第6話 演武会

 奥御殿から表に出ると輿が用意されていた。輿の前で待っていた女史が、莉蘭の姿を見て鼻白んだ。莉蘭が輿に乗るとすぐ運ばれ、到着した場で女史らと共に、午庭を臨む観覧席の一角に入った。

 皇女到着が希廻殿から午庭に報ぜられた。すでに満員の、門扉外まで人が集まる会場では観衆が大いに沸いた。莉蘭は前後を女史に囲まれ廊下を進んだ。さらに、前後左右は飾り布で囲まれていて、内側から外の様子を一切見ることができない。それはつまり、己を囲む女史以外、誰からも莉蘭の姿も見えていないということだ。莉蘭は些少だが心が安まった。

 歓声の中、莉蘭は所定の場所に到着した。三方が板壁、正面に御簾のかけられた特別な席に、莉蘭は一人押し込まれ隔離された。

 間もなく行事を取り仕切る官吏の声が聞こえてきた。

 回りの人の気配が莉蘭から離れ落ち着いた頃、莉蘭はかんざしを抜く。

 そこに隠していた糸と針を取り出した。

 あの第二夫人が善意あるまともな衣装を用意するなどあり得ないと思っていた。備えの道具を用意しておいて本当に良かった。安堵の息を吐きつつも、さて次は、どうやってとんでもないこれを、慎みを持った衣装に縫い直すかと思案する。

 三枚に重ねると体の線が分からない外見になりそうである。しかし上半身か下半身かのどちらかを犠牲にせねばならない。考えたすえに、顔の両側から前に流されている髪で胸元を被い、上半身の身頃を一枚下半身に重ねることに決めた。上を一枚はぎ脱いで袖部分を外し、それを身頃に継ぎ足そうと、頭の中で完成図を描きながら手を動かす。

 正面、御簾の向こうではすでに演武が開始されている。舞うように剣を振るう姿は雄々しくも美しいが、莉蘭はそれを悠長に楽しむ余裕などなく、ひたすら針を通していた。

 完成し皺を整えてから髪を前に流してみたが、考えていたほど完璧に胸元は隠されなかった。髪が別れるとはっきりと輪郭が知れてしまう。諦めるかと思ったそのとき、座している敷布が目に入った。腰を浮かし模様を見る。

 渋い赤に金と黒の模様が入ったものだ。

 莉蘭は敷布を自分の下から引っ張り出し、それをできるだけ音を立てないように裂いた。ピッと音がする度にひやりとしていたが、全て裂き終えても誰も莉蘭に声をかけてこなかった。無関心がありがたい、もしくは目の前の催しに誰しも夢中ということなのだろう。演武会に助けられたとは皮肉な話である。

 裂いた布をつなぎ合わせ横長の一枚布を作り、莉蘭はそれを肩にかけた。上手い具合に胸元が全て隠れた。

 珍妙な格好になったが最低限の慎みはこれで保てる。おおよそ婚礼衣装とも思えないが元々がそうだ。気にすることはない。気にしていられない。

 ようやく人心地ついたところで、時間よく最後の演目、皇女をかけた勝ち残りの最終決戦が行われることとなった。


 沸き立つ歓声の中、東と西とからそれぞれ男が登場した。

 御簾の中からは外が見えるとはいえ、それでも視界は良くない。二人とも勝ち残っただけあって、弱いところなどどこにも見当たらない確固たる足取りをしている、とりあえずはその程度しか分からない。

「紫辣様ではないか」

 板壁越しに女史の声が聞こえた。

「まさかあの御方が第五皇女を娶りたいと?」

 紫辣とは誰だと莉蘭はまず東側を見た。髪を武人風に結い腰に剣を携えた、堂々とした歩みの若い成人男子が中央に歩いてくる。立派な胸当てを身につけ、簡素ではあるが洗練された衣を纏っている。一介の兵士の様には思えないと莉蘭は感じた。

 遠くから第四皇女、黄綺の憤りが耳に届いた。

「冗談じゃないわよ、石澐将軍の嫡子にあの女が嫁ぐことになるなんて許せるものですか!」

 莉蘭は目を見開いた。また正面をまじまじと見る。

 将軍の息子が己を娶りたいと?

 自分で言うのもなんであるが、なんと物好きなと呆れてしまった。いったいどちらがと確認しようとして西側を見た瞬間、莉蘭の全身にさあっと痺れが走った。

 これは夢か。

 長い黒髪を風になびかせ、その髪と同じ色の黒の着物を纏った長身の姿。それを認めたとき、広い肩幅の感覚が、同じく布越しに重ねた唇の感触が莉蘭の体に蘇った。

 右手にはこん

 一方の、西から登場した人物は先日莉蘭を助けたあの男だった。

 前からこめかみ付近を後頭部で縛り、残りは背中に流した漆黒の長い髪が、風が止んだ今は背中に収まっている。黒の上着と濃い灰色の帯、武器は棍。かの男に違いなかった。

 目の前の出来事は真のことか。

 本当にあの人が私を娶りたいと願い出たのか。

 では逆算で、武人風の身なりの良い男の方が将軍の息子なのだろう。言われてみれば所作に気品があって、それらしい立ち居振る舞いである気がしてくる。

 だが、対して棍の男も雅さがあった。全身黒の単調な服を纏っただけであるのに、真っ直ぐに立っているだけなのに──もしくはその姿勢の良さからか、均整の取れた肉体と長い黒髪が華を匂わせる。

