第18話 歪み



 ──汚物はこの世に必要ないのです



 父は懐が大きく剛勇だと称えられているが、息子である自分から言わせると、他者に興味がなく執着がないだけだ。他人は石、己が大事。他人の意見は全て雑音、常に自身が正しいと酔っていられる故に豪傑でいられる。

 父は、名家の出の正妻を娶りながら、妻のことを顧みず、外で女を何人も囲った。心を石のように変えてしまった正妻を、可愛げがないと愚弄し続けた。

 母は、己を産んだ時点ですでに病んでいた。息子には、妾腹から産まれた腹違いの兄が二人いたから。

 母は、息子にだけはあのような不実な男になってほしくないと切望した。

 ──身持ちの悪い女は、伴侶でない男の種を孕むような浅はかな汚物はその子もろとも殺しても構わないのです

 ──汚物はこの世に必要ないのです

 己は嫡子である。母の名誉のためにも己が父の後を継がねばならない。幼い頃は父に気に入られようと、理想の息子となるように勉学にも剣技にも励んだ。母をないがしろにした父の、それでも肉親の彼のよいところを見ようと努力もした。

 正式な後継と認められたときは晴れ晴れしい気分になった。生まれて初めて父と母の子で良かったと思うことができた。

 元服の義を済ませた夜、父と酒を酌み交わした。父親は、正妻がありながら他の女を抱くことに何の呵責も覚えない彼は、酩酊した頭で息子に話をし始めた。

 ──お前は堅い。もっと人生を楽しめばよい。儂の武勇伝を聞かせてやろう。お前が産まれる前、儂は奥御殿より北の警備に携わっていた。その奥に庵が存在しているのをそのとき見つけた。

 ──お前が産まれた後に、奥御殿より北の警備を采配することとなった。その期間、儂は庵で第二夫人と密会しておったのだが、あれは実に楽しかった。

 ぞわり、全身に船虫が這ったようなそれを、耳鳴りと共に受けた。父はまだ楽しそうに、抱いた夫人がいかに積極的で官能だったかを喋っている。

 ──第二皇子、あれはおそらく儂の子だ。お前の弟だ。

 一人悦に入り酒を飲んでいる父を、息子はただ黙って横に座り見ていた。

 殺意を握った手に込めながら。

 震える手に、亡者の手が這う。息子の体躯を優しく抱き、耳元で囁く。

 ──汚物はこの世に必要ないのです


 某日、父は謀反を計画していると息子に伝えた。

 ──俳賓の民は疲弊している。人が、あんなふうに虐げられ支配されることはあってはならない。しかもその塩は、楚の国の民に安らぎを与えるどころか憎しみしか生み出していない。

 正すべきだと父は言った。

 ──小競り合いを装い俳賓に乱有りと報告させ、儂が出る。そのときに岩塩を採るために働かされている者達を前約束として解放する。その代わりに、儂が帝と宰相を討つあいだ、無防備になる北にて俳賓の連中には静観しておいてもらう。儂が帝の首を取った暁には、俳賓を解放する。手はずが整った。

 息子は提案した。皇子らのみならず奥と若宮も全て残らず討ちましょうと。

 父は重く言った。

 ──あれは残す。

 ただ、それだけ。短い回答、その中の、色欲を隠そうともしないその声音が汚物として息子を冒していく。

 このひとは、女さえ絡まなければ人としてこの上なく尊敬できる。

 少なくとも自分の正義に酔っていられるあいだは。対象に興味をなくす直前までは。

 彼の汚点によって撒かれる醜悪な存在は、息子である自分が始末せねばならぬ。

 書を、秘密裏に若宮御殿に届けさせた。

 石澐により謀反ある。帝を討つ。父が新たな御位に就くであろう。しかし私は、その後を継ぐつもりはない。次期帝は石澐の血を継ぐあなたである。

 そう、第二皇子に伝えた。

 書を書きながら、返答を待ちながらしかし腹で火を、怒りのそれをずっと燃やし続けていた。

 第二皇子は自分に対し、どこか馴れ馴れしかった。身分は無論あちらのほうが上であるが、何故かいつも薄笑いで馬鹿にするように話してきたことを、声には出さなかったが不快だと常に思っていた。

