第2話 東京サクセスストーリー
ガタン ガタタン ガタタン ゴトトン…
繰り返し繰り返し響くこの不思議な音と振動は、各駅停車の列車が鉄道を走る音。
時折、ガァーーーーーと鳴って我に返るが、それは列車が鉄橋などの上を通った時の音だろう。
繰り返し、繰り返し、返しては繰り返すこの音は、まるで人の鼓動のようで、どこか安心し、また、別の世界に
車窓からは都会の喧噪が見え、そこにうっすらと映る俺の顔は、かなりくたびれている。
なぜならば、今日は日曜日だというのに、出勤途中だからだ。
もちろん、休日出勤だ。連続勤務はこれで何日になっただろうか。労働基準法違反確実だ。
今の仕事は、やればやるほど増えるという不思議な仕事……
なんだろう、俺の職場はホワイトだったはずだ。つい数ヶ月前までは、九州の片田舎の平和な職場にいたのだ。残業もほどほどで、ベテランサポートスタッフが付き、優秀な部下や気の良い上司とこなす日々の業務。無愛想ながらもなんやかやと一緒にいてくれる嫁や子供達と過ごす平和な休日。だけど、俺の生活は、半年前の『転勤』という一言で一変した。
東京という大都会に転勤させられ、部下はおろか、パートスタッフすらいない一人部署に配属。雑用から何から全ての仕事を一人で担当せざるを得ず、ただでさえ大変なのに、ノルマは元の2倍になった。出来高と粗利益自体は会社でトップクラスのはずなのに、ノルマ未達成を理由にしょっちゅうちくちくちくちくと、イヤミを言われ、新規負担の圧力がかかる。
これは、一体何なのだろうか。
ひょっとして、リストラか? 俺って、リストラターゲットにされたのか?
俺は今年で42歳。そろそろいっかと思い、狭いながらも新築マンションを購入したばかり。だが、入居数ヶ月で届いた転勤の内示……
住宅ローンを抱えたまま離職するわけにもいかず、結局転勤を飲むことに。
だけど、嫁は子供の進学を理由についてきてくれず。
こうして、新居に殆ど住まずに強いられた単身赴任生活が決定した……
そして、もともと無愛想だった嫁の状態が悪化し、今ではほぼ無視だ。メールを打っても返事は来ず、電話には出ない。心配になり『生きてる?』とメールしたときにのみ、『生きている』と返信がくる。まあ、生きているんなら安心なので、それ以上の粘着はしない。
子供は高校生と中学生がいるが、嫁の真似をしているのか、何の連絡もしてこない。
会社からは毎月7万円未満という条件で家を探せと言われ、苦労して探し当てたのは超ボロアパート。地震の時にできたと思われる大きなヒビ、雨の日にせり上がってくる排水溝の悪臭、隣の住人の咳やいびき……隣の飲食店の前には、大きなネズミの死骸がちょくちょく転がっている。
家族と仲間に囲まれた新築マンション生活から一転、この大東京で6万5千円のボロアパート生活。一応、ここは会社の借り上げ寮扱いだが、家賃として会社から2万円も徴収される。
我が社の単身赴任手当3万5千円では毎日の食事で精一杯で、東京から田舎の九州に帰るための旅費を出そうものなら破産してしまう。そのくせ所得自体は上がるので、所得税は上がるという矛盾。
そりゃあ、こんな顔にもなるわ……。これこそが、おっさん。かつて、休日はアウトドアでリフレッシュしていた生活が、こうして毎日電車に揺られ、都心の職場に通勤する日々。
もちろん、俺は管理職、部下もな~んもいない
電車の車窓から怪しいお店の看板が見える。あそこに、『のぞき部屋』なるものがあるらしい。
東京都も、お金があれば楽しいところなんだろうなぁ……などと、過ぎ去る看板を眺めながら妄想する。
あの覗き部屋、スマホで調べると、なんと2千円で入れるそうな。一体あの中には、どんな化け物が潜んでいるのだろう。だが、今の俺にはその2千円も貴重だ。毎月の食費は3万円以内に抑えないと家計がマズい。家族が飢えるか、住宅ローンが払えなくなるかの2択を迫られる。なので、俺の食費は3万円。大学生の時より悲惨だ。まあ、東京は格安弁当もあるからなぁ。朝は100円、昼は300円、夜は500円と1杯の缶チューハイ……。これが、俺の普段の食生活。それから光熱費水道費と散髪やら生活必需品やら、たまに行く安居酒屋などで家系はかつかつだ。
