第14話 菜の花
莉蘭は背を凍らせ息を飲んだ。
「な、……え」
心の準備ができていなかった。莉蘭の思考は完全に白くなったのだが、ソウはどうかしたかという顔で微笑さえ浮かべていた。
「俺と皇居の外に出てみないか?」
「え、……で、出る?」
思いもしないことを提案されて莉蘭は面食らう。おかげで悲しさが吹き飛んでしまい、少し頭も働くようになった。ソウは我が道をいくように気楽に持参した荷を開けている。平民が日常に纏う着物が二組入っていた。
「これに着替えれば俺たちだと分かるまい。どうだ嫌か」
莉蘭は反射で嫌ではないと答えた。その実何も考えられていなかった。では着替えるかとソウは立ち上がり、ぽいぽいと着物を脱いでいく。
「ひゃ」
ソウが野袴を落としたとき、莉蘭は真下に顔を伏せた。
「……お前がそんなふうに照れると俺も照れくさいんだが」
「あ、いや、わ、わたしのことは気にしないで」
「だがお前はこれの着方が分からないだろう、だから脱げ」
莉蘭は反論したくソウに顔を向けた。ソウは下帯一枚で莉蘭の真横にしゃがんでいた。莉蘭はまたひゃっと小さく叫んで顔を背けた。
「脱げ。着せてやるから」
「い、いや、分かるから、本当に」
「なんだつまらん」
ソウは立ち上がり着物を着始めた。黒装束でない普通の市井の民の格好になり、彼はその場でさっと髷も結った。服装そのものは全く珍しくもないものだが、常に黒い服ばかり着ていたソウが別の格好しているのが新鮮だった。見惚れてしまった莉蘭に対し、ソウはニヤリと笑みを向ける。
「やっぱり分からないのか? 着せてやる。立って脱げ」
「い、いいや」
莉蘭は用意された一式を取った。ソウに向かい合い寝台の前の衝立を指さした。
「向こうで着替えてくる」
「ここで着替えればいい。お前は俺が着替えているのを全部見たじゃないか。俺も見なければ不公平になる」
「全部は見ていない。途中からだ」
「ということは後半の途中からは俺も見て構わないはずだ。裸になったら衝立から出てこい」
「いやだ!」
ソウがおかしそうに笑うのを背で聞きながら、莉蘭は足早に衝立の向こうに去った。中を広げると、赤い着物が入っていた。高価ではないが、選択された色に笑っていいのか照れていいのか。莉蘭はぎこちなく着物を脱いだ。
肌襦袢まであるのは何故かと思っていたが、着替えの途中で理由を知った。用意された着物を着るには、今纏っている肌襦袢は長すぎる。それを脱いで衝立に掛け、莉蘭は着物を着替え終えた。終えて衝立の向こうに出る前、ソウが怪訝そうに「これは」と呟いた。
「どうかしたか?」
衝立の向こうに出ると、ソウは今し方莉蘭の脱いだ肌襦袢を見て眉をひそめていた。莉蘭の顔が赤くなる。
「そんなに見ても楽しいものではなかろう」
「そういうことでは……」
ソウはまだ眉根を寄せていたが、莉蘭の姿を見て顔の緊張を解いた。それから実に嬉しそうに顔を綻ばせた。
息が止まりそうになった。初めて会ったあの日、一度だけ見ることができた気安げな笑顔にまた会えた。ぽおっとしている莉蘭の上から下までを眺め、ソウはうなずいた。
「やはり赤がいいな。似合っている」
ソウは足取り軽く莉蘭の背に回り、真後ろに立った。莉蘭の
「そのままでいろ。髪を結ぶ」
ソウはするすると莉蘭の髪を解き、手で梳いて町娘ふうに髪を後ろでくくった。親密な動作な気がして莉蘭は息をひそめる。
「可愛らしい」
素朴な感想が嬉しくて、しかし恥ずかしくもあり、莉蘭は目を伏せたままでいた。
「鏡を見たいか?」
ソウは楽しげな笑みを浮かべ、莉蘭の返事を待っている。莉蘭は鏡を覗きこんだ。
