第192話 神敵の一日


明け方、千尋藻城に抱き締められながら、神敵は物思いにふけっていた。息苦しくて眠れなかったのだ。まあ、人ではない彼女にとって、睡眠とは単なる娯楽に過ぎなかったが。


神敵は、あの異空間での出来事を思い返す。


今、自分を抱き締めているこの男は、あの時も自分の体に思いっきり抱きつきながら、永遠に休戦したいと申し出た。アレはもう求婚だ。一度は咎めたのだ。永遠というのは結婚の申し込みだからちゃんと期限を言えと。そうして返ってきた答えが56億7千万年だった。


永遠の時を生きる存在に対し、その答えは卑怯だ。あれは、やっぱり求婚だったのだと神敵は考えた。56億7千万年とは、無限とも言える長さで、永遠と言ってもいい数字であろう。永遠に戦い続ける自分に対し、それだけの間休戦するのであれば、それはもう永遠の愛を誓うことと同じ事である。その時、自分もそれを受け入れたのだから、すでに婚約は成立したも同然である、と神敵は考えていたが、流石にちゃんと伝わっているのか不安になったところ、邂逅初日で押し倒されてひたすら求愛行動を行い、今も抱き締められているのだから、きっと求婚は間違いなかったのだろうと考えた。


神敵には、神のいたずらなのか、何故かこの世界の一般常識がインプットされていた。それによると、結婚するには婚姻届というものを役所に提出する必要があり、この国日本では、一人につき一人しかその書類を同時に提出することが出来ないことは解っていた。だが、日本人でもなくそもそも人間では無い神敵にとって、そんな紙切れはどうでも良いような気がしていたが、それでも、今一糸まとわぬ姿で抱き合っているこの男が、今の伴侶にこだわるのであれば、自分もそれなりに譲歩しようと考えていた。


国籍を日本から移せば嫁を二人取ることは可能であろうし、それとも今の嫁と別れるつもりなのかは知らないが、まあ、人間の嫁の寿命はせいぜい百年くらいだから、それまでに決着方法を考えてくれれば良いだろう。この男もいきなり長寿種になったのだから、長寿種の常識や感覚というものが無いと思われた。だから、自分の一方的な価値観の押しつけは良くないと考えてはいたのだが、すでに自分を抱き締めるこいつの逸物は堅い。昨晩も何回もしたし、やはり、これはもう結婚している状態なのだろう。


神敵は、抱き締める男の力に負けじと抱き締め返すと、その男も起きたようで、そして、しようと言ったかと思うと…… 


まったくこの男はするのならば愛の言葉の一つでも囁いて欲しいと神敵は思ったが、おそらく今の嫁に遠慮して言葉には出せないのだろうと考え、黙ってやりやすいような体位になって迎え入れた。そうすると、おでこにキスをするのだから、それが愛の言葉の代わりなのだろうと神敵は感じ取った。



・・・・・


朝起きて、洗濯機を回しつつ、二人一緒にシャワーを浴びて、二人一緒に朝食を食べる。朝食のメニューは白米と味噌と、生のレタスだ。飲み物にお湯が出され、好みで味噌を入れて飲む。


千尋藻という男は甲斐性がないのか、どうも経済的に困窮しているようだった。まったく稼ぎがないというわけでは無く、稼ぐお金に対し出費が大きく、こうして食費を切り詰めているのだろう。


「今日は飲んで帰ってくる。お昼と夕飯はこれで何とかして欲しい」


そう言って、千円札を2枚差し出した。この金額は一日の食費としては破格の金額で、神敵は、節約して残りは取っておこうと考えた。


名残惜しそうに家を出て行く男の背中がどこか愛おしく、神敵は玄関までついていった。そうすると、やっぱりおでこにキスをされた。やつがおでこにキスをするのは、おでこが好きだから、子供のような造形の口にキスをするのが恥ずかしいから、嫁に操を立てており一歩を踏み出せない、背の高さ的におでこがしやすいなど色々と考えられたが、神敵としては特に不満はないため、好きなようにさせていた。


玄関を開けると、ちょうど玄関先にお隣さんがいた。小学生くらいの娘とその夫婦だ。朝から三人ともリュックサックを背負っている。身に付けているウェアから察するに、あれは山登りだ。旦那のリュックのサイドには、折りたたまれたストックもあった。


先日、神敵とおっさんは、ショッピングモールに洋服や靴などを買いに出かけたが、その際にアウトドアショップがあり、何となくキャンプや山登り用の商品を一緒に見て回った。その時、おっさんが山登りもいいなと言ったのを覚えている。あの異世界の大陸の山は、比較的なだらかで、登ってもあまり楽しくない。だが、日本の山はなかなか標高も高く、そこから見下ろす景色などはとても綺麗で、楽しそうに感じられた。神敵は、今度自分達も山登りに行くかと考えた。



