第11話 夜語り
ソウは得体の知れないものを食べたかのような顔をしている。
「……お前の、半分とはいえ兄なんだろう?」
「ああ。だが、とても話が通じるとも思えなかった。また来かねないと恐ろしかったから、夜は身を隠すようにした。あの時はたまたま私も目覚めていたから大事なかったが、寝入ったところに侵入されるとさすがに敵わぬ」
「だろうな」
ソウも呻きながら同意した。
「よくあんな場所があったな」
「先々代の帝が高僧をあそこに住まわせていた。あの膨大な書のなかにその御仁のものと思われる日記もあった。皇子皇女と、希望した夫人にも説法をしていたようだ」
それを聞いたソウは、記憶を辿るように目線を動かした。
「それが真ならもっと中は朽ちているはずだ。あんな原形を保ってないと思う。最近に一度は手入れがされていたのではないか?」
「え?」
莉蘭が戸惑っていると、ソウはまあいいとその話を終えた。
それから少しだけ沈黙が続いたが、苦ではなかった。ただ莉蘭は彼に聞きたいことがあった。
「あなたのことも聞いてもよいか?」
「ああ」
なんでも、と構えずに受けたことに安堵し、莉蘭は背筋を伸ばした。
「どうして演武会に出ようと思ったのだ?」
声が少し震えた。莉蘭はありたけの勇気で以てその質問を投げた。ソウははっとして、一瞬しまったというような顔をした。表情こそ平素のものにすぐ戻ったが、だが黙り込んでソウは答えない。教えてくれないのかと諦めかけたとき、ソウは重そうに口を開いた。
「俺は文盲で触れは読めなかったんだが、仲間が教えてくれた。演武会の目玉で勝ち残りに皇女が降嫁すると」
そこでソウは黙した。話が終わりかと莉蘭が受け入れようとしたところで、ソウは小さく言葉を吐いた。
「子供……」
「え?」
まずそれだけ、目線を下に向けたまま、彼は妙に言い辛そうに言葉を発している。何かを探すようにも見えた。
「帝の血に、俺のものが入るかと思った。……それに俺には住処がないから、皇女であれば俺の手助けなく俺の子を育てられるだろうと」
「……ああ」
それはそうだろう。真実ではなかったにしろ噂で不貞を
さらに、子が成されたとしても、共に暮らし育てていく意思はないことも明確に知らされた。
──こんなものだ。私自身を、個人を望むような男などいるわけがない。
だが、王命に基づいた演武会だった。勝利した彼に報いるなら、彼の望むものを与えなければならない。
むしろ、体ひとつしか持たない自分は、それ以外何も彼にやれない。
「昨日、月のものが始まって」
「……え……あ、ああ、……そうか」
莉蘭が唐突に個人的なことを話し始めたので、ソウは戸惑ったようだ。
「隠りの時期だったのか。悪かった」
「こうして話をするだけならさほど」
ソウは何か言いたげに一旦合わせた視線を、結局気まずそうに外した。しかし莉蘭はソウを見続け、しばらくしてから口を開いた。
「確認したいか?」
「……何を?」
「出血しているのを」
ソウはまず眉を少しひそめ、それから目を最大に見開き、口を開けた。だんだんと彼の顔が赤くなっていく。
「ば!」
「ば?」
「馬鹿を言うな!」
莉蘭はむっとした。
「あなたが言ったことだ」
ソウは頭を抱えた。しばらく顔を伏せうなっていた。
外でフクロウの鳴き声がした。莉蘭はその方向に顔を向け、可愛らしい声を聞いていた。
「悪かった」
「え?」
莉蘭がフクロウに気を取られていたあいだに、ソウは顔を上げていた。
「昔、俺には姉がいて」
「そうなのか」
今はどうしていると莉蘭は聞こうとし、妙な言い回しだと気付いた。
「血の繋がった姉だったのかも分からない。大昔だが、俺たちは子供ばかり数人で暮らしていた。ある日食う物が何もなく、皆が泣いていたときにふらっと姉がいなくなって、戻ったときに食料を持っていた」
