第9話 涙

 ぱちん、とやけにかわいい音がした。

「そんなに意外か!」

 涙混じりの莉蘭の声にソウの顔が強ばった。

「私が男を知らぬことが、お前には!」

 後半、言葉が出なくなった。言葉も浮かばなかったのだが、声が震えて出なくなった。

「そ、んなにも、お前にとっては、あ、あり得ぬことか……」

 ソウはまだ放心している。隙を突かれ張り手で殴られたことも彼らしくないのだろうが、それさえも気付いていないようだ。彼は頬を叩かれたにもかかわらず、顎を動かすことはおろか瞬きさえしなかった。

 莉蘭の手は痛い。手首も痛い。張ったときの反動が手首にも伝わった。

「いたい……」

 どうして殴った側だけが痛みを感じているのだ。

 悔しい。

 何もできない。

 降嫁も望んだことではない。戦利品の如く下賜されることとなり、自分の力のなさを嘆きたかったが空元気を装った。己を娶りたい男など酔狂よと表面は強がりも見せていたが、全く未知な男に嫁ぐことは怖かった。訪れるであろう男女のまぐあいを想像すると吐き気がした。毎夜泣きたかったがそれも我慢した。

 兄弟姉妹に同情も受けず、ざまあみろとばかりに笑われた。兄弟の母親には不当な悪意を持たれ、果てに当てつけに娼婦のような格好を強制された。それを夫となった男に理不尽に咎められた。

 兄弟姉妹にも、父にも顧みてもらえない。

 夫にも愛されない。

 誰にも必要とされない。

 それだけでない、どう生きても非難しか浴びない。

 夫と体を重ねんとしているというのに、この猛烈な孤独はなんだ。

 無力な自分を常に意識して悔しい思いをしていたが、今このとき、それを嫌というほど痛感した。打ちのめされ、辛うじて保っていた矜持が全て消え去った。

 莉蘭は嗚咽を漏らした。我慢できなかった。

「う……うう」

 目を閉じると、ぼろぼろ涙が零れていく。

「ま、待て……」

 ソウの狼狽うろたえた声がする。感情の入った声を聞くと、ますます莉蘭も心が揺さぶられた。

「う……」

「待て泣くな!」

 そんなことを言われても止められないと、莉蘭はふるふる首を振りながら声を漏らして泣いた。両の目尻から涙が音を立てて敷布に落ちていく。

「悪かった、俺が悪かったから泣くな!」

 上からソウが離れた気配がした。莉蘭は横臥し足を折り曲げ、外敵から身を守るように体を縮めた。敷布を掴んで嗚咽を堪えていると、肩にあたたかい布が掛けられた。涙で滲む視界に黒い着物が見える。ソウが彼の上着を莉蘭の肩にかけたのだと分かった。

 莉蘭は泣いたままで彼に視線を向けた。ソウは痛みを堪えているような顔をしている。

「悪かった」

 莉蘭は黙ってソウの辛そうな、人間らしい顔を見続けた。

 少し懐かしささえある、あの初めて会ったときの男と影が重なった。真に会いたかったひとに会えた気がして、莉蘭の目からまた涙が溢れていく。少しずつ悔しさが消えていき、さっきまで言い合いをしていたにも関わらずソウに縋りたくなった。

 出会ったあのときのようにかいなに抱かれたいと願った。確かな優しさが欲しい。切なさに、莉蘭は目を閉じて嗚咽を繰り返す。

「本当に悪かった。済まなかった」

 ソウは彼に似合わぬほど怖々、莉蘭の頬に触れ涙を拭った。

「泣かないでくれ」

 困却しきった声に、そのあたたかさに感情が震えた。

 頬に触れている指に甘えるよう顔を寄せる。最も欲しい温もりからはとても足りないけれども、ほんの少しでもいいのでソウの情けが欲しい。初めて出会ったときの優しさの半分でも受けたい。あの相手は自分だと気付いてほしい。その想いのままソウの指先に唇を当てた。

