第20話 ソウと莉蘭

 ソウは顔を強ばらせていた。彼の視線は強く、怒りの感情が込められている。だが莉蘭は、彼の怒りで感じる恐怖より、詫びたい気持ちでいっぱいだった。

「済まなかった。どこか街へ出るまで一緒にいてくれるとありがたいが、そうしたくなければここで別れる。私を気遣う必要は」

「整わせたい体裁もなくなったから、だからもう遠慮せず俺から離れたいか」

 最後まで言う前にソウが莉蘭の言葉を遮った。ソウの言い分を莉蘭が解する前に、彼は半ば吠えるように言葉を吐いた。

「駄目だ。お前は俺の子を宿しているかもしれない。それが分かるまで俺は絶対にお前の傍を離れない。それにな。もしお前が孕んだなら、それは俺の子でもある。俺が父親だ。俺がお前と子を守る。お前が嫌がろうが知ったことか」

 莉蘭は途方に暮れてしまった。それはそうだ。彼は、力のないものにも見返りなど求めず、手を差し出してくれる高潔なひとだ。だからこそ惹かれ、彼のようになりたい、彼にふさわしい人になりたいと願っていた。

 目の前の、ソウの姿が霞んだ。双眸から涙が流れていく。泣く莉蘭を見て顔色を失ったソウの、彼の負担にだけはなりたくないと、莉蘭は歯を食いしばった。

「済まない」

 莉蘭は両手で覆った。

「本当に済まない」

「何を詫びている」

 ソウの声は戸惑いと怒りとが混じった複雑なものだった。莉蘭は嗚咽を混じらせ首を振る。

「あなたが望んだ帝の血を継いだ子を、もうあなたに産んであげられない。楚の帝の血はもう絶えて何の価値もなくなった」

 莉蘭の苦悩そのものを吐くような告白を聞き、ソウは瞠目する。愕然とした表情で莉蘭を見た。

「お前は、それが理由で俺を招き受け入れてくれたのか?」

 ソウの声が震えていた。まるで彼らしくない弱い姿を莉蘭は見る。

 莉蘭はまた左右に首を振った。

「私があなたを受け入れたのはあなたを好いているからだ」

 はたはたと頬から涙が零れて落ちていく。

 この男と会ってから泣いてばかりだと莉蘭は思う。莉蘭の全てを奪った男。体も感情も──ひとを愛おしいと想う莉蘭の心も。

「花街で初めて会ったときからあなたに惹かれた。降嫁が決まり誰とも知れぬ男と添うなら、せめてあなたのような人ならと願った。演武会で紫辣と戦うあなたに絶対に勝ってほしいと祈っていた」

 目を閉じても、頭にはソウの、笑った顔や戦う姿、凜とした立ち居振る舞いが浮かぶ。

「あなたの傍にいられるのが嬉しかった。笑ってくれるのも、話をしてくれるのも高潔な優しさも、あなたの全てが好きだ。あなたが私に子を産んでほしいだけだとしても、私はあなたの情けが欲しかった」

「莉蘭」

「済まない」

 ソウは左右に、だが緩慢に首を振った。

「私があなたにあげられるものは、あなたの望みであった帝の血を継いだあなたの子だけだったのに……」

「違う!」

 その否定と共に莉蘭はソウの腕に抱きしめられていた。

 二度と得られないと思っていた温もりを感じたが、その後に訪れる別れを思うと身がねじ切られそうなほど辛い。莉蘭はソウの背に手を回して泣き続けた。

「ソウ、済まない」

「莉蘭、それは違う」

「……ソウ、済まない」

「違う。莉蘭、聞いてくれ!」

 強く請われ、莉蘭はソウの背に回した手を彼の腰まで下げた。ソウもそれに合わせて、莉蘭の背に回していた手を彼女の後頭部に添え上を向かせる。

「悪かった。あれは……ほとんどが俺の本心ではない」

「ほとんど?」

 ソウは目を伏せた。悔恨が深い表情に、まるでまずそうして詫びているようにも見えた。

「俺の子に帝の血が入るのかと思ったことは確かだ。だがそれはお前に会って、単に結果そうなるのだなと思った程度のことだ。そもそも俺はお前を娶るつもりがなかった」

 莉蘭が息を飲んだのを見て、ソウは莉蘭を抱えている手を撫で動かした。

「俺が演武会に参加しようと思ったのはお前が欲しかったからじゃない。皇族のやつらを嘲ってやろうと画策して名乗りを上げた」

「……あざけり?」

 莉蘭は分からないといって首を振る。

「単純に腕試しがしたいと思ったのもあった。参加してそれで運良く最後まで勝ち残ったら、褒美の皇女の前で俺には家がないとか勿体な過ぎるとか、適当なことを言って振ってやろうと計画していた。言っただろう。俺はお前を誤解していて、生まれ持った特権を歪んだ欲に使っている最低な姫だとあのときは思い込んでいた。民に淫乱な皇女と広められ外交の駒にすら使えぬ女を、降嫁など体裁を繕ったつもりかと。民を愚弄するのも大概にせよと苛立っていた。だから恥をかかせたいと思った」

