第10話 着物
藍連殿にて用意された部屋に戻ったが、ソウはいなかった。彼は出て行ったとクロネコはあっけなく言った。莉蘭はそれと分かるほど身を強ばらせたが、クロネコは莉蘭に無表情のまま相対している。
「彼は門番にすでに顔を通しております。ここ藍連殿までなら自由に出入りできるはずです」
そのうちに戻りますよと彼はあっさりと言う。何事も他人事、実際そうなのだが突き放しているかのように淡々と話す。
「ここでしばらく体を休めお待ちなさい」
莉蘭は従うしかなかった。
莉蘭は奈瑠と二人になるやいなや彼女に向かい合った。
「途中だった着物はもう奈瑠の実家に渡ってしまっただろうか」
奈瑠は目をぱちくりとさせ、唖然と口を開けた。
「いいえ、ですがまさか続きをされるおつもりで?」
「その通りだ。ここにまだあるのだな。できるだけ仕上げたい。出すのを手伝ってくれないか」
仕事の鬼にも程があると奈瑠は言い、呆れながらも莉蘭の命に従った。
莉蘭が藍連殿に滞在し二日過ぎたが、ソウは顔を見せなかった。御殿内にいるのかすら分からない。辛いと思ったが、それを紛らわすために針を刺していると気が紛れた。
三日目の午前に奈瑠が荷を携え莉蘭の元へ来た。
「莉蘭様、ソウ様からこちらを言付かって参りました」
奈瑠は少し頬を上気させている。目を見開いた莉蘭に奈瑠は満面の笑みを見せた。
「お召しものです。
奈瑠は莉蘭の前に包みを丁寧に置いた。
「ご伝言もあります。本日午後、それを着て迎えてほしいとのことです」
莉蘭は呆然とその荷を見ていた。
他人からものを贈られたことがほとんどなかった。憧れてはいたが、それをかの夫が叶えてくれるとは思いもしていなかった。嬉しさより戸惑いが大きい。奈瑠は再度包みを、催促するように押した。
「どうぞ」
莉蘭は決心し、それでも怖々包みを開けた。確かに一着の表着がそこにあった。
空色の地に大輪の牡丹が咲く、見事な図柄の着物だった。流行にも少し乗り、しかし派手過ぎず浮ついたところもなく、莉蘭の年頃の娘にぴったりの、しかもかなりの上物だと二人は判断したが。
「……あ」
奈瑠はそう、一気に冷めた声で低く呟いた。しかしはっとして取り繕うように笑う。
「最高級の逸品です。皇女が使うにも問題ないほどの」
莉蘭は苦笑する。
「分かっている。私も心遣いはすごく嬉しい」
表着を手に取り、すべやかな肌触りを堪能し、花の絵柄を楽しんだ。伝統の図柄より少しだけ遊び心があり、儚さが際立った花弁の描き方が優美さを醸している。晴れやかな気持ちになり心があたたかくなった。
「美しい」
「ええ、それはええ」
奈瑠は莉蘭を上目で見た。
「お召しになります?」
「もちろん。着て待つ」
奈瑠は仕方なし、という顔で頭を下げた。
同日午後。
莉蘭は奈瑠に身を整えてもらい部屋の中で待った。奈瑠は今、部屋の前で訪問者を待っている。ソウが訪れたのだろう、戸の向こうで二人がなにやらやりとりをしているのが分かるが、話の内容まではしっかり聞こえなかった。
やがて戸が開けられソウだけが入ってきた。彼の背で戸が閉じられた。ソウは部屋に入るなり双眸を見開いた。
「なんだこの部屋は」
莉蘭は部屋の隅にいてソウを招いていた。彼が座る十二分の場所は確保してあるが、傍に衝立を置いていて、その奥には莉蘭が手掛けている表着が掛けられている。ソウはその表着に気付き、感嘆の言葉を零した。裾から中程にかけ、鮮やかな青紫の杜若の花と深い緑の葉が刺繍で満開に描かれている。生地が深い色で一見派手さには欠けるが絢爛で上品な衣装だった。
莉蘭の作品を賞賛の目で見ているソウの横顔を、莉蘭も眺めた。こそばゆくも誇らしい気持ちになり、自分のうちにあった緊張も少し解けた。
「これはすごいな、着物というより芸術品だぞ……だがお前のものにしては少々渋くはないか?」
「私のものではない、依頼されたものだ」
「依頼?」
依頼とは何だとソウは振り返り、莉蘭の顔を見るなり硬直した
「散らかしたままで済まない。仕事をしていた」
莉蘭は挨拶をしようとしたが、ソウが口を開け彼女を凝視していて、莉蘭も引きずられ動きを止めた。
