第17話 再会
「検分?」
ヒョイと顔を上げた莉蘭に目を合わせ、ソウは先を続けた。
「最近、あの辺りで辻女が斬り殺される事件があったとお前にも言っただろう。多分俺が棍使いで容疑人から遠いと判断されたのと、かつ傭兵でいろんな相手と戦ってきたことを買われたんだと思う。衛兵に声をかけられて、詰め所でまず辻女の死体を見せられた。太刀筋から犯人の目星が付かないかと」
意外な内容に相づちさえ打てず、莉蘭は黙って続きを聞いた。
「太刀筋は記憶になかった。だが足の運びの癖からも分かるときがあると俺が言うと、衛兵も運が良ければ何か残っているかもしれんと、現場に案内してくれた。結局その場には何も残ってなく、俺も誰が辻女を斬ったのか……」
ソウは不意に黙り込み、思考の内に籠もった顔をした。しかし目の前で莉蘭が泣きそうな、安心したような顔をしているのに気付く。
ソウは、何があったと問う手前、莉蘭の心配の種を察し顔を緩めた。
「ああなるほど、俺もあそこで遊女を買っていたと思ったのか」
ニヤと笑い、顔を伏せた莉蘭の顔をからかうように覗き込んだ。
「下手に判断されるよりこうして聞いてくれた方がありがたいな。しかしなんだ。莉蘭、妬いていたのか?」
「……そうだ」
さらにからかおうとソウは口を開いていたが、莉蘭に肯定され彼は言葉を詰まらせた。
「分かっている。あなたはあのとき私に会う前であった。私の今の感情がいかに自分勝手か分かっている。でも気が気でなかった」
そう一気にまくし立て、黙り込んで上目でソウをちらと見る。ソウは呆れと照れを混ぜた複雑な表情をしていた。莉蘭はしゅんと項垂れた。
「呆れただろう」
「いや……まあそうだな、だがそうじゃない」
いったいどちらだと莉蘭が眉を寄せた前で、ソウは表情を消した。
莉蘭の顎に指を添え、顔を上げさせて真摯な視線を彼女に合わせた。
「お前に初めて会ったあの日、俺は衛兵の頼まれごとを終えた後だった。花街に子供がいるのは何故かと、気になって付いていった。中でのやりとりを耳にして、小僧だと思ったのが若い女だったと知って放置できないと思った」
ソウは莉蘭に視線を合わせているのに、莉蘭にはどこか視線が合っていないような気がした。不意に合点がいく。彼はあのときの自分を思い出しているのだと何故か判った。
「お前を表通りまで送って別れても、ずっとお前のことばかり考えていた」
「……え?」
「頭から離れなかった」
暗いなか、漆黒の目の中に答を見いだすようにそれを交錯させる。
「開き直って、お前に似た女にでも声をかけようと思い……俺はそこで我に返って、自分の愚かさを笑ってしまった」
「おろか?」
「俺はあのときお前の顔を見ていない。お前の目しか」
互いの息が触れた。ソウは莉蘭の顔を、そのわずかに開いた唇を見つめる。
「似た女など存在しないのだと気が付いた」
低く囁くその音の中に確かにある激情を感じ取り、莉蘭の唇が震えた。
莉蘭の心はもうすでに奪われていた。今、同じものが返って来たような感覚がする。
どうか錯覚でないようにと祈ることしかできない。
そのとき、二人の視線が出会った。
ソウが今の莉蘭を見た。
「あの布の下でお前はこんなにも美しいものを隠していたのか」
張り詰めた糸が切れる寸前のような緊張が、それと共に闇に気怠くたゆたう香のような空気が辺りに満ち、二人の静かな呼吸音がぎこちなく変化する。
やがてソウはゆっくりと、じつにゆっくりと莉蘭に顔を寄せた。莉蘭はただじっとそれを、双眸を大きく開き愛おしい男の動作を待った。
ソウの唇がちょんと莉蘭の鼻にあたった。莉蘭は肩を奮わせる。戸惑いの顔を見せた彼女の薄い瞼に、ソウは次いで唇を寄せた。莉蘭が目を閉じると、眉の辺りに優しいものが触れた。あ、と漏らした声を、それを導にするかのように、ソウは莉蘭と唇を重ねた。
一瞬、わずかに触れただけの、意思を持った接吻というよりはふとした拍子に偶然触れてしまったとでもいうような、控えめ過ぎる口付けだった。
