第15話 すれ違い
莉蘭は口をぽかんと開けた。
「なんだ。なら今日会ったときに俺に聞けばよかったのに。しかもあんな茶番を信じたのか。あれは笑い飛ばすところだぞ。……だから今日、会った最初は表情が硬かったのか」
ソウは苦笑している。
「お前は本当に何でも鵜呑みにするんだな。一応言っておくが、身分と矜持が馬鹿高い女の気まぐれを真に受けるほど、俺は初心ではない」
そう断言され莉蘭はかっとなった。
「あれのどこで笑えというのだ!」
「まず俺は一言も従うとは言っていない。それにな、お前はああいう身分を笠に着た嫌がらせを思いつくほど擦れていないのは分かるが、余りにも疎すぎる。了承しようものなら数日後に此処に来いと指示され、その日にほいほいと行くと、皇女がいない場所で田舎者が真に受けたのかと笑いものにされるんだ。皇女が言った会わせろと訴えても会えるわけがない」
莉蘭はまたも口を開き「え」とだけ返した。ソウはやれやれと言いたげに肩を動かした。
「万が一受け入れられたとしても平民が過分な栄誉を受け、家柄がものをいう団体に後ろ盾なしで入ろうものなら嫉妬で潰される。こちらに一理もない暇人の遊びになど付き合いたくもないのが本音だが無下にできない。だからああ言うしかない。どうせ向こうも一月後には忘れている」
莉蘭は驚きつつも「それでも」と続けた。
「
「あれはもう手元にない。売った」
「う……う、うった?」
本格的に言葉が出なくなった莉蘭に対し、ソウはまだ言い足りないとばかりに続きを話す。
「なかなかの物でいい金にはなったが、だがあの皇女……歳はお前とほとんど違わないのだろう?」
ソウは分からないと言いたげに首を傾げていた。
「あれは老いた女性が刺すような簪だったな。なんたって青珊瑚を選んだのか分からん。赤い珊瑚の方が似合うだろうに。まあ彼女の趣味なぞどうでもいいがな」
莉蘭は呆然としている。だがソウは表情を消し、莉蘭の前に一歩足を出し着物が触れるほど近くで立った。
「そうか。お前が先ほどほとんど食わなかったのも、金が払えるかどうか不安だったからか」
低い声が莉蘭の腹に響いた、そんな感覚がした。
ソウは容赦なくさらにそのあいだを詰めた。
「俺が尻軽の甲斐性なしで、お前を見捨て、あの皇女に従うような男だと、お前は思ったのだな」
「あなたが先に言った。私を孕ませたとしても、共に暮らすつもりもないと」
ソウはまなじりをきっと上げた。
「それはお前が裕福に暮らしていると、俺が勘違いをしていたときの話だ」
「ならなお、私になど価値もなかろう。後ろ盾もない名ばかりの皇女より、名家の出の母がいる姉の方がいいに決まっている。だから姉にああ提案されてそれを受けるのも当然だと思ったんだ」
ソウの手が莉蘭のすぐ横、板壁に添えられた。びくりと肩を強ばらせ逆側へ体を向けたが遅かった。そちらもソウの手に阻まれ、莉蘭はソウの腕の中で横向きになったまま身を縮めていた。
「莉蘭、お前は本当に俺を怒らせるのが上手い」
低く固い声、怒りを十二分に潜ませながら、必死に耐えている声だった。莉蘭は息を詰めながらも、またソウの顔を見返す。
ソウの怒りの理由が分からない。自分は間違ったことを言っていない、莉蘭はそう思っているが、彼の怒りの深さを知ると、自分が不当なことをしている気になってくる。