俺は、このまま年老いて行くのだろうか。はあ、もうこんな生活は嫌だ。だけど、解決策が全く思い当たらない。こんな現世は嫌だ……ああ、私は貝になりたい……なんてことを考えてみる。
ところで、俺の斜め前に座っている男は、なんで座席で横になって寝ているんだろうか。しかも、彼の席は優先席だ。
まあ、今日は日曜日。今の時間帯は乗客も少ない。
いくら日曜日の闇出勤とはいえ、朝は少しゆっくり休む。なので、今は10時近い。だからなのか、乗客も少ないのだ。まあ、彼も疲れているのだろう。客が少ない時間帯に、座席で寝てしまうのは仕方が無いか。
この車両には、俺の他に、斜め前の寝そべる男性。歳の頃は20代だろうか、少し細身だ。
その寝そべる兄ちゃんの前には、若い兄ちゃんが座っている。ニキビ面だから、高校生だろうか。私服だからよく分からない。よく日に焼けている。
そして、ニキビ面の逆隣に、メガネをかけたツーブロック七三分け背広の男性がいる。年齢は40代である俺と同じくらいだろうか。その背広の男性の前には、白いスーツを着たスキンヘッドの男性。背は低いが、ガタイが非常に良い。きっと、アブナイ人なのではないだろうか。
まあ、関係ないか……ふと意識を逸らすと、ついつい仕事のことを考えてしまう。もはや睡眠もあまり取れず、寝ても覚めても仕事のことばかり考えている。俺は、どうなってしまうのだろう。何時になくダークになる。だが、俺もサラリーマン人生約20年。半年程度の激務とそのストレスには耐えている。だが、俺も老いを感じている歳……こんな生活、いつまで続けられるのだろう。
すると、どこからともなくたばこの臭いが漂ってくる。俺も、大学時代は吸っていた。あの頃はヒト箱250円くらいだった。1日1箱くらいは吸っていただろうか。よくお金が持ったなぁ。まあ、あの時は、バイト代は全て自分の金に出来たからな。今は、どれだけ稼いでも家族のお金になる。
せめて、嫁が少しでも働きに出てくれたらなぁ。仕送りが後1万円増えたらなぁ。などと、空想を膨らませる。
ん? よく見ると、斜め前の座席に寝そべっている兄ちゃんが、たばこを吹かしている。しかも、煙の出る葉たばこだ。
え? ここって電車の中だよな。昔は喫煙車両もあったが、東京にまだ存在していたなんてびっくりだ。
しかし、たばこかぁ。正直、このストレス社会、たばこも吸いたくなってくるが、いかんせん金がない。あれを吸うと一時的に眠気が覚めたり、気持ち良くなったりするのだ。でも、朝起きたときに気分が悪かったり、メシがマズくなったりするから一長一短だ。
……いや、待て待て、この電車は窓際に座席があるだけの列車だ。灰皿なんてどこにもない。禁煙のはずだ。まさか、ヤバイヤツか?
ここは無視だ。スマホで無料小説でも読むかと思い、スマホを手に取る。
俺のささやかな趣味は無料小説……だったのだが、最近は
どう見ても超優秀なスキル持ちなのに、皆に馬鹿にされた挙げ句に追放、そして速攻で巻き返して『ざまあ』。そりゃあ最初から優秀なんだから簡単にざまあできるだろう。
また、おっさん主人公のはずなのに、何故か30代。しかも性欲を完璧に制御できるおっさんムーブを披露する。実際には、40代のおっさんでもまだまだエロいのに。むしろ猿で無くなっただけ、ねっとりとマニアックなところまで追求したくなるのがおっさんなのだ。
それから、直ぐに婚約破棄する馬鹿王子に、ケモミミとエルフが入れ食い状態……人気がありそうなヤツをタップしてもだいたいそうだ。俺が選ぶ小説がいけないのか、なんとなく使っているこの小説サイトがクソなのか……
俺がスマホ小説の最初の数話だけ読んでブラウザバックしまくっていると、「おい、あんた」と聞こえる。
顔を上げると、寝たばこ兄ちゃんに声を掛ける別の若い兄ちゃんが目に入る。
いや、兄ちゃんよ。電車で寝たばこする様なアホは、無視するに限るぞ?
