5-5秋雨

 かしゃり、かしゃり。かしゃり、かしゃり。

 頼りない物音がする。続いて、小さな唄が重なった。こちらも儚げな、ほそい声音だった。

 

 ……いもさん、いもさん、大人になったら何になる

  髪結い、芸者に、カフェーの女給

  いえいえ私は嫁にゆく

  数えの十五になりました

  むかえに来てね、あにいさま……

 

 目蓋を押し上げれば、もう大分見慣れた白木の天井が映った。

 部屋は暗いが、夜ではない。昼の薄暗さだ。ほこりっぽいような、懐かしいような、かすかに甘い匂いが漂っている。

 かすみは重い身体を寝間から引き上げた。全身に倦怠感が渦巻いていた。情事の後とは違うそれ。いや、考えてみれば燈吾と再会したのは昨夜。日こそ跨いでいるが、遠い昔ではなく、特有の気怠さもあるだろう。けれど、あまりに濃密に事が起き過ぎた。

 寝衣のまま、化粧の間へ赴き、続く障子戸を開ける。予想通りの雨模様だ。夜明け前は晴れていたはずだが、ひょっとすると正午ひるを回っているのだろうか。

 秋の霧雨は柔らかに庭を覆い、全ての輪郭をぼかしている。血腥い惨劇があった事実すら。薄衣でも通したように煙った景観は静かで、別世界じみていた。


「お目覚めですか?」


 寝所の戸口から小色が声を掛けてくる。頷けば、ひる三時さんとき近くです、膳をお持ちしましょうか、それともとち餅・・・でんやき・・・・でも――言葉を連ねる小色に、適当にお願いと告げる。

 はい、ただいま。きびすを返そうとする小色に、思い付いて問うた。


「今朝の挨拶伺いは?」


 里人らの叩頭の儀――馬鹿馬鹿しいが、さぼれば後々面倒になる。


「ぐっすりお休みでしたので、僭越ながらお断りしました。川慈さんもご不在でしたし」


 まずかったですか? と不安げに尋ねる小色に、いいえ助かった、と感謝を込めて答える。

 川慈が不在。これは知らなかったが、差し障りがあるわけではない。せいせいする。

 では失礼致しますと退出する小色を見送りながら、実際、良くできた下女だと思う。たとえば、自分が里を出てどこか働きに出たとして、小色ほど役立てるかといえば、自信が無い。娘宿で様々な雑事をこなしてきたが、その貢献度合いは足下にも及ばないだろう。

 もしも、自分が小色ぐらい気の回る娘であったら。〝かすのみ〟と見下されることもなかったろうか――

 たんっと、何かが倒れる音がした。ととと、と軽い音がしたかと思うと再び小色が顔を覗かせる。すねのあたりをさすりながら。すみません、お言付ことづかりを忘れておりましたと息切らせ、


「二輔さんからオクダリサマへとお預かりしておりました」


 と、化粧の間の片隅に置かれていた風呂敷包みを指す。


「二輔さんと仲良くなられたんですね」

「……ええ、まあ」


 小色は完爾と笑った。こちらの心持ちにそぐわず、にこやかに。だからそれ以上追求できなくなる。

 ――では、少しお待ちくださいね、お召し物は化粧の間に用意してあります、先に洗顔をお済ませください――

 床板を踏む軽い音がしばらく響き、今度こそ小色はつまずかず廊下を走っていったようだった。

 かすみは嘆息一つ落とし、身支度に取り掛かった。


 手水ちょうずに行き、顔を洗い、用意されていた黒に近い濃紺地にすすき模様の着物に着替え、赤黒の髪を緩く編む。少し肌寒く、着物と揃えて置いてあった肩掛けを羽織ったところで小色が戻ってきた。

 抱えた盆に載っていたのは、ぜんだいものでんやきと甘酒で、でんやきの味噌には柚子や葱が練り込まれているのか、芳しく、食欲をそそられた。甘酒はたっぷりと用意されており、おかわりを勧められ、小色にも相伴するように言った。

