冬の銘仙

増田朋美

冬の銘仙

その日は、本当に冬とわかる寒い日だった。そんな日でも、勤めに行く人は勤めて、そうでない人は、休むわけだ。仕事は楽しい人もいれば、そうではない人も居るだろう。それでも、時というものは、本当に虚しいもので、人になにか言われなくても、楽しくても絶え間なく流れてしまうものである。人というのは、ときに楽しいものになったり、ときに悲しいものになったり、色々するんだけど、いずれにしても、本来はさほど強くないのかもしれない。

その日も、中澤病院の女性医師、中澤真衣は、いつもどおり、医者として病院の診察室へ行った。どうせ、この病院に来る人なんて、あそこが痛いとか、ここが痛いとか、変な濁声で訴えかけるお年寄りばかりなのだ。どうせここは老人病院と言われてもしょうがないと思われるほど年寄りばかりやってくる。そしてそういう年寄に限って、もっと生きたいとか、そういうところも多いのである。でも、家族の人に話を聞くと、もう生きていなくても良い、という人が圧倒的に多い。みんな、年寄から、なにか話を聞くとか、そういう話は絶対しない。どちらかは早く死んでほしい、どちらかは、子供が心配なので、生きていたい、そういう声ばかり聞いていた、中澤真衣は、うちの家は、代々病院をやっていて、素晴らしい家なのかもしれないけれど、真衣は、その家を、好きにはなれなかった。年寄りばかり相手にして、何になるんだろうと思うけれど、まあ、自分のしごとは、ぐちばかりいう年寄に、薬を出して、それを出すのが仕事なんだなと思い込んで、一生懸命年寄りの相手を続けていた。

今日の診察は、ずっとお年寄りばかりだった。まあ、内科だし、午前中であるから、お年寄りばかりであるのは、言うまでもない。お年寄りたちは、どこにも異常が無いのに、腰が痛いとか、足が痛いとか、そういうことを、大変悲しい顔で訴えてくる。ときには、彼らと一緒に、若い家族が着いてくることもある。お年寄りの中には、耳が遠くて、こちらの言って居ることがわからない人も非常に多い。だから、薬のこととか、いくら説明しても、何もわかってくれないお年寄りもいて、時には、メガホンでもつけないと、聞こえないのではないかと思われるくらい耳の遠い人もいた。

そういう人たちをたくさん相手にして、もう疲れてしまったと中澤真衣が大きなため息を付いたとき、

「中澤先生。今、先生に見てもらいたいという患者さんが来ているんですが。」

不意に、看護師が、彼女の居る診察室にやってきた。

「はあ、どんな人物なんですか?」

真衣がそう答えると、

「はい。それが、太った女性が背負って連れてきたんです。かなりつらそうではあるのですが、何でも、今どき珍しく、着物なんか着て、一体何をしているんでしょうね。」

看護師は、つっけんどんに言った。

「そうなると、またお年寄りかしらね。もしかしたら、100歳とか、そのくらいの年かしら?」

真衣が聞くと、

「それがそうじゃないんですよ。現在、45歳だそうです。弱々しい感じですけど、とってもきれいな人ですよ。なんか、映画俳優みたいで、先生のとしだったら、ちょうど似合うかも。」

中年の看護師は、そういうのだった。真衣は、もう仕方ないわねという顔をして、とりあえず彼をお通しして、と看護師に言った。

「じゃあ、先生から許可が出たので、お入りください。立って歩けますか?」

看護師がそう言うと、一緒にはいってきたのは、水穂さんを背中に背負った、榊原市子だった。力持ちで有名な市子は、走ってきたと思われるが、全くつらそうな顔をしていなかった。彼女は、背中に背負った水穂さんを、診察室に設置されている、寝台の上に寝かせた。

「ごめんなさい。もうつらそうだったので、勝手に寝かせてしまいました。今朝、すごく咳き込んで苦しそうだったんで、あたしが連れてきました。皆、見てくれないって、反対していたんですけど、先生であれば、見てくださいますよね?先生であれば、同和問題の事を無視したりしないでしょう。ですからお願いします。彼を楽にしてあげてください。」

市子さんは、早口で言った。同和問題とはなんだっけと、真衣が一生懸命思い出して居ると、水穂さんが、寝台に寝たままえらく咳き込んだ。それと同時に、口元から、赤い液体が漏れてきたので、真衣は自分がどこで何をしているのか、わからなくなってしまう。水穂さんの着ているものは、紺色に、紅葉を大きく入れた銘仙の着物だった。真衣が着物のことなんて全くわからないけれど、今どき着物を着て、病院にやってくるやつなんて、いないのではないかと思っていたから、真衣は今どき何だと思ってしまったのだった。