時折身分を隠して外を歩いたときは、いつも頭に布を被って少年のような成りでいた。このように市井の町娘のような格好をしたのは初めてで新鮮だった。見入っていると鏡にソウも映り込む。笑顔が鏡越しに見える。くすんだそれでなく、直に見たい。莉蘭が望みのままに顔を横に向けると、ソウの顔がごく間近にあった。
ソウは莉蘭の視線を受け、笑顔を消した。
「……ソ」
「行こう」
彼は顔を逸らせ、莉蘭の手を取った。ソウは藍連殿の表とは逆の方向に向かう。使用人が使う扉から出てその先の御用門から出るという。莉蘭には何もかも初めての経験だった。
門を潜ったときは少し鼓動が速くなった。通りの人が二人を一瞥するが、その視線に意味はないようですぐに通り過ぎていく。
「ほら。大丈夫だろう」
莉蘭も納得して肩の力を抜いた。
ソウは外に出ても莉蘭の手を離さなかった。それどころか肩を添わすように歩こうとする。莉蘭は周りを確認したが、同じように寄り添って歩く男女などいなかった。しかしソウは、莉蘭の疑問を読んだかのように耳に顔を寄せて小声で話しかけてきた。
「俺から離れないでくれ」
莉蘭は恥ずかしいながらも、言われた通り寄り添って歩いた。
「来い。まずは何か食おう」
連れて行かれた屋台で蒸かし饅頭をソウが買った。渡されたが熱くて持てない莉蘭が、それを座った膝の上に置いているのを見てソウが笑った。
「宮中では熱いものは食わないか」
ソウは手ぬぐいを出し莉蘭の饅頭をそれに乗せた。
「割ってから食べたほうがいいぞ。やけどする」
言われた通り割ると湯気が立つ。いかにも熱そうなそれに息を吹き、食べるとほんのり甘く莉蘭の頬が緩んだ。
「おいしい」
「それはよかった」
莉蘭よりソウの方が数段嬉しそうな顔をしていた。最初に出会ったときの、あの楽しかった時間が戻ったようだと莉蘭は思う。だがこれも、すぐになくなることだ──昨日のソウと姉のやりとりがふっと頭にもたげ、それを思うと心が沈んだ。
それからソウはゆく先で食べ物を買おうとしたが、莉蘭はそれを全て断った。
「腹が減っていないのか?」
それはある意味正しい。この先の憂鬱を思うと何も喉を通りそうにない。ならばと、ソウはまた莉蘭の手を握り歩き始めた。
まだ日は高い。少し風が出てきたが、あたたかな日差しで歩きやすかった。進むにつれ人通りがだんだん少なくなっていく。最終的に大きな河まで来た。
「疲れていないか?」
「大丈夫だ。ありがとう」
ソウは意外そうな顔をしていた。
家屋の並びを抜けるとさっと視界が広くなった。眼下に一面黄色が鮮やかに敷かれている。風に煽られふわりと、甘さと青さを含ませた香りが莉蘭の元まで軽やかに届いた。
「ああ、これはすごいな」
莉蘭は川辺に広がる菜の花を見て、大輪の花が咲くように艶やかに笑みを深くしていった。ソウが手を引いて二人は川辺まで降りた。莉蘭は傍まで寄って花の香りを吸い込む。
「こんなところに」
「誰かが植えたようだな。お前には珍しいかと思って」
「素敵だ。連れてきてくれてありがとう。嬉しい」
ソウも晴れやかに笑う、その一瞬に彼の目が青く煌めいたような気がした。莉蘭はソウの目を見続けたが、今はもう黒い。ソウが優しい顔のままどうしたと聞きたげに首を傾げた。莉蘭は曖昧に笑いながら何でもないと首を振った。
しばらく二人は花の隣を沿いながら歩いた。やがて花の群れの末が来て、二人は一旦足を止めた。
そこでソウがおもむろに口を開いた。少し堅い声だった。
「莉蘭。刺繍のことをどうして俺に教えてくれなかった」
莉蘭は虚を突かれてしまい、すぐに返事ができなかった。そういえば伝えていなかったのかと思い出した。
「黙っていたわけではない」
「奈瑠さんからお前のことを聞かねばならん気まずさを、お前はもっと汲んでくれ」
