2-4忌み名

 阿古あこ。その名が安是の空気を震わすのは一体、何年ぶりか。

 ――この光、鎮められるのは貴方だけ。

 かすれた声で、潤んだ瞳で、震える唇で。

 千年に一度の逢瀬を果たした恋人に告げるように女は囁いた。耳に吹き込まれた吐息までが甦り、身震いする。甘い甘い、悪夢。


あずま一の美姫だ」


 そう断言したのは川慈かわじでなかった。振り返れば、佐合さごうは顔色一つ変えず、さも当然というふうに。

 那鳥なとりが口笛を吹く。川慈は佐合を見つめた。

 佐合は妻帯していない。川慈はその理由を知っていた。というより、里で知らぬ者はいない。

 待っているから。待ち焦がれているから。佐合の眼差しが青年であった頃の彼のそれと変わっていないことに今更ながら気付かされる。


 そう、あれは東国一の美姫。

 だが、同時に悪鬼のごとき性分だった。


 川慈は心中で付け加えて苦々しく思う。自分と同世代の男で、阿古の肌を知らぬ者はいない。阿古は男狂いだった。そして、男は皆、阿古狂いだった。安是の女は恋をすると光る。阿古は、燐のように塗粉など使わずとも、どの男の前でも光ってみせた。それが阿古の特異な体質なのか、あるいは全ての男に多少なりと恋情を抱いていたのか――それもある意味特異だが。

 誰の前でも衿を掻き開き、光を昇らせた肌をあらわにする女。わかっていながら、男は阿古を拒めない。川慈とて、竹馬の友が阿古に心底惚れていると知っていても、拒めなかった。そして阿古は、そんな男たちの懊悩を面白がっており、必要以上に川慈にちょっかいをかけてきた。

 だから、阿古が婿をとると言い出した時、男も女も皆、安堵したのだ。これでもう男は無駄な恋心を、女は無益な嫉妬を燃え上がらせる必要はないと。

 もっとも、男を弄ぶ悪女に、里娘たちが耐えかねて、せめて誰か一人を選べと詰め寄ったというのが真相らしいが。男である川慈には、実際にどんな話し合いが、あるいは実力行使がなされたのかはわからない。……わかりたくもない。

 

 ともかく、阿古は婿をとると宣言した。

 しかし、阿古は阿古。生粋、希代の悪女だった。婿を取ると言ったものの、一向に相手が誰かは明かさない。男たちの間でも探りが入れられたが、阿古と誓いを立てたと白状する者はおらず、皆、疑心暗鬼に陥り、小競り合いが起きた。

 しびれを切らした里娘の一人が本人に問えば、秋祭までは明らかにしないと、ぬけぬけと言い放ったのだ。

 その年、若衆たちは阿古に選ばれたい一心で、他の娘の光を袖にした。娘たちは袖で涙を拭い、阿古はその涙を酒に、人々が自分に翻弄をされるさまを肴にして、心から楽しんでいた。

 川慈自身も二人の里娘に光を募らされていたが、阿古に心が向き、応えられなかった。自分が選ばれるという自惚れがあったわけではない。選ばれたら選ばれたで、地獄の苦しみが待っているのも理解していた。それでも当時は、鮮烈な赤光しゃっこうをくゆらす女を諦めきれなかった。艶然と微笑み、白い肌に赤い光を纏い、圧倒的な美しさを湛えた。その光がまったくの嘘だとは信じられなかった。なんとも青臭いことに。

 なんの実りもないまま秋が近付き、突然、阿古は姿を消した。けれどやはり阿古は阿古。彼女は〝呪い〟という置き土産を里に残した。

 川慈に光を募らせた二人の娘のうち、一人は今の女房となり、もう一人は自らに火を灯して死んだ。呪いは今も川慈の胸に燻り続けている。川慈だけでなく、十九年前、若衆だった誰の胸にも。


「〝かすのみ〟は阿古に似てるのか?」


 〝かすのみ〟と言われて、川慈は一瞬誰のことかわからなかった。〝かすのみ〟――かすみ。里を出て一年後、戻った阿古が産み落としたあの赤黒の髪の鬼子。

 顔を思い出そうとするが、ぼんやりとして像を結ばない。無愛想で、かわいげ無く、人の目を見ようとしない娘。いや、結局はこちらが直視しないのか。あの娘は、悪夢の落とし子だから。おそらく、同年は皆、川慈と同じ思いだろう。あの娘を無かったことにできたなら。だが一人、佐合だけは違っていた。


「阿古と〝かすのみ〟は似ていない」


 佐合は断言する。反射的に見やった幼馴染の鉄面皮には少しの迷いもない。

 佐合は、阿古の信奉者だった。女神のごとく、阿古と赤光の美しさと奔放さを崇め奉っていた。元来、無口な職人気質で、阿古が他の男と寝ていても、責めることも離れることも諦めることもない。いつかは自分の元へ帰ってくると疑わず、待ち続けている。

 十九年前、阿古は姿を消した。その一年後、阿古は里へ戻ってきたが誰の種か知れぬ子を孕んでおり、気が触れていた。その子を産んで八年後、ますます狂った阿古は再び姿を消す。いずれの時も佐合の心は阿古から離れなかった。今も。