 こんなことになるとはと、莉蘭は混乱している。

 どちらが勝つのか今の莉蘭に分かるわけはない。ただ周囲の悔しげな空気からは、奥の汚点である莉蘭に良い目を見せたくないと苦々しいものが漂っている。つまり紫辣に分があるということなのだろうか。

 この国の将軍の嫡子と旅の傭兵──後者は莉蘭の勝手な想像であるが──どう考えても嫁ぎ先とし安寧を求めるのであれば将軍の息子であろう。

 しかし

 莉蘭は詰めていた息を吐いた。

 私は、できるならば、あの棍の男に。

 銅鑼が鳴り、莉蘭が何事かと体を緊張させた直後、希廻殿内でも声が上がった。戦い開始の合図だったのだ。莉蘭は舞台の午庭を注視した。

 両者、互いに武器を構えたが微動せず、相手の動向を待っているようだった。

 相変わらず歓声は止まらない、御簾の向こうにいる莉蘭にさえ煩いと思えるほどに大きい。ときどき、「ソウ」と聞こえる。

 演舞場中央で膠着状態が続いていた。

 そのとき、風がひとつ大きく吹いた。同時に莉蘭の近くで、女性の小さなあっという声が聞こえた。強風に煽られ、懐紙が演舞場をひらりと横切った。

 一瞬にしてものとものがぶつかる音が響く。歓声がさらに広がった。莉蘭の周りでも、興奮した声がそこらじゅうから湧き上がった。

 午庭では二人が戦いを開始していた。中段からの剣を棍が受け流し、その棍が下方から相手の腕めがけ伸びる、それをさらに相手が避け振り向きざまに逆方向から剣が向かう。

 そうして互いの攻撃を受け、隙を生ませようと相手に攻撃を返す。

 武器同士の重なる音が鈍く、莉蘭はそこで紫辣は木刀を使っているのだと分かった。真刀を用いた勝負でないことに今更安堵する。だが大きな音がするたび莉蘭は恐怖で何度も硬直した。命のやりとりはないとはいえ、戦いは莉蘭には恐ろしかった。

 紫辣の一刀は速く重い。棍の男は彼の振るう剣をまともに受けようとしない。何故かと考えながら見ていたが、莉蘭は気付いた。紫辣は今こそ木刀であるが、通常であれば刃がある武器を握っているはずである。素材が木の、しかもさほど太くない棍でそれを受けるということは致命的なのだと推する。

 だが、歓声が止んだときに、かすかにだが莉蘭の元まで届く風を切る音は、あれは棍がしなり空気を切るそれだ。それだけの速度で棍は振られている。殴られればかなりの衝撃になるだろう。対面であの音を聞くだけでも身が竦みそうである。棍は間合いが広い。現に紫辣はほとんど相手に近寄れていない。

 棍が中段から伸び紫辣の利き腕を打とうとしたが、彼はそれを避けながら深く足を踏み込んだ。紫辣の剣が棍の男の脇腹めがけ放たれたが。

 わっと歓声が上がる。棍の男は片足で斜め前方に飛び上がり、紫辣の背を跨いで越え降りた。

 棍の男は着地と同時に紫辣を突く。紫辣がそれを飛び退いて避けた。間合いが生まれ、双方動きを止め睨み合った。

 二人が打ち合う動きに合わせ観衆の声の大きさも変化する。動きが少なくなると皆が大声を出していた。時々莉蘭の耳にソウと聞こえる。

 またしばらく膠着が続くかと思われたが、棍の男が一歩大きく足を踏み出し突きを放った。避けた紫辣が前へ出て中段でなぎ払う。その太刀を避け棍が下からまたも左腕をめがけ伸びた。

 そのとき一段、軌道が変化した。棍が紫辣の右肩を突いた。

 意表を突かれた紫辣は姿勢を崩し、前に距離を縮めた棍の男の肩で体当たりされ、後ろに飛ばされた。紫辣は尻餅を突く前に、足を挙げて後転したが、起き上がったときに右のこめかみをめがけ棍が振られた。当たる直前で攻撃が停止する。

 戦いはそこで終了した。


 演舞場は一瞬の沈黙から大歓声に包まれた。

 銅鑼の音も、中央に立っていた審判のそれまでという声も、全て観衆の声にかき消されている。

 その中で、やはりソウという声が耳に届いていた。だんだん大きくなり、やがてソウ、ソウと声が揃っていく。大きな拍手と共に観衆のほぼ全員がソウ、と叫んでいる興奮の中、勝者が歓声に応え武器を天に差し掲げた。国中に響くのではと思われるほどの大歓声が上がった。

