第16話 逢瀬

 莉蘭は感謝のつもりで丁寧に頭を下げた。対してソウは事態を掴めていないらしく、驚愕と困惑を大いに含ませた顔で莉蘭を凝視している。

「これを、どこで、手に入れた?」

「花街であなたが私に譲ってくれた」

 莉蘭は寝台の敷布を顔に纏ってみせた。ソウはそれを見て再度硬直した。

「あ、のとき、花街で酔っ払いに捕まっていたのが……お前だと?」

「あのときはありがとう。おそらく私だけでは逃げられなかった。本当に感謝している」

 ソウはまだ頭がついていっていないとばかりに、莉蘭を上から下まで見る。

「どうしてここから外に、しかもあんな格好で出ることができた?」

「誰にも言わないでほしいのだが」

「こんなこと誰に言っても信じてもらえまい」

 そちらではない、と莉蘭は軽く失笑した。

「この庵のさらに奥に、始祖が奉ってある丘がある」

「……ああ」

「そこから下に降りる隠し階段がある。進んでいくと丘の下から道を辿って、最終的に皇居の東の山麓に出て、そこから街まで出られる。多分、ここで非常事態があったときの為の抜け道だと思う」

 奥御殿と若宮御殿から続く隠し通路は、元々はその為に設置されていたのだろう。この庵はそれがあったから、ここに建てられたに過ぎないと莉蘭は考えている。

「そんな、ものが」

「私はそこから、時々街に出ていた」


 この庵を見つけてから、莉蘭は辺りを少しずつ散策するようになった。ある程度までは奈瑠も付き合ってくれたが、始祖が奉られる場所までは奈瑠は恐れ多いと足を進めようとしなかった。楚の始祖は大蛇を屠った男だと言われ、また不思議な力を持っていたとも言い伝えがある。楚の民なら老若男女誰もが知っている神話で、同時に畏れられてもいた。

 だが莉蘭は、末裔だからこそ、その血に微塵も価値などないことを知っている。故にたたりなどあり得ないと、祖の眠る場所まで踏み入れ、抜け道を発見した。

 ただ奈瑠は奥勤めであるので、安易に外を歩いて誰かに見られるのはよくない。始祖の墓に足を入れる畏れと、それもあって莉蘭の外遊びの共をしなかったのだ。


 蝋燭の炎だけの部屋で、ソウの顔には深い影がかかっている。莉蘭には彼の眉間のしわがよく見えた。

「何故、お前は街に」

「体がなまると思ったからだ。それに、こんな場所ばかりに隠っていてはいい刺繍はできない。常に刺激がなければ駄目だと蓉春も言っていた。多少はここの書物でもなんとかなったが、気分を変えるには外が一番良い」

