第8話 紅の花
つけられていたのに気が付かなかった。ひやりとしたものを感じ莉蘭は体を強ばらせる。
「逃げられると思ったのか?」
思いもしないことを責められ目を見張った。莉蘭がそうではないと言う前に、ソウは陰惨に嗤った。
「それとも誰かを待っていたか?」
「……待つ?」
「分からないふりはよせ」
嘲り笑いながらソウは部屋に入り、辺りを見回した。四方の書物に対しては意外そうに眺めていたが、寝台を見て皮肉げに口角を上げた。
「ここで衛兵の相手をしているのか」
言われた内容を理解するまでしばらくかかり、飲んだ瞬間に猛烈な嫌悪感で全身に悪寒が走った。
「なんだと?」
ソウは一歩ずつ莉蘭へ近づいてくる。それが恐ろしく逃げたいと思ったが扉はソウの向こうである。
それに腹立たしくもある。目の前の男を
彼が莉蘭を得たにも関わらず、冷たい態度を取っていた理由が知れた。この男も全てが嘘で固められた悪意の噂を信じていたのかと、怒りと共に深い失望が莉蘭の胸を刺した。
莉蘭はソウを睨む。その視線を平然と受けながら、ソウは再度部屋を一瞥した。
「ああ、違うな。ここは御上御殿よりさらに奥の位置だ。衛兵が易々と出入り出来る領域ではない。親兄弟だけだ」
再度、ぞわりと体が震えた。
「実の父とも交わる淫乱な皇女という噂は真だったか」
疑問でない、断定だ。
「ここで密会をしていたんだな」
ソウは寝台に掛けられた敷布を軽く蹴った。莉蘭が刺繍で、努力して技を磨き懸命に着物を縫い、自分でまっとうに稼いで用意したそれを。
「無礼は許さぬぞ」
「それは失礼した、お姫さん」
全く詫びの気持ちなど感じさせない、侮蔑しか含まれてない口調に莉蘭の頭に血が上る。
「汚らわしい皇女など嫁にしたくないというのであればそれで構わぬ。今すぐここから出て行って帰れ」
ソウはまた一歩足を進め、莉蘭に手を伸ばせば容易に届く場所に来た。
だが向かい合ったままで、彼は莉蘭に触れようとはしなかった。
「否定しないのか。だろうな。婚礼の衣装と称してそんな薄衣だけで民衆の前に立つような、慎みもない女だからな。父帝と通じるなぞ他愛もない戯れだろう」
確かに莉蘭はまだ、紅蓮の着物に敷布を裂いた布を肩から掛けたままの格好をしている。着替えられるものなら着替えたいが、誰もそんな時間を与えてくれなかった。目の前の男さえも。
この薄衣。こんなもの、着たくて着たわけではない。なのにそれさえ己が責められる。
視界にちらちら黒いものが飛んでいる。莉蘭はひゅ、と息を吸って吐いた。
「こちらに真かと一度も確認せず、先に断罪しておいて何を言うか。私を愚弄したいだけであろう。得た女が無垢でなかったのがそんなに悔しいか。恨みを吐きたいか。ああ何とでも言えばよいとも。それで気が済むなら。さあ続けよ」
「気が強いお姫さんだな」
「それだけか? まだ言い足りないか? 言葉が出ないようであれば少しなら待ってやるぞ。お前には私に文句を言う権利があるからな」
ソウは無言になった。
「もう言うことがないなら早う去れ。残念だったのう。次に演武会に出るときは下賜される姫が生娘かどうか前もって確かめておくがよい」
「誰が帰るか。もちろん抱く」
びくりと莉蘭は肩を奮わせた。その気弱な部分を見ただろうがソウは笑わず、ただじっと莉蘭を冷徹に見下ろしてくる。
「それに自分の妻になるひとが、俺より以前に男を受け入れたことがあるか否か、それ自体は気にはならん。俺にとってはもっと重要なことがある」
「それは何だ」
「お姫さん、次に月が満ちるのはいつだ?」
「え?」
思いもしないことを聞かれたので、莉蘭は状況を一瞬失念し、ぽかんとした顔をした。思わず問う。
「満月のことか?」
「そうじゃない。お前の次の月の
心臓がどくりと鳴る。さらに目の前が暗くなった。
「なにゆえそのような事が知りたい」
「そのときに血が出ているところを見せろ」
「……なに?」
「身籠っていないことをまず俺に示せ。誰の子とも分からぬ嬰児を俺の子だと言われては適わん」