まるで女の意思を伺うような──受け入れて欲しいと請うような。
莉蘭は目を開け、どこか不安げな色さえある真剣なソウの眼差しを恍惚と見上げる。
うれしい
掠れて告げたその息を、そこにある溢れる歓喜を、ソウは受けた瞬間、何かを呻き莉蘭を掻き抱いた。
「莉蘭」
さらなる悦びを得て、莉蘭は両腕で愛する男を抱きしめた。着物越しに伝わるソウの熱を頬に感じ取りそれに浸る。
「ソウ」
呼んだのは名で、心からの懇願でもあった。
両頬をソウの両の手のひらで抱えられる。莉蘭は息を吐き、間近のソウと視線を合わせた。
「ずっと、本当の口付けを受けたいと思っていたんだ」
莉蘭は照れと戦いながらもソウに本心をばらした。しかしソウは莉蘭のその言葉を聞いてまさかと言いたげな顔をした。
「ソウ……?」
ソウはがくりと首を前に落とし、莉蘭の肩にもたれた。
「お前という女はなんというか」
呆れかえった声だった。やがてくつくつ笑い最終的には仰け反って大声で楽しそうに笑うソウを、莉蘭はますます困惑して見た。もう一度名を呼ぶと、ソウは実に楽しそうな顔をして、莉蘭を胸に抱きしめた。
「俺はずっとお前に口付けたいと狙っていたのに、お前が怯えて手を出させてくれなかっただろう」
「え?」
ソウは莉蘭を笑顔のままで見つめ返してくる。
「莉蘭。俺は怒ってお前を見ていたのではない」
莉蘭の両頬がソウの手にもう一度抱えられる。優しいのにしっかりとした束縛と、ソウの真剣な眼差しに莉蘭は息を漏らした。
「覚えてくれ。俺がお前を見るときはお前を欲しいとしか思っていない」
刺すように見つめられるのが怖かった。眼差しの奥に怒りがあるのだとばかり思っていた。
「……ソウ」
「頼むから逃げてくれるなよ」
「莉蘭」
呼ばれて覚醒し莉蘭は目を開けた。仰臥する真上でソウが心配そうに莉蘭を覗っている。莉蘭は柔らかく微笑んだ。彼女の表情を見て、ソウの顔からも緊張が消えた。彼は顔を寄せてきて、軽く開いた莉蘭の赤い唇に触れた。
穏やかなひとときだった。生まれて初めて安心できる場所を見つけたような気がした。
かつてここで奈瑠と寝起きをしていたときに、ここまで安心して横になったことがあっただろうか。常に彼女を守らねばという気ばかりで生きていた。第二皇子のこともあり、可能なら奈瑠を下がらせるべきだったのではと悩みつつも、傍にいてほしく、奈瑠の気持ちの確認もしなかった己の我が儘に嫌気もさしていた。
強くあらねばならないと思う。もうあんなふうに自分の弱さに言い訳をして愛する人を縛りたくない。
だが今だけはまだこの幸福を手放したくなかった。
明るい部屋の中で莉蘭は目覚めた。
まず時間が分からなかった。耳を澄ませたが近くに誰かがいる気配がない。
体を横に向けると、自分の手の下に黒に近い灰の帯が畳んで置いてあった。
あの刺繍の帯がソウの元に戻ったので、こちらはもう必要ないということだろうか。莉蘭は寝起きの頭でそう考えた。まだ寝台から出たいとは思わなかったのだが、怠惰でいるのも後ろめたく、喉も渇いたので起きることにした。
落ち着いてから庵の外に出た。藍連殿から迎えは来たのだろうか。それらしい名残はない。空を見ると太陽は若宮御殿の方角、つまり西に傾いていた。正午はとうに過ぎていた。ずっと眠っていたことに我ながら呆れた。
莉蘭は振り返り、庵を見た。
昨夜、ソウの心の一部を知ったような気もしたが、一夜明けると本当にそれは真実だったのか莉蘭には分からない。彼はどうしたいのかなど何も、はっきりとした意思を見せなかった。
空腹に負け、昨晩ソウが持ってきてくれた飯の残りを食べたが、迎えは来ない。やがて夕刻になり空気が冷えてきた。
藍連殿にこちらから向かうかとも考えたが、クロネコは難しい来客があるといっていた。自分がのこのこ現れて迷惑をかけることはしたくない。結局、莉蘭は庵の中で寝台に腰掛け外を見ていた。
母もこうして外を眺めていた。
母もこうして父を待ったのだろうか──いつ訪れるのか分からない夫を。
ああ、そうだ。