 いつまでも歓声が続くかと思われたが、銅鑼が等間隔で何度も何度も打たれ、やがて拍手喝采は消えた。静まりかえった中で戦った二人はお互い会釈し、紫辣は後方へ下がる。棍の男は衛兵に促され、莉蘭のいる御簾の前に立った。

「勝者、ソウ。これより貴殿に褒美として第五皇女、莉蘭殿下が降嫁される」

 高らかに宣言された。

「莉蘭様、ご準備を」

 背の戸の向こうから声をかけられ、莉蘭は己を無理矢理に奮い立たせた。

 立ち上がったが、綿の上にいるような気分がする。真っ直ぐ立っている自信がない。

 彼はこちらを覚えているだろうか。

 いや、あのときの女だと分かってくれるのか。

 それより本当に私は彼の妻となるのだろうか。

 夢を見ているのではないのか。

 ざあっと御簾が上げられ、莉蘭の姿が演舞場に披露された。

 大きなどよめきののち、一斉に拍手と歓声が起こる。

 莉蘭は気が遠くなる思いでそれを聞いていた。

 皇族の汚点と噂のある己が、この舞台でこの反応をされどう解釈をしていいのか分からない。婚礼衣装とは程遠い薄布だけを着せられている。この格好は民衆にどのような印象を与えているのか、そもそも見えているのか。

 倒れそうなほど身が竦んでいて視界が暗かった。視線こそ遠くに置いているがどこも見えていない。

 自分の夫となる予定の男も。

 貧血が少し治まり視界がやや明るくなった頃、こわごわ、莉蘭は視線を下に落とした。舞台から地面までのあいだに十五段ほどの階段がある。その先に官吏と共に立っている棍の男がいた。

 視線が合った。

 彼は莉蘭を見つめていた、というよりは睨み付けられている。ますます足がすくんだが、そのとき後方から嘲りが聞こえた。

「ざまあみなさい。猿女にぴったりの野蛮な男よ」

 それを耳にし、莉蘭の腹に猛烈な怒りが湧いた。

 自分が蔑みを受けるのはまだ我慢できるが、かの男まで謂れなき愚弄をされるのは許しがたい。自分を──あのとき、一介の弱者と認識される娘を助け、高価な帯を躊躇ためらいなく譲ってくれた優しい彼が、それを知りもしない浅はかな者たちに嗤われるのを、黙って肯定する女でいたくない。

 莉蘭はすっと背筋を伸ばした。

 少なくとも自分は彼を望んだ。その男に貰われるなら名誉なことだと信じた顔で降りる。降嫁でなく、まして下賜でもなく、殿上人に請われたのだと胸を張って降りる。

 僥倖であると。

「莉蘭様、下へ」

 促しに対し、莉蘭は表面だけは鷹揚に微笑んで見せ、じらすように──その実、緊張と恐れで足が震えているので転がり落ちないように慎重に──ゆっくり足を進めていった。

 一段一段降りていく、その度に歓声と拍手が大きくなっていった。それらに後押しされながら、ありたけの度胸を集め、莉蘭はとうとう階段を降りきり男の前に立った。

 何も声が出ない。

 改めて彼を見ると、あのときの記憶通り勇ましくも典雅な顔立ちをしている。戦いの後だからか、長い黒髪の一部が額にかかっていた。それが優美な顔を持つ彼に、アクセントのように猛々しさを持たせ、優男という雰囲気を払拭している。

 楚の国民とは少し違った、目元の掘りがやや深い異国風の顔。目は漆黒。逆光のせいか、先日助けてもらったときに見えた青はない。

 彼は莉蘭を刺すように睨み付けていたのだが、無言のままおもむろに自身の帯を解いた。

 莉蘭は目を見開く。先日の場が再現されたのかと、彼はこちらを見て莉蘭が誰か分かったのだと口元が綻んだ。だが男は帯を手首に巻き上着を脱いで、それを莉蘭の肩にかけ前を合わせた。

 纏っているこの薄衣は、自分が好んで着たわけではない。それどころか強要された。だが相手はそれを知らない。羞恥心のかけらもない衣を皇女が選んで着たと、そのように取られたのだと気付き、悔しさで泣きたくなった。

「……と違わぬ姫ということか」

 吐き捨てるように呟かれた。言うなり彼は身を屈めたと思うと、長手甲に覆われた腕で、莉蘭の膝裏を乱暴に抱え上げた。

「きゃ」

 視界が不意に高くなり、均衡を取り損ね莉蘭は思わず男の顔を胸に抱いた。わあっと歓声があがり、同じくして男が右手で持っていた棍を再度空に掲げたおり、会場が興奮に沸いた。また、ソウ、という揃った呼び声が重ねられ、足踏みも加えられ、地響きが掲げられた棍と同じく天へ舞って溶けていく。

 莉蘭は度肝を抜かれ、男を抱きしめたままで空を見た。

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