非難がましく言われ、言い返す前にソウが莉蘭を制した。
「お前は後ろ盾がないと言っていた。あの籠もりの日、あの部屋で広げられていた着物は、お前が全て縫って作ったと奈瑠さんに聞いた。そういうことをずっとお前は続けていたとも。その刺繍で稼いだ金を使って宮中で暮らしていたのか?」
「そうだ」
莉蘭は奈瑠の大叔母、蓉春の言葉を今でも覚えている。
──莉蘭様はここでどなたの助けも受けられないでしょう。生きていくために針を刺しなさい。
最初は亡くなった母の着物を自分用に縫い直すところから始めた。蓉春は厳しかった。蓉春は実家から仕事を受け莉蘭にさせ、それをまた実家に戻しを繰り返し、莉蘭に着実に仕事を覚えさせた。
莉蘭はふうと軽く息を吐いた。
「あのときは、奈瑠が下がる前までに仕上げたくて、片付ける間も惜しかったのだ。慌ただしいところを見せて済まなかった」
「謝ることではない」
ソウの語気は強く、莉蘭は眉根を寄せた。
「どうしてあなたが怒る?」
「お前に怒っているわけではないが、腹が立つだろう、当たり前だ」
「どうして」
「どうしてだと?」
莉蘭が怖々と肩を引いたのを見てソウは我に返った。
「お前に怒っているのではない、強いて言うなら俺自身にだ」
「あなた自身に怒る必要などそれこそなかろう。言われれば確かにあなたに知られたくなかったのかも」
「何故だ」
押さえているようだが、ソウの言に苛立ちが溢れている。莉蘭は慌て、ソウを宥めるように手を軽く振った。
「私自身を情けないと思っているからだ。あれは奈瑠の実家の皆の慈悲でやっていたことだから。私は身内でない人たちの世話になってようやく生きていけた。しかも私は宮内で主人であるにも関わらず、奈瑠を満足に守ってもやれなかった。奈瑠が下がったときにも何もしてやれなかった。せめてあなたのように力が強かったら奈瑠を守ってあげられたのに」
ソウは顔をしかめた。
「俺も生まれたときからこうだったわけではない」
「だが今は違う。私は大人になった今でもほとんど何もできない」
「待て、あれほどの刺繍の技を持つ者がほとんど何もできないというなら、大半の人が赤ん坊同然だぞ」
「市井の民ならそうだろう。だが私は皇女だった」
ソウは言葉に詰まり黙った。彼の目の前に立つ莉蘭の肩は薄い。押せば簡単に倒れそうなほど。
「名ばかりの皇女だった。本来なら民のため尽力すべきであるのに、自分が日々生きていくことだけで精一杯なのが悔しい」
悲嘆に暮れた声だった。
「後ろ盾はおろか両親さえいないに等しかったお前に何ができた。それにもうお前は皇女ではなく、細腕の女でしかない。そんな悔恨など捨ててしまえ」
乱暴な言い方ではあったが、ソウが莉蘭を慰めようとしてくれることは分かる。
ただ、その彼の優しさもが莉蘭を
「今も何もできない」
「今? 今がどうした」
「あなたがこうして綺麗な花を見せてくれても私は何も返せない」
どうしてお前は、と聞こえ莉蘭は顔を向ける。ソウは悔しそうに口を結んでいた。莉蘭が困って立ち尽くしていたとき、川からびゅうとひとつ強い風が吹いた。体温を奪うようなそれに莉蘭は思わず二の腕を掴んだ。
「寒いのか?」
「少し。でも大丈夫」
ソウは莉蘭の背にぴったり沿って立った。どうしたと問う彼女を背から抱きしめ、ソウは莉蘭の腹に手を置いた。
ソウの腕の中で莉蘭はカチリと石のように硬直した。
「な、な……な、なに」
「これでもう寒くないか?」
莉蘭は動いて逃れようとしたが腕から出られない。強く抱きしめられているわけでもないのに、何故離れられないのか。莉蘭の頭にソウは頬を添えた。
「まず覚えろ。これが男の上手い使い方だ」
