第13話 友との約束

「……なりません」

 奈瑠は青い顔をして拒否した。その理由も、さらに義理を欠いていることも分かるが、莉蘭は意思を曲げるつもりはなかった。

「せっかくソウ様が、莉蘭様へと贈って下さったものです」

 莉蘭は首を振る。

「一度袖を通し、夫に見せることができた。それで十分だ。今の私には過ぎた品だ」

「何を仰います」

「奈瑠、聞いてほしい」

 莉蘭の確固たる気迫に奈瑠は黙った。

「先ほどのクロネコ殿の占いをあなたも聞いただろう。私は遊び女に身を落とすことだけはしたくない。まだ多少余裕のある今のうちに、できるだけ蓄えておく必要がある」

「あ、あんなもの。そもそもソウ様が莉蘭様のお側を離れるとは限りません」

「そんな見え透いた嘘の慰めなどもらっても辛いだけだ」

「そんな……ですが、先ほどのソウ様は」

 莉蘭は奈瑠の視線を切った。

「頼む」

 莉蘭は奈瑠に頭を下げた。その主人を見て奈瑠は顔を歪ませた。

「そのようなこと、おやめ下さい」

 震える声に莉蘭がはっとして顔を上げると、奈瑠は泣いていた。

「情けないことを頼んで済まない」

 奈瑠は首を左右に振った。

「最後まで頼りない主人で済まなかった」

「そんなことはありません。莉蘭様こそ、不甲斐ない私をいつも守って下さいました。元々、私が大叔母のように、莉蘭様をお守りできればこのようなことにはならなかったのです。私の方こそ何もできなかったことをお許し下さい」

「許すもなにも。私は奈瑠がいてくれたからこそ、あそこで暮らすことができた」

「莉蘭様こそ、そのような嘘で私を気遣って下さらずともよいのです」

「そんなことはない。私は勝手に奈瑠を友だと考えていた」

 莉蘭の告白に奈瑠は目を見開いた。

「は?」

「呆れたか。友であったらよいといつも思いながら奈瑠とすごしていた。想像だけであったが楽しかった」

 莉蘭は自分を大切に育ててくれた奈瑠の大叔母を、奈瑠の顔を見ながら思い出した。

「母亡き後、奈瑠の大叔母は私の世話をしてくれただけでなく、刺繍の技まで教えてくれた。この先一人でも生きていけるようにと、技と、奈瑠の実家との結びつきも与えてくれた。私の刺した刺繍が奈瑠の実家で売られ、その金子があって、なんとか魔窟のようなこの皇居で今まで暮らしてこられた。奈瑠の大叔母のお陰で私は今生きていると言っていいだろう。彼女は母のように愛情を注いでくれたことも判っている。だがそれでも私は友も欲しかった」

 いつも優しく明るい侍女がいてくれたことで、日々の張りができた。

「本来なら奈瑠に礼の品を渡すべきなのだろう。だがこのざまだ。主従関係が終えてまで迷惑をかける不甲斐ない主人で本当に済まない。だが私にはもう頼れる人は奈瑠しかいない」

 感情を殺して語る莉蘭の目の前で、奈瑠は大粒の涙を流していた。彼女はひとつしゃくり上げ、姿勢を正した。

「莉蘭、様は」

「ああ」

「私の憧れです」

 莉蘭は意味を汲み取れず僅かに首を傾げた。

「大叔母は私の一族でも希代の腕を持つ職人でした。ですが大叔母は、子を死産させたのち、夫も戦で亡くし生きる希望をなくして、一度針を捨てました。このままでは大叔母は失望のまま死ぬであろうと、縁もあって半ば強引に皇居の下女として大叔母をあがらせたそうです。そのとき莉蘭様のお母様の侍女のなり手がおらず、大叔母が望んで特例で侍女として付くことになりました。そのまま大叔母は莉蘭様のお世話をすることになりました。最初大叔母は、刺繍の技をほんの思いつきで莉蘭様に教えたそうです。ですが莉蘭様の才に気付き、本格的に教えることとなり、大叔母は生まれ変わったように生き生きとすごすようになったそうです。祖父曰く、大叔母は自分の娘に刺繍の技を全て継がせたかったと。それを莉蘭様のお陰で果たすことが出来て、大叔母は幸福で逝くことができました。莉蘭様のお陰です。あなたが大叔母と、大叔母の持っていた消えそうな技を蘇らせて下さいました。そんな莉蘭様は私の憧れです」

