8-3血脈
飴と言えば、水飴だと燈吾は言う。とろりとした薄い琥珀がかった痺れるほどの甘露。飴玉は人数分なければ分けるに苦労する。割ったとて、等分するのは難しく、不揃いだ。だからごくまれに、父が宮市へと下り、土産を買う時は小さな壺に入った水飴となった。
「俺は六人兄弟の三番目でな」
水飴は喧嘩にならかなったのかと訊けば、無論なったと燈吾は重々しく頷き、最後には水飴がこびりついた壺の奪い合いへと発展したと語る。だが、燈吾が壺を小銭で引き取ってくれる先を見つけてからは託されるようになり、その流れで分配も任され、結果、父は土産を直に渡してくれるようになった。
「得をさせ、波風立たたなくば、役得を得られる。だから俺は炊事も買って出た。母が早世したこともあったが、兄どもに食い尽くされてしまうから。それではいつまで経っても下が育たん」
「……それで針仕事も覚えたの?」
「ああ、手間賃をとれる腕前ぞ。実際、役に立ったろう」
夫が昔語りをするのは珍しい。いや、今までそんな余裕が無かったというべきか。
かすみと燈吾はブナの木立を、手を繋いで歩いていた。話しながら、ゆっくりと。人目を憚り、時間に追われていた二人にとって、これも今までにないことであった。東の空に浮かぶ満月が、木々の間を縫って脚を下ろしており、歩くに苦はなかった。
「仕組みや流れ、規則を作る側に立てば、物事は己の有利に進められる。黒ヒ油に関しても同じだ。今は、値も量も質も油屋の言いなりで、里が選ぶ側にはない。利を得ようとすれば物事の上流に立たねばならん。上流に立ったなら、下流が濁らぬよう注意を払わねばならん。下流に利無くば足下をすくわれよう」
つまり、と燈吾は言葉を一度切り、溜めてから言う。
「俺がつくる飯は美味い。親父殿を唸らせ、兄どもを黙らせ、下の奴らを満足させたのだからな」
自信たっぷりな宣言に、かすみは小さく吹き出した。ならばぜひ証明してほしいと返せば、無論だ覚悟しろ
燈吾は饒舌だった。夫の来し方を聞けるのは嬉しくもあり、不安でもある。己の出生、里の暮らし、狂った母――秘密は自分のほうが多いと思っていたが、果たしてそうだろうか。そして、どうあって
こちらの内心が透けて見えてわけでもなかろうが、燈吾が発した問いに身体が強張った。
「お前の二親はどうしている?」
絡めた指先が固まる。それでも離さなかったが。
「挨拶もせずに連れ出してしまった。息災にしておられるのか?」
黙したまま首を横に振れば、燈吾はそうかと応えた。
「お前を産み出してくれた御方々だ、会ってみたかったが残念だ。父と母、お前はどちら似であったのだろうな」
顔は母親に似ていないこともないらしい。髪はおそらく父親譲りだ――そう答えると、燈吾は父母各々の良き血を受け継いだのだな、とてらいなく言う。その笑みに胸が疼いた。
良き血。自分は夫を騙しているのかもしれない。
そして燈吾の話に相槌を打ちながら、別の事も考える。
里に戻るなんて馬鹿げている。みすみす命を捨てに行くようなもの。黒打掛を取り戻したいと本気で思っているわけではなく、燈吾を説得させられたなら、それで良い。祝言を挙げ、遥か遠くへ、海を訪ねて、それから。だが、なお追ってくる振り切れない言葉がある。
――なれど兄は病気なのです。まずは治療をせねばなりません。
わかっている。海を見たらその足で新都へ赴き、一流の心医に診せる。
――だのに、どうして信じられるでしょう。
安是を軽蔑しきった諦観の眼差し。
自分が稼ぎ、養い、癒やす。どんなに貧しかろうと里での暮らしの何倍も心安らかで躍るものとなろう。いや、燈吾には苦労をさせない、でもどうやって? 自分は里の外を知らない。力仕事、泥仕事、忌み仕事、なんだっていい、なんだってできる、なんでも……? 阿古の世話を続けながら蔑まれ、娘宿では物の数に入れられず、嫗や古老らから仕置きされ、夫に以外の男に踏み荒らされる。それらをもう一度繰り返す。あるいはそれ以上を、本当に
――なら、死んで。
下女に放った刃がひるがえって自身の胸に突き立てられる。自分だけは透過する、そんな都合の良い話があるわけもなく。
妄想が足に絡みつき、たたらを踏んだ。
「燈吾?」
手を繋いだ先の夫が足を止めていた。俯き、額のあたりにもう片方の手をやっている。
「頭が痛いの?」
「……大事ない」
是とも否ともとれる返答をしながら、燈吾は苦しげに息を吐く。しばらくは歩き続けていたが、いくらも進まぬうちにしゃがみ込んだ。息が荒く、額に首筋に、玉の汗が浮かぶ。
かすみは素早く木の根に草葉を敷き、燈吾の上半身を預けさせた。