 その理由を知ってから不愉快という感情は、もっと昏く禍々しいものに変化した。

 自分が第二皇子に送った密書を、彼がどう扱うか。そんな事実はないと、あなたの「父」に奏上し、自分と、自分の父が殺されるならそれはそれで構わなかった。

 ──汚物はこの世に必要ないのです


 第二皇子は「兄」の言葉を嬉々と受けた。

 濃密に濁った呪詛は互いを食い散らし、歪んだ執着が最後に残った。





 石澐将軍、帝の首を得たりとの報を聞き、彼は数人の配下を連れ計画通り北に入り奥御殿を目指した。

 あらかじめ決めていた合図を送る。門は内側から開いた。門を開けさせたのは第二皇子だ。将軍の隣で正統な跡継ぎもここにありと民に見せたい、あなたの姿が必要ですと伝えていた。

 皇子は誇らしげに、兄を──紫辣を見た。

「紫辣殿、大義である」

 晴れ晴れしく笑っている若い皇子の頚に、紫辣は持った槍の先を勢いよく刺した。

 皇子はしばらく笑顔を保っていた。やがて苦悶の表情に変わり、喘ぐことすらできず、抉られながら抜かれた穂先を追うようにその場に倒れた。何が起こったのか、理解できないとう顔のまま第二皇子は血を流し続けた。

「行け」

 仲間は、恐怖で硬直している皇子の侍女らを押しのけ、土足のまま奥御殿に入っていく。紫辣もまた、彼らを追いかけ若宮御殿を目指し駆けた。

 つい先刻、その門を破って入った藍連殿は、もぬけの殻であった。どこで計画が漏れたのか。あの占者は石澐が討伐と偽り、みせかけの無血制圧をやってのけるという情報を、よりによって帝に告げた。俳賓の間者に違いない、かの占者にも帝と共に死を贈ってやろうと藍連殿に入ったが、本人はおろか人一人いない。

 そこに滞在しているという、先日傭兵に下賜された姫もいなかった。

 どこまでも生汚い姫だと紫辣は歯ぎしりする。若宮御殿に入り、第二皇子から教わっていた道順を配下に伝え、彼らを皇太子の元へ向かわせた。紫辣は、最も殺してやりたい女の姿を探すため、残りの部屋の戸を片っ端から開けていった。

 彼の目標はひとり。第五皇女のみ。

 あの女だけは生かしてはおけぬ。

 実の父と交わるような風狂の姫だけは。


「第五皇女はどこだ」

「し、知らない……」

 紫辣は眉を上げた。血の付いた槍を見せてやれば、ひ弱な皇女などすぐ口を割ると思っていた。寝間着を着た第四皇女は、ひいひいと怯えながら壁に張り付いているが、妹の居場所を吐こうとしない。

「あんな下賤な女のことなど、わたくしは知りとうもない」

 そこから黄綺は恨みを吐いていく。

「あの女はここに住めるような身分ではないのじゃ。後ろ盾もなく、食うものに困ったからと、わたくしの兄様を誑かし情けを奪って生きておるおぞましい女じゃ!」

 紫辣は目を見開いた。

「夜毎どこかで兄様とまぐあいよって……わたくしの兄様と……あの畜生女」

 黄綺はギョロリと目を向いた。

「何故じゃ。どいつもこいつもあの女ばかり気にかけよって。身分も低く後ろ盾もない貧乏なあんな女を。わたくしの兄様をたらし込んだだけでも許せぬというのに、衛兵や卑しい傭兵にまで足を開く穢らわしい女を何故皆欲しがる?」