 だがぱっと手が下げられた。ソウを見上げると、彼は苛烈な視線で莉蘭を見下ろしていた。

 すうっと莉蘭の体に怯えが走る。

「今は何を怒っているんだ」

「怒ってなどいない」

 だが、大いなる感情を押し殺したかのようなソウの声に、説得力はなかった。

「……莉蘭」

 鼓膜を震わせたその音は、莉蘭のなかの恐れや悔しさ、悲しみを溶かした。

 名を呼ばれたかったのだと今更気付いた。己の名を。朗々としたあの声で、感情を込めて、大切なひとを愛するように呼ばれたかった。

 今のように。

 ソウの手がもう一度、莉蘭の頬を撫でる。柔らかい輪郭を辿り、彼の指の腹が莉蘭の唇を緩く押した。

 視線がごく間近で絡み合う。

「ソウ」

 ソウは瞠目した。

 彼は鋭く悪態を吐き、勢いよく上体を上げて寝台から立った。

「待っていろ。何処にも行くな……ここにいてくれ」

「……ソウ?」

 莉蘭は乱れた感情をそのまま呼び声に示した。喉に何かが詰まったような莉蘭の声を聞き、ソウは顔を歪ませ、彼女に背を向けた。

「頼むからここから出ないでくれ」

 それだけ、硬い口調で命じてソウが足音も荒く離れていく。戸の開閉の音のあと、部屋はしんとなった。

 嘆息と一緒に涙も流れて落ちた。

 夫は去った。何もなかった。そもそもこうなることを望んでいたはずだ。莉蘭が貧乏な姫だと知ったなら、相手も去るだろうと奈瑠にも言った。

 希望通りになった。喜べばいい。喜べば。

「……う」

 莉蘭は、肩にかけられたままのソウの上着を掴んで抱え込み、声を漏らして泣いた。

 ソウ。

 自分を得たのがあの男であれば、喜んで妻になりたいと思っていたのに。

 ソウは去った。独りとなった。

 この先自分はどうなるのか考えたくなかった。全てを放棄するように莉蘭は泣き続けた。泣いてもどうにもならないのに、止めることができなかった。



 射すひかりに誘導され、莉蘭は目を開いた。

 いつもの日常が続いているのだと寝ぼけた頭が錯覚した。うとうと微睡んでいると聞き慣れた音がしたので、何も考えずに声を出した。

「おはよう、奈瑠」

 いつもと違い返答がなく、代わりに寝台まで彼女はやってきて莉蘭を覗き込んだ。

「莉蘭様」

 奈瑠は泣きそうな顔をしていた。莉蘭は上体を起こそうとして、肌襦袢を羽織っただけの、ほぼ何も着ていない自分の状態に気付いた。

「無理はなさらないで下さい。辛いならまだ横になっていても構わないんですよ」

 奈瑠が重い口調でそう莉蘭を思いやってくれる。

「あ……」

 莉蘭の頭が晴れ覚醒した。

「あ、朝なの?」

「そうです」

 一気に記憶が蘇ってくる。それに伴う感情も。しかし理解できない部分も多い。なのでまず目の前にいる侍女に適切な疑問を投げた。

「奈瑠、なぜあなたがここに」

「莉蘭様のお荷物の番をして小御所で待機していたのですが、使いの方が来て、莉蘭様と夫となった方が藍連殿に滞在されるため、荷物と一緒に私も側仕えでそこに向かえと教えてくれました」

 奈瑠は小さく笑んだ。

「数日だけですがもう少し莉蘭様にお仕えできることになりました」

「で、でも、あなたもう実家に戻る手はずを」

「大丈夫です。来ていた兄……迎えにも連絡しております。家の者も知っております」

 莉蘭は奈瑠がまだ自分の傍にいてくれるのだと理解した。

 二度と会えないと思っていた。数少ない──いや唯一莉蘭を真っ当な一人の人間と扱ってくれる腹心。

「奈瑠……」

 溢れる涙を止められず、莉蘭は侍女を呼んだ。

「どこか痛いのですか?」

 莉蘭は違うと首を振り、済まないと詫びながらしゃくり上げた。奈瑠がおずおず主人の肩を撫でた。その優しさと温もり、労りが莉蘭の心細さを緩和してくれるようで、莉蘭はますます泣いた。

 ひとしきり泣き続けると莉蘭は落ち着いてきた。ずっと奈瑠が、稚い子供にするように莉蘭の肩を撫でてくれていた。恥ずかしいもののその感覚が心地よい。

「おいやですか?」

 奈瑠がはっとして手を止めた。

「いいや、嬉しかった」

 奈瑠はふふとはにかんだ。

「子供のように甘えて済まない」

「いいんです。莉蘭様はいつもご立派に立っておられました。細腕で私も守って下さっていました。私こそずっと莉蘭様に甘えておりました。このくらいしか返せないですが、これでよろしければいつでも」

