4-6閨

 湯浴みを済ませ、寝衣に着替え、寝所を整えさせ、小色を下がらせた。

 灯明は黒ヒ油の燭台一つきりだが、夜目がきくので困らない。黒山を暗紫紅の光で燃やしたあの夜から、身体の色々が変わったように五感が研ぎ澄まされていた。

 男を待ちながら、この七日間について思い返す。

 山姫、妹姫、妹の力、寒田の兄、安是と寒田の盟約、山姫をくだらせもてなす安是娘オクダリサマ。


 ――「さすれば、佐合のことは不問にしてやる。望むならば、寒田の男もくれてやろう」


 そして、芳野嫗の言葉。信じるに値するのか。


 里人は一日に二度、朝夕と〈白木の屋形〉の広間に集まり、かすみに向かって「里をお救いください、オクダリサマ」と叩頭する。それがならいとなっていた。

 絹を纏い、里人に礼を尽くされるのは悪い気はしなかったものの、すぐに面倒になった。オクダリサマと言われても何をすれば良いかわからない。儀礼的に頭を下げられても馬鹿にされている心持ちなのだ。 

 オクダリサマとやらに任じられた翌々日、芳野嫗が寒田へ赴くとの話を小色から聞き付け、出立前の嫗を捕まえ、自分も連れて行ってくれと懇願した。そして殴られた。

 オクダリサマとしての務めも果たさず、この色狂いが、と。烈火の怒りで、川慈と二輔が止めに入った。

 横面を殴られ、顔が腫れたかすみは夕時の里人の叩頭を断った。顔の腫れは半日であっさり引いたが、ふて寝した。

 真実本当に、安是人は、山姫、妹姫、妹の力、寒田の兄、これらを信じ怖れているのか。少なくとも娘宿の同輩にその畏怖はない。叩頭に際し、当然何度か顔を合わせているが、娘らは古老や親に倣っているというだけで、半信半疑なのだ。

 腹立ち紛れに、小色が拵えたとち餅をたらふく食べた。

 とち餅は山で採れるとちの実を使うので元手が少なく米が貴重である山間ではよく作られるが、あく抜きに手間がかかる。娘宿で作ったそれは苦みが残っていたが、こちらはくせがなく食べやすかった。味噌かきな粉を付けるのだが、母親から味を受け継いだという味噌餡は懐かしい味がした。

 元々、小色は山里出身であるが、山里の常で、食うに困り、十で髪結いへ奉公に出されたという。見習いとして師匠についていたが、師匠が若い職人と駆け落ちして途方に暮れていたところ、宮市の斡旋所で下女としての職を得た。おそらくは嫗が、かすみをオクダリサマとして立てるは良いが、今の今までかすみを〝かすのみ〟と蔑んでいた安是娘を下女とするには互いに障りがあると差配したのだろう。金遣いは荒いが賢明な判断ではあった。小色は朴訥で立ち回りは巧くないが、存外、手仕事はそつなくこなす。

 では二輔も宮市の斡旋所で雇われたのかと尋ねれば、彼は小色の前から〈白木の屋形〉に勤めていたという。二輔さんに訊けばどんな捜し物でも見つかる〈白木の屋形〉の生き字引だと。

 本人に訊けば、小色の言った通り、二輔は三十年以上前から〈白木の屋形〉の下男であり、いつ使われるかわからない屋形を管理していたそうだ。

 ――時折忘れられているんじゃねぇかと不安になりましたがね。まあ、お陰様で喰いっぱぐれ、宿無しの心配は無い。山姫サマサマだあ。と、なんとも暢気な様子だった。


「おかわり、召し上がられますか?」

「要らん」


 小色の問いに答えたのは川慈だった。

 〈白木の屋形〉でかすみが根城にしている寝所の戸を唐突に開け放ち無遠慮に言う。


「もう皆集まる。さっさと仕度しろ」


 すみませんすみません、ただちに。小色が慌てて立ち上がるのをかすみは制した。


「今日は無しよ」

「お前が決めることではない」

「こんな茶番、意味が無い」


 かすみは昨日嫗に打たれた頬をわずかに突き上げた。誰もかすみを、オクダリサマを信じていやしないのに、お飾りめいたご機嫌伺いをされるなんて阿呆らしい。


「皆、不安がっている。心の拠り所が必要だ」

「なら、私が里に出向く」

「それは」


 川慈が言いよどむ。芳野嫗はかすみに外出を禁じており、川慈は嫗に忠実だった。苛立たしいほどに。

 外出はするな、山姫をくだらせろ、もてなせ、方法は考えろ。この支離滅裂をどうして受け容れられよう。安是人の不安など知ったことではない。

 め付ければ、中年男は苦いものが喉の途中で詰まったような顔をする。それを飲み下したかと思えば、小色に席を外せと呟いた。


 寝所に二人きり。佐合の前例があるため警戒をする。だが川慈は危険性が希薄だった。手痛い目に遭ったばかり、油断は禁物だと重々承知している。だが、奇妙なことに怯えたふうを見せるは、この図体のでかい男なのだ。今も気まずげに伏し目がちで、感情を逆撫でする。