 奈瑠の告白を、莉蘭は目を見開いて聞いた。

「私には針を刺す才能がありませんでした。莉蘭様にお会いする前は、一族皆が莉蘭様の描かれた刺繍を褒めていて、私はそれが悔しくてずっと莉蘭様をうらやんでいました。お側に上がることになったと決まった直後は、とても嫌だったのを覚えております」

 ですが、と奈瑠は鼻をすすりながら続ける。

「莉蘭様はそんな私にも優しくて、なのに責任感もお強く、甘えたところがひとつもない立派な御方で、美しくて、それを鼻にかけることもなくて、自慢のご主人様でした」

 目を閉じたとき、奈瑠の目からまた涙が零れた。

「嬉しいです。そんなふうに思って下さっていたなんて。私、莉蘭様にご迷惑ばかりかけていたから」

「奈瑠」

「ごめんなさい。莉蘭様。こんなことになって莉蘭様はお辛いことも多かったと思うのに、わたし……こうして最後にお話ができて、莉蘭様のお気持ちを知ることができてとても嬉しいです」

 奈瑠は莉蘭の前でゆっくり頭を下げた。

「莉蘭様のお側にいることができたこの二年の記憶は、私の一生の宝物になります」

 莉蘭の目にも涙が溢れた。

「……もし、もし奈瑠がいやでなければ」

 莉蘭はおずおず、涙を指で拭った。

「ここを出て一人になったら、今回の依頼の報酬と、表着うわぎの代金を受け取りにいきたい。そこで、どこかに住まいを借りて、奈瑠の実家の仕事を受け続けたい」

 奈瑠は目を見開いて主人を、本日で主従が終える彼女を見た。

「駄目だろうか」

「……いいえ、そ、そんなことができるなら私も嬉しいです」

 奈瑠はだんだん顔を綻ばせていく。

「でしたら、私と一緒に暮らしましょう」

 次は莉蘭が目を見開いた。

「あ、さすがにおいやでしたか」

「そうではない」

 思いもしなかった提案をされ驚いただけだ。

「莉蘭様は私のお友達なのだから、私の部屋で居候しながら、仕事をしてお金を貯めて、それから家を借りればいいんです」

 夢物語だと思った。しかし市井の人であれば特に珍しいことはない。莉蘭はもう皇女ではない。

 様々なことが挫かれ続け、希望を抱くことが難しい。降って湧いたような幸福を目の前に下げられ、飛びついてもいいものか戸惑うばかりである。

「そう、なったら、私はどんなに幸せだろう」

「そう思って下さいますか」

「もちろんだ。私もずっと奈瑠と一緒にいたい」

 莉蘭はほろほろ、堰が切れたように涙を零した。

 しばらく奈瑠は黙っていた。しかしやがて意を決し、奈瑠は主人に呼びかけた。彼女は意思をみなぎらせた真剣な目をしていた。

「莉蘭様の完成させた着物も、ソウ様からの表着も持って帰ります。実家では依頼の着物のお代金をご用意してお待ちしています。今から私の実家の場所もお伝えします。だから莉蘭様どうかお二人で」

「……なに?」

「ソウ様とお二人でおいで下さい。そのときにお代金と空色の表着をお渡しします。……まず、ご決断をお一人でされる前に、どうかソウ様ときちんとお話をなさって、あの御方の真意をお確かめ下さい」

 戸惑う主人に奈瑠はきっぱりと言う。

「私を友だと思って下さるなら、私の願いを聞いて下さい。私は莉蘭様が好いた御方と一緒にお幸せになっているところを見たいです」

 どうか、と奈瑠は頭を下げかけた。しかしそうはせず、莉蘭と頭の位置を合わせたままで、元主人の元まで寄ってきて膝を合わせた。呆然としている莉蘭の手を取る。

 莉蘭は堪えられずその場にくずおれた。奈瑠の膝の上で泣き、奈瑠もまた泣きながら莉蘭の肩を撫でた。


 午後、奈瑠の出立となった。莉蘭は部屋で見送ることとなった。

「奈瑠、荷物を増やして済まない」

「いいえ。迎えもおりますし。私との約束を守って下さればそれで私は幸せです」

 莉蘭は奈瑠に笑いかけ、友にするように手を振った。

「あなたに天のご加護がありますように」

 莉蘭の挨拶に、奈瑠はきょとんとした。

「母様に教えてもらった。大切な人にする挨拶だと」

「そうなのですね」

 奈瑠は深々と頭を下げた。踵を返し廊下を歩いて行く奈瑠の背を莉蘭は見続けた。

 奈瑠が去ってしばらく、莉蘭はずっとそこに立っていた。



 奈瑠が去った入れ違いに官吏がクロネコを訪ねて来て、クロネコを伴っていった。また父に呼ばれたのだろうと莉蘭は推測していた。さらに一刻ほどのちクロネコは戻り莉蘭を呼びつけた。

