第5話 婚礼の衣装

 父帝の使者による知らせを受けた二日後、再度書状が届いた。

 すでに演武会の予選が開かれ、実際に選ばれた者達が出演する本番の日取りももう決められていた。

 当日午庭にて──一般の民も入場許可を得て観覧可能となるその場で、まず様々な武器による演武が行われる。最後に皇女を賭けた勝ち抜き戦の、予選にて勝ち残った二名による最終決戦が行われる。そのおりに莉蘭は祭事が行われる希廻殿内、表舞台の御簾の奥に控え、勝ったものに与えられることになるという。

 皇女にふさわしい衣装を用意せよとご丁寧に記してあったが、そのための支度金は一切寄越さないないらしい。

「馬鹿らしい。ない袖など振れぬ」

 莉蘭はこれみよがしに書状をはらりと床に落とした。

「それより奈瑠、依頼の着物は刺繍の部分を仕上げるだけで時間切れになりそうだ」

「莉蘭様、そのようなことをご心配されなくてもよろしいのです。むしろ当日の件が大事でしょう。私の実家に莉蘭様のお召し物を用意させます!」

「必要ない」

「ですが、莉蘭様の晴れ舞台です」

「晴れ舞台なものか!」

 強い物言いになってしまい、奈瑠がさっと頭を下げたのを見て莉蘭は焦った。

「ご無礼を」

「いや、私こそ済まない。奈瑠は私を思ってくれてそう提案してくれたのに無下にするようなことを言った。悪かった」

「とんでもないことでございます。私こそ莉蘭様のお気持ちを察することもせず」

「いや、奈瑠の気持ちは本当に嬉しいんだが、いいんだ」

 莉蘭は目を動かし奈瑠から視線を外した。

「用立ててもらっても返せない」

「そのようなご心配など。この依頼の表着から金子が得られるではありませんか、それで」

 言いさした奈瑠を莉蘭が手で制した。

「私は奈瑠の大叔母と奈瑠の実家と、それから奈瑠、あなたからも過分な慈悲を受けている。これ以上頼ることはできない」

 奈瑠は目を見開いた。

「何を仰っているのですか?」

 莉蘭は床を見たままであった。なので彼女の侍女が、問いたげなものを含ませた顔をしていることに気付かなかった。

「詮なきことを言った。忘れてくれ。……どちらにせよ第五皇女は貧乏な姫だということを勝ち残りにも示してやらねばならん。その場だけ着飾って偽りの姿を見せるわけにはいかぬ。ともすれば私と会った瞬間に必要ないと言うかもしれぬな」

 そのようになったほうが私も喜ばしいと、ひび割れた声で閉じた。

 奈瑠はそれ以上何も言わなかった。


 だがその翌日、奈瑠は血相を変えて出先から戻った。彼女は一通の書状を莉蘭に手渡した。

「第二夫人が莉蘭様へと、これを」

 第二夫人とは、莉蘭にとって腹違いの兄にあたる第二皇子を産んだ側室だ。嫉妬心が強く、正妃を含め他の側室達と折り合いも悪い。莉蘭への風当たりも強い彼女が、この時期にいったい何の用かと、こわごわ書状を開いた。

 書状には、降嫁への白々しい祝辞と、母親の代わりとして当日に纏う衣装を用意したとのことが記されている。はなむけとして受け取ってほしく、衣装は当日の楽しみとして期待しろとある。

「期待?」

 脅しの間違いではないか。はらわたが煮えくりかえる思いである。本当に莉蘭のことを思うなら、まだ猶予のある今に、せめてこちらの希望を聞くなりすればよいものを。一切明るみにせず、当日何を着せられるのか分からない上こちらに拒否権すらない。皇子皇女が過ごす若宮御殿から演武会が開催される午庭までの道のりで、正妃や側室が暮らす奥御殿は必ず経由せねばならない。こちらがどんな衣装を纏っていたにせよ、途中で止められ着替えさせられるに違いない。