 奈瑠のその言葉に、莉蘭は重い瞼を上げた。

「侍女を守るのが私の務めだ。それにきちんと守ってやれなかった」

「とんでもない。守って下さいました。……そもそもは私こそ莉蘭様をお守りせねばならなかったのに。やっぱり、そのようにお考えだったのですね」

 奈瑠は少し寂しそうに笑った。

「昨日、最後のお別れと挨拶を致しました際の、莉蘭様のお言葉がずっと気になっておりました。もう一度お会いできてよかった」

 莉蘭はするりと首を動かし、辺りを覗った。

「私がここにいることは誰に聞いた?」

「ソウ様に。あの方が私をここに連れてきて下さいました」

 莉蘭はその名を聞いて固まった。

「申し訳ありません。不躾なことをお伺いしますが……痛みは?」

「ない」

 莉蘭は両腕を突いて身を起こした。部屋は綺麗になっていた。昨日、莉蘭が破り捨てた赤い着物は見当たらない。抱え込んでいたはずのソウの黒い着物も。

 莉蘭は自嘲気味に床を見下ろした。

 奈瑠は何も言わず主人の指示を待つ。やがて莉蘭は奈瑠の顔を見ないままで口を開いた。

「あのひと、だった」

「は?」

 ぽつりと、記憶を少しずつ引き出すように莉蘭は奈瑠に伝え始めた。

「私の夫となったのは、あの日私を助けて帯を譲ってくれたあの人だった」

 奈瑠は瞬きを繰り返し、素っ頓狂な声で「え」と声を漏らした。

「でもソウは私だと気付いていない……でもそういうことでなく、あのひとは」

 あの男の蔑みの目を思い出し、苦痛に顔が歪む。

「私が、父と姦通し衛兵と通じて金子を得るような悪女だというあの噂を信じていた」

「……まあ」

 奈瑠は眉をつり上げた。怒ってくれることを嬉しく感じながらも、ソウを庇いたいという不思議な気持ちにもなった。

「何もなかった。契りを交わしていない。私は彼を怒らせた。あの人は愛想を尽かしたと思う」

「そんなことはありません」

 きっぱりと断定され、莉蘭は戸惑い奈瑠を見た。

「ソウ様は、朝になって莉蘭様が目覚めたら、藍連殿まで連れてきてほしいと仰っていました」

「それはそうだろう。私には他に行ける場所がない」

「そういうことではなく。ええ、冷静に考えればソウ様もそこに思い至ったのでしょうが、あの御方も随分動揺しておられたように思えました。何があっても、担いででも連れて帰ってくれと頼まれました」

「動揺?」

「はい。ソウ様は少なくとももう一度、しかもかなり強い意志で莉蘭様と会われたいのだと私は感じました」

 莉蘭はそれを聞き、信じられないと思う一方で嬉しさに頬が緩んだ。

「では身支度を」

 奈瑠に促され莉蘭も苦笑しながら立ち上がった。

 奈瑠の手を借りて着物こそ着たが、心の準備はできていない。立ち尽くしていたところ、扉の外でカリカリと何かが扉をひっかいているような音がした。奈瑠が戸を開けると、そこに黒猫が座していた。

 招く前に黒猫はしなやかに侵入を果たし、莉蘭の前にまた座った。猫の首に、いつもはなかった幅広の布が、ちょうちょ結びに巻かれている。手を伸ばして結びを指でつついても黒猫は嫌がるそぶりを見せない。莉蘭はその結びを解いて布を手にとった。中に紙片が入っていた。

「賢いこと」

 奈瑠はそう感心してしゃがみ、黒猫の前に手を出したが、彼はつんと澄ましたままでいる。莉蘭が緊張しながら紙片を開くと、そこには几帳面な文字で簡素な文章が綴られていた。

「藍連殿に戻ってほしいと双殿が言っている……」

 伝聞調であるので怪訝に思っていると、最後に代筆黒猫とあった。どうりでと莉蘭は納得した。文字の内容もあるが流麗な細い、美しい文字列がどうもソウとそぐわない気がしていたのだ。

 黒猫はまだ待っている。

「莉蘭様」

 どうなさいますかと奈瑠も目で聞いてくる。ここにいても飢えて死ぬだけである。莉蘭は観念した。

 黒猫がにゃあと一声鳴き、招くように先に進んだ。昨日莉蘭が白猫に案内された道順をそのまま戻っている。

 二人と一匹は藍連殿の中庭に入った。待っていたように縁側の戸が開いて、クロネコが莉蘭たちを出迎えた。

「おかえりなさい」

 彼は無表情だったが、何となく一夜戻らなかったことを咎められているような気がして、莉蘭はおずおず黙礼する。

 クロネコはそんな莉蘭に気付いているのかいないのか、黙って猫のように招いてくれた。

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