寝たばこ男は、若い兄ちゃんを無視してたばこを吸い続ける。
若い兄ちゃんも簡単には引かず、「ここは電車ですよ? たばこいけないんじゃないですか?」と言った。
なかなか勇気ある人物だ。体付きも良いし、日焼けもしているから、何かスポーツでもやっているのではなかろうか。
よく見ると、俺の3つ隣にいる背広の男性が、スマホのカメラをそのやり取りに向けている。まさか録画しているんだろうか。
寝たばこ兄ちゃんは、スポーツ少年(仮)をちらりと見るが、無視してたばこを吹かす。
スポーツ少年は、「ちっ、頭おかしいんじゃねえか? 馬鹿が」と言って、隣の車両に歩いて行く。
そうそう。無視に限るぞ少年よ。
だが、寝たばこ兄ちゃんは、「あ? なんつった? お前」と言って、立ち上がる。
ガタイのいい少年も足を止め、「たばこ吸うなって言いました。ここは禁煙です」と言い返す。
おいおいおい……ここで始めんのか?
「ガキが、殺すぞ」と、寝たばこ兄ちゃんが凄む。
「何だと、コラァ……」と、ガタイのいい少年はビビらない。身長は彼の方が高い。
寝たばこ兄ちゃんは、顔を近づけてガン付けようと少年に近づく。
少年は「オラァ。舐めんなコラ」と言って、寝たばこ兄ちゃんの顎を右手で掴む。顎を上に上げさせてほっぺたを握り潰す感じだ。そして、力一杯前に出る。あれって、意外と抜け出せないんだよなぁ……
寝たばこ兄ちゃんは「ゴラァ! お前、誰に向かって手を出しとんじゃ」と言って、相手の腕を掴みながら暴れ出す。
ガタイのいい少年も「あなたから来たんでしょう」と言って、顎から手を離さない。
ありゃあ、喧嘩慣れしてんだろうな。ここが学校とかなら、これで勝負ありなんだろう。
たばこの兄ちゃんも、「お前は、絶対殺す。俺はやるときはやるからな。殺すぞ」と言って凄む。
完全にキレている。いや、これ絶対にこのままじゃ済まないだろう。いや、どうしよう。俺はどうしたら良いんだろう。
少年も「たばこ吸うなや!」と言って、手を離さない。ごもっともだけど。幕引き考えようよ……
と言うか、暴れながら俺の座席の方に来る。止めて欲しい。
「お前、誰に向かって言うてんねん!」
寝たばこ兄ちゃんが一瞬の隙を突いて少年の手から抜け出る。少年は逃げもせず余裕の構えだが……あの兄ちゃん、腕に模様が入っていないか?
と思っていたら、寝たばこ兄ちゃんがおもむろに腕の袖をまくる。
あ、っちゃあ……と思ってしまう。素人の俺でもなんとなく分かる。アレは和彫りなんだと。
赤や青、そして黒の模様が腕に入っている。
少年の方もそれに気付いたようで、一瞬で顔が強ばる。
「もう許さんからな。ガキが、おお!」
寝たばこ兄ちゃんが凄み、少年に掴み掛かる。
そして、暴れながら何故だかまた俺の方に来る。本当に止めて欲しいんだが。
「いや、済みません。でも……「何やとオラ! ガキが、オラ! 死なすぞオラ!」
絡まれている少年が俺をチラチラと見る。いや、ごめん、俺は喧嘩なんて中学生の時以来です。それからは平和に過ごしてきました。
だけど、何だか俺も腹が立ってきた。そもそも悪いのはたばこ吸ってた兄ちゃんだ。
大体これから仕事だというのに……
周りの乗客達を見ると、さっきのメガネ背広がスマホを構えたままで、スキンヘッドの親父はいなくなっている。
少しため息をつきそうになるが、仕事の時の修羅場と絶望に比べたら、こんなものどうでも良いような気がしてきた。というか俺、今仕事のこと忘れてる。少しだけ得した気分になった。今日はゆっくり眠れるかもしれない。
なので、「ああ~まあまあまあまあ、あんた達、ここは電車」と言って、立ち上がる。
だが、寝たばこ兄ちゃんは「オラ!」と言って、完全にビビっている少年に殴り掛かる。
俺は咄嗟に寝たばこ兄ちゃんの腕に腕を絡め、「まてまて、殴ったら終わんぞ」と言った。我ながら意味が解らない言葉だ。
寝たばこ兄ちゃんは、何故か俺を無視し、「うぉおお! コラァ!」と言って、少年を蹴る。腕は俺に塞がれているから、足が出たようだ。ローキックと言うヤツだ。こいつ、意外と自制が効いているんじゃ? と思った。
少年も一目散に逃げれば良いものを、「済みません、済みません」と言って、その場に留まる。
だが、寝たばこ兄ちゃんは「オラ、ガキィ 来いやコラァ!」と言って、少年に凄む。俺は位置的に仕方がなく、寝たばこ兄ちゃんの体に抱きつく形になり、少年の方に行こうとする兄ちゃんを止める。