 ソウは、随分軽はずみな理由で出かけていた莉蘭の危機感のなさに、呆れた顔を見せた。

「なるほど合点がいった。時折妙な気がしていた。どこかで会ったような。それにお前の肌襦袢にも見覚えがあった」

「そうだったのか」

 ソウはふっと吹き出した。莉蘭に顔を向けたときは苦笑していた。

「そもそも、あのような威勢の良い啖呵を即座に切れる女が、そのへんに複数いるはずなどなかった」

 ソウが何と何を繋ぎ合わせて考えているのか理解し、莉蘭も先ほどのソウと似たような顔をしてしまった。

 ソウは再度、彼のものだった黒帯を惚れ惚れと眺めた。

「ほつれが綺麗になっている。直してくれたのか。ありがたい。さすがだな」

「私も勉強になった。……あ、あと、その」

 莉蘭は遠慮がちにその帯の端を取って裏返す。

「……おお」

 ソウは楽しそうに口角を上げていく。

「蜂かこれは……いや角がある」

「これはオオキバドロバチ」

「あっ、これがそうか。なるほど」

 ソウはしばらくそれを、相好を崩し見続けたあとで莉蘭に顔を向けた。今までみたことがないほどに喜んでいるソウを見て、莉蘭もつられて顔を綻ばせた。

「お前が刺してくれたんだな」

 ソウはまた帯を見て、オオキバドロバチの刺繍を指でなぞった。

「いいな。これを締めるのか。気合いが入る」

「あの」

「どうした」

「今、あなたが付けているのを見たい」

 莉蘭の小さな願いを聞き、ソウは破顔した。ソウは立ち上がり、今締めている濃い灰色の帯を解き、刺繍の黒帯を締めた。

「なるほど、ここを少しめくると蜂が現れるのか。洒落たもんだな」

 締めた帯の端をめくるとオオキバドロバチが少し見える。ソウはまだ笑っている。

「あなたに返せてよかった。もう一度これを付けているあなたを見たかった」

 ソウが再び莉蘭の隣に腰掛けた。莉蘭はソウに、少し上目に笑いかけた。

「あなたはあのとき私に嘘をついただろう」

「うそ?」

「その帯の価値は俺には分からないと私に言った。そんなことはないはずだ」

 彼は莉蘭の刺繍した表着の価値を即座に把握したし、それに莉蘭には合わなかったが、贈られた表着もとてもいいものだった。

 互いに微笑み顔を合わせ見つめ合う。存在を睦み合う。

「ああ言えば、お前が呵責なく受け取ると思った」

 その優しさを、あのときから愛したのだと、莉蘭は気付いた。

 もう、あのときに心を奪われていたのだ。

「この帯はあなたが買ったものか?」

「貰ったものだ」

「こんないいものを?」

 ソウは思い出を反芻したのか緩い笑みを浮かべた。

「前に南の方で用心棒をしたことがあった。実際野盗が現れて仲間数人で追っ払った。主人の仲間が誰一人怪我をしなかったことに喜んで、約束の金以外に俺も含め雇われていた者達皆に、それぞれに褒美の品も下さった。俺にはこれだった」

 ソウは帯を懐かしそうに触った。

「元々は自身の為に買ったそうだが、一度締めたとき奥方に帯に負けていますよと苦笑されたそうだ。それ以来しまい込んでいたが、俺なら負けないに違いないと出してきて、その場で着させられた。主人も、傭兵の仲間もよく似合うと請け負ってくれた。さすがにこれは褒美だと軽々しく頂くものではないと返そうとしたんだが、主人が言ってくれた、似合う者が使った方が帯も浮かばれると。お前と同じ事を」

 目を見開いた莉蘭に、ソウは面白いだろうと言い、さらに話を続ける。

「俺はこの帯を締めたまま。次の仕事に就いた。道中でやっかいごとに巻き込まれて、たちの悪いやつらに絡まれた」

 それを聞いて莉蘭が不安げにソウの顔を覗き込むと、ソウは苦笑して大丈夫だったと返してきた。

「そのときに相手に、そんな煌びやかな格好を好む軟弱な男が俺たちに敵うと思うのかと嘲笑われた。随分俺のことを軽んじている様で、俺はそれを聞いて、この帯一つで軽んじてもらえ、相手が油断してくれるのかと感心した。思った通り簡単に追い払うことができた」

 莉蘭もぽかんと口を半開きにした。

「そんなものなのか?」

 莉蘭の懐疑に満ちた物言いが面白かったようで、ソウは笑った。

「これで相手が油断して、俺が生き延びやすくなるならと、ずっと俺はこの帯を着けたままでそれからも仕事をした。結局そんな甘い話はそれから一切なく、この帯で有利になったのはあのときだけだったが、それでも面白い経験だったと思っている」

 ソウは語った話の通り、穏やかな顔をして帯を見ていた。ソウの横顔を見つめながら、ソウの昔の話を聞くことができる、これだけがこんなにも幸せだと感じられることを、莉蘭はこれまで知らなかった。

「あなたのことが知れて嬉しい」

 ソウは顔を上げた。

「お前が菜の花を見て喜んでくれたあのとき、俺も嬉しかった」

 え、と莉蘭は目を見開く。

「そんなことは絶対にしないが、この帯を売ったとしたらかなりの額になるだろう。これにはそれだけの価値がある。だがお前は俺から金が欲しくてこれを刺したわけではあるまい?」

「それは、もちろん。ただ私がもう一度、帯を締めているあなたを見たかったから」

「俺もお前から物理的な見返りが欲しかったわけじゃない。お前に喜んでほしかっただけだ」

 莉蘭はしばらく呆けていた。やがて色が深くなるように顔にゆっくり笑みを浮かべていく。

「ありがとう。蒸かし饅頭も花も、表着うわぎも嬉しかった」

「……表着はまあ、忘れてくれ。次はもっと似合うものを贈る」

 莉蘭は、今は手元にない空色の表着を脳裏に描いた。良心がちくりとする。

「ごめんなさい。あれはその……売るために奈瑠に預けた」

 ソウは目を見開いて、大きく声を出して笑った。

「なかなか逞しいな、いいことだ」

 それでもあれはそれなりにしたに違いない。腕利きの傭兵が、どのくらいお金を稼げるのか莉蘭には分からない。そのひっかかりを察したのかソウは肩をすくめた。

「俺は腕があるからあれくらいならいつでも稼げる。お前の性分だろうが気にするな。それに先の内乱制圧で結構な給金も得ていたんだ」

 知りたかったことの一部が返ってきて、莉蘭はへえと前へ体を動かした。

「募集の人数が少なかった。運良く定員内に潜り込めたんだが、取り分が多かった。移動しただけで金になったから、楽な仕事ではあったが」

 ソウはそこで言葉を切った。何かを思い出すようなそぶりを見せている。莉蘭も、ソウの話に違和を持った。

「妙な出兵だったな」

「募集も、少なかった?」

「ああ。しかも選定もなく、だから素人のようなのも参加していた。危ないところに潜り込んだかと危惧していたが、蓋を開けたらこの仕事を始めて一番楽で実入りのいいものだった」