世界から視野も音も消えたような気がした。
思考も全て消え、怒濤のように腹の底から怒りが押し寄せ溢れてくる。
この男が。
こちらを一切信じず、愚弄し、辱めだけを与えてくる男が。
これが己の夫。
ハ、と莉蘭は息を吐き捨てるように嗤った。
纏っている赤い薄布の一枚を引いて破いた。現れた帯に手をかけ結びを解き、それを足下に落とす。両手を上げ肩の掛布も落とし、その手で着物の左右の肩を鷲掴んだ。下に思い切り引き、背中を裂く。ビッと部屋に響く音が、儚くも穢れたものが退治されたような感覚がして莉蘭の胸がすっとした。手の中のそれをさらに引き裂いて、ばらばらと足下に全て落としていく。
そうとも、初めてこの衣装を見たときからこうしてやりたかったとも、そう心で叫び顔を歪ませ、莉蘭は湧き出て消えない怒りを肩で息をして発散する。
紅蓮の布が莉蘭の足下に落ちた。裸身の姫を中心に、莉蘭自身を雌しべとした、それは花弁の多い花のようにも見えた。最後に手に持った赤い切れ端を、憤怒も露わに乱暴に足下に叩き付け踏みにじった。
夕闇の、薄暗い部屋の中でうっすら浮く、まだ成熟しきっていない若い裸体がいかほど男を狂わすか莉蘭はまだ知らない。
ソウが莉蘭に見惚れていることにも気付かない。
一糸まとわぬ姿のままで莉蘭は、目を見開いているソウの前で、片足を寝台にかけ内股を指さした。
「見ての通り今はまだ月は満ちてはおらぬ。だがそんな悠長に構えずともよい方法をお前に教えてやる」
怒気を隠さぬ声で莉蘭は、自分の体を食い入るように見るソウを睨み、足を床に降ろしてから挑発するように顎を動かした。
「私の腹を殴ればよい」
「……なに?」
ソウは弾かれたように顔を上げた。
「殴ればよいと言っておる。己の子が確実に欲しいのであれば、私の腹の子とやらを今すぐお前の拳で殺せばよいと教えてやっておるのだ。熊の子殺しと同じだ。野の獣がそうするように、まず孕んでおる子を殺しそれから犯すがよい」
雌熊は乳飲み子を育てているあいだ、次の子を妊娠できない。雄熊は発情期、出会った雌熊に子熊がいるとその子を殺す。自分の子をすぐに、その雌熊に宿させる為に。
「どうせお前も、私が一人のひとであるなど思ってもおらぬのだろう。だからあんなことが平気で言える。ならそのように扱え」
対峙の男の喉仏がゆっくり、ひくりと動いた。それからソウは大きく息を繰り返している。
「やらぬのか。その度胸もないか。女が、孕む準備ができるまで待つしかできぬような、その程度の器量しか持たぬ小さな男のくせに、血を分けた子は確実に欲しいとは片腹痛い」
莉蘭は足を踏み出した。互いの胸があたる前、ソウは足を一歩下げた。
「お前のような娶った女を信じられず抱く勇気もなければ、他の男の子を育てる覚悟も殺す覚悟もない、愚弄だけは一人前の弱い男などこちらこそ願い下げだ! 私を犯し終えたら二度と目の前に現れるな!」
莉蘭の手をソウが取った。しっかり握られたがきつくはない。だが莉蘭が腕を引こうとしても一切動かせなかった。
ソウは瞳孔を開き、ぎりと奥歯を噛みしめている。この男を動揺させてやったのだと確信でき、莉蘭の胸が幾分晴れた。
「なら望み通りに抱いてやる」
腰を引かれ、体をぴったりとソウの正面に合わせられた。莉蘭は怯んだが、それでもぎらりと男の目を、こちらを爛々と睨んでいる黒い双眸を睨み返す。
「その距離では私の腹を殴れまい」
「そんな必要はない。女を殴るのは俺の性に合わん」
互いの視線で相手を殺さんとばかりに睨み合った。
「今から腹の子を抱き殺してやるとも」
半ば呻るように言い放つ、男の怒気を真っ向に受け莉蘭は背を凍らせた。
両肩を乱暴に押され寝台に尻餅をついた。すぐさまソウがのしかかってきて押し倒される。
莉蘭は体を強ばらせた。来るであろう苦痛と、恐怖の声を出さないように奥歯を噛みしめた。
絶対に痛みの声など出すものか。
絶対に、弱いところを見せるものか。
しかし恐ろしさに勝てず、莉蘭の歯が鳴った。