 思いもしないことを暴露され、莉蘭の涙は止まった。

「だが御簾の向こうから現れた皇女は、……お前は、そんな俺の見栄を全て凌駕する美しさで、俺は一瞬でお前に魅了された。それが悔しく、しかも勝手な思い込みでお前を最悪の姫だとも思っていて、そんな女と知っているのに抗えない自分の意思の弱さにも腹が立っていた。その怒りを全てお前にぶつけた」

 ソウはその時の己を思い出したようで眉根を盛大に寄せた。

「あのときは本当にお前に済まないことをした」

 真一文字に口を結ぶソウの中に苦い悔いが広がる。

「頭に血が昇っていた。裸体のお前を見て……お前が心も体も清廉な女だと判って、それを奪うことしか考えられなくなった」

 絞り出される声の悔恨が深い。莉蘭も彼の苦痛を共有したように感じ、眉を寄せた。

「俺の姉のことが頭に浮かんで、少しだけ我に返って、お前を奪ってしまう前に、一度離れなければと思ってあの庵を去った。二度と会いたくないと言われても会って詫びたかった。お前は会ってくれ……だが演武会に出た理由をお前に問われたとき、こんなことを言えないと思った。益々嫌われるのが怖かった」

 莉蘭は目を見開いた。

「だからああしてごまかした。あの失態のあとも俺に会ってくれるお前に付け入って、俺はお前に好かれるように努力したんだ。あれでも」

「え」

 莉蘭は事態についていけず、ただソウを見た。

 そのとき東から日が昇った。さあっと日が射し、ソウの目に深い青が現れたのを莉蘭は見た。

「……ソウ」

「俺は莉蘭、お前が好きだ。お前の高潔な生き様を誇らしく思うと同時に、お前の背負う重荷の全てを俺も共に負ってお前を守りたい」

 呆気ない言葉の中に情愛と、わずかな欲さえ潜ませ。

 絶対に逃がさないと、早朝の空を映したような深い青眼が、莉蘭に声高に訴えている。

「皇女とか帝の血の入った子が欲しいとかそんなことは関係ない。俺は花街で顔も知らない女に心を奪われた。同じ女に、次は正面切って顔を見て完全に骨抜きにされた。同じ女に二度惚れた。今更何があっても離れてやる気は全くない」

 まだ呆然としている莉蘭の、わずかに開いた唇をソウは塞いだ。もう一度、莉蘭の顔を見る。

「莉蘭。俺は一生お前の傍でお前を守って生きていきたい。妻として付いてきてくれないか」

 朝の淡い光のなか、莉蘭はソウの求愛を聞いた。

 嗚咽を漏らし、莉蘭はソウを見上げた。涙でにじんだ姿を。黒の髪を流した黒装束の雄々しい莉蘭の夫を。

 愛する男を。

「行く」

 やがて莉蘭は、少し震えてはいるがしっかりした声でソウに応えた。

「いっしょに、あなたと一緒に行く、どこまでも、ずっと」

 ソウは莉蘭の目に伝う涙を拭った。

「ありがとう」

 ソウは静かな声で感謝を述べ、再び莉蘭の背に手を回し宝物を抱くように優しく抱擁した。感謝の言葉を聞くと莉蘭はとうとう声を出して泣いた。

 ソウは存在を確かめるように莉蘭の背中から肩、最後に後頭部をあやしながら撫でていたが、彼女の髪を掬ったときに僅か顔を強ばらせた。ややあって、ソウは労るように、莉蘭のその無残な有様の左の頭を撫でた。そのソウの優しさも強さも、彼の想いも噛みしめながら莉蘭は至福のなかにいることを実感した。