 読んだ手紙を莉蘭は無言で奈瑠に手渡した。目を通していく奈瑠も、だんだん顔を強ばらせていく。

「莉蘭様、これは」

「受けざるを得ぬ。……私はとんでもないものを着せられるのだろうな」



 演武会の当日になった。

 朝、二人は隠れ庵でここ最近いつものように目覚めた。ここも最後になるのかと思ったが、感慨のようなものは浮かんでこない。若宮御殿の自室もそうだった。

 しかし、奈瑠のことだけは心残りだった。彼女はすでに本日の午後には実家から迎えが来て、宮仕えが終了する手はずになっている。

 ほとんど見返りがなかったにも関わらず、仕えてくれた彼女に何も返せなかったこと、優しく接してくれた彼女と今生の別れになること、これらが莉蘭には辛く切なかった。

「依頼の表着うわぎを完成させられず済まなかった。奈瑠の実家の皆にもそれを伝えてほしい。それから今まで本当に世話になったと感謝していることも」

「表着に関しては、もう裾を縫うだけです。莉蘭様でなくともうちの針子でしたら誰でもできます。あの短いあいだで刺繍の部分だけでも、あんなにも美しく仕上げられたご自身を労って下さい。……莉蘭様のお言葉はかならず私の家の皆に伝えます。こちらこそ本当に感謝しております。莉蘭様のおかげでうちの店は本当にいい商売をさせて頂きました」

 深々礼を取る奈瑠を莉蘭は見つめていた。

「奈瑠はこのあとここを片付けてくれるのだな。ありがとう」

「そのくらいのことは大したことではないのです」

 奈瑠はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくり叩頭した。

「申し訳ありませんでした」

 突然の謝罪に莉蘭は戸惑う。

「何故謝る」

「私の実家は莉蘭様の刺繍の技で賑わったというのに、祝いのものを何もご用意できなくて本当に申し訳ないんです」

 莉蘭にとって全く予想外のことを言われ、すぐに言葉が出なかった。我に返り奈瑠の傍に寄って顔を上げさせる。

「何故そのようなことを言う。私は刺繍の依頼を秘密裏に受けているのだぞ。奈瑠の家から祝いを正式に受けることなどできない。さらに言えば私の方こそ奈瑠たちの世話になっているというのに。奈瑠の大叔母や奈瑠がいなければ私はとうに飢えて死んでおったぞ?」

