第19話 決戦

 暗い目の向こうに、さらに闇を含んだ劣情を隠そうともせず、紫辣は腕を伸ばし莉蘭の肩を押した。

 何をしようとしているのか察す。莉蘭は草の上で押し倒されながら、とっさに掴んだかんざしを紫辣の腕に思い切り刺した。

「ぐぁっ!」

 苦痛が含まれた怒声を後ろに聞きながら、莉蘭は起き上がり駆け出した。しかし向かった先は庵の壁で、さらに逃げようと足を出す前に、紫辣が前に立ちはだかった。莉蘭は持った簪の先を紫辣に向けた。

「さも高尚な口上で化け物退治を行うかと思えば、単に女を抱きたいだけか。歪んだ性癖を正当化するためにまず女を罪人と罵り、正道であると自分に酔い、欲望を臆面もなく吐き出す身勝手な者が武人を名乗るな、恥を知れ」

 紫辣は口を堅く結び、目を細める。利き手の剣を握り直し莉蘭に向けた。

「口の減らない忌まわしい女め」

「だからどうした。そう言えばこちらが反省し改めるとでも思っておるのか、笑わせるな。お前は私を詰ることが出来るほど高潔ではない。人を断じたいのであれば、その罪を明らかにし民の前で糾弾すべきであろう。そうでなく謀反を起こし、このような混乱に乗じ女一人を陵辱した上で暗殺するなど、どれだけ気高い意思を持ったとしても正義の意味を成さぬ!」

 紫辣は歯ぎしりし、まさに莉蘭に飛びかかろうと構えた。

「お前たちに楚を治めることなぞ到底できぬ!」

 紫辣は憤怒を前面に出し莉蘭を睨んでいる。冷静さを欠いてくれるなら隙を付いてここを抜ける。確か紫辣が放った槍がまだ向こうにあるはず。

 あれが入手できればまだ。

 莉蘭は紫辣を睨み返し、逃げるため簪を振り上げようとした。

 ヒュ、と音がして、目の前で紫辣が仰け反った。誰かが紫辣の眉間めがけ石を投げたのだ。紫辣は数歩下がり、すぐに立ち直ってさっと後ろへ飛び退いた。

 一陣の風のように、黒い男が一気に降り立った。彼は莉蘭の腕を掴んで、紫辣のいる逆側へ突き飛ばすように投げた。莉蘭は植垣の中に背から突っ込んだが、その木が緩衝材代わりになってくれた。

 突然に現れた男は手に持った棍を振り下ろす。渾身のそれを紫辣は柄で受けたが、やや受け損ね、力を流すのにしくじり肩を少しひねった。しかし間合いを取り、さらに下方から呻る音を立てて迫る棍を飛んで避け、攻撃相手に対し剣を下段に構えた。

 紫辣は顔を歪め哄笑した。

「いい具合にやってきたな、淫婦の色気にたぶらかされた腐れ傭兵が!」

 黒衣の男は無言のまま、しかし腹の中で業火の如く燃える怒りを、全て視線に込めて紫辣を見据えた。

「ソウ、お前とも決着を付けねばと思っていた!」

 一気に飛んで斬りかかってきた紫辣の刃をソウは避けた。体を回転させ紫辣の脇へ棍を突く。

 紫辣はそれを避け、彼も一歩踏み出し、下段からソウの脛を狙った。ソウは後方に飛びそれを躱す。棍を大きく振り上げた直後ガツンと音が鳴った。莉蘭はびくりと身を縮める。ソウの振った棍の先が庵の板壁に当たった音だった。

 間合いが生まれた。紫辣は冷笑する。

「お前の棍ではこの狭い空間はやりづらかろう」

 ソウはそれでも表情を変えず、持った棍を二握りほど手前に引き持ち直した。彼の間合いが短くなり、紫辣とほぼ変わらない距離になった。紫辣はますます陰鬱に笑みを深くする。