苦悶の呻きを漏らす夫に、汗を拭ってやることしかできない。突如身を起こし、根元に向かって激しくえずいたかと思えば、背を丸め、自身を抱きしめるようにして身を震わせる。しばらくはその繰り返しで、黄色っぽい胃液が出ても肩を上下させていた。
汗と涙と涎まみれになった顔を拭いてやることもままならず、背をさするしかできない。さすった背から、魂が抜け出るがごとく青白の蛍火が浮遊する。
――死んでしまう。ぞっとして思う。だが、苦しむ夫に何をすれば良いのか見当がつかない。泣き出す心地でひたすら背を撫で、それでも蛍火を止められず、蓋をするように横たわる身体に覆い被さる。
自らの不幸への諦めや絶望は今まで幾度となく感じてきた。だが、これほどの無力感と焦燥感は覚えがない。
ついさっきまで人あらざる力で夜闇に君臨していたというのに、その急激な落差が恐ろしかった。
燈吾、燈吾、燈吾、燈吾、燈吾、燈吾、燈吾。
誰か助けて、なんでもいい、なんでもするから。嘲笑ったはずの言葉は正しかった。その屈辱を受け容れる、罵倒してくれて構わない、土下座だってする、だからお願い――
実際は半時も経っていないのだろうが、永久にも感じられた。未だ、ぐったりと木の根に身を預けたままだが、呼吸は幾分落ち着きを取り戻していた。顔色はまだ蒼白だが、表情は緩んでいる。
汗で貼り付いた髪を掻き分け、指先を額に触れさせる。自分と同じぐらいのあたたかさ。首筋に手を添え、脈を確かめるが、こちらも正常だ。
燈吾、そっと呼び掛ければ、睫毛を震わせてゆっくり目蓋を押し上げる。明け方、蕾が花弁をふっくり開かせるように。
もう朝かと、月光頼りの山中、燈吾はいつも通りに嘯いてみせた。弱々しい笑みではあったが。その顔を手布で拭ってやる。
起き上がろうとする夫をやんわり押し止めた。
「……ウドの根の薬があるけれど、飲める?」
宴の晩、燈吾が頭痛の症状を訴えてから、迎えに来るはずの夫のために調合していた。だが、先般、安是の薬は毒だ、寒田を殺すと言われていた手前、勧めるのは躊躇われたのたが。
「お前が作ったのか?」
頷けば、なら飲むとあっさり了承してくる。その言葉に、笑いたいのか泣きたいのか、途方に暮れた気持ちになった。暗紫紅が波立つほどに。
気を抜けば緩みそうになる涙腺を締め直し、胸の光が焦げ付くのも無視して呑み込み、立ち上がる。耳を澄ませば、葉擦れの音に紛れ、さらさらと水流の音が聴こえた。
「どこへ行く? 俺を置いて」
歩き出そうとした自分を押し止めたのは、いかにも心細げな子どもの声音だった。先程、一人で黒打掛を取りに戻ると言った台詞は忘れたように。
「莫迦ね、そんなはずない。歌を詠んでくれたでしょう?」
かすみ燃ゆ 焔の娘 我が妻よ 夢も現も 君とあらん――歌を諳んじ、微笑んでみせる。
「薬を飲むための水を汲みに行くだけ」
「俺も行く」
「だめ。休んでいて」
木に背を預けたまま、燈吾は真っ直ぐな眼差しを寄越してきた。大人の嘘を見定める子どもの瞳。かつては自分も持ち得ていたものだったろうか。
ほどなくして彼は眉を下げ、小水か、俺は気にせんぞ、と得心した声を上げたので、額を指先で軽くつついた。
木々がざわざわと身を震わせている。月光が生み出す陰は不安げに胎動し、闇を膨らませた。反対に獣や虫らは息を潜めている。
嵐の前兆か、隠れ里からやってきた災厄を忌避しているのか、それとも。
燈吾を一人残すことには不安があった。下手を打っていると十二分に承知している。だが、なんの手札もないまま愛しい夫を安是に連れ帰るなどできない。
……燈吾を、救いたい。
嵐の晩、川慈宅への道中で芳野嫗に聞かせるともなく、漏れた呟き。紛れもない本音だ。だが、必要とあれば、自分は燈吾の手を離せるだろうか。
否。比翼連理。枝が絡みつき、雁字搦めにして、互いを呪い合ってしまっても、手放す気にはなれない。
だから、手札が要る。悪手であろうと、禁じ手であろうと、圧倒的に強い札が。
水音を辿れば、小さな渓流へと行き着いた。流れの緩やかな淵へと回り、川面を覗くようにして屈み込む。
懐から小さな椀を取り出して一掬い、唇に当てれば痺れるほど冷たい水が喉へと滑り落ちた。燈吾のためもう一掬いと再び屈み込む。満月はいつの間にか中天近く、水鏡を映し出す。
ふっと首筋に生ぬるい風が寄せ、覗き込んだ水鏡が歪んだ。映し出された自身の姿が二重にぶれる。あるいは予言の鏡だろうか。近い将来、己もまた狂うのか――
かすみは落ち着いて振り返った。赤黒毛が暴風に舞い、視界を遮るが、誰が背後に佇んでいるのかはわかっていたから。
――山姫が下れば、山嵐が起きて里を荒らし、女が消える。
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