「大叔母はそうだったかも知れませんが、その恩をすでに我々は過分に返して頂いております」

「そんな」

「それに私は、莉蘭様のお世話も満足にできませんでした」

 奈瑠の震えた声と目尻に滲んだ涙を見て、莉蘭は眉根を寄せた。

「私は奈瑠のことをそんなふうに思ったことなどない。あなたこそ、後ろ盾が皆無の皇女に仕えて一切の利などなかったはずだ」

 次は奈瑠が困ったような顔をした。

「まさか。本来なら私は莉蘭様の側仕えができる身分ではありませんでした。なのに」

「そもそも誰も私の側仕えなどなりたいと思っていなかったではないか」

「ですが」

 そのとき戸の向こうから呼びかけられた。奈瑠が慌てて戸を開けた。

 予告通りに第二夫人の侍女たちが、莉蘭を迎えにやってきた。

「もう少し待ってくれ、まだ」

 まだ奈瑠と話をしたいという莉蘭の懇願は受け入れられなかった。お時間ですという無慈悲な催促が返された。

 唇を噛んで莉蘭は立った。奈瑠も付き従おうとしたが止められた。

「莉蘭様は我々がきちんとご支度致しますので、侍女殿はこのお部屋の始末をとのご命令です」

「……はい」

 莉蘭は振り返ったが、第二夫人の侍女は顔色も変えず莉蘭を追い立てる。

「奈瑠、達者で」

 叫ぶ莉蘭の視界の端で奈瑠が一人頭を下げたことだけ、それだけ辛うじて確認ができた。


 莉蘭は単独で奥御殿の一角に招かれた。不安でしょうがなかったが矜持で無表情を貫く。

 部屋に通され、さらに奥に入り支度部屋のふすまが開けられ、莉蘭は正面からそれを見た。

 己が今から身につける布を目の当たりにし、全身に鳥肌が立った。追って猛烈な怒りに満たされた。憤怒で視界が真っ赤になったようだった。

 実際、紅蓮の、色だけ見ればまさに美しい着物がそこにあった。

 それだけ。

 薄い布で二枚重ねてあるそれの向こう側にて、掛け棒の存在がうっすら確認できる。

 その赤い着物に合わせた同色の帯が、こちらには錦糸で鳥の刺繍が施されている。吉祥の意匠だ。その帯だけは辛うじて婚礼のものと言えるだろうが。

 だが、肌着も襦袢もその上に羽織るはずの表着うわぎもない。

 怒りで震えているところに、何の感情も見せない顔で第二夫人付きの侍女が慇懃に頭を下げた。

「お召し物を失礼します」

 有無を言わさず着ているものを全て取り払われ、裸の上に先ほどの赤い薄絹の着物を着せられ帯を締められた。

 台座の鏡に映った己の姿を目の当たりにし、さらに怒りと羞恥にめまいがしそうなほどである。

 体の線はおろか、光の加減によっては全てが周りに知れてしまうほど、薄く頼りない生地だけを纏わされている。

 莉蘭は、演武会の目玉である最後の決戦が終える前までは御簾の内にて待ち、勝者が決定した時点で御簾が上げられ勝者に下される。

 しかしそこには父帝をはじめ、彼の妻達、半血の兄弟達、さらに家臣と衛兵、演武会を観覧している市井の民がごまんといるはずだ。

 そこに己はこの破廉恥な姿で表に出させられる。

「おお、よく似合うこと」

 背後から第二夫人の声が聞こえた。

 はっと振り返ると侍女たちが後方に下がり伏している。莉蘭も膝を折りかけた。

「よい、そなたは立ったままこちらを向け」

 ぐっと顎を引き、莉蘭は真っ直ぐ第二夫人の正面に立った。同性しかいないとはいえ、それでもこんな淫らな格好のままで人の前に立たされ屈辱で顔が赤くなる。

「そなた赤がよう似合うの」

 四十手前の、美しく着飾った妃は、莉蘭の姿を上から下まで見て鼻で嗤った。

「そなたの母は猿のようであったが、その尻の色が娘のそなたによう似合っておるわ」

 己の言葉に悦に入りながら莉蘭の体を目で辿る。

「は。男を惑わす品のない体も母譲りか。猿の如く煩く飛び跳ねると思えば、面妖に体をくねらせ男を惑わした旅芸人の畜生女が、最後にはみごと陛下を絡め取ったなあ」

 第二夫人は手に持った扇子を畳み、先で莉蘭の乳房を押した。痛みに対し莉蘭が眉を動かすと、相手は楽しそうに口を歪ませた。

「そなた後ろ盾もないくせにここ御殿でのうのうと暮らしおって。その体であがなったか。母がああで、そなたも畜生のように誰とでも交わるか。おぞましい」

 おぞましいのはお前達だと莉蘭は叫んでしまいたい。だが耐えた。

 莉蘭を放置し、さらに夜半忽然と消える皇女を心配するでなく、それを邪推して勝手な想像をして、ありもしない噂を流したのはお前達ではないのか。その噂を流した本人達がそれを信じ込む馬鹿馬鹿しさを嗤ってやりたいのはこちらだ──莉蘭は内心で罵るしかできない。

 耐えねばならない。

「その手管で、わたくしの息子まで誘惑したよな」

 莉蘭は息を飲んだ。

「実の兄を咥えようとする貪欲で淫猥な女め。生憎わたくしの息子はお前のような下品な娼婦を相手になぞせぬ」

 可能であるならその白い頬を殴ってやりたいと、莉蘭は手を握りしめた。

 今少しでも刃向かえば全てが台無しになる、そう自分に言い聞かせる。

 莉蘭がそうして怒りを抑えている横で、しかし第二夫人は鼻を鳴らし、扇子を莉蘭の顎下に添え力を込め動かした。莉蘭の顎が上げられる。

「この度のような華々しい大舞台を用意してもらい、つけ上がるでないぞ、小娘」

 莉蘭は目を見開いた。そんな馬鹿なと言いそうになった。意味が分からない。このような事態を莉蘭は一度も望んでいない。替わってもらえるなら喜んで譲る。

 第二夫人は僅かにたるんだ目の下の皺をさらに深くし、ぎらりと嫉妬の感情を乗せて莉蘭を睨み付けた。

「美しい婚礼衣装など着させぬわ。卑しい踊り子ふぜいの子など身を弁えた娼婦の格好で十分」

 そこまで言い一歩下がった。

「わたくしは慈悲深いのでな。髪も整えておやり」

 侍女達が立ち上がり莉蘭を促したが、莉蘭はその場で膝を折り叩頭した。

「お願いです」

 額を畳に付けながら莉蘭は第二夫人の背に訴えた。

「今付けているのは亡き母のかんざしなのです。どうか。これを付けたままで表に出ることをお許し下さい」

 第二夫人は莉蘭の簪を見た。鉄の、細工こそ少々凝っているが特に珍しくもない凡庸なものだ。しかも素人が自分で修繕したような跡もある。

「お涙頂戴の感動話か。安っぽいのう」

 莉蘭は背に汗をかきながら、それでも叩頭し続けた。

 やがてふふ、と小さく馬鹿にしたような笑い声がまたかけられた。

「許してやろう。わたくしは慈悲深いのでな」

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