第7話 オオキバドロバチ
「私からもお祝いを」
後方から声をかけられ、莉蘭を抱えたままで黒装束の男は振り返った。
紫辣が太い笑みを浮かべ拍手をしていた。
「ソウ殿、貴殿の腕前、見事だった」
「紫辣殿、あなたも。こうして戦えたこと名誉に思う」
紫辣は黙礼し、莉蘭に対しては礼儀に適った笑みを見せた。
「莉蘭様。おめでとうございます」
一礼と共に祝辞を述べられたがまだ実感がなく、莉蘭はおずおずと無言でうなずいた。
「姫の美しさは、周知の事実として国の隅々まで伝わっておりましたが、なるほど、いざこうして拝顔致しますと匂うような美しさだ。美姫を花々に例えることがよくありますが、あなたの前では芙蓉さえ霞む」
世辞としても、莉蘭にはこれまで縁のなかった美辞麗句に、我知らず顔が赤くなった。一連の莉蘭の挙動を見た紫辣は微笑んだ。
「随分可憐であらせられる」
莉蘭を惚れ惚れと眺め、それから彼女を抱えている男──ソウに視線を向け苦笑した。
「そんな顔をして睨まないでくれ。美姫を今、視覚で愛でるくらい、敗者にも許されるだろう?」
紫辣は一歩下がり深々と礼をした。莉蘭を抱えたままで、ソウも紫辣に対し彼の武勇を称えるように軽く頭を下げた。
「実に惜しい」
紫辣は最後にぽつりと漏らした。
手に入り損ねた美女を惜しむ、単なる挨拶のようなものだった。
しかし何故か莉蘭の腹に不快なものが宿った。けれどもソウがおもむろに動いたことに気を取られ、莉蘭はそれをすぐに忘れた。
ソウは先触れの官吏に導かれ、会場正面へ足を進めている。帝の元へ、つまり莉蘭の父の元へ。
莉蘭も希廻殿中央の高御座を、御簾の向こうの父を見上げた。
高御座より下位に立つ宰相が高々と手を挙げた。
「勝者ソウ、見事な戦いであったと陛下は大いに喜んでおられる」
莉蘭はじっと、祈るような気持ちで次の言葉を待った。
「褒美の姫を連れて帰るがよいとのことである」
「それなんだが」
ソウは宰相でなく傍の官吏に話しかけた。
「俺は流しの傭兵だ。今は決まった
莉蘭はぎょっとしてソウを見下ろした。彼は全く悪びれず続けた。
「若宮御殿にお姫さんの部屋もあったはずだ。そこに一時住むことは可能だろうか?」
この問いに、官吏も衛兵たちも唖然としたようで、周囲の皆が目を見開いた。官吏は宰相に対しソウの言葉を復唱する。宰相は表情を変えず返答した。
「すでに莉蘭様は皇女でない。若宮御殿への入室はまかりならぬ」
莉蘭は呻いた。
その通りなのだが、このように冷たく現実を知らされると心細くなる。
そのとき、宰相の立つ逆側の、末席にいた黒い外套の男が手を挙げた。
「ならば拙に用意されている藍連殿にしばらくおいでなさい」
莉蘭は目を見開く。声に覚えがあった。
彼は、初めてソウと莉蘭が街で出会った同じ日に、北の庵前で出会った謎の男であった。それを裏付けるように膝に黒猫が鎮座している。
「一人と二匹で過ごすには、過分の御殿をご用意頂いております。二人増えても拙は問題ありませんが、構いませんか」
彼も傍の官吏に尋ねていた。官吏が宰相に同じ内容を口伝で伝え、宰相が返答する。
「そなたが構わぬのであればよきように」
黒い外套の男は感謝の言葉を返し、莉蘭を抱き上げたままのソウに会釈した。
「では参りましょう」
莉蘭が口を挟む隙もなく、抱えられたまま連れて行かれる。ソウが下がるにつれ距離が遠くなっていく御簾の向こうへ、莉蘭は目を凝らした。
帝は、父は、この場でさえ娘に直接言葉をかけることもなく、ただ静かに奥にいた。いや、光の加減でこちらからは影すら見えない。高御座にいるのかどうかさえ分からない。
莉蘭は見えなくなるまで御簾を見続けた。
先導の衛兵、官吏に次いで黒い外套の男が続き、その後ろで莉蘭を抱えたソウが続いている。さらに後ろに衛兵らが追うという、大仰な行列は粛々と進んでいった。一行は帝の賓客を迎える藍連殿に到着した。
「占者殿」
先頭の官吏が振り返り、黒い外套の男をそう呼んだ。