「何故、あなたが怒る」
「俺がお前を勝手に判断してお前が憤ったようにな、お前が俺の感情を勝手に解釈すると俺も腹立たしくなるんだ」
莉蘭は目を見開きソウを見上げた。先ほど発した声とはうらはらの、酷く傷付いた男の表情に、莉蘭は愕然とした。
ようやく気が付いた。演武会の直後、勝手に断罪され怒り狂った記憶もまだ新しいのに、にも関わらず自分は同じことを彼に返してしまった。
しかもソウは、怒りを抱きつつも莉蘭のように爆発させず、堪えてくれている。
羞恥で、莉蘭の顔が赤くなった。
「……そ、ソウ。わ」
ソウは離れ、踵を返し、そのまま歩いていく。
「ま、待って、くれ」
莉蘭の懇願を聞かず、ソウは襖を開け出た。後ろ手に閉じられた襖が、静かに閉じたことがさらに莉蘭の胸を
莉蘭は早朝に目覚めた。部屋の空気が昨日よりあたたかく感じた。朝餉まで時間があるが、莉蘭は起床した。縁側から庭に出て朝の清々しい空気を味わっていた。
庭の羊歯を眺めていると、どこからともなく猫の鳴き声がした。クロネコの従者のどちらか──いや、猫がクロネコのあるじたちなのか──莉蘭は声がする方に足を向けた。
確かに黒猫と白猫がいた。その主の男もそこにいた。
彼はじっとただそこに立っていた。
「莉蘭様ですか」
「申し訳ない。邪魔をしたか」
「いいえ」
クロネコは莉蘭の方を向かずに声をかけてきた。莉蘭が去ろうかと思う手前で彼は踵を返し莉蘭に向かい合った。
「おはようございます」
「おはようございます。いつもこんなに早いのだろうか」
「ええ」
クロネコは、わずかに首を傾け、空を見上げている。まるで空から何か降ってくるのを待っている、もしくは受けているように莉蘭には思えた。
時々彼はこのような仕草をする。はじめは考え事をするために視線を上に向けているのかと思っていたが、今の挙動を見て直感的に何かを授かっているのだと思い付いた。
ふとそれが、莉蘭の知る挨拶を連想させた。
「天の加護を受けるとはどういうことなのだろう」
思わず出た問いだった。言った莉蘭が慌ててしまった。いきなりでクロネコは怪訝に思うだろうと莉蘭は首を振る。
「なんでもない。申し訳ない」
「見守って下さっている。一人ではない。そのような意味です」
莉蘭は顔を上げた。クロネコは静かな表情で、莉蘭の真意を知りたいかのように彼女を見ていた。
「あなたはご自身が孤独であると感じますか」
クロネコの問いは唐突であると思ったがお互い様だろう、莉蘭も真面目に考えてみる。
自分は孤独だとずっと思っていた。だが実際は、少なくはあったが必ず誰かが傍にいてくれた。
「あ」
ソウは奈瑠がいなくなる当日も翌日も訪ねてきた。一昨日も姉が来なければソウと会って話ができたはずだ。彼は昨日も、服まで用意して外に連れ出してくれ、莉蘭はかつてないほど楽しい時間を過ごせた。もしかせずともあれは気遣ってくれていたのだと思い至る。それなのに自分はあんな疑いを投げたのだ。
「いや。誰かがいつも私を助けてくれる。今もそうだ。あなたがこうして屋根のある場所を貸してくれている」
ただ、ソウはもう自分に会いにこないかもしれない。莉蘭も先ほどのクロネコと同じように空を見上げた。薄い水色がどこまでも広がっている。