今の自分のように外ばかり眺めていた母に構ってもらいたく、莉蘭はいつも母の話を聞きたがった。それだけは母も楽しそうに話してくれるのを、幼いながらに分かっていたからだ。
母が彼女の象徴獣が猿だと教えてくれたとき、莉蘭は猿を知らなかった。姿形を聞き、お母さんもそうして木に軽々登れたのよと、懐かしそうに言っていた。
じゃあ私の動物はなあにと莉蘭は母に聞いたのだった。
母は悲しそうに笑い、また外を見ながら話してくれた。
──お母さんには莉蘭の象徴獣が何かは分からないの
──一族でも、天から多くの力を授かった者は、象徴獣を使役獣とすることもできるの
──そういう人は、他の人の未来を少しだけ見ることができるの
──そうして、他の人の象徴獣を教えてくれるの
その時の母と同じように莉蘭も視線を外に向けながら、頭では過去のことを考えていた。
しばしぼんやりとしていたが、莉蘭ははっと身を固めた。
──お母さんの、お父さんは蟷螂。お母さんは蟻。上のお兄さんは貂。お姉さんは鶺鴒。お母さんのすぐ上の、仲の良かったお兄さんはね、猫なのよ
「お兄さんは、ねこ……」
歳の頃四十ほどの彼は二匹の猫を従え、名もクロネコと名乗った。
莉蘭とソウを蜂のようだと言った、未来を見る占い師。
俳賓特有の挨拶の意味を知り、かつそれを使う人物。
しばらく呆然と外を見ていた。だが、莉蘭は顔を曇らせた。
クロネコは石澐将軍の今回の無血制圧を、あらかじめ知っていたような事を匂わせていた。だがここに関しては少し自信がない。彼はどこか掴み所がなく、自分が帝に招かれるほどの占い師だということもほとんど鼻にかけず、それどころか斜に構えていた部分さえあった。
しかし、時折先に物を知っていたのではないかと思わせるときもあった。
ソウが教えてくれた出兵前のいい加減だった徴兵のことも頭に浮かんだ。まるで最初から戦などするつもりがなかったかのような。
昨晩ソウはこうも言った。藍連殿の様子がおかしかったと。誰も出てこなかったと。
何かが起こるのではないかと、莉蘭は自分自身の肩を抱いた。
莉蘭は庵に戻り荷物を作った。今後自分だけで生きていくことになる可能性もあるなら、その糧を得るための手段として裁縫道具は持っておかねばならない。服は、下着一式だけでいい。外装は今着ているものだけでいい。水は欲しい。竹筒を探して携帯できるように整えた。必要なものは揃ったが莉蘭は迷った末に、ソウが置いていった黒帯も荷物に含めることにした。まず向かうなら奈瑠の実家だ。場所は分かっている。
だがいつ出立するか。莉蘭はそこでおおいに悩んだ。そもそも今の莉蘭の懸念は杞憂で、今にもクロネコが、もしくは彼の猫のどちらかが、ここに迎えに来てくれるかもしれない。
もしかしてソウも。
彼のことを考えると胸が疼く。最も来て欲しい人物で、来なかった場合の落胆を思うと泣きたくなる。
莉蘭は両手で顔を覆った。
一人で立つ勇気を私に下さいと、莉蘭は蓉春の姿を思い浮かべながら祈る。
結局動くこともできず莉蘭はじっと寝台に座っていた。すでに暗くなった部屋で誰も莉蘭を迎えに来ず、その孤独も堪えた。眠る気さえ起きずため息ばかりついていたとき。
さほど遠くない距離で、どおん、と大きな音がした。それは繰り替えされ、莉蘭は耳をそばだてる。
音を立てないように気を付けて庵を出た。しかし木々に囲まれ何も分からない。暗い中で大きな音だけが聞こえるのが恐ろしい。莉蘭は意を決し植垣を辿って若宮御殿の方へ向かった。
やがて視界が開けてきた。南側、それも間近がやけに明るい。
火が上がっているのだと気付き、愕然とした。
何かはまだ全く分からない。だがよくないことが起こっている。
莉蘭は来た道を足早に戻っていった。焦る気持ちと恐怖で混乱しつつも、足を進めるごとに少しずつ冷静になっていった。用意した荷を持って、ここから去ることだけを考えることにした。
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