「お前は生かしてやる。四肢を斬って、お前の目の前でお前の穢れた妻を私が浄化してやる」

 ソウが吠えた。下方から紫辣の顎めがけ振った棍は、読まれ余裕を持って躱された。逆に紫辣が振った刃をソウは腕で受けた。手甲が開き赤いものが滲む。

 しかし動きに支障をきたすことはなく、棍を構え先で紫辣の利き手を狙う。それを払った紫辣の、空いた頚を狙って突いた。

 一歩引かれ、弧を描きソウの頚を狙う刃を躱す。その勢いで紫辣の、右横隔膜下を蹴り上げた。

 確かにそこに入り、紫辣の苦痛を耐える声も聞いた。ソウの足に堅い感触が伝わった。寸でで躱され胸当てに当たったのだ。紫辣は、後方に体を飛ばされながらもソウから間合いを取った。

「傭兵らしい汚い戦い方だな」

 紫辣は吐き捨てたが声音に余裕がない。ソウは挑発するように棍を半回転させ、構えまた攻撃を再開した。

 打ち合いが続く。

 先の演武会がまた開かれたかのような戦いであった。だが響く音が違う。この度、紫辣は真刀。二人の抱く覇気も、あのときと比べものにならない。

 莉蘭は恐怖で小さくなりながら、それでも目の前の死闘を見続けた。震えて息がつかえ、何度も喉を動かす。

 あの演武会を御簾の奥で観戦したときよりも近い位置にいるのに、ソウの棍の音──棍が空気を切る音がほぼしない。演武会ではあの音が少し怖かった。今はしないことが恐ろしい。

 ソウの脇に刃が入ったが、衣を斬っただけだった。引かず足を踏み出す。ソウは紫辣の右腿に先を叩き込む。次いで混を回転させ右下腕を、先ほどから少し動きがおかしいそこに一撃を入れた。

 紫辣の悪態が闇に響き消える。お互い、少し荒れた呼吸を繰り返した。

 紫辣が中段からしかけた。ソウがそれを流し、紫辣の左腕下へ棍を鋭く跳ね上げた。






 ──かかった

 紫辣の予想通り、棍が描く弧は直角に曲がった。己の肩をめざし来る。

 演武会の動きが再現された。二度同じ手は食らわない。

 避けず、前に出しその先を受けながら、腹へ剣を刺せばいい。


 紫辣が肩に力を入れた刹那。

 棍の先は、まるでそれが生きているかのようにもう一度、軌道を変化させた。


 紫辣は気付いた。ソウは周りの障害物を避けるためだけに間合いを短くしたのではない。

 負荷をなくすため、さらに速く動くために棍を短く持ち代えたのだ。






 堅い先は、紫辣の肩でなく、急所の喉仏を突いた。

 しかしさすがに三度、ソウとて棍を自在に扱えても、それに力を乗せることはできない。急所は突いたが致命傷にはならない。

 それも承知している。

 紫辣が咳き込み腕の力を抜いた。その一瞬でソウは彼の剣を奪い、逆手に握り持ち主の腹を刺した。目を見開き、息を止めた紫辣の左こめかみを棍で殴る。同時に刺した剣を横に振り抜いた。紫辣は叩き付けられるように地面に倒れた。

 吹き出した鮮血がソウの足にかかる。

 黒い着物は、それをわずかに重くしただけで何も変わらなかった。

 地面に血が流れていく。横向きに倒れた紫辣の、彼が手で押さえている腹からおびただしい鮮血と、臓物の一部が零れ出た。

 それをソウは黙って確認していた。

 紫辣は喘鳴を繰り返しながらソウを睨んだ。

「……とどめを、させ」

 しかしソウは動かなかった。

「このまま生かせば……私は必ず貴様らを追う。殺す……」

 臓器の一部はもう傷付いている。今すぐ助けを呼んだとしても、もう助かる見込みはない。ソウも助けを呼ぶつもりなどない。

 強がりか、それとも。

「とどめを……」

「お前が斬った辻女たちや動物たちも、そう思っただろうな」

 ソウの冷静な言葉を聞き、紫辣は喘いだ。

「俺はお前同様、慈悲は持たん」

 紫辣は初めて、絶望の色が深い顔を見せた。まだ何か言う彼の言葉を、ソウは無視し、持っていた紫辣の剣を振り上げた。

 全てを見届け、ソウは足を翻し妻の元へ駆けた。



 南の方は火が燃えて明るく見えるが、まだ北の庭園までは距離がある。暗闇の中で、ソウが莉蘭の元まで来た。ソウは、座り込んでいる莉蘭が握っているものに目を向け顔をしかめた。ソウの視線の先にあったのは簪で、先に黒く見えるものがついている。