 

 一時半いっときはんほど経ち、隈笹が山肌を覆い始めた。先頭を佐合が行き、後ろから提灯を照らしつつ、隈笹を掻き進む。茂みを抜けた先は、ブナの巨木に囲まれた黒沼だった。

 今夜は雲が夜空を覆い、月も星も見えない。風も止んでいる。その分、ぬるく甘い臭気が立ち込めていた。

 何もかもが静止したような夜だった。


「……誰もいないな」


 川慈は周囲を見渡した。黒沼は一枚板のように、ただ黒く滑らかな水面を広げていた。

 しばらく沼に沿って歩くが、特に変わった様子は無い。寒田が来ていないのなら、それにこしたことはなかった。 

 川慈はあくびを噛み殺す。もう若くはない。徹夜はごめんだ。女房が温めている布団に潜り込みたい心地になった。


「佐合、何か見つけたの?」


 わ、すげえ。川慈とは反対周りに探索していた二人が騒いでいる。いや、騒いでいるのは那鳥だけだが。

 早足に沼を迂回する。だが、実際に声がした方向へ行けば、何も変わったところはない。それどころか、二人の姿も消えていた。

 と。いきなり袖を引かれたかと思えば、身体が山肌へ沈み込む。葉やら枝やらに頭から突っ込むが、なんとか踏ん張り、転倒は免れた。ぺっと口に入った羊歯の葉を吐き出して顔を上げれば、そこは小さな草庵だった。

 提灯の明かりに照らされて、中の様子が見て取れる。佐合はしゃがみ込み、那鳥は落ち着き無く狭い室内を歩き回っていた。

 枝葉と筵で隠された庵。質素な夜具が置かれ、整頓されている。荒れ果てた、という形容は当てはまらない。数日内のうちに誰かが使用していたのは間違いない。


「……寒田か?」


 舌打ちが出た。厄介なことになった。十中八九、寒田の向こう見ずな若者だろう。

 あちらの長は何をやっているのか。毒づくが、届くはずもない。二年前から同年の代表として寄り合いに出席している川慈は、ある程度、里のまつりごとを把握している。

 至急、里へ戻り、寄り合いを開かねばならない。寒田を黒沼へ、ひいては安是に近づけてはならない。

 川慈は佐合に声を掛けた。だが、佐合はしゃがみ込んだまま動かない。

 厳つい肩に手を掛ければ、佐合は唐突に立ち上がり、


「……俺は先に帰って報告してくる。お前たちは、寒田が潜んでいないか周辺を探ってくれ」


 言うが早いが、大股で出て行ってしまう。残った川慈と那鳥は顔を見合わせた。


「どうしたんだ、あいつ?」

「さあ。なんか落ちてるのを拾ったみたいだったけど」


 川慈は足元を見るが、これといったものは見当たらない。もっとも、佐合の細工職人の眼力に適うはずはないが。

 提灯の灯を消してからしばらく待ち、二人は用心しいしい外へ出た。黒沼には人気が無いが、さっきより周囲が薄明るく浮き上がっているように見えた。

 見上げれば、雲間が切れたのか、青白い星がいくつか浮かんでいた。ぬるい空気が満ちているにしては、星明りが眩しい。と、星の一つがすぅっと動き、横の星を追い抜いた。


 ――星ではない。蛍火?


 沼の対岸を見据えると、無数の蛍火に照らされ、人影が佇んでいるのがわかった。こんな山里では珍しい、書生風の袴姿。顔は見えない。黒い面――黒狐だろうか――を被っている。

 書生の周りには、無数の蛍火が舞い踊っていた。寒田の鬼火。

 那鳥の動きは速かった。川慈が促すよりも先に、岸を駆けて猟銃の射程内へと移動する。

 蛍火で相手の目印には事欠かない。那鳥は馬鹿だが、銃の腕はべらぼうに良く、度胸もある。人を撃つことへの躊躇いがない。

 寒田の書生は、こんな夜更けに安是が待ち構えているとは思ってもみなかっただろう。

 那鳥の足音が消えた。射程内に入り、構えたのだ。協定を破ったのはあちらが先だ。見せしめが必要だった。だから川慈は血気盛んな若者を止めない。

 だが、銃声はいつまで経っても響いてこない。次の瞬間、川慈は信じられないものを目にする。

 書生が黒沼の水面・・を走った。青白の蛍火を引き連れ、那鳥へと一直線に。そして、銀光が一閃ひらめき、ぼちゃんという間の抜けた水音がした。

 蛍火に照らされた薄明かりの中、まなこに映ったものを整理すれば、那鳥の首がねられ、飛んだのだ。

 書生が蛍火を引き連れ、川慈へと歩み寄る。蛍火は、あるいは人魂か。だとしたら、那鳥分、一つ増えたに違いない。


妹姫いもひめの名の下に告ぐ。全ての安是男に、死を」


 ――妹姫。いもの力。それは安是にとって忌み名だ。川慈は自分たちが何と対峙しているかを悟った。

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