第77話 1章のエピローグ 前編


ガタン・・・ゴトン・・・ガタタン・・・ガガーーーーーーーーーー


小峰綾子は、鉄道の音に揺られ、とある所を目指していた。


しばらく後に、『次は、葛西臨海公園です』という車内案内のアナウンスが流れる。


小峰綾子は寝落ちしそうな自分を奮い立たせ、電車の座席を立ち上がる。彼女の目的地はここだからだ。


小峰綾子は電車を降り、ホームに降り立つ。そこは、数分前まで、本当に花の都大東京にいたのか疑わしくなるような風景が広がっていた。


一面の緑とのどかな風。ビルの摩天楼など何処にもない。


ただ、空をごうごうと飛行するジャンボジェット機と、遠くに見える通称『ゴジラ橋』が、ここが東京であることを彼女に認識させた。


今日の小峰綾子は、お昼の仕事が休みだった。昼はピザ屋、夜は居酒屋のバイトが彼女の仕事だ。今日はお昼のピザ屋が休みで、夜は居酒屋の遅めのシフトに入る予定だ。


そして、何故彼女がここを訪れたのかというと、少し気になっていた男にデートに誘われた場所だったから。


デートに誘われたといっても、その男がここを好きだと言っていたのと、酔った勢いで一緒に行かないかと言われた記憶が残っていただけの事だ。


その時は、その男を相手にせずスルーしていたのだが、今となって、どんな所だったのだろうと思いたち、お昼の仕事が休みの日にふらりと行ってみたのだ。


東京というところは、発達した鉄道網のお陰で、短時間のうちに色んな所に行くことが出来る。


小峰綾子がここに来たことは初めてであった。彼女は東京の街にこのようなところがあるなんて知らなかったため、この場所を教えてくれた男を少し見直しつつ、ここを好きだと言っていた男が育った街はどんな所だったのだろうと思いを馳せた。



・・・・


小峰綾子は駅を降り、そのまま渚の方に歩く。途中、水族館の案内があったが、一人で行く気にはなれず、そのまま渚の方に向かう。林の木々を抜けると、そこは一面のパノラマ風景があった。


木々と海と、遠くではあるが人口構造物である摩天楼が一緒くたになった風景……


小峰綾子は、そのまま、橋を渡って小さな島に行く。


そこには砂浜があった。いや、本当は干潟という存在なのだが、小峰綾子には干潟という知識はなく、単に海水浴場の様な入り江があるという認識を持った。


その入り江の、やや粘性土質の多い砂浜の上をさくさくと歩くが、彼女には、あいつがここを好きだと言った理由は思い当たらなかった。


小峰綾子がふと東を向くと、少し遠くに東京ディズニ○ランドのアトラクションが見えた。まだあそこに誘われていたら、自分の心は少しくらいは動いていたかもしれないと思ったが、自分の年齢を思い出し、その思いは心の奥にそっと仕舞った。


東京生まれ東京育ちの自分にとって、田舎育ちの男の感情なんて分からないと思ったが、願うなら、もし、もしも彼が、もう一度ここに行きたいと願ったのであれば、その時は一緒に行ってやろうと考えた。