「莉蘭!」

 莉蘭は唇を震わせソウを見上げた。唇だけでない、全身の悪寒を堪えられず、歯の根も合っていない。

「だ、だいじょう……ぶ」

 ソウは莉蘭が強く握ったままの簪をゆっくり手から外してくれた。

「刺してやった……」

「なに?」

「あ、あなたの教えの通り、簪で、……彼の、右腕、だと思う」

 言ううち、徐々に気が戻ってきて、口調もしっかりとしてきた。ソウは莉蘭の後頭部に手を回し、自分の胸に引き寄せた。

「それでこそ強い蜂だ」

 俺の自慢の、と付け加え、あやすようにぽんと後頭部に手を添え撫でた。

「相変わらずの鋭い舌鋒だったな」

「……ありがとう、来てくれて」

 莉蘭の声に張りがある程度戻ったのを認め、ソウは莉蘭を正面から、彼女に気力を与えんと肩を掴んだ。

「ここから離れるぞ。動けるか?」

「動ける」

 自分に言い聞かせるように莉蘭ははっきり宣言した。少々足が萎えていたが、ソウに手を引かれるうちに元通りに動くようになっていった。ソウは迷いなく北に向かい、楚の始祖が奉られている宮の最奥を目指している。

「始祖の道から来たのだな」

「お前が教えてくれただろう。今朝ここを通って街に戻った。そのときは単なる興味だったが知っておいて本当によかった。謀反ありと判明した前から正門も御用門も全て封鎖されていた」

 しかし隠し階段の途中から、ソウは街の方向でなく山の西へ入り込んでいった。

「どこへいく?」

「街へ入るのは危険だ。ここから西に向かって一旦上まで登る」

 何度か休憩を取りながら進むと、頂上手前の岩の下で休めそうな場所があった。休息を取ることとし、添って横になった。ソウは莉蘭を抱き寄せ暖をくれる。

 莉蘭の体の力がだんだんと抜けていった。目を閉じると、すぐさま眠りが訪れた。


 空が明るくなったころに二人はまた出立した。山の頂付近の、視界が開けている場所に来た。木が少なく下の様子がよく見えるところで、どちらともなく足を止めた。

 朝日が昇る前の南東の方角、帝都の皇居、莉蘭の産まれ育った場所から薄く煙が上がっている。

 決して好きではない場所だったが、さすがに憐憫が勝り、莉蘭はじわりと目を潤ませた。

 結局、父とも何も通わせないままに二度と会えなくなった。

 なんとも苦い気分になる。しかしもう悔やむのはよそうと、莉蘭は奥歯を噛んだ。こんなことで泣いてはいけない。自分まだしなければならにことがある。

 莉蘭は深呼吸をした。これから言わねばならないことを思うと、息をするのも辛い。

 命をかけてソウは莉蘭を助けにやってきてくれた。

 父帝が討たれ名実ともに皇女でなくなった莉蘭のために。

 己の少なかった価値はこれでもう全てなくなった。

 一昨夜の甘美な記憶と、今の思い出を胸にしまい込み、生きていかねばならぬのだと決心した。

 ソウが莉蘭の腕を引いた。

「あまり前へ出るな。足場はよくない。それに下から人影だと知られるのはまずい」

 莉蘭はソウに引かれるままに木の下に入った。視界から皇居は見えなくなったが、それでもまだ莉蘭はその方角を見続けていた。隣で立っているソウに顔を向けられず、莉蘭は口を開いた。

「あなたにはいくら感謝しても足りない」

「そういう言い方はするな」

「もう私のことは構わずともよい。過分な恩をあなたはくれた。私はもう何も返せない。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」

 それまで皇居の方角を見ていた莉蘭は顔をあげ、ソウに正面から告げた。

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