 でんやきは串刺しで、行儀良いとは言えないが、かすみは味噌を舐め舐め二輔が届けてくれた風呂敷包みをほどきにかかった。

 風呂敷の結び目をためつすがめつ見る。結び目は固く、力が込められていた。

 風呂敷、木箱、木屑、そして箱の奥底には何十もの油紙包まれたそれ。箱は深く、入れたまま油紙を剥いているので、向かいに座る小色には中身は見えない。だから、彼女は無邪気に訊いてくる。


「何を頼まれたんですか?」


 二輔さんは、宮市に来る行商や油屋さんとお付き合いがあるから、色々手配してくださいます。この間、半島で採れるというお塩をお願いしたんですが、まろやかで何を作っても美味しくて、少し太ってしまいました。甘酒も実は自分が飲みたくなって作ったんです、もしかしてお気付きになられていましたか――

 小色の無駄話に、ええ、まあ、そう、と相槌を打ちながら、手を動かし、油紙の層をめくりめくり、でんがくも胃袋の中に消えて。


「あんたは、誰?」


 かすみは取り出した黒金の塊――短筒ぴすとるを両手で持ち、小色に差し向けた。





 悪夢とは、眠っている間にみるものではない。そう気付いたのは歳経てからだった。

 背後に感じる気配、ふいに見つめる鏡面、深い悔恨と激しい嫉妬、届かぬ光と途切れぬ想い。日々に寄り添う絶望と恐怖、それが悪夢だ。

 だが生に悪夢があるのなら、稀に一条の光が射す時もある。生きてならばこそ。

 身を灼くものだと知りつつ、けれども手を伸ばさずにはいられない。愚かにも、幸せにも。


「川慈」


 呼ばれて中年男はびくり大きく揺らし、次に目を開けた。狂乱の一夜の後、川慈は後始末をし、芳野を自宅へと送り届けた。寄る年波に勝てないものか芳野は具合を悪くし、川慈は一人暮らしの老女に付き添ってくれていた。

 だのに川慈は恥じ入るように、こんな危局に面目ない、と寝床に横たわる芳野へ頭を下げた。


「そなた、もう帰って休め」

「〈白木の屋形〉には、里男を交代で置いている。あちらは大丈夫だろう」

「そうではない。一度家に戻れと言っている。佐和さわも子らも心配しておろう」


 妻子について口にすれば、川慈は傷ついたような表情をした。その意味はわかっている。

 ……美舟みふねが生きていたなら。

 身内になっていたかもしれない男は、死んだ娘の名を呼んだ。今はもう、忘れられつつある名。季節の巡り、月の満ち欠け、潮の満ち干――巡り巡ってどれも元通りになるのと同様、引き戻される。

 川慈は阿古にそそのかされ、美舟を棄てた。美舟は自らを焼いた。川慈はその罪滅ぼしと言わんばかりに芳野に尽くす。

 一つ息を吐き、問う。

「山姫がおくだりになる徴候はあったか?」

「その気配は一向にない。オクダリ本人にも自覚があるようには俺には思えん」

 実務になれば、塩をかけられた青菜だった意気がしゃんとする。川慈はそういう性質たちの男であった。

 川慈はオクダリサマとしての適性を疑っているようだったが、やはり、かすのみ以外にはありえない。なにしろ、あれ・・の娘なのだから。

 深々とした嘆息が落ちた。己が生きているうちに、妹姫〈寒田の兄〉が現れるとは。


「……水を一杯汲んできてもらえるか」


 ああ、気が付かず、すまん。川慈は己の疲労も脇に捨て置き、水甕に向かう。

 木椀になみなみと水を汲んでくると、芳野を支え起こして椀を口に当てる。半分ほどで、もうよいと唇をわずかに逸らせば、中年男は恭順を見本にしたように芳野をとこに横たわらせた。

 あとで佐和に食事を届けさせる。そう言って立ち上がりかけた男は、しかし再び座り込んだ。


「……ひどく目が霞んでいけない。靄ががかっている」


 外は霧雨が降っている、そのせいだろうと芳野は返答した。半時ほど休んでいくがよい、と付け加えて。

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