ソウが喉の奥で笑っている音に耳をくすぐられ、莉蘭は肩を震わせた。
こんなことで寒さがしのげるはずがないと莉蘭は思っていたのだが、こうしていると本当にあたたかかった。
逃げたくても逃げられないから仕方ないと自分に言い訳しつつも、相愛の二人のように寄り添い抱擁することを一度も夢見なかったということはない。
これで最後と思うと、抗う気など失せた。
ソウの腕の中で徐々に莉蘭の緊張が解けていき、体が柔らかくなっていく。ソウが顔を少し横に向けると、莉蘭はそれを察したように頭を彼に預けた。
莉蘭の耳にソウの心臓の鼓動が聞こえる。力強いが同じ音の繰り返しである。にも関わらず一生聞いていられるような気がした。嬉しくもじわりと沸く切なさに、莉蘭の目に少しだけ涙が滲んだ。
耳元で莉蘭と呼ばれる。相手と同じような掠れた息が、莉蘭の口から零れた。目を開けると、ソウが莉蘭を見下ろしていた。厳しい目が怖く、莉蘭は体を強ばらせてしまった。
「おい、どうした?」
「あなたこそ、どうして怒っている?」
「俺が?」
ソウの意外そうな顔を見て、莉蘭の緊張も解けた。
「さ、さっき顔が怒っていたから」
ソウは莉蘭の思い違いを理解し、片手で顔を覆った。
「怒っているんじゃない……」
「ソウ?」
何があったのかと莉蘭が聞こうとしたとき、また川辺から強い風が吹いた。
「戻るか」
莉蘭はその提案に従い、二人は来た道を戻り、外出時と同じく裏口から藍連殿へ入った。部屋に戻るなりソウは莉蘭に向かい合い、莉蘭の姿をじっと一通り観察した。
「かなり歩いたが足は平気か?」
「え、ああ」
「歩き慣れているんだな」
それを気にかけてくれていたのかと納得した。自分を連れ出してくれた意図は分からないが、楽しい時間をすごせた。せめて何かしらで返さなければならない。
「さっき食べた蒸かし饅頭の値段はいくらだったか教えてくれ、私が出す」
ソウはそれまで、穏やかで楽しげでさえあった顔を一気に強ばらせた。
「花を見せてくれた謝礼としてそのくらいしかできない。少しなら今持っている」
ソウは動かず、莉蘭を見据えている。ソウの態度に莉蘭は気圧された。
「あくまで俺の感覚だが、了解を取らず先に行動した上で、それを相手が受けたその後で金子なり見返りを要求するのは卑怯だと思うのだが、お前は違うのか?」
莉蘭は虚を突かれ目を見開いた。
「仮にお前が俺の立場だったとして、奈瑠さんに、それを食うかとも金を取るとも前もって聞かず、饅頭を食わせたあとで金を取るようなことをお前はするのか?」
「いや」
莉蘭はソウの言わんとするところを察し焦りながら否定した。
「そんなことはしない」
「だが俺はそうする人間だとお前は思ったのだな」
「ち、違う」
「何がだ」
ソウの口調は静かだが深い怒りがあった。莉蘭は恐ろしいと思ったが、理由は言わねばならない。
「私と奈瑠との関係と、私とあなたの関係は全く違う。私は奈瑠を身内と思っているが、あなたはそうじゃないだろう。他者から受けた恩は返すのが礼儀だ」
言っていて喉がひきつれるような感覚がした。そうと認めたくない真実を無理矢理言わされている気がする。
「よりによって俺を他者などと言うか」
莉蘭の前で、ソウは昏い笑みに顔を歪めた。莉蘭は間を置くため一旦息を飲んだ。
「他人だろう。あなたは昨日、百日後に姉付きの護衛になると約束していた」
莉蘭がソウの怒りを跳ね返すように言うと、ソウは表情を緩めた。
「昨日、謁見の間の御簾の向こうに妙な人影があるとは思っていたが、お前だったのか」
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