 ソウが眉をひそめた。莉蘭も同じ顔をした。


 ──高名な占い師になりたくば、先回りしてそれを知り、あたかも占ったかのようにふるまえばすぐに叶いましょう──


 今朝のクロネコの言葉が不意に脳裏に蘇った。

「内乱と制圧が、はじめから計画されたものだったというということはないだろうか……」

 ソウはまじまじと莉蘭の顔を見た。莉蘭は、今朝にクロネコと話をしたことをかいつまんで説明した。しかし言いながら自信がなくなっていく。ことがことだけに、荒唐無稽な気がしてくる。

 ソウも、莉蘭の考えを馬鹿らしいと笑わなかったが、肯定もしなかった。

「つくづく不思議な人だな、クロネコも」

「全くだ」

 そういえば、オオキバドロバチがどういう蜂なのか知りたいと、莉蘭がクロネコに聞いてから入手したまでの経緯も、少々不思議な気がする。

 あの日、莉蘭の姉が藍連殿に訪れたとき、先触れがあったのかどうか、もう分からない。

「このオオキバドロバチの絵を刺すときにも、クロネコ殿が手助けしてくれた」

 莉蘭は、蜂の刺繍は帯の糸の色に合わせたので、本当は違うことを説明した。

「実際は、黒が基調で所々に橙の差し色が入っている大きな蜂だそうだ。クロネコ殿も言っていたが、あなたはオオキバドロバチみたいな雰囲気を持っている」

「ならお前も」

「なに?」

「針を持って、まるで雌蜂だ」

「……蜂」

 莉蘭は一度口を閉じ、姿勢を正した。莉蘭の真摯な顔を見たソウもまた、莉蘭に対し顔を正面にむけた。

「私のことを聞いてくれるか?」

「ああ」

「あなたは私が俳賓の出身かとあの日尋ねた」

「そうだ。声も違っていたが、別れる手前の「あなたに天のご加護がありますように」という挨拶、あれがあったから、余計にあの時のお前と今とが結びつかなかった」

 莉蘭は過去を思い出しながら、瞼を伏せた。

「母が俳賓出身だった」

「俳賓の、確かどこかの部族が、親しい相手にそう挨拶をしていた」

「私はそれを知らなかった。ただ、大事な人にする挨拶よとだけ母から教えられていた」

 そうか、とソウが緩やかに返してくれる。

「母は、母の部族のことで、不思議な慣わしがあることも教えてくれた。母の部族は誰もが、一生の生き様の象徴となるような動物を天から与えられ持つと」

「象徴?」

「部族の誰かに子供が産まれたら、一族の長がその子の顔を見て何がその子の象徴獣か教えてくれるそうだ。母の象徴獣は猿だと教えてくれた」

「猿なのか?」

 莉蘭は視線を下方に置き、母のことを思い出す。

「手足が長く、身も軽く、母は軽業と踊りを得意としていたそうだ」

 莉蘭はその母の踊りを知らない。彼女は莉蘭が物心付いたときにはもう伏せることが多かった。

「あと種によるそうだが、猿は頭の雄一頭に対し雌を数匹囲むものもおるらしい。今の皇族のようだとも言える」

 なるほどとソウが相づちを打ち、小手を身につけていない手のひらで、莉蘭の手を覆った。

「お前はどんな動物なのだ?」

「私は、ここで産まれたから分からない。でも」

 ソウは莉蘭の言葉を継いだ。

「蜂、なんだろうな」

「ああ」

 二人は肩を寄せ合い、くすくすと笑い合う。互いの長い黒髪が境界を曖昧にするように重なり揺れた。二人はまたソウの黒帯を見た。

「ありがとう。大事にする」

 ソウの簡素だが、気持ちのこもった謝辞を聞き、全てが報われたような気がした。

「こちらこそ、あの日私を助けてくれて、本当にありがとう」

 莉蘭はまだ笑みを浮かべながらソウに礼を述べたあと、しかし視線を下ろし迷うように顔を伏せた。

「どうした?」

「あの、……あの日」

 優しく、もう一度どうしたと促され、莉蘭はぼそぼそと喋る。

「どうしてあそこに……花街にいたのだ?」

 ソウはわずかに首を傾げながら返事した。

「検分だ」

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