割れた声で綴られる過去は楽しいものではなかった。
「皆がそれを食べ、それを姉は見届け、その夜のうちに入水して死んだ」
さらりと語られた凄惨な事実に莉蘭の体に悪寒が走った。
「いや、入水だったか分からない。事故だった可能性もある。姉は何も語らなかった。……ただ」
ソウは視線を落とした。
「子供に食わせるために一夜体を売って、その事実に耐えられず死んだかもしれない幼い女がいる一方で、豪勢な暮らしをしてなお父と情を交わす畜生以下の姫もいるのかと思うと、無性に腹が立った。それは全て間違いだったのに、俺は俺のものさしで勝手にお前を断じお前に辛くあたった」
再びソウは莉蘭に視線を合わす。
「済まなかった」
静かな詫びだった。真摯な、心がこもったそれを聞き、莉蘭のなかにあったわだかまりがいくつか解けた。
「分かってくれたならいい。それに、どうしてあんなことになったのかも理解できた」
偽りは全くない。穏やかな気持ちで謝罪を受け入れた。ソウは頭を下げた。
「ありがとう」
だが、と低い声でソウは続けた。
「そもそもは、俺がお前に対し非道な振る舞いをやらかして怒らせたことが悪いと承知している。けれどもあんなことは言うな」
「あんな?」
「腹を殴れというような啖呵は」
責められている口調ではなかった。どちらかといえば諭すようなそれが、余計に莉蘭の心に刺さった。
「俺は一生経験できないが、子がいようがいまいが体も心も死ぬほどの苦しみを抱えることになるはずだ……その覚悟があのときのお前にあったとは思えない。違うか?」
図星である。ああして怒りにまかせ腹を殴れなど言い放ったが、その直後にソウに手荒く扱われたおり、自分はあっさりと折れて挫けた。
莉蘭は顔を伏せた。ソウの顔を見ることができない。浅慮であった自分の愚かさが恥ずかしい。
「その美しい体を傷つけるようなことを言わないでくれ」
命令ではなかった。強い懇願に莉蘭の胸が締め付けられた。
「ごめんなさい」
「俺に詫びる必要はない。俺が悪かった。血が昇って、自分の直感を信じられなかった」
「直感?」
「そうだ。演武会のあと、俺がお前を抱き上げたとき、お前は俺に何度かしがみついただろう。誘っているんだと思っていた。けれど違和感もあった。色気が感じられなく、お前は必死だった。今なら分かる。ずっと不安だったんだな」
ソウは額に手を置いて項垂れた。
「お前には、あのとき、頼れるものは俺しかいなかった。それなのに俺はその手を振り払ったことを後悔している」
「もういい。私の方こそ、あなたの誤解を解こうと努力しなかったうえ、あなたを叩いた。人に対しては、口で敵わぬなら力で訴えるのかと責めておいて、私自身、かっとなってあなたに暴力を振るった。済まなかった」
「お前は愚直というか堅苦しいというか」
ソウは眉根を寄せた。莉蘭のことを凝視している。
「どうかした?」
「同じようなことをどこかで聞いた」
「え?」
「お前は、皇居から出たことなどないよな……いや、気のせいだ」
莉蘭の心臓が大きく鳴った。もしかして、ソウは、莉蘭が遊郭で怒鳴ったことを言っているのだろうか。あのときの女だと気付いてほしいと思ったが、しかし状況が変わるとも思えなかった。だからどうしたと終えられなどしたら、何もかも失う気がした。
ただ、あの黒帯は返さなければならない。そう思い口を開きかけたとき、ソウは前触れなく立ち上がった。
「では」
「……え?」
莉蘭が立ち上がろうとしたら手で制された。
「見送りはいらない」
「どうして。ここで……」
莉蘭は今、月のものがある。そういうことなのかと愕然とした。
ソウは次に来るとも言わず、共に来いとも言わない。