では彼が父に今回の演武会を提案した旅の占者なのだ。末席とはいえ、たかが占い師が帝の傍に侍るとは如何ほどの信頼を得ているのか。
ふと、ソウが顔を上げた。それに気付き莉蘭も彼を見下ろすと、視線が交わった。彼はいぶかしげに莉蘭を見ていた。それで莉蘭を抱えているソウの、手甲越しの肩を強く握ってしまっていたことに気付き、莉蘭は慌てて手を離した。とたん上体が後方に傾き、ソウは均衡を取るのに彼女を抱え直した。莉蘭も手を伸ばしソウの顔を胸で抱きしめた。
先方では占者がまだ話し合っていた。
「陛下が今晩も、あなたに占って欲しいと」
「畏まりまして」
占者は深々と頭を下げた。
官吏等が藍連殿の入り口から出ていくのと同時に、奥から年老いた侍女が二人やってきて頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「仕事を増やして申し訳ありません。滞在人が二人増えました。部屋を用意して頂きたい」
莉蘭は板間の上へ降ろされた。男二人は土間で草履を脱ぎ、侍女の用意した水桶で足を洗っている。侍女が莉蘭の前に膝を折った。
「殿下はお二人が整うまで中にてお待ち下さいませ。ご案内致します」
果たしてその敬称はまだ己に用いられるものなのかと思ったが、莉蘭は何も言えず案内された部屋に入った。
霧の煙る山の絵が描かれた襖は、全て閉じられている。美しく整えられたここは、帝が招いたお客の為にしつらえた最高級の一室だ。莉蘭がそこで戸惑っていると、占者とソウが間もなく入ってきた。
どうぞと促され、立ったままの占者の対面にソウと莉蘭が並んで腰を下ろした。
「ご好意感謝する」
ソウは占者に至極真面目に謝辞を述べた。
「こちらこそ、貴殿の名を知らしめることとなった技をこの目で確認できました。素晴らしい武芸を見せて頂き感謝します」
男は外套のフードを脱ぎ、顔を露わにした。歳は四十ほど、やや厳つい顔という以外突出した特徴がこれと言ってない、凡庸な外見をした男だった。彼も腰を下ろし、ソウの、今は背中側に降ろしている棍に目を添えた。
「自由に棍を操り、あまりの素早さに、先が双叉に分かれているのではと相手に思わせる。故に「双」と呼ばれる若い傭兵が、頭角を現してきたと耳にしておりました」
ソウは肩をすくめただけで何も答えなかった。
莉蘭は複雑な心情を抱いている。
この、目の前の男の
しかし蓋を開ければどうだろう。莉蘭の望んだ形に近いものになっている。諸手を挙げて歓迎できないが、しかし忌避したい人物だと思えない。しかもこうして仮の住処を与えてくれている今は尚更。
莉蘭に複雑な心情を持たせている目の前の男は、二人を前にしながら不意に顎を僅かに上げ、何かを考えるような仕草をした。彼の挙動の意味が分からず、どうしたものかとソウを見ると、彼も当惑している。
やがて彼は二人に真っ直ぐ顔を向け、おもむろに話を始めた。
「ここより南の国に、大きな一対の牙を持った蜂がいるのをご存じですか」
感情が一切入らない声で、唐突に昆虫の話を振られ莉蘭は戸惑った。ソウは「いや」と短く返した。
「オオキバドロバチという、泥から素材を取って巣を作るドロバチの一種です。雌は造った巣の中に卵を産み、一緒に己の針で捕獲した餌虫を入れておく。卵は孵化すると巣内の餌を食し、巣内で育ち蛹化する。巣立つときは、成虫に変化している」
占者は莉蘭とソウを一旦交互に見て、抑揚のない声で先を続けた。
「成虫の雄は、中で蛹化済みの巣の傍で集まり戦う。巣から姿を現す雌を待ちながら」
莉蘭は目を見開いた。
「勝ち残った雄蜂は、巣から飛び出た雌蜂をすぐさま捕獲し、攫っていく」
「俺たちのようだ」
「そうでしょう」
にゃあと鳴き、黒い猫が占者の肩に乗った。
「あなたのことは、なんと呼べばいい?」
ソウが尋ね、占者は応えた。
「クロネコと」
彼は莉蘭に向き合った。
「向かいたい場所がありましたら拙のあるじにお申し下さい」
どういう意味か莉蘭は掴み損ねたが、気圧されたまま小さな声で礼を言った。