美しい空色、ソウが贈ってくれた
生きていくためとはいえ、あれを手放したのを今になって後悔している。奈瑠と約束がしたが、ソウと共にあれを引き取りにいく機会はもうない。だが、自分の手元に戻したいと思えてきた。
あの着物を取り戻しても生きるのが難しくなくなったときに、もう少し大人になれるかもしれない。そのように考えると前向きになれた。
「私もいつか誰かをそうして支えられるほど強くなりたい」
「今でも、あなたの存在に救われた方は多いですよ」
莉蘭はまたクロネコを見た。彼は無表情だった。
「奈瑠さんも蓉春さんもあなたに助けられたはずです、違いますか?」
莉蘭は目を見開いた。
「そんなことまで分かるのか。それも占いの力なのか?」
クロネコは首を否定の形に振った。
「占いというものの本質は、依頼者に希望を与えるものです。未来が良いものであればそのように、そうでなければ導とする」
厳粛な物言いに莉蘭の背もひとりでに伸びた。
「例えば病気で余命幾ばくもなさそうな方が、拙にあとどのくらい生きられるか占ってほしいと依頼したとします。拙は医者ではない。分かるわけがない。しかしこれから少し回復し、十年は余命があるとお伝えする。人によりますが、十年は生きられるのかと気力が回復し、実際長く生きる場合もなくはない」
分かりますかと問われ莉蘭はうなずいた。
「その邪流で虚栄心を満たしたいだけの者には……そう、第四皇女殿下のような方には欲しがる言葉を与えておけばよいのです」
軽い衝撃に、莉蘭はロネコを眇めて見た。彼は先ほどから全く表情を変えなかった。それがそのまま非情と銘を付けられそうな佇まいだ。
これまで莉蘭らに対しては、無感情に近いながらもあれやこれやと目をかけてくれた彼だが、不意にそれが本質でないのではと思わせる不気味さを莉蘭は感じ取った。
「彼女の口から莉蘭様の名が出たとき、彼女はあなたに対しかなり歪んだ感情を持っていることに気付きました。だから彼女の欲しい「未来」を言った。それだけです」
莉蘭はでは、と思わず返す。
「本当の私の未来は……」
言いさし言葉を切った。クロネコも黙っていたが、やがて問うてきた。
「知りたいですか?」
莉蘭は首を左右に振った。
「いいや」
本心だった。知らずにいれば一切悩まなかったはずなのに、知ってしまい苦悩した。どんな未来だろうと知らない方がいい、それに縛られたくないと思った。
「よかった」
無感情な一言をクロネコがぽつりと漏らした。
「なに?」
「知りたいと仰ったらどうしようかと。全く分かりませんので」
悪びれるわけでもなく、ただそこにある事実を口にしただけのいいようだ。
莉蘭は困惑してきた。
「あなたは、石澐将軍が出兵した直後、まだ彼らが現地にも到着していない時点で無血制圧されると予言された」
「ええ」
「あれは、あなたの占いの力なのだろう?」
クロネコは、フードの下、影の濃いなかで目を細めた。笑っているようにも、目を凝らしているようにも見える。
辺りに影が増したような感覚がした。
「高名な占者になりたくば、先回りしてそれを知り、あたかも占ったかのようにふるまえばすぐに叶いましょう」
「……なに?」
どういうことなのか。莉蘭は顔を強ばらせた。その言い方ではまるで詐欺のようだ。
詐欺?