寝たばこ兄ちゃんは「オラ! 来いや、怖いんか! ナンボでもやってやるぞ! ガキィ!」と叫ぶ。まあ、こいつは俺が止めているし、あの少年は向かって来ないしで、完全に上からモードになってしまっている。
少年は「あの、謝ります、謝りますから、それで勘弁してくれませんか?」と言った。
その時、隣の列車から、人が出てきて近づいてくる。振り向くと、車掌とスキンヘッドだ。あのスキンヘッドの御仁、車掌を呼んで来てくれたのか、やるな。だが……その車掌は、残念ながら、気が弱そうな女性だった。
別に性別で差別をするつもりはないが、その女性は女性の中でも、何というか、面倒臭くなさそうな感じの人。これじゃあ多分、このキレた兄ちゃんは止まらないだろう。
と思ったら、俺の腕の中の兄ちゃんは、ずいぶんと大人しくなった。まあ、この寝たばこ兄ちゃんも捕まりたくはないようだ。前科が怖い人なのかもしれない。
少年は、「謝れば良いんでしょう、謝りますから」と言って、床に正座する。これは、まさかな……個人的に、ここは普通に立って頭を下げるだけでいい気がする。お互い怪我もしていないのだ。
そして、少年は正座姿勢のままゆっくりと頭を下げる。
あちゃああ、それじゃ、心に傷がつくぞ少年よ……
「知るかぼけぇ!」
寝たばこ兄ちゃんが、土下座少年の頭の上を勢いよく踏みつける。
油断した。体は俺が止めているが、足なら届いたのだ。
ああ、何だか、俺もカチンときた……このまま持ち上げてやろうか……
俺は、兄ちゃんの体を止める腕に力を入れる。このくらいの体重なら、簡単に持ち上がるはずだ。俺の仕事は、肉体労働もあるのだ。朝6時から夜8時間までの
頭が真っ白になる。 そして、反復訓練をしてきた体裁きは、こんな時でも忘れない。俺は、体の重心を下げ、右手を相手の左手の下から腰に回し、左手で相手の腰のベルトを掴む。
ああ、電車の中は、角張っているところが無い、まあ、どこに投げても、死にはしないだろう、と思った。
一気に体に血が回る。そして……
「止めときな」と言って、白スーツでスキンヘッドのおっさんが、兄ちゃんを投げ飛ばそうとした俺の吊り手を掴む。凄い力だ。
そのスキンヘッドは、そのまま寝たばこ兄ちゃんの方を向き、そして、「ママの所にお帰り」と言った。
寝たばこ兄ちゃんの体は、少し硬直してしまった。俺は、こいつを投げようと密着していたからよく分かる。そして、その兄ちゃんは、そのまま脱力してしまった。
・・・・
<<終点 秋葉原駅>>
「ありがとうございました」と、女性車掌さんが言った。
ここには、俺たち三人、すなわち、俺とスキンヘッドと、スマホで事態を撮影していた七三分けの三人がいる。全員おっさんだ。
「いえいえ、ですが、謝罪する少年の頭を踏みつけるなど許せません。彼には社会的に制裁を受けてもらいます。先ほどの動画は、マスコミに売却しました」と、七三のおっさんが言った。なかなかえげつないことをする。
女車掌さんは、「え? ええ、は、はい。それは、その」と言いつつ、どうしたらよいか分からない、といったそぶりを見せる。
先ほど、寝たばこ兄ちゃんは、鉄道会社が呼んだ警察に連行された。
俺達は、車掌さんがちゃんと事態を話してくれたからか、警察からは直ぐに解放された。今は、もう解散モードだ。
だから俺は、「まあ、俺は用事がありますんで」と言って、立ち去る。仕事を進めないと本気でヤバイのだ。
隣にいたスキンヘッドの御仁も、俺の方をチラリと見ると、立ち去るそぶりをみせる。
だが、背広の七三分けが、「まあ、これも縁でしょう。ご用事の後でもかまいません。本日一杯どうですか?」と言った。
俺は、財布の中身を思い出すが、まあ、少しなら良いかと思った。東京の安居酒屋なら、二千円もあればそこそこ飲めるしな。そうした気持ちで隣のスキンヘッドを見ると、彼も軽く頷く。
これが、俺と二人のおっさんとの出会い。
花の都大東京でできた、最初の友人……いや、友人なのだろうか。まあ、友人なのだろう。
俺は、40歳も過ぎていきなり友人が出来た事に、少しだけ嬉さを感じてしまった。
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