やがて彼は顔を背け口元に手を置いた。ついにソウは何かを諦めたように口火を切った。
「悪かった」
「どうかしたか?」
「いや、なんというか……驚くほど似合っていないな、その着物」
莉蘭は瞬いた。
そんなことはないと返せばよかったのかもしれないが、贈った当の本人が認めたのもあって、莉蘭は非道にもあっさりと肯定した。
「ああ」
空色は、莉蘭と妙に相性のよろしくない色なのだ。莉蘭の好みだけで言えば好きな色なのだが、身につけると顔色も悪く見え着物も浮いて見えてしまう。
しかしそれを武人の男が気付き認めるのが、莉蘭には意外で仰天していた。
ソウはまずいことをしたと顔で表現している。その場に腰を下ろしたが、単に座ったのか虚脱したのか莉蘭には判断しかねた。
「とてもよいものを贈ってくれたのは承知している」
「慰めか? 逆に辛いぞ」
さもあらんと莉蘭は神妙な顔を心がけた。慰めの言葉を再度かけた方がいいのか黙っていた方がいいのか、こういう場合どうすればいいのか、絶対的に場数が足りていないので分からない。
「馬鹿だな、俺も」
「……嬉しかった」
「もういい」
ソウは不貞腐れたように顔を背けた。
「赤だったな」
空色でなく、と呟いている。
「当たり前だ。俺はお前の、あの赤い着物を見て、あれを美しいと思ったのに……馬鹿をした」
莉蘭は小首を傾げた。そうだったのかと思う一方で、しかしあれだけ蔑んでおいてどういうことかと、莉蘭は少々納得がいかない。
「あのような格好がか?」
「その通りだ。慎みもへったくれもない最低の格好だと思った。同時に最高に美しいと感動もした」
顔が赤くなるのが分かる。決して純粋に褒められてはいないが、だが最高に美しかったとまで言われると照れてしまう。謀られた衣装であったが、いろいろ複雑な気分になった。
ソウはしばらく項垂れていたが、やがて顔を上げた。
「あの日、演武会では何故あんな格好をした」
彼は刺すように、責めるように莉蘭を見ていた。
「今の格好はお前には似合ってはないが、それでもまだ楚々とした皇女らしい。あんな碌でもない着物で何故民の前へ出た?」
「今回の演武会が決定したあと、父の第二夫人が
ソウは大仰に顔をしかめた。
「何故断れない」
「彼女の企みを止められる、身分が同等もしくは上の者が身近にいないからだ。私には後ろ盾が一切ない。若宮御殿から午庭まで正しい手順で抜けるには絶対に后妃たちが住まう奥御殿を通らなければいけない。待ち伏せされると逃げられない。だから従った」
そんな馬鹿なとソウは遮る。
「後ろ盾がないだと? お前の母親の実家はどうした。それに父帝がいるだろうが」
「母は旅芸人だった。父に気に入られ、父の命で体裁を整える為だけに貴族の養女になって、第五夫人として奥御殿に入った。父が母の元へ全く通わなくなってから母の義理の両親はその後、私たちの世話をしなくなった。私が六歳の時に母は亡くなったが、それ以前にもう父は通ってこなくなっていた。だから私は母が亡くなる前から父とは会っていない。……手紙を出したいと懇願したこともあったが、誰も取り次いではくれなかった」
「だが向こうから何か言われただろう、今回の事は」
莉蘭は首を左右に振る。
「何も」
父の従者が書状を読んだだけだったと無機的に続けた。
ソウは顔を強ばらせていた。
「あの日、本当は上下で二枚重ねた赤い着物だけを着せられていた。だが演武会の途中で私が縫い直した。下半身側を三枚にしてそちらを守る格好にはなったが、逆に上半身はどうしようもなくなってしまった。そのときに敷布が目に入って、それを裂いてああして繋げて肩から掛けて胸を隠した」
「あれは、尻に敷く布だったのか」
そこでソウはふっと吹き出し表情が緩んだ。莉蘭も真似るように小さくだが笑った。ソウはその莉蘭の笑顔をしばらく眺めていたが、問いを続けた。
「針と糸はどうした、持ち込めたのか?」
「
ソウは目を眇めた。
「では俺がお前を押し倒したあのときも、髪に簪を挿していたが針がしこまれていたのか?」
「ああ」
「ならそれで俺を刺せばよかったのだ、お前は逃げたかったのだろう」
なんなら簪でも、とソウは続ける。
「……え」