とても嫌なものが、深く喉にひっかっかたような気がする。その棘は対峙の男の中にある。薄氷でできている、しかし鋭利な棘。
春の日差しが不意に全て陰ったかのようだ。莉蘭は身震いをした。
ところでと、うってかわって軽い口調でクロネコは莉蘭に話しかけてきた。
「本日少々難しい来客があります。申し訳ありませんが一時藍連殿を離れていて下さいませんか。しばらく北のあの隠れ庵にて待機して頂きたいのです。最悪一晩」
いつものクロネコの雰囲気に戻っていた。莉蘭も、先ほどの薄気味悪さを反芻したいと思えない。戻った安穏とした空気を受け入れた。
「構わない。そもそも厚かましくもいる私がよくない。……ここを出ようと思う」
ソウはもう来ないだろう。あのような礼を欠いた行いをした自分自身が許せないのに、ソウが許してくれるとは思えなかった。
「奈瑠のところへ行く」
「ならば後日、拙がお送りしましょう。莉蘭様お一人ではいささか心配です」
「そこまで迷惑をかけるわけには」
「その件は後日。本日は北に」
反論は許さないとばかり言われ、莉蘭は受け入れた。朝餉のあと莉蘭は少しの荷物を持ってクロネコと共に中庭に出た。
「彼女に付いていきなさい。人が近くあれば動かなくなります」
前のときのように白い猫が先にいた。莉蘭は助言に頭を下げ、白猫に向かって一歩足を出したとき、背後からそっと声をかけられた。
「あなたに天のご加護がありますように」
莉蘭は目を見開き振り返った。だがクロネコは何事もなかったかのように無表情のままで、莉蘭を無視し屋内へ入っていった。背からも催促のように猫がにゃあと鳴いた。莉蘭は後ろ髪を引かれる思いであったが、白猫を追って先へ進んだ。
庵に着き白猫はすぐさま去った。
庵で莉蘭は腰を下ろし裁縫道具を出して、黒帯に蜂の絵を刺す続きの作業に取りかかった。ずっと手を動かし暗くなる前に仕上げ、莉蘭は堅くなった体をほぐすため一旦庵の外に出た。
荒れた庭がやけに広く感じる。夕方の空に三日月が見えた。もう少し待つと宵の明るい星が西に見えてくるだろう。
そのとき、南からカサカサと音がなった。先に白猫が現れ、次いで人影が見えた。クロネコだろうと待っていると、現れたのはソウだった。彼は莉蘭を認めると、灯りが点いたように表情を明るくした。
「ここにいたのか」
ソウの安堵の声が、それが何故か心に沁みるほど嬉しく、莉蘭はソウに笑みを返す。
「あなたが私を迎えに?」
「迎え? いいや? 迎えとはなんだ?」
莉蘭は今朝にクロネコに言われたことを、そのままソウにも伝えた。
「そうだったのか。俺も入れてもらえなかった。裏から飯だけ渡されどうしたものかと思っていたときに、白猫がやってきて招かれるままにここに来た」
その白猫ももう見当たらなかった。
「ではまだ藍連殿には戻らないほうがいいのだろうな」
「お前はどうして外にいたんだ。散歩か?」
「そんなところだ。さっきまでここで刺繍をしていたんだ。背が痛くなったので外で月を眺めていた」
莉蘭は庵を指さしたあとで西の空を仰いだ。ソウも真似て空に視線をやった。
「三日月が綺麗だ。風流だな」
ソウはまた黒ずくめの格好をしていた。だがクロネコのように、風景に溶けそうな佇まいではない。際立つ存在感があり、莉蘭には視線を外すことが難しい。
「私を訪ねてくれてありがとう。とても嬉しい」
莉蘭は、そう礼を述べたのち、感極まり涙が出そうになった。会いに来てくれると思っておらず、それだけでなく、穏やかに話をしてくれることも嬉しかった。
「もう会いにきてもらえないかと思っていた」
「なぜ」
「私はあなたに酷いことを言った。だからだ。……昨日は済まなかった」
「お互い様だ。それにあんな喧嘩など、犬も食わない類いのものだ」
「犬? 何故犬が出てくる」
ソウは笑っただけで答えてくれなかった。しかし彼の背負っている空気は穏やかで、許されたことは理解できた。
まだ見捨てられていないことが嬉しかった。
「ソウ。よければ庵の中に入ってくれないだろうか。渡したいものがある」
「俺を招いてくれるのか」
嬉しそうにそのように言う彼を、莉蘭は照れながら庵に招き入れた。二人は数日前に激しく言い合いをした部屋に入った。
莉蘭はソウに座るように言い、彼女は先ほど完成したばかりの黒帯を彼に渡した。
ソウは受け取った瞬間、硬直してから勢いよく顔を上げた。
「これは」
「あなたに返せてよかった。あなたの方が似合うから」
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