 蒔いた嘘の芽は邪悪に育ち、蒔いた本人が成った毒をんた。

 毒に犯され濁った目で、黄綺はおもねるように笑った。

「なあ、そなた、見て分かったろう。あんな女よりわたくしの方が美しい上品な女だと理解したろう……そなたになら」

 紫辣は黄綺への嫌悪感を、全て剥がすように吐き捨てた。

「少なくとも第五皇女は表面だけは美しいが、お前は全てが醜いではないか。外見も内面も醜悪なくせに、一体どこがあの姫より上品なのだ。目すら動かさぬほど怠けたか」

 飽食と怠惰によって成された黄綺の肢体からは、香では消せない悪臭も漂っていた。

「……なんと?」

「鏡を見ろ。視界に入るのも気色が悪い」

 紫辣は部屋を出た。第五皇女の居場所に目星が付いた。父がかつて密会に使ったという場所が脳裏に浮かんだ。

 去った背中で、意味を成さない叫びが上がったが、すぐにそれは遠くなった。



◇◇◇



 莉蘭は庵で用意していた荷を背負い外に出た。そのときに出口の逆側、植垣の方向から木々が折れる音が聞こえてきた。

 それがだんだん大きくなってくる。何者かがここに来ようとしていて、方々に茂った植垣をなぎ払っているのだ。

 ソウではない。彼であったら南から、藍連殿の方角から来るはずだ。西から来ている、周りに一切頓着せずに木を折っているのは誰だ。莉蘭は怯え身を竦ませる。

 逃げねばと思った。しかし間に合わず莉蘭の前に、一人の武人が植木を槍で払って前へ足を踏み出してきた。

「紫辣殿!」

 荒々しい登場だったが、現れたのが知った人物で莉蘭は緊張を解く。

「何があったかお分かりか。御上御殿の方に見えるあれは火なのだろうか?」

 一時は自分を娶りたいと願い出た男の、しかも将軍の嫡子だ。莉蘭は気を緩め矢継ぎ早に問うた。しかし紫辣は莉蘭に向かって目をぎらつかせ、鼻で嗤った。

「お前の最愛の父はもう亡いぞ。残念だったな」

 敬意などない。それどころか汚物を見たかのような蔑んだ視線に、莉蘭は足を一歩引いた。

 長年追っていた獲物を見つけたという狂喜、加えてそれがまるで仇であるかのような憎悪、それらを紫辣はまざまざ莉蘭に示してくる。

 彼は偶然ここに現れたわけでない。武人の心得で以て、莉蘭を助けてもくれまい。幼い子供でも理解できるほど、紫辣の放つ怒気はすさまじい。

「会いたかったぞ、実父と交わる畜生以下の姫君よ!」

 紫辣は持った槍を落とし、美しいさばきで剣を抜いた。

 莉蘭は無理矢理に喉を動かす。口を歪め切歯した。

 彼までも。己に纏わり付く悪意の嘘は、もはやこれは呪いだ。

「お前のために剣を残しておいた。今すぐこれでお前の父共々退治してくれる」

「父が、ないとは……父共々とは、どういうことだ」

「私の父がすでに昏帝の首を討った。次はお前だ」

 莉蘭は硬直する。

「……ま、さか」

「私の父が新たな帝となり楚の国を治める。だが、その前に絶対にお前だけは殺さねばならぬ。生かしておけばお前は必ず私の父と交わるだろう」

 言われた内容に猛烈な嫌悪感が湧き、莉蘭は思わず口を押さえた。

「呪われた子を産ませるわけにはいかぬ。絶対に許さない、それだけは」

 紫辣が足を踏み出した。それが莉蘭に我を返させた。しかし莉蘭は何も考えずに、逃げようとして安易に背を見せてしまい、あっけなく捕らえられた。髪を掴まれ、痛みに悲鳴を上げると、なお髪が引かれる。

「父帝と臆面もなく体を交わす、穢れきった姫よ」

「いっ……」

 頭皮を引かれた痛みが、押さえつけられたような感覚と共に不意になくなった。体勢を崩して横ざまに地面に倒れ、草の中に頭を突っ込んだ。痛みを我慢しすぐに顔を上げたが、その異様な軽さに戸惑い、原因をすぐに目の当たりにして背筋を凍らせた。

「……え」

 髪が切られたのだ。左半分の髪が右のように流れず、ざんばらに散った。地面に突いた手元にかんざしが音を立てて落ちた。

 気力を折られ、莉蘭は唇を戦慄かせ紫辣を見上げた。

 紫辣は、この世で最も忌まわしい不浄を見るような目で莉蘭を見下ろしている。その殺気を、素人でも感じ取れるほどの禍々しい覇気を受け、莉蘭の視界が暗くなる。

「……人を惑わす妖の姫か」

 莉蘭は、そこで紫辣が彼女の着物の裾を見ていることに気付いた。その先、倒れめくれて、露わになっている脚絆に包まれた足を。

「お前を娶りたいと思った」

 抑揚のない声だった。まるで、自身をも突き放すような。

「一昨年より前の茶会にて、一心不乱に菊を愛でていたお前は、清らかで美しく、まるで天から降りた神のようだった。なのにお前は、その美しさを醜悪なものへ陥れたな」

 紫辣は喉に濁った音を含ませ、歯を軋らせる。

「だから実の父と交わるような狂乱の姫を……私を惑わせた罪深き女を娶ってその夜に殺すつもりだった」

 莉蘭は息をのむ。

「御簾の向こうから現れたのは案の定あやかしだった。妖艶な衣装を纏い、男を狂わす、姿だけは美しい淫妖だと」

 紫辣は一歩足を出し、莉蘭の前に膝を折り、彼女の裾をめくり上げる。莉蘭の白い膝が露わになった。

「私がお前の最後の男になろう……これは浄化だ」

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