 落ち着いた頃にソウが莉蘭の肩を軽く叩く。

「嬉しがっているのは分かるがそろそろ泣き止んでくれ。お前の体の水気が心配になってくる」

 莉蘭は微笑を浮かべソウから離れた。彼は莉蘭の瞼に指を添え、そこに口付ける。

「水が足りるか心配なんだ」

「水ならば私も持っている」

 莉蘭は背の荷物から竹筒を出しソウに見せた。彼は目を見張っていた。

「驚いたな。そんな準備をしていたのか。他に何が入っている」

 先ず裁縫道具と下着と、と莉蘭が伝えるとソウはますます感心したのだが。

「あとあなたの帯」

「なに? 俺の帯?」

 莉蘭は照れ少し下を向いた。

「あなたが一昨晩忘れていったものだ……あ、あなたの物をよすがに持っておきたかったんだ」

 莉蘭がちらと視線を上げると、ソウは目を据わらせていた。

「そのように解釈をするのか」

 仏頂面の通り不機嫌さを隠さずソウは呟いた。

「解釈?」

「その帯は忘れたのではない。もう一度戻るという意味だった。わざわざお前の手の下に畳んで置いていたものを忘れたというか」

 拗ねた物言いに、莉蘭は申し訳ないとも思いつつ笑ってしまった。お互い水を一口飲んでから、山を下っていった。

 どこかで、何かが鳴く声がした。鳥だったかもしれない。獣の声だったかもしれない。

 または──猫。

「しかしクロネコは人が悪いな」

 莉蘭は昨晩に、休憩のおりにクロネコと莉蘭との関係について、莉蘭の考えを伝えていた。あのときソウは黙って聞いていただけだった。

「どうして?」

 確かに、正直な人ではなかったと思うが、ソウの忌々しげな言い方が気になった。

「俺はお前と住むために、この辺に家を買うなり借りるなりするつもりだった。それについてクロネコに相談したんだ。どこかいい場所を知らないかと」

「え」

 莉蘭の驚き声を聞き、振り返ったソウは諦観のように苦笑いを浮かべていた。

「その時に彼が言ったんだ。お前のよくない噂がある都付近に住処を構えるのはいい考えではない、南の地方なら安くいい家が構えられるから、そちらはどうかと」

 クロネコの言い分は正しいのだろうが、今の状況を思うと複雑な心境になる。おそらくクロネコは、皇居近辺が安全でなくなることを知っていたから。

「だが、お前はいきなり遠出などできないだろうと俺がクロネコに反論すると、彼は、一度お前を皇居の外に連れ出してみろと助言……いやあれは、仕向けられたというべきか」

「なるほど、……それは」

 人が悪いと言えるかもしれない。

「あの人の言うことは、どこまでが占いなのだろう」

「さてな」

「無事だといいが」

 莉蘭にとっては肉親である、おそらく。単純にいい人だとは言いがたいが、いろいろ親切にしてくれたのは確かだ。会えなくても生きていてほしいと願う。

「あの御仁がそう簡単にくたばるとは俺には思えん」

 その通りだと思い、莉蘭はソウの背を追いながら小さく笑った。

 そして莉蘭にはもう一人、こちらは、絶対にいつか会いにいきたい大切なひともいる。

「ソウ。お願いがある。あなたがくれた表着うわぎを奈瑠に預けたとき、奈瑠が約束してほしいと言ってくれたことがある。彼女は、私とあなたと一緒に幸せになったところを見たいと言った。だから会いにいくとき、一緒に付いてきてほしい」

 ソウは振り返り太く笑った。

「もちろんだ。一緒に行こう。だが、しばらくは都の付近からは離れる」

 まずは山を伝って西へ向かい、都の外れでソウの仲間と合流する予定だと教えてくれた。

「その時に奈瑠さんへの伝言も頼もう。お前のことを心配もしているだろうから」

 莉蘭は納得したが、対してソウは堅い声をしていた。

「最終的に行く宛てはあるが、しばらくはお前も旅暮らしになる。辛いと思ったことは我慢せずに俺に言ってくれ」

「私は歩き慣れている。それにあなたが一緒にいてくれるなら大丈夫だ」

 莉蘭は穏やかな目で、前を歩くソウの、頼もしくて愛おしい背を見つめた。

「若宮御殿でも庵でも、どこにいても自分の居場所という気がしなかったのに、昨日の夜あなたの隣で眠っただけで本当に安心できた。あなたの傍こそが私の安寧の場所だから……だから大丈夫だ」

 幸せそうに笑む妻の顔を、夫は足を止め振り返り、真剣な眼差しで見た。やがてふとソウが顎を引いた。

「俺は怒っているのではないぞ?」

 莉蘭は頬を朱に染めた。

「私もだ」

「……何が」

「私も、あなたが私を好いてくれていると知った体であなたを受け入れたい」

 ソウは前を向いて先を促した。

「なら早く落ち着ける場所に行こう。お前を遠慮なく押し倒せる場所に」

 莉蘭も大いに照れながらも、しっかりうなずいて足を進めた。

 快晴の空を仰ぐ。明けた、真っ青な色がどこまでも広がっている。

「ソウ。あなたのこと、聞いてもいいか?」

「どうした?」

「あなたは双じゃなかった」

 妻にそう指摘され首だけで振り向き、ソウはニヤリと笑った。



 棍の先を素早く動かし、相手を翻弄させることは頻繁に披露している。一度素早く動かし、双叉に突かれたような錯覚を相手に持たせる。「ソウ」という名の音から誰かが「双」と呼ぶようになり、それを肯定も否定もせずにいるといつの間にかその名が広まった。

 そうして一回だけの軌道変更と印象付け、それだけしか動かせないのだと思わせる。

 そして油断した相手に三度目を食らわせる。

 これを行う場合、必ず相手を殺すと決意したときだ。

 だから誰も、傭兵仲間でさえその秘密を知らなかった。

 生き抜く為のそれを、ソウは今まで誰にも漏らしたことはなかった。それを唯一知ることになったのが妻というのも、奇妙な巡り合わせだ。




「本当はどのような字を書くのだ?」

「俺も知らない。気付いたときにはすでにソウと呼ばれていた。誰が呼び始めたのかも、本当の俺の名なのかも分からない」

 莉蘭は、己の名の字を知ることができるのが、それなりに幸運であったことに気付いた。

「私がつけてもいいだろうか?」

 ソウが目を向けると、莉蘭は空に指で字を描いた。

「どういう意味だ」

「蒼いという意味だ。あなたの目の色」

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