目の前でソウが憤怒の表情のままで莉蘭を見下ろしている。とても女を抱く前の顔ではないと、経験がないながらも莉蘭は判断した。
記憶にあるあの、莉蘭を助けてくれた男の名残はどこにもない。あの身分を隠して会っていたときのほうがよほど優しかった。
布越しの口付けに胸を躍らせた数日前は、夢であったのではないかとすら思う。それほど現実が寒々しい。
口付け
それすらない
しかしこれは莉蘭にとっても誇りをかけた戦いだ。夫を受け入れるのが務めであるというなら受けて立つ。己の破瓜を目の当たりにしたときの、彼の顔が見たい。こちらが不当に傷つけられたのだと、この男の記憶に、お前の一生の汚点だと刻みつけてやりたい。
「いい加減にしろ」
唐突に叱られ、莉蘭は短く悲鳴を上げた。
「嫌であるなら最初からそう言え。歯まで鳴らして、さすがに萎える」
怯えきった彼女に対し、ソウはさらに深く眉間に皺を寄せた。
「あのような挑発までして男を逆上させ、自身を粗末にしたい理由はなんだ。お前は一体何に義理立てをしている?」
互いの鼻頭が触れるほど近くで顔を合わせている。ソウは身を上げ距離を取って、顔をしかめたままで莉蘭を見下ろした。
「まず深呼吸しろ。俺は何もしない。息をゆっくり吸って落ち着け」
莉蘭は言われた通り何度か、努めて長く呼吸するようにした。声が出そうな気がして、莉蘭はひとつ息を飲んだ。
「……ない」
「なんだと?」
「挑発をしたつもりなどない」
話すことはできたが声の震えは消せなかった。所々つかえながら言い終えたときには、ソウの表情は呆れに変わっていた。
「男の前で裸になり腹を殴れなど啖呵を切っておいて、挑発のつもりはないだと?」
莉蘭は、瞬きを忘れた目でソウを見た。
「お前が望んだことだ。お前は私の衣装を責め、子を孕んでないか証明しろと言った。だからあのようにした。お前こそ、私が嫌だというなら最初からそう言えばよかった」
上から憤然とした嗤い声が落とされた。
「お前は俺を怒らせるのが上手いな」
ソウの下で莉蘭は眉間の緊張を解き、また深く呼吸を繰り返してから口を開いた。
「お互い様だ。やってないことまで責められるなら私とて腹立たしくもなる」
ソウは「やっていない?」と疑問の言葉を発している。
莉蘭はまだ体を震わせながら、ソウを睨み上げた。
「お前は第五皇女を貰えると聞いた故に演武会に出たことも私は了承している。生憎だが、お前が鍛錬を重ね磨いた腕で、勝ち残った褒美としてやれるものは本当に私の身ひとつだけだ。だから誰に義理立てをしているのかと言うなら、お前以外には誰にもおらぬ」
ソウは眉をひそめた。
「何が言いたい?」
「お前は私を信じないくせに、何を言っても無駄なだけだ。要は、お前は私を抱きたいだけで、妻にしたくないのだろう。ことが済んだら去って構わぬ。万が一、これで子を孕んだとしても、お前が子の父だなど口が裂けても言わぬから安心しろ!」
ソウは、莉蘭の内面をも探るように刮目した。彼の顔に、初めて不安のようなものが
「……待て。では何故お前は」
「御託など並べずさっさとやれと言っておる。この体さえ必要ないというなら、運がなかったのだと諦めろ」
真下で怯えつつも果敢に立ち向かってくる莉蘭を、ソウは驚愕の目で見た。男に対し余りにも実直で無防備が過ぎる姫を。
ソウは、その先を本当は知りたくないかのように恐る恐る口を開いた。
「教えてくれ。お前は夜毎、父帝や衛兵と姦通している放埒な姫と王都では噂になっている。あれは真ではないのか?」
莉蘭は犬歯が見えそうなほどに唇を歪ませた。
「今更なのは俺も分かっている。答えろ。どうなんだ」
「私は破瓜を迎えてはおらぬ」
ソウの戦慄く口から、掠れた声が漏れた。
「まさか……」
莉蘭の喉がひくりと鳴った。
予想外とばかりの顔をされ、一気に沸いた悔しさに、莉蘭は立場も状態も忘れ右手を振り上げソウの左頬を張った。
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