「芳野嫗がおまえに辛く当たるのは、理由がある」


 そんなことを川慈は突っ立ったまま話し始めた。かすみはさも聞いていないふうに明後日の方を向き、小色が持ち込んだ火鉢から灰に埋めてあったとち餅を取り出して囓る。


「芳野嫗の娘を、阿古が死なせた」


 ちらりと盗み見た川慈の面はいかにも沈痛な面持ちだった。


「いや……正しくは、自死した。阿古が里を出奔する直前――婿取りを宣言しながら誰も選ばなかった年の秋だ。光り昇らせた男が阿古になびき娘を袖にした。娘は自らに火を付け、焼け死んだ」

「だから?」

「お前は阿古の娘だ。嫗はやりきれん」


 仇である阿古の娘に頼らねらばならない悲劇――

 無言のまま、歯形がついた熱い餅を川慈の顔に投げつけた。目から鼻にかけて味噌餡がとろり伝い落ちる。

 その自死した娘の意中の男が誰だったのか察せないわけがない。この安是男は、大馬鹿なのか。いや、安是男は皆、大馬鹿者で、女狂いで、小心なのだ。どうしてそんな輩の罪悪感を肩代わりせねばならない。怒りが一瞬にして燃え上がる。


「安是など……安是など、皆死にすればいい!」


 それは心からの叫びだった。かすのみ扱いされ、阿古を黒沼に沈め、けれど里に馴染めず、蔑まれてきた者の。

 川慈が硬直し、泣き出しそうな顔を覗かせたのは刹那。突如、かすみに覆い被さった。


「オクダリサマっ」


 廊下ですれ違った小色の驚きの声があっという間に遠ざかる。

 川慈はかすみを米俵よろしく担ぎ上げ、床を踏み抜く勢いで〈白木の屋形〉を飛び出した。暴れるが、鍛えられた男の身体はびくともしない。熱望していた数日ぶりの外出ではあるが、こんな形になるとは想定外だった。

 秋の風は涼やかというよりも、肌寒さを感じさせていた。空は夕闇が迫り、気味の悪い灰赤色に濁っていた。

 やってきたのは、里を抜けた黒山へと続く傾斜だった。里が一望できる高み。川慈は草が茂った場所に自分を投げ捨てる。

 見ろ、と川慈は低く言う。どこか厳かに。

 思わず従ってしまったのは、〝かすのみ〟ならではの反射か。いや、それはいいわけだ。川慈の声音には有無を言わせぬ迫力と、己に油断があった。

 眼下に広がるのは、見慣れた安是の里――ではなかった。

 平素ならば、屋根裏から煙が立ち昇り、灯明が漏れ出る時分、ひどく静かで暗かった。里の家屋の三分ほどが半壊していたのだ。巨大な化け物にでも押し潰されたかのように。他の家々も静まり返っていた。娘宿は破壊されていないが暗い。


「〈寒田の兄〉のわざだ」


 かすみはわらった。これは人の手によるものではない。大方、秋の嵐と共に起きる竜巻だろう。

 巨人の膂力、韋駄天の神速、天狗の跳力――そんな者がいるはずなく、天災までも〈妹の力〉〈寒田の兄〉として崇め奉っているだけではないか。

 川慈は小馬鹿にしたかすみの嘲りを怒りはせず、


「俺の目の前で、那鳥は首を刎ねられた。黒狐の面で顔を隠していたが、あれは人だった」


 〈寒田の兄〉だ、うわごとめいて繰り返す。

 黒狐の面……符合を感じないでもなかったが、別段、珍しいくはない。

 那鳥は若衆宿の一人で、調子良く、かしましく、接点のない男だった。もっとも安是男で親しい者などおらず、ここ数日の川慈とのやりとりは、生まれてからの里男との会話量を超えている。


「それでどうしろと言うの。いもしない山姫をもてなせと言われても意味がわからない」


 横顔は生真面目で、憂えているとか、悼んでいるとか、そんな言葉が相応しいのだろう。

 辺りは薄闇、里人は出歩いておらず、目付けは心ここにあらず。

 好機だった。いつでも逃げ出せるよう、〈白木の館〉でくすねてきた櫛や簪、帯留めなどの装飾品を帯に隠している。黒打掛は惜しいが、燈吾に会えるなら構わない。燈吾さえいてくれたら。

 だが。いや、ならばこそ。

 冷えてきから、帰る――かすみは〈白木の館〉へ己の足で向かった。



 翌日、かすみは川慈に佐合の弔いの酒宴を開くと命じ、燐も呼び出して協力を請い、めくるめく宴が催され、今宵で四夜。

 寛がせ、愉しませ、贅沢に溺れさせ、そして餓えかつえさせる。もっともっともっとと。里男を掌握するならば、この手法が手っ取り早い。

 一人に味見させてやれば、餓えた男らは、我も我もと群がり、なんとも他愛ない。

 と、寝間の空気が揺らぎ、燭台のさやかな灯が消えた。代わりに人の気配が灯る。 

 そして、かすみ自身も、期待に胸から暗紫紅の光がくゆる。そのあっさり光り濡れる様に、自分はどうしようもなく安是女なのだと思い示された。唾棄するほどに忌まわしいさが。同時に男を惹きつける誉れでもあり、どうせならば愉しみ活かさねば。

 ひゅっと。風切り音がして、胸元に銀の光が射る。ちょうど、阿古のような何かにつけられた爪痕の、その直前。


 一つ、二つ、三つと青白の蛍火がさまよい現れ、銀光――刃を照らし出す。


 かすみは自身の状況を悟った。胸元に刃を突きつけられているのだ。閨に入り込んだその夏草の香の男に。


「他の誰ぞに光れば、殺してやる……そう言ったろう?」

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