「とりあえず、吸引器取ってきて。吸引して。」

真衣は、看護師に指示をだした。看護師たちも、いきなりこんな人がやってきたので、びっくりしてしまったようだ。はじめは何事だという感じで、患者を眺めていたが、

「ほら早く!」

と真衣が言ったため、看護師はすぐに吸引器を取りに走っていった。

「水穂さん、もう少しだから、頑張って、今楽になるからね。頑張って!」

と、市子は、水穂さんに声をかけている。

「大丈夫ですよ。今は、昔のように怖い病気じゃありませんから。あとは、薬物療法と、しばらく入院して様子を見てみましょうか。それでは、中央病院に搬送する手立てをとりますから。ちょっとお待ち下さいね。」

真衣は普通の人に対して普通の医者がする処置を言った。こんな町医者では、直に患者の治療はしない。重度な患者は、中央病院のような救急施設にある、医療施設に送るのが当たり前である。

「ちょっとまってください!」

不意に市子が言った。

「ここで薬は貰えないのでしょうか?中央病院に配置するのではなくて、ここで点滴うつなどして、なんとかしてもらうことはできないんですか?」

「そんな事、できやしませんよ。それより、大規模な病院に行きましょう。そっちのほうが、ちゃんと治療してくれるはずですから。」

当たり前のことを、真衣はいった。

「ですが、水穂さんは、その様な事はできません。水穂さんを、しっかり治療してくれるどころか、大病院は水穂さんを放置して、死なせるだけですよ。それでは、行けないんです。だから、ここでやっていただきたいんです!」

市子が、真衣に突っかかる様に言うので、真衣はびっくりしてしまった。

「できないって、どういうことでしょう?あたしたちは、当たり前のことをしているだけです。」

「吸引器、持ってきましたよ。」

と、一人の看護師が、診察室にやってきた。今度やってきた看護師は、定年間近、あるいは、もう定年して嘱託として働いているのかもしれない、年を取った、悲しい感じの看護師だった。

「とりあえず、吸引しましょう。西澤さん、こちらの患者さんに吸引器を設置してください。」

真衣はその人にいうと西澤さんは、はい、わかりましたと言って、水穂さんの咳き込んでいる口をそっと開けさせて、そこに吸引器のチューブを入れた。吸引器は、入れると大変苦しいものであるが、西澤さんは、手先の器用な人だったらしく、静かに挿入してくれた。そして、吸引器のスイッチを押す。ずぶずぶずぶと、吸引器のチューブを、鮮血が通っていく。それを眺めるのは、医療関係者でないとできないとされるが、市子は、真剣な顔をして眺めていた。やがて、たまりすぎていた血液は取れたようで、真衣は吸引器のスイッチを切るように言った。西澤さんは、そのようにして、口からチューブを丁寧に抜いた。

「お願いします。どうか大病院に搬送はしないで下さい。当たり前の事かもしれないけど、それができない人も居るんです。」

市子がそう懇願すると、

「一体どういうことなんですかね。当たり前のことができないって、それはどういうことなんでしょうか。誰だって、みんな医療を受ける権利があるはずだし、治療費が高額なら保険にはいることだってありますよね。それもしていないんですか?そんな事、誰だって当たり前にすることでしょう。それが、できないなんて、一体どういうことかしら?もしかして、社会保険にも、国民保険にもはいってないの?」