小峰綾子は、ひとしきり渚を歩いた後、再び葛西臨海公園の駅を目指して歩いて行った。



・・・・


小峰綾子は、東京の街中に戻り、徳済会病院に入る。もう何回も通ったから、勝手知ったる病院だ。


入り口で受付を済ませ、とある病室へ向かう。ここには、自分の恩人がいる。それも、命の恩人だ。


命の……そう、あの時、。そのお陰で自分が助かったのだから、恩人であることに間違いは無いだろうと小峰綾子は考えている。


大きめの病院の中をひたすら進むと、とある病室が近づいてくる。


あの病室の中に、彼がいる。小峰綾子は、今日も彼が目覚めていないかと期待しながら、病室の扉をノックする。


すぐに「どうぞ」と言う声が聞こえ、扉のノブをひねる。


扉の先にいたのは、素朴な雰囲気を纏う少女。歳は18歳らしい。


小峰綾子は、「こんにちは、桜ちゃん」と、その少女に声を掛ける。


その少女は、「綾子さん、こんにちは。今日もわざわざここに寄って貰っちゃって」と応じた。


小峰綾子と千尋藻桜は、つい先日出会い、波長が合ったのかその日のうちにそこそこ仲良くなっていた。


この千尋藻桜の父親こそ、彼女の命の恩人だった。


その恩人の名前は、千尋藻城という。桜はその長女で、もう一人男の子がいるらしいのだが、まだ中学生で幼いと言うことで、今は実家のご両親に預けているらしい。


「いえいえ。私のバイト先、この近くだし」と小峰綾子が答え、ベッド横に置いてある丸椅子の上に自分のバッグを置く。


ふと見ると、ベッドに横たわる千尋藻城の服が、一部脱がされている。

どうやら、体を拭いている途中だったようだ。


小峰綾子は、タイミングまずかったかなと思ったが、娘の桜が特に気にした様子は無かったため、そのままいる事にした。


。若い頃は柔道とかやってたらしいけど。単身赴任先で鍛えていたのかな」と、桜が言った。


そんな話は聞いていないなと小峰綾子は思ったが、確かに、ここに横たわっている人の体は、おっさんとは言いがたいボディ……


小峰綾子は、千尋藻城の体を改めて見る。一言で表すと、引き締まった筋肉ボディだ。居酒屋の客として来ていた頃は、そんなイメージでは無かったけど、人とは見かけによらないと考えた。着痩せするタイプなんだと。


体の所々に縫い目がある。あの時の事故で、頸椎、背骨、腰骨等の複雑開放骨折。手足も至る所で複雑開放骨折を起こし、とにかく体中の骨が折れて、さらに心臓付近に深い裂傷を負っていた。



小峰綾子は、これでよく生きていたものだと、娘が濡れタオルで拭く男の体を見ながら考えた。


骨折意外にも、店の前に置いてあった大量のアワビの貝殻がお尻の皮膚にめり込んでいたり、サザエが顔面と頭部に突き刺さっていたりするなど、とにかくひどい有様だった。


小峰綾子は思い出す。この人を緊急手術した当直医は、『私、神を信じてみることにしました』と言ったのだ。それがどういう意味かピンとこなかったが、要は死んでいてもおかしくないような傷なのに、死ななかったと言うことをいいたいのだろうと理解した。だが、彼女にとって、医者の信仰心などどうでもよく、自分の恩人が死ななかったのであれば、それだけでよかった。


だけど、意識が戻らない。医者が言うには事故の傷もどんどん回復しているらしいし、自発呼吸もできるのだが、意識だけが戻らない。傷の治りは遅くてもいいから、意識だけは戻って欲しいと、小峰綾子は考えたが、そのことは、千尋藻城の家族全員の総意でもあるだろう。


千尋藻桜は、テキパキと自分の父親の体を拭き上げていく。すでに何回も行っていることなのだろう。手慣れている。


縫い目が生々しい傷だらけの体……娘が拭くたびに凹んでは戻る肉体。まるでアスリートのような肉体美。


小峰綾子は、その体についつい見とれてしまう。思えば自分は、ずっと男とセック○をしていない。最後に彼氏がいたのは十年以上前。まだガキだった頃に付き合っていた年上の不良。好きだというから付き合ったけど、自分の好きなセック○をするだけやって、高校卒業と共に連絡が疎遠になり、自分も興味が無くなったため、交際は自然消滅した。結局、あいつは自分の体というか、女性とエッチなことをしたいという欲望を叶えるためだけに自分に告白してきたのだと整理していた。


それに引き換えこいつは……自分にちょっかいを出してはいるが、本気で一線を越えようとはしなかった男。そりゃ奥さんに娘に息子もいれば、本来、自分なんかには見向きもしない存在。そもそも不貞は犯罪なのだ。彼に手を出したら、彼の立場がまずくなるだけではなく、自分も相手の奥さんに訴えられてしまう。それが今の日本の法律なのだということは、小峰綾子も十分理解していた。