・・・・・


おっさんが三千円で交渉しているころ、神敵は一人おっさんの家でテレビを付けながらパソコンをカチカチといじっていた。


実際にキーボードを叩いているのは黒いつぶつぶであり、神敵本体はスーパーから買って来たリンゴジュースをコップに注いで飲んでいた。


パソコンの画面半分には表計算ソフト、残りにはインターネット画面が映っており、何かを調べながらソフトにメモっていた。


それはどうやら、買って欲しい商品リストと、行きたい場所リストのようであった。


買って欲しい商品リストには、小さめの折りたたみ脚立、包丁とまな板、財布、消臭剤などなどがあり、具体的商品とネット価格が纏められていた。また、行きたい場所リストは、神敵が密かに気になっている場所と、電車で日帰りが出来る登山スポットが並んでいた。


気になる場所は、成田山東京別院深川不動堂、日本橋七福神巡り、将門の首塚、皇居、江戸城跡、靖国神社、明治神宮、神田明神、浅草寺などなど。山は高尾山、御岳山、雲取山などの奥多摩方面がピックアップされていた。本当は県外にも行きたかったのか、欄外に小田原城や鎌倉、箱根などのメモも残っている。それから、有料施設として、上野動物園、東京国立博物館や両国の江戸東京博物館、東京タワーに葛西臨海水族園、サンシャイン水族館などの文字もあった。


一通りリストアップし終わった後は、テレビ画面でネット無料動画を流しつつ、行きたい場所リストに関し、電車や旅程、それにかかる費用などを調べ上げていく。


その時、ピンポンとチャイムが鳴る。神敵はそれを無視した。だがしかし、もう一度ピンポンピンポンと乱暴に鳴る。


神敵は少しだけいらっとし、インターホンをいじる。いくらボロアパートとはいえ、ここは一応首都圏、画面付きのインターホンは付いていた。


『電波状況の確認に来ました。開けてください』


画面の先で怪しげな男がそう言った。神敵は、おそろしい顔で「うちにテレビは無い」と返す。


『ない? この部屋はないんですね?』


神敵はもう一度「ない」と言って、通話終了ボタンを押す。そして、何事も無かったかのようにネット検索を再開する。


なお、テレビ画面は無料動画が映っており、今は最近バズっているらしい火拭き男の映像が流れていた。



・・・・


その後、神敵は火拭き男のことを調べつつ、昼食の準備に取りかかる。朝からスーパーで買って来た生卵を使った卵かけ御飯を作るようだ。半額の刻み子ネギも買って来ており結構本格的であったが、おっさんの味噌があれば味付けはなんとかなるという言葉を信じて醤油は買ってこなかった。ただし、20%引きのカツオの刺身をしれっと買ってきており、こっちには無料の刺身醤油とわさびが付いてるため、この醤油を御飯にかけてしまおうと神敵は考えていた。


昨晩の残りのオレンジ缶チューハイをパシッと開けて、グビリと飲みながら器にごはんを装っていく。


御飯に溶き卵を掛けた後、少しだけ味見をして、何かが気に入らなかったらしく、10秒ほどレンジで加熱し、そして塩を軽く振って味噌を端っこに塗る。その後生のカツオの刺身を御飯の上に並べて刻み子ネギをたっぷりとかける。その上からわさび醤油を垂らしていく。


神敵は、台所からテレビの前のテーブルに戻ると、さっそく卵かけカツオ丼(ネギ多め)を食べる。缶チューハイを飲みながら。


神敵は、我ながらなかなか美味いといった表情を浮べ、今度はニューストピックスをチェックしていく。交通事故や感染症の人数、地震の発生状況、行方不明者やらウクライナ戦争など幅広く手当たり次第インプットしていく。


途中から海外サイトに飛んで幅広くニュースをチェックしていくが、情報に偏りがあることに気付き、今度はその理由を求めて個人ブログや通信社のサイトを漁るが、ただ、途中でどうしても有料サイトに飛ぶため、もどかしさを感じていた。いっそのこと山ヒル達を使って情報にアクセス出来る所に入ってやるかと考えたが、一般人である伴侶あいつの立場を思い出して思いとどまった。



・・・・


時計は夜21:00を示す。神敵は、なかなか帰ってこないあいつを少しだけ心配しながら、今度は朝に買っておいたチルドのラーメンを作り始める。先日一緒に食べたラーメンが美味しかったらしく、家で食べようと考えたようだ。


麺を茹でつつお湯を沸かし、器を準備していく。


あっという間に出来たラーメンに半額刻み子ネギの残りを全部入れ、これまたテレビの前のテーブルに運ぶ。そして、一口目を食べようとした瞬間、玄関の鍵がガチャリと動く。


「ただいま~」


神敵はラーメンを啜るのを中断し、パタパタと玄関に偵察に行くと、少しだけ上機嫌のあいつが靴を脱いでいるところだった。


神敵が「お帰り」と言うと、靴を脱ぎ終わったおっさんが感極まって身長差40センチ近くの神敵を抱き締めた。その手には、赤城屋でお土産として渡されたジャガバターと、途中のスーパーで買って来た缶チューハイ2本が入ったビニール袋が握られていた。二本のお酒は、自分と神敵の分だと思われた。一緒に飲みたかったのだろう。


神敵は、何となく自分を抱き締める腕が揺るんだ時に、おっさんの口にキスをした。

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