と、真衣は馬鹿にする様に言った。

「はいってません!」

市子は、でかい声で言った。

「はいってない?じゃあ、海外出身とか、そういうことかしら?」

真衣がとぼけた顔で言うと、

「でも、私達は、水穂さんが入れない理由を、口にして言うことはできませんよ!」

と、市子は、つらそうな顔で言った。

「まあおかしいわね。今どき珍しいというか、変な人だわ。本当にお金も保険もないなんて、今どき何を考えているのかしら?」

真衣はどうしても、市子の言うことが現代に当てはまらないと思ったのであるが、

「先生。それ以上追求するのはやめましょう。可哀想ですよ。それより帰りの交通手段とか、そういうものは大丈夫なんですか?」

おばあさんの西澤さんが、そういうことを言った。

「ありがとうございます。今日は保険証がないので、ちゃんとお支払いしますから、大丈夫です。」

「じゃあわかりました。受付に言ってくださいね。」

市子がそう言うと、西澤さんはテキパキと答えた。そのうちに水穂さんが目が覚めてくれた。市子は、また水穂さんを背中に背負って、

「ありがとうございました。」

と、深々と頭を下げて、診察室を出ていった。

「はあ変な患者が居るものね。何者なのかしら。全く、保険証も無いなんて、どういう事?働いてないのかしら。それとも、誰かに養ってもらっているとか?」

真衣は、呆れた顔をしてそう言うと、

「いえ先生。そういう病気の人がまだ居るんですよ。銘仙の着物でないと、いられない人がまだ居るんですね。あたしが子供の頃には、まだいましたよ。先生くらいの年代だと、全然、そういう人とあわないかもしれないけど。」

西澤さんがなんだか懐かしそうに言った。その言葉がなんだか意味深そうであったので、真衣は、

「ふーんそう。」

とだけ言っておいた。その後は、もう午前中の患者の受付時刻は終了してしまったので、真衣は、水穂さんたちの姿を見ることはなかったけれど、でも、あの二人の事は、どこか心に引っかかるものがあった。

その次の日。真衣の病院は休みだった。まあ、よほど急患でも来ない限り、開業医は、日曜日に休みということが多い。真衣も休みだった。なんだか、休みの日は暇で暇でしょうがない。なんとなく思い出したことがあって、真衣は近くの図書館にいってみた。もちろん、高級車に乗って。

図書館に行くと、真衣は民族衣装のコーナーに行った。そこに着物の本がいくつかある。その中に、着物の種類について書かれている本があったが、銘仙という着物に着いて書いてある本は一冊もなかった。図書館に付属しているパソコンで、本の検索ページを開いて、銘仙と入れてみると、一冊だけ著書が見つかった。それを、職員の人に持ってきてもらった。随分古い本であったけど、内容は読めた。その本によると。銘仙という着物は大正時代から昭和のはじめに大ブームを引き起こした着物であることは間違いなかった。しかし、銘仙というのは、もともと大変貧しい人たちが、自分用に作っていた着物がルーツになっているので、その様なことから、貧しい人が着るものと偏見を持たれているという注意書きもちゃんと書かれていた。本によれば、銘仙を、礼装として使ってはいけないと書かれていたが、真衣の視点では、礼装としても良いのではないかと思われるほど、派手で大胆ながらつきの着物であった。なんで、室内着としてとどめて置く方が安全なのか、よくわからなかった。とりあえず、なにか参考になるかもしれないので、真衣はその本を借りて帰った。

帰り道、彼女は、暇だったので、レストランで食事をした。その隣に、着物のグループらしく、三人の若い女性が、着物を着て、テーブルを囲んでいたのが見えた。もちろん彼女たちが、何という種類の着物を着ているのかよくわからなかったけど、その一人の女性に、真衣はこう尋ねてみた。

「ねえねえ、あなた達、着物を着ているようだけど、銘仙っていう着物を知ってる?」

「はい知ってますよ。」

「明るくてかわいい着物ですね。」

彼女たちはすぐに答えた。若い人には、そういうふうに銘仙を、肯定的に考えて居るようである。

「でも、道を歩いていたりすると、時々変なおばあさんに、銘仙を人前で着ないようにとか、注意されることもあるんで、私は、着ないようにしているんです。」

と、一人の女性が言った。

「着てるときって、銘仙を?」

真衣が聞くと、

「はい。あたしも、着てみたいと思いましたが、どうも、お年寄りには、差別的に扱われてしまうようでして、なんだかお年寄りは、銘仙を着ることが恥ずかしいと思っているのか、それともやっては行けないような顔で見られるんです。」

と、別の女性が言った。

「私は、祖父と暮らしてるんですけど、祖父は、私が銘仙の着物を通販で買ったとき嬉しくないようでした。なんでも私が買うと、良いよ良いよと言ってくれる優しい人なのに、なんでそんな顔するのか、わかりませんでした。なので、良くない買い物をしてしまったのかなと、後悔しているんです。」

