段の生活に戻っている。
また、ここには小田原さんがいない。本当は、小田原さんとその娘さんも一緒に山登りしようという話になっていたのだが、今回の怪異騒ぎと神敵からもたらされた悪鬼対策のために、キャンセルした。
この山の怪異が小さな女の子がお好みなら、小田原さんの子供も危ないし、何より、この現代日本に悪鬼が放たれた場合の危険性が尋常ではない。その辺り、小田原さんには警察の知合いも多いとかで、ちょっと情報収集をしてきてもらう。巷で怪異が頻発していないかということや、行方不明者、不審死などの情報だ。
「じゃあ、いっくよ。最初ケーブルカーだけど、どうする? 行列できてるし、私走ってもいいけど」と、綾子さん。元気だな綾子さん。
綾子さんに、例の怪異の話はしていない。説明しても冗談に聞こえるかもしれないし。それに、今回怪異に魅入られたのは子供の女子だ。綾子さんは女性だが、まあ、子供では無い。なので、本人が楽しそうだし、断れなかった。どこかで怪異の話は伝えた方がいいかもしれないけど。
「ほう。下道にも色々と見所があるんだな。私もそうしようかな」と、神敵。俺のスマホをタップしながら色んな情報を調べている。
「しずくちゃんも走る? いいよ。お姉さん負けないから」と、綾子さん。神敵に張り合ったら絶対に負けるから駄目だと思う。あいつは勝負事に関し、プライドが高いのだ。勝負にしたら絶対に引かないぞ。
なお、神敵は、
「まあまあ、今日は休日だからだと思うのですが、ケーブルカーは行列です。皆で上まで走りますか」と、ケイティが言った。
「よし! 後悔すんなよ」
綾子さんが張り切っている。彼女は、トレイルランという変態的な趣味を持っている。だが、今の俺とケイティは異世界ボーナスで身体能力が高い。
俺達は、靴やリュックやらの準備をし、つづら折りの坂道を走り上がることにした。
◇◇◇
あり得ない。こんな人がいるはずない。でも、そんな人が目の前にいる。
今回は、ケイティが山登りウェアの相談をラインに入れてきたため、ノリで色々と教えていたら、どうもあいつと一緒に山登りに行くという話らしいことが分かった。以前、あいつは私を海に誘ってきて断ってしまったけど、山だったら別だ。一緒に行きたい。でも、私はあいつの奥さんと知り合いになっているから、不倫を疑われることはしたくない。
なので、今回はうってつけだった。ケイティという成人男性と一緒に行くのだから。というか、小田原さんというスキンヘッドの男性とその娘も行くというのだから、最早不倫要素は無い。
まあ、スキンヘッドとその娘は途中で用事が出来て不参加になったのだけど、それでも、ケイティとその知り合い、そしてあいつと私で山登り。しかも都内の山で、街まで15時くらいには戻ってこれるから、その後シャワーを浴びて打ち上げとかも出来る。だから私は自分も行きたいと言い出した。楽しそうなんだもん。
というかおじさん二人とその他一名での登山。おっさんは身体能力が衰え始めているから、きっと途中でぜーぜー言って可愛い顔をさらしてくれるに違いない。私は学生時代陸上部で山も趣味で走っているから余裕だ。おじさんらが山登りを頑張っている姿を見て癒やされながら、綺麗な空気を吸って富士山眺めてこよう。
なんて思っていた。
「あ、綾子さん、大丈夫?」と、あいつが言った。
「ちょ、ちょっと、待って。まだ朝だから、体が動かないっていうか」
最初の坂で、私がビリになった。完全にペースが乱れた。
ここは別に歩かなくてもいい坂だった。というか、めちゃくちゃ急な坂だ。そのためにケーブルカーが整備されていた。でも、ちょっとした出来心でマウントを取りたいと思ってしまった。足に自信がある私は、日頃はケーブルカーを使うなんて軟弱者、なんて言って、大概は使わずに歩いていたのだ。
今日は、初心者おじさんらが一緒だと分かっていたんだけど、テンションが上がっていてケーブルカー使わない発言をしてしまった。だけど……こいつら、何かがおかしかった。
そういえば、あいつは体がガチムチだった。体力もあったのか。しかも、ケイティすらも私の前にいる。というか、全く疲れた様子が無い。
いや、信じられないのは、しずくちゃんだ。絶対に先頭を譲らず、あの小さな体でスタスタと走ってこの急傾斜を登って行った。
「まあ、まだ始まったばかりですし、少しゆっくりしましょう」と、ケイティが言った。
全く息が上がっていない。なんだこいつら。ケイティは学校の先生だから、それなりに運動はするんだろうけど……
一番後ろをふらふらと歩いていると、「おや、アレは何だ?」と、小さな体のあの子が言った。
「舞茸炊き込み御飯。一個百円也。あそこにお金入れたら買えるんだな」と、あいつが言った。そこには、この辺りの住民が作ったおむすびの無人露店があった。
「食べたい」
しずくちゃんが、あいつのリュックから財布を取り出し、おむすびの方に走って行く。
あいつもあいつで、しずくちゃんが財布を取りやすいようにしゃがんであげている。まるで、ここまでしゃがんだら財布が取れることを理解しているかのように……
まさか、こいつらデキてんの? 奥さんチクるよ?
ま、かく言う私は、今日の打ち上げであわよくば距離を縮めたいと企んでいるから、変に奥さんに警戒心を持たせてしまうのもよろしくないと思っている。
というか、問題はしずくである。こいつが、私にとって一番あり得ない人物なのである。
なにあの美貌。まったくシミやシワの無いお肌。美しいとしか形容できない髪。
最初子供かと思ったんだけど、どうも違う。体は子供サイズなんだけど、やけにバランスがよく、子供特有のだらしなさや多動、いや、子供はそれがあるから可愛いんだけど、あの子にはそれが無い。代わりにあるのが絶対的な自信。少なくとも、アレは処女ではない。女のカンがそう告げている。
しかも、知性的であるくせに、微妙に食い意地が張っているなど、男が喜ぶツボを押えている。というか、私もあのおむすび食べたい。
負けてなるものか。山は私のテリトリーなんだ。
私は、登山最初の15分で笑っている自分の足をぺしりと叩き、おむすびが売ってある場所まで歩を早めた。
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