「ご希望されていたオオキバドロバチの書がありました」

 莉蘭は目を丸くした。

「先刻第四皇女殿下を占ったその後に、拙が書庫の閲覧を申し出たのです。早速手配下さり書をお借りしてきました」

 また占いますと請け負ったのが功を奏したのかも知れませんと、無機的に付け加えた。

 莉蘭は部屋に戻り、オオキバドロバチの書をめくった。該当の頁に栞が挟んであった。

 オスは一対の、クワガタのそれよりはやや繊細で細く黄色の長い牙を持つ。メスにはそれがない。羽根と胸の後方から腹の部分が黒、頭部並びに六肢は橙の色をしている。かつスズメバチとほぼ同等の全長とある。ドロバチの一種との説明書きがある。図説も掲載されていて、流麗ともいえる均整の取れた姿形をしていた。決して細くなく、だからといってずんぐりもしていない。頭部の一対の細い牙が実に優雅で勇猛で狩りバチとも呼ばれるそうだが、正に戦いの蜂といった風情だ。

 どこかソウを思わせるものもある。

 莉蘭はその図を別の用紙に書き写した。さらに蜂の図案をいくつか考える。納得のできる図柄を起こすことができ、莉蘭はソウの黒帯を手に取った。

 ところどころほつれのある黒帯。これは持ち主に返せるかどうか分からない。もはや自己満足の域になった。しかし一生の思い出として所持できるならそれも嬉しい。

 莉蘭は針と糸を持ち出し、黒帯のほつれを繕い始めた。



 莉蘭は翌朝一人で目覚めた。もう奈瑠はいない。身の回りのことも多少のことは藍連殿の侍女が手配してくれるが、莉蘭は元々自分一人でも大抵のことはできていた。だからそういう手間が辛いことはない。いつも傍にいてくれたひとがもういないという喪失感が莉蘭には辛かった。

 気を紛らわせるように縁側の傍で裁縫をしていたときに、藍連殿の侍女に声をかけられた。

「ソウ様がお戻りです。莉蘭様にお会いしたいと仰っています」

 莉蘭は身構えた。どんな顔をして会えばいいのか分からない。もしかしたら別れを言いにきたのかもしれない。会いたくなかったが、それで藍連殿の侍女を困らせるのも申し訳ない。さらに、奈瑠との約束もある。侍女には通すように返した。

 ほどなくソウだけが部屋に入ってきた。彼は荷を抱えていた。

「無事のお戻りをお待ちしておりました」

 莉蘭が堅い声で頭を下げた目前に、ソウはあぐらをかいた。

「堅苦しい挨拶は必要ない」

「他の挨拶を知らぬ」

 ソウは莉蘭の顔を覗き込んでくる。

「なんだ。随分不機嫌そうだが、何かあったのか?」

「なにもない。これが地顔だ」

 我ながら可愛げがないと分かってはいるのだが、莉蘭は素直になれなかった。

「どうして俺を入れてくれた」

 莉蘭は顔を強ばらせた。

「私にはあなたを拒む理由はない。あなたこそ断りなど入れず好きなときに入ってくればいい」

 こんなふうに、つっけんどんな対応をすればするほど、後悔で泣きたくなってくる。そうなってしまう前に、ソウに出て行ってほしかった。いよいよ身勝手な考えに鼻の奥がツンとなってくる。

「そうか」

 ソウの返事も、言葉だけ聞くと納得したかのようなそれだが、感情面では全く受け入れていないのがよく分かる、投げやりな言い方だった。

「隠りは済んだか?」

「ああ」

 少し恥ずかしいが、先に話をしたのが自分なのだからと、莉蘭は正直に答えた。聞いたソウも、居心地が悪そうに視線を下に向けていた。だが気を取り直したのか、すぐ顔を上げた。

「ではその着物を脱げ」

「え」

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