もしや、最後だったから詫びをくれたのか──そう考えたとき鼻の奥がつんと痛くなり、涙が出そうになった。
「隠りは五日だ。だから……だから、その後であれば、私は務めを果たせる」
「務め?」
ソウは険のある返しをしてきた。
「先日も言ったが、私にはそれしかない。間が悪くて済ま」
「分かった」
莉蘭の言い分を遮り、ソウは引手に手を置いた。
「お前がそういうつもりなら、俺もそれを利用させてもらおう」
そのまま、襖を開けソウは去っていった。
莉蘭の月の
藍連殿の、今の主人であるクロネコに従う侍女がやってきた。曰く、よろしければ占者様と一緒に朝餉を囲みませんかと。彼女は奈瑠にも同席を提案した。
「私までよろしいのでしょうか」
侍女は特に構えることなく、奈瑠様も今はわたくしのご主人様のお客様ですからと微笑んだ。どちらかというとこの状況を楽しんでいるようにも思えた。それがあって二人は了承し、先導されクロネコの部屋に招かれた。
部屋は、藍連殿滞在初日に莉蘭とソウがクロネコと向かい合って話をした場所だった。磨かれた板間の中央に畳があり、朝食の用意がすでにあった。先日閉じられていた襖は開けられていて、向こうには春の庭園が見え、朝の光を浴びて爽やかな空間を作ることに一役買っている。小さい葉が見える低木はおそらく楓だろう。苔むした庭石は朝露で美しい緑に光っている。
「ようこそ」
クロネコは、招いた割にさほど歓迎していると思えない平坦な口調で二人に挨拶した。
食事の最中は無言だったのだが、終えたあたりで莉蘭はクロネコに話しかけた。
「可能ならご教授頂きたいことがある」
そのような畏まった口調など取らずともよいのですよと前置いたあとで、彼は表情も僅か改め、何かと受けてくれた。
「先日、演武会のあとで、クロネコ殿は私に、オオキバドロバチという角のある蜂の話をして下さった。どのような蜂なのか、外観などご存じか?」
クロネコは何かを考えるように顎を上げた。
「お待ちください。すぐになんとかしましょう」
「はい?」
クロネコの発した言葉の意味が分からず疑問を返したが、彼はそのまま黙ってしまった。横で聞いていた奈瑠が、主人の疑問を代弁するように手を挙げてクロネコに話しかけた。
「クロネコ様は、占い師なのですよね」
「そう呼ばれております」
奈瑠の問いに意味深な返しをしてくる。
「奈瑠様、あなたのことを見ましょうか?」
「え?」
クロネコは奈瑠を見た。
「よい人と結ばれ、よき人生を歩むようです」
莉蘭は内心、随分大雑把だと呆れた。そのように言えばほとんど当たるだろう。それは果たして占いなのかと返したかったが、声に出すのは我慢した。奈瑠もうさんくさげにクロネコを見ていた。
「お友達に恵まれる人生を送られる」
続けて出されたクロネコの言葉に、二人は同時に瞬いた。莉蘭が奈瑠を見ると、彼女はそういえばそうかも知れませんとはにかんでいる。
「こうして奥に上がっていても手紙が届きます」
「分かる気がする。奈瑠は優しく明るいから、一緒にいると楽しいのだろう」
「……ありがとうございます」
莉蘭は下を向いた。
胸が痛い。これは嫉妬だと自分を恥じ莉蘭は目を伏せた。
できるならば自分も、奈瑠とは主人と従者の立場で会いたくなかった。友として一緒にいられればどれほど楽しかっただろう。奈瑠の友達が羨ましかった。
藍連殿の侍女が、戸の向こうから声をかけてきた。
「御殿より先触れが届きました」
「おや。失礼します」
クロネコは莉蘭らに黙礼し部屋を出た。しばらくすると、聞き慣れた声がした。
「姉様」
第四皇女の黄綺の声だった。
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