三番目の女性がそういった。

「そうなんだ。じゃあ、ちなみにあなた達が着ている着物は、何という着物なの?」

真衣が聞くと、

「私は、正絹の着物を着ています。それが一番無難なので。」

と、はじめの女性が言う。

「こちらはウールですね。彼女もウールです。寒いときなんで、ウールがきやすいかなと思いまして。確かに暖かいし、今の季節にぴったりですよ。」

二番目の女性が三番目の女性の着物を指さしていった。

「じゃあ、銘仙の着物を日常的に使っては行けないとあなた達は思っているのね。実際、銘仙の着物を着て生活している人を目撃したことは?」

真衣は核心を切るつもりでそう言ってみた。

「ありません。」

「私もありません。可愛いけど偏見があるので、みんな着ないんじゃないですか?」

一番目の女性と、二番目の女性はそういうのであるが、

「私、一度だけ見たことがあります。」

と、三番目の女性が言った。

「素晴らしくきれいな男性の方で、あの柄は間違いなく銘仙だと思いましたから、すぐわかりました。紺に葵柄の銘仙の着物だったと思います。」

「その方はどこにお住まいなのか、ご存知ありませんか?」

真衣がすぐ聞くと、

「はい。そういう特徴的な柄だから、なんとなく覚えているんですが、富士山エコトピア行のバスに乗っていたので、そこの近くかもしれません。」

と三番目の女性は、そう答えた。良い情報を得た真衣は、

「どうもありがとう。着物ライフ、楽しんでね。」

と言って、すぐにお皿の中身を食べてしまうと、富士山エコトピアにカーナビを頼りのに車を走らせた。とりあえず富士山エコトビアのバス停付近に車を止めて、その当たりを銘仙の着物を着ている人が現れないか偵察した。すると、一人の車椅子の男性が、近くにあった、日本風の建物から出てきたので、

「ちょっと、ちょっと!」

真衣は彼女に声をかけた。

「すみませんちょっと教えてくれます?この辺り、銘仙の着物を着た人はいらっしゃいませんか?」

「はあ。それがなんのようだと言うんだよ。」

その男性、つまり杉ちゃんは真衣の顔を変な目で見た。

「いえ、私、中澤病院のものですが、こないだ、銘仙の着物を着て来院された患者さんがいて、私、随分彼にひどい事を言ってしまったので、謝りたいんです。」

真衣はこの時点でやっと、自分がなぜ、彼に会いたいのか、要件が固まった様な気がした。

「それでは、お前さんはお医者さん?医療従事者が、謝りたいと言ってくるのは珍しいね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「市子さんから随分ひどいことを言われたと聞いて居るんで、謝られても困るなあ。」

そう言われるのも覚悟していた。多分人権にうるさい人だったら、そう言うかもしれないと思った。

「ええ、それでも、お願いします。一度会わせてもらえませんか。あたし、あのあとで、随分ひどいことを言ってしまったなと考え直しました。本当は、あたしが、人種差別などしては行けないのに。」

「はあそうか。じゃあ、良いよ。入れ。」

と、杉ちゃんは、真衣を建物の中に入れた。段差も何もない建物だった。上がり框も無いので、車椅子でも平気で出入りできるのがすごいと真衣は思った。そして、長い廊下を渡って、一番奥の部屋へ行く。

「水穂さんちょっと起きてくれ。こいつがお前さんに謝りたいんだって。なんでも、中澤病院とか言うところの医者らしい。」

と、杉ちゃんは言った。真衣は、その部屋に通された。そこには先日お会いした、あの美しい男性が布団の上に座っていた。改めて、美しい人であったけれどげっそりと痩せていて、顔は髪より白かった。やっぱり、銘仙の着物を着ていたので、真衣はちゃんと謝らなければだめだと思った。

「ごめんなさい。あのときはひどいことを言いました。医者として申し訳ありません。お許しください。」

真衣は深々と頭を下げて謝罪した。

「まあねえ。医者に謝られても困る。同和問題についてほとんど知らないでしょう。そういうやつだから、きっと自分ばかりが良くなるように育ってきていると思うよ。そういうやつに、水穂さんのことがわかるかなあ?」

と杉ちゃんはそう言っているが、水穂さんは小さな声で、

「結局のところ、僕は銘仙の着物しか着られないんです。」

と言った。それがなんとも重いセリフで、真衣は水穂さんの顔を見ることができなかった。なんだか、自分より、もっと辛い過去を持っている人物が初めて目の前に座っている様な気がした。

「これからは、そういう人も居るんだって、ちゃんと頭の中で考えてから、医療をします。それは誰でも同じだと思わないと、私が天狗の様な存在になってしまう。それじゃいけないですよね。」

外は寒かった。銘仙の着物一枚では寒いだろうなと思われるくらい寒かった。冬らしく、冷たい風が、庭を吹き荒らしていた。





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冬の銘仙 増田朋美 @masubuchi4996

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