「針で俺の目でも刺して隙を付いて逃げればよかった。俺もかなり冷静さを欠いていたから、突然に目を突かれたら避けるために距離は取ったはずだ。その隙を突いて外に出れば地の利はお前にある」
莉蘭は言葉を返せなかった。夫となった男から逃げろと助言されるとは思わなかった。何故か突き放された気がして眉根を寄せる。
「お前のすべきことは、相手を逆上させるだけでなく、それを利用し逃げることだ。前者が得意なことはもう分かった。これからは隙を突く方法を学べ」
「だが」
「何だ」
「私は逃げるつもりはなかった。確かに逃げたいと少しは考えたが、私は演武会の勝ち残りに降嫁せよと帝に命じられた身だ。私の意思など入る余地はない。そもそも逃げる場所もない……あの庵に向かったのも、あなたから逃げるつもりではなかった。あれについて、誤解をさせたなら悪かった」
ソウはなお莉蘭を凝視している。睨まれている気もする。じっとそんな目で見られると情けないが落ち着けない。
「お前の侍女に、奈瑠さんに怒られた」
「怒られた?」
「あの庵でお前と言い合いをしたあと、俺はここまで戻って、お前の世話をしてくれと彼女を庵まで連れて行った。彼女は破り捨てられた赤い着物と、裸のお前が横たわっているのを見たからな。詰め寄られた。無垢な主人に無体な真似をと」
莉蘭はその姿を想像し言葉を失った。それは確かに誤解を招く。
「怒られた後で、お前たちはあの庵で寝起きしていたと聞いた。その理由も」
ソウは苦い顔をしていた。莉蘭もまた一年前のことを思い出し似た表情をとった。
◇◇◇
一年前。
まだ春が浅い日のことだった。莉蘭は足が冷たく眠れず、寝台の上でごろごろと何度か寝返りを打っていた。そのときに、隣室で眠っているはずの奈瑠の声を聞いた。嫌な予感に立ち上がり、
「何をしておる!」
莉蘭は咄嗟に掴んだ空の水桶を振り上げ、男を何度も繰り返し敲いた。うめき声と共に男は奈瑠から離れた。奈瑠を庇い莉蘭が前に出て、男の正体が知れたとき硬直した。
「兄様?」
「なんと乱暴な妹だ」
莉蘭の兄、第二皇子が部屋の隅で腰を落としていた。莉蘭は怒りで震え、不貞腐れた顔をしている兄を見下ろした。
「見下げ果てたぞ、私の侍女は私の身内だ。兄様とていいように扱っていい相手ではない!」
「我もお前の侍女を抱きたかったわけではない。お前の侍女がお前の元まで通さぬから先に情けをやろうとしたのだ」
背中で奈瑠が怯えた声を漏らした。莉蘭も嫌悪に喉を鳴らし、のそりと立ち上がった兄を見た。
兄の皮を被ったけだものを。
「莉蘭。お前は本当に綺麗になった」
寄ってくる兄の顔は緩んでいた。莉蘭の体に悪寒が走る。
「我がお前を女にしてやろう」
莉蘭は思い切り息を吸った。
「冗談ではない。この畜生以下の狂人が!」
静かな夜、莉蘭の怒声はよく通った。第二皇子はぎょっとして身を強ばらせ、足を止めた。
「実の妹を慰みものにする下劣な男が皇族を名乗るのか!」
「黙れ」
兄は慌てたように後方を確認し、莉蘭にまた顔を向けた。
「皆に聞こえるではないか」
「兄様の愚行を皆に知らせたいのだ!」
「愚行ではない。我は許された者なのだ」
莉蘭は顔をしかめ兄を睨んだ。
「お前に女の悦びをやるのが我の役目ぞ」
兄は笑っていた。色欲を隠さない緩みきった表情のなか、彼の目は異様に光っておかしかった。莉蘭はもう一度大きく息を吸う。
「奈瑠、私の断ち鋏を持て!」
「……はい!」
莉蘭の勢いに奈瑠も恐怖の呪縛から解放され、さっと体を返し裁縫道具を入れた行李の場所へ駆けた。
「はさみ?」
愚鈍に聞く兄を見据え、莉蘭は再度声を張り上げた。
「私が引導を渡してやろう。刺し殺してくれる!」
第二皇子は、実際に出された大きな鋏を見て顔を青くし、ほうほうの体で去っていった。
◇◇◇
この一件がある前から莉蘭は、若宮御殿の奥に隠し廊下があり、その先に庵があることを知っていた。時折そこにある書物を読みながら過ごすこともあったのだが、この事件のあと身の安全の為に夜は庵で寝起きするようになったのだ。
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