なので、単身赴任という特殊な状況で生まれた千尋藻城との偶然が、今のこの状況を生み出している。


小峰綾子は、じっと目の前の男を見つめながら、自分の髪を掻き上げる。自分の髪は、何時の頃からか、緑色に染めていた。それは、とある願望からきているのだが……


「あ、綾子さんもやってみます?」と、千尋藻桜が言った。


自分は、きっと、目の前の男の体を見つめていたに違いない……小峰綾子は、18歳の女子にそういうふうに思われたのだろうと思い、少し恥ずかしいと感じてしまった。


なので、「人様の旦那に、手は触れられないよ」と言った。


「ん? 別にお父さんは誰のものでもないと思うけど……」と、桜が応じた。この子は不貞とかそういうことは知らないのだろう。少女らしい天真爛漫さだと思った。


桜は、「ねえ、綾子さん。お父さんがこうなったの、あなたのせいじゃないよ?」と言った。


「うん。分かってはいるんだけどね。でも、それでもさ……」


千尋藻城を跳ねたのは、都営バスだった。明らかにバスの経路を離れた裏路地での事故であり、都営バス側も争う気は全く無く、全面的に補償を約束し、今はその細部を詰めているところらしい。


一家の大黒柱を寝たきりにさせたのだから、補償額は相当額に登ると思われてはいるのだが、まだ脳死判定は出ておらず、交渉決着は保留になっているらしい。


桜は、「はあ、こんなに元気なのにねぇ」と言って、ズボンをパンツごとずるんと下げる。


そこには、ぎんっぎんにそそり立つブツがあった。


「ま! あのね、桜ちゃん」


小峰綾子は決して小娘ではないが、それでも未婚の女性であり、娘のいたずらとはいえ、勃起した男根を見せられるとは思わなかった。だけど、これはきっと、自分を元気づけるためにやっていることだと思い、些細なことは気にしないことにした。


桜は、「元気でしょ? お医者さんが言うには、単なる生理現象だからってことだけどさ」と言って、そそり立つブツを、人差し指でぴんと突いた。

ぎんぎんのブツは、振り子の様に左右に揺れる。


小峰綾子は、勃起は生理現象と聞いて、少し冷静になれた。そして、ブツとベッドの男の顔を交互に眺めた。


「だけど、何だがエロそうな顔してんのよね」と、桜が言った。


意識が無いはずのベッドの上の男性は、確かに幸せそうな顔をしているような気がした。


小峰綾子は、「あはは、確かに。エロそうというか幸せそうというか。夢の中で、青春してんじゃ?」と言った。


桜は少し受けたらしく、あはははと笑い出す。綾子も釣られて笑みがこぼれる。


ひとしきり笑ったあと、「お父さん、」と、桜が言った。


小峰綾子は不思議な表現をする子だと思ったが、そう考えてみるのも面白いと考えた。なので、話を合わせることにし、「女の子が沢山いる所に行って、いい思いをしてるんじゃない?」と言った。


桜は、「きっとそうだと思う。お父さん、私くらいの年齢の子でも、普通に関係とか持ちそう」と言った。


小峰綾子は、「そんな。きっと、桜ちゃんのこと、大事に思っているよ」と言った。


桜は、「いや、それはそうかもだけど、なんだろう……お父さん、例えばここではない何処かの世界に行っているとして、そこに魅力的な女性がいたら、多分、やっていると思う」と、言った。


小峰綾子は、目の前の少女がなんでそう思ったのか想像する。きっと、実家に残して来たゲームや漫画の趣向、あるいはPCのやばい履歴でも娘にばれたのだろうと思った。


なので、「ひょっとしてこの人、サブカル好き?」と聞いた。


「うん。好き。大好き。パソコンで美少女が出てくるゲームやってたし、スマホでも何かやってた」と言った。


「そう……」


小峰綾子はそう呟いたが、それならば、そう言ってくれれば良かったのにと考えた。


そうこうしているうちに、桜がベッドの男性の体を拭き終わる。


それを見届けた小峰綾子は、「私、ケイティとスキンヘッドの方にも寄って行くわ」と言って、椅子に置いていた荷物を持ち上げる。


「さっき、小田原さんの元奥さんが挨拶に見えられたよ。ケイティさんの方は、学校関係者の人が来てた」と、桜が言った。


小峰綾子は、「了解、じゃね」と言って、部屋を出た。


そして小峰綾子は、先ほどの続き……すなわち、あの人が異世界に行ったという話を妄想することにした。


小峰綾子は、何故だか、少しだけうらやましくなった。

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