部屋の用意が整ったと告げられた。クロネコを残し退出してから、莉蘭はまたもソウに抱えられ連れられている。抱き上げられる前、それとなく拒否を示したが通じなかったか、もしくは無視された。戸惑いと羞恥でソウの顔を見ることができない。まさかこんなふうに、ずっと触れられることになるとは思っていなかった。薄い布越しに伝わってくる、男の逞しさと熱が生々しく縮こまっている。
ソウは宛がわれた部屋に莉蘭を降ろすと手を差し出した。
「上着を返してくれ」
またあのはしたない格好を晒すことになるのかと気が滅入ったが、持ち主に言われれば仕方がない。莉蘭は黒の上着を肩から落とし、それを翻して内側をソウに向けた。
「腕を」
着せるので腕を通してくれと告げたつもりだったが、ソウには通じなかったのか──それともこれも無視なのか、彼は無言でそれを奪い自分で袖を通した。帯を結びながら、成ったばかりの妻を部屋に残し出ていこうとする。
「どこへ行く?」
「まだあの占者に聞きたいことがある」
そっけなく返事をし、莉蘭がさらに質問する隙を与えず部屋を出てしまった。
莉蘭は部屋で立ち尽くした。
ソウは、一応皇女である自分を望み、戦いを勝ち抜いて降嫁してきた女を得た男、という風情ではない気がする。そもそもそんな男を、さらに言えば男性そのものを多く知っているわけではないが。
ずっと抱えられてはいたが、いやに態度が冷たい。考えながら部屋を見渡したおり寝台を、しかも二人用のそれを目の当たりにして莉蘭は顔を伏せた。
妻となったからにはソウと閨を共にするのだ。契りを交わす、はず。戦いに勝ち残った彼に与えられるものは、莉蘭にはそれしかない。それが務めだと自分に言い聞かせる。
身内に飲まされた毒──男女にまつわる陰湿な部分のみ知らされた莉蘭にとって、初夜に期待など一切ない。手の震えを抑えたくて胸の前で拳を握った。
ソウは、出会った最初のあの日は親切だったが、今は冷淡な態度で莉蘭に接している。閨の行動がどうなるのか予測できない。
よく考えれば無垢な莉蘭が、密事の最中の男を予想できるはずがない。
莉蘭は考えても意味がないと諦め、部屋の襖を開けた。板戸が開けられており、小さいが美しい庭園の景色を堪能できた。しばらく眺めていたが、思い立って足袋のまま外に出てみた。
日差しがもう大分傾いている。上の松の木の影に南天、さらに下に羊歯が整えられているが、その陰影が風流である。
そこに、にゃあと猫の鳴き声がして、莉蘭はその方向に顔を向けた。
「おや」
黒い猫ではなかった。対のように真っ白の猫がそこにいた。
白猫はじっと莉蘭を見たあと、音も立てず庭木の向こうに降り、垣根の前で振り返って、また莉蘭を見つめてきた。
不思議に思い莉蘭が近くに寄ると、あともう少しで足下に届くというところで白猫はぱっと先に駆け、一定の距離になったところでまた振り返って莉蘭を覗ってくる。まるで付いてこいと言うように。莉蘭は興味を引かれ白猫を追った。
生け垣の奥を、足下に注意しながら歩くうち、ここは抜け道なのだと気が付いた。クロネコと名乗った占者は、莉蘭と初めて会った日、若宮御殿のさらに奥にある莉蘭の隠れ住まいまで来ていた。御上御殿より北は帝の身内が住まう特別な場所である。いくら帝の覚えめでたくてもそこを通ることはできない。
あの日彼はおそらく、ここを通って庵まで来たのだ。
莉蘭は庵までやってきた。ここも見納めだと、莉蘭は屋内へ入った。玄関で汚れた足袋を脱ぎ奥へ入る。
室内の寝具は莉蘭のものだが、どこにも持参できないので置いたままにしている。
ふと、ここに置いたままにしたのは、寝具や茶器だけでなかったことを思い出した。着物も置いていたはずだ。この馬鹿げた薄衣をここで脱いで着替えればいいのだ。急いで帯に手を置いたとき、背側から低い声でおいと声をかけられた。
「……ソウ」
振り返った先、扉を